「先生、起きて。風邪ひくよ、」

 ゆらゆらと体が前後に揺すられるが、その揺られ方はあまりにも遠慮がちで俺をまどろみから持ち上げるほど効果的なものではなかった。むしろ、ゆりかごやバスの中でゆらゆらと揺れて眠くなってしまうような状態になる。分かった、という言葉は俺の喉でとどまったまま吐き出されることはなく空気に溶けていく。

「もう、先生、」

 ふぅ、と息を吐き出して揺するのをやめてしまったこいつは近くの椅子を引き寄せて俺の寝ているソファーのそばに座った。どうにか、起きない俺を必死に起こそうと体を揺すっていたこいつはもうとうとう三年生になってしまった。こいつが入ってきた当初は、初めての女子ということもあり男子の注目を集め、逃げ場を探していたこいつが誰も好んで近寄ろうとはしない保健室に逃げつくのはそう時間のかからないことだった。中学を卒業したばかりの細くまだ骨ばっていた体つきも幼かった顔だちも、この数年で、今では立派な大人の女性となるべく、体つきはどこまでも柔らかく丸みを帯び、男とは違う、すらりと伸びた手足は非力な俺でも折れてしまいそうなほどに細く、顔のラインもシャープになっていた。せんせい、そう舌ったらずなこいつの俺の耳に届いた声を甘く感じたのはいつからだろうか。出会ったときは幼いなと感じていたこの声がいつからか俺のまどろみの中にあった脳を甘く溶かした。

「いつになったらわたしのことは恋愛対象になるんですか」

 寝ている俺に気づかれないように囁くように吐き出された言葉に俺の頭はゆっくりと覚醒した。開けるのもひどく億劫な瞼を持ち上げると存外近くに自嘲気味に笑い、まつ毛を伏せるこいつがいて、俺は唇を上下に動かし、「ありえないな」と返した。それは俺の本心であり、俺を守るための言葉だった。俺が寝ていたと思っていたこいつははっと目を見開き、酷く焦ったようにうろたえてから、ぎゅっと手を自分の手で掴むと喉から声を絞り出すかのように吐き出す。

「先生は、あの子が好きなの?」

 真綿で首を絞めるとはこのことを言うのだろうか。じわりじわりと自分で自分の首を占めているようだと俺は感じた。こいつは三年生になってしばらくして、おれがこいつの告白まがいの言葉(本人はいたって告白しているつもりなのだろうが、)にありえないと返せばこう返すようになった。もし、おれがこれに肯定の言葉を返せばひどく傷付くのは自分だというのに。それを知っていながらそれを確認するように繰り返し問うのは、俺を諦める準備をするためだろうか。いつその時が来てもいいように。それならば、早く俺から引き離すためにウソでもこれに肯定した方がきっと、おれにも、こいつにも楽なのは分かる。なのに、そうだ、というたった三文字の言葉は俺の口から滑り落ちることはついぞなかった。

「それこそありえないな」

 だから、いつもの通りそう返せば、目の前の女子生徒はひどく安堵したように息を細く長く吐き、手の力を抜いていく。手の力が抜かれたその白く細いその手は赤く跡がつき、どれほど力を入れていたのが一目瞭然で。あとどれほどこのひどく曖昧で決着のつかない状態を続けるのか分からずおれはなにも見えないように、見ないように、瞼を閉じた。こいつも俺以外にも好きになるべき相手がいたのだろうに、おれなんかを好きになるなんて気の毒としか言いようがない。
 この細い糸の上で成り立つ関係がどれほど続くのか、そっと頭の中で残りの日にちを数えた。



110519/揺らぎ

sileo(沈黙する)
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