言葉を失うという状態はこういう状態をあらわすのだと初めて知った。 「俺と、付き合うか」 カランとグラスの中で氷が崩れる音が嫌に大きく聞こえて言葉を失う。 いま、何を言われた? 付き合う? 付き合うというのは、わたしと犬飼がキスをしたりだとか、それ以上の、つまり、そういうことをする中になる、ということだろうか…? 驚いて瞬きをするわたしはいろいろと言いたいことが頭に浮かぶのに、しかしその心情とは裏腹に、声が喉に張り付いたように上手く出ない。「…んだよ、驚かねえのかよ…」目の前の犬飼が脱力したようにぐったりとするのを他人事のように見ていた。驚くもなにも突然すぎて答えあぐねていたのだ。けれど、そんなことをこの状況の中言えるはずもなく「えっと、その…」曖昧な返事しか返せなかった。 そもそも、こんな席で言う犬飼が悪いと思うのはわたしの勝手なのだろうか。ふと戻ってきたわたしの五感。あたりに漂うお酒の香りに、足に刺さる少しささくれだったように荒れた畳の目、今年の新入社員を迎えるための歓迎会という名目で用意された飲み会の席にふさわしいこの場所は、ムードなんてものがかけらもないところだ。ぐるりとまわりを見て、上司に絡まれる新入社員の飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎに周りがこの話を聞いていなかったことにほっと一安心して犬飼のほうを見るといじけたように枝豆をつまんでいた。 「……はあ、」 「…なんだよ」 「……犬飼って変…」 「お前なあ、今自分に告ったやつに向かって変っていうか?ふつう…」 「だって、……変なもんは変なんだもん…」 わたしの返事に何か言いかけるがそれが言葉になることもなく、かしかしと犬飼は頭を掻いてはあ、とため息をついた。それになんだか申し訳ないような気持ちになるけれどそれ以上にこの、自分の犬飼に対する気持ちを表現する言葉が浮かばなかった。…きっと、動揺しているのだろう。 でも、わたしが思いのほか動揺しているのは仕方のないことなんじゃないかと思わなくもない。だって、ふつうこんな飲み会の席で告白なんかしてこないし、しかも、犬飼がわたしのことを、その、つまりは、好き、とか…言ってきたわけで。なんだか、それだけで、いい表せれない感情が胸に込み上げてくるのだ。わたしにとって、犬飼はいい友人だったし、これからもそうだと思ってた。相談事はたぶん、周りのだれよりも早く言っていたと思うし、愚痴だって他の人の数倍は聞かせていたと思う。そもそも、今だって、取引先の人に気に入られてしまったためにその人とお見合いをしなければいけないということを愚痴愚痴と話していたはずなのに、なぜ急にわたしと犬飼が付き合わなければならないのかさっぱり分からなかった。彼はおちゃらけた性格のわりにまわりの事をよく見ていて、だから、きっとわたしがこのお見合いに乗り気ではない、というのを長い付き合いだから分かってしまったのだと思う。だから、その解決策として彼はわたしに付き合ってやるという、そういうことなのだろう。なんて、今の状況をわたしなりに冷静に見てみたのだけれど、胸の中のもやもやは消えるわけでもなく、余計に頭がごちゃごちゃした気がした。 ぐいぐいとグラスの中にあるカシスオレンジを煽ると喉を冷たいものが滑ってきちんと頭が回りそうな気がする。ついでに注文をしてくれるらしい同僚にカシスオレンジを頼むと、空になったグラスを自分の机の端によけた。 「……お前、いつもより飲みすぎじゃね?」 「これくらい大丈夫だよ、たぶん…」 「おいおい、」 俺は倒れてもしらねーぞ、なんていう彼に誰のせいだと思ってるんだ、と言いたい気持ちになったけれど、それを言うつもりは毛頭ないので、一番近くにあった唐揚げをひとつ口に頬り込むと、それと一緒にぶつけるべき不満も飲みこんだ。そばにいる犬飼のほうを見るとビールを飲んでいるらしく、なんだかこう言うところは男らしいなあ、なんて感想を抱いた。わたしはチューハイしか飲めない。 「…あのさ、別にいいからね」 ごくりと犬飼がビールを飲むのを視界の端に入れつつ、努めて冷静に言葉を吐けば「は?」といって琥珀色の瞳がこちらを見た。 「その、自分で断れるし、」 そう机の端に置いた空のグラスの側面についた水滴がガラスを滑り落ちる様を見ているとあからさまと言わんばかりのため息が横から聞こえて思わず「……犬飼?」と振り返って名前を呼んでいた。 「おまえさあ、勘違いしてるようだから言うけど…さっきのは親切とか、そんなんじゃねえから」 じゃあ、他に犬飼がわたしにそんな、つまり、告白をするのに理由があるのだろうか? 「…下心、とか思わないわけ?」 「したごころ…?」 だいたい言っとくけどな…、おれは好きでもない人間の相談なんて聞きゃしねえし、酔い潰れたやつを家に連れて帰ってやったりなんてしてやんないよ。今だってまたいつもみたいにお前が酔いつぶれちまえばいいって思ってる。…この意味分かるか? とくとくと犬飼が言葉を発する度にわたしの顔が俯いていくのがわかった。ビールの泡がしゅわしゅわと弾けるようにわたしの胸の中の何かもしゅわしゅわとはじけたような心地に、わたしは赤くなる顔を初めて隠したいと、そう思った。 ![]() For「万有引力」様 110630 |