side昌馬


「昌馬おつかれー」
「ああ、山下もなー」

 山下とレポートをしていたら遅くなった。
 外に出ると、昼間の蒸し暑さが残っていてうんざりするけど、昼間の日照りよりはマシだ。

「くっそー! 今日はせっかく女子大との合コンがあったのに! レポートのせいで断らなきゃならなかったあの苦しみ! 女子大のガール達はきっと俺のことを待ってたのに、ちくしょう!」
「ははは、」

 高校時代から相変わらず、山下は彼女づくりに必死で、こんなに必死に頑張っているのに冠馬のように彼女の一人や二人が出来ないことがかわいそうになってくる。まあ、なんていうかその彼女彼女と連呼するのをやめたらいいと思うのは言わないでおこう。うるさいから。
 まったなー!と元気に走っていく山下と別れると、すっかり暗くなってしまった道を校門を目指して歩き始めた。
 思ったよりも遅くなったから今日の晩御飯は手早く作れるものがいいなと思う。
 今日の晩御飯はなににしようか。

「……ああ、そういえば、この時期は夏バテしやすいから冷やし中華にしようかな。…って、あ、そっか。僕たち喧嘩したままだったっけ…」

 ぐらりと頭(こうべ)を垂れた状態で地面を見つめながら一瞬止まった足をすぐに進め始め、また校門までの道なりを歩いた。

 僕はいったい何をしているんだ。後悔が胸を襲う。あの子に会わないのは人生の上であったのかと思うくらい僕にはなかった。

 小さいころから、あの子と僕は一緒にいた。

 まず最初におはようと声をかけて俺が起こして、寝起きの悪いあの子を起こす。ぐらぐら頭を揺らしながらご飯を食べるあの子を、笑いながら見守って、ご飯を食べ終えたら僕の隣であの子は食器をいそいそと洗う。そして学校に行く準備をしてマンションを一緒に出る。お互いに違う学校だから駅まで一緒に行って、別れて、授業中になにをしているのか考えつつも放課後まで過ごして、放課後になったら、あの子の家に顔を出す。
 ふにゃりと顔を崩したあの子が、僕を迎えてくれて、一緒にご飯をつくる。おいしいねとご飯を食べて、ごちそうさまとにっこりと笑うあの子を見て僕も笑う。
 お風呂に一緒に入るのは少し恥ずかしいから、お風呂からあがってきたあの子の髪を乾かしてあげて、ソファーで一緒にごろごろして、あの子が寝たら僕はお風呂に入る。そして、あの子の寝顔を見つつ僕も布団に入って、お休みと声をかけたら夢の中に旅立って、また朝におはようと声をかける。

 長い間そう過ごしてきて、それはずっとずっと変わらないと思ってた。
 そう、思っていた。

 でも、そう思ってたのは僕だけだったのかもしれない。

 しょせん僕はあの子にとっては幼なじみでしかありえなくて、あの子が男として意識していたのは兄貴のほうだったのだろう。僕はバカだから、そういう、恋愛には疎いし、兄貴みたいに女の扱いがうまいというわけではない。むしろ、苦手だ。
 でも、あの子に対してだけは僕のほうが上手だと勝手に勘違いをしていて、きっと、あの子に対してだけは、兄貴よりも僕のほうが何でも分かってて、なんでも一番理解していると驕っていたのだ。

 なんで、あのとき、あんな風にしか言えなかったのだろう。もっと他に言い方があったんじゃないか。そう思うけれど、あのときは気が動転しすぎていて、あんな言い方しかできなかった。

――ふと思い返すのは、あの時のこと。


「昌ちゃん、見て見て!」
「ん、なに」

 大学から帰ってきた僕に突進するようにやってきたあの子の頭を撫でながらただいまといった。

「おかえり! って、そうそう、これね、冠ちゃんがくれたの! かわいいよね!」

 そう、頬を真っ赤にしてキラキラした瞳で見つめてくる彼女はかわいいけれど、見せられたものにすうっと頭が冷めていくのを感じていた。
 その手の平の中にあるのは、真っ赤なルビーの光るネックレスだった。

「冠ちゃんがね、お前ももう大学生だからっていってくれてね、誕生日プレゼントにこんなに大人っぽいのもらったのはじめてなんだー、あ、でも、昌ちゃんがくれたテディベアもすっごくかわいいし、大事にするから! だって、あたし、しょうちゃんがくれるのならなんでも、」
「…そんなの、似合ってない」
「え」
「そんなの、全然似合ってない!」

 ふだん張り上げない声を張り上げた。

「え、昌ちゃん、どうし、たの?」

 戸惑ったあの子の声。
 ぐにゃりと世界が回って見えて、吐き気がしそうだった。
 俯いているために見えるフローリングの床の目が、ぐらぐらと揺れて見える。
 吐き気がする、なにに?
 あの子の一番が自分だと酔っていた自分に、だ。

「あはは、……っ、そんなに、似合ってない、かな」
「………」

 頭が、沸騰して脳みそが茹であがりそうだ。きっと、夏だから、目がこんなにも暑いのだ。

「なにかいってよ……」
「……にあってないって言ったんだ」
「な、んで。なんで、そんなこと、言うの!………っ、大嫌い!……昌ちゃんなんか、」

 やめろ。
 言わないでくれ。
 そう思うのに、耳をふさぎたいと思うのに、手が動かなくて、頭もぐらぐらして苦しくてしょうがなくて。

「昌ちゃんなんかだいっきらい!」

 その言葉が頭にすっと入った瞬間、今までヒートアップしていた脳が機能を停止して、なんてひどいことを言ったんだろうと後悔の念が僕をおそった。

 似合うね、と一言いえばよかった。
 かわいいよ、と褒めればよかった。
 じゃあ、次回は僕も大人っぽいのを買おうかなとほのめかせばよかった。

 でも、全部ぜんぶ遅い。

 涙をぼろぼろと流して俯いている彼女のつむじが、ふるえている声が、かすかに揺れる肩が、愛おしいのに僕は自分のせいで撫でてあげることも出来なくて、ぎゅうっと手を握りしめると、なにも言わずに最低限の荷物をひっつかむとあの子の家を出た。

 あの子のマンションから出た後も、電車に乗る時も、泣かないように我慢していたのに、久しぶりにかえった実家で冠葉が笑いながらテレビを見ているのを見ただけで僕は猛烈に後悔して、散々泣きわめいた。
 そうしたら珍しく冠葉は慌てるし、テレビの音は大きいし、僕が帰っていないせいで台所は荒れ果てているし、埃が家の隅に溜まっているし。
 でも、どんなに荒れていても、実家の匂いは変わらなくて、僕はひどく安堵した気持ちを味わって、しばらくして泣きやめば、ぽっかりと胸の真ん中にすうすうと風通しのようくなったように穴があいているのに気づいた。
ぽっかりと、大きくて、でも、ぎゅうぎゅうと締め付けられるような苦しさを与えてくる大きな穴が。

 あの子の名前を心の中で呼べば、ぐんぐんぐんぐん締め付ける痛みが大きくなって、終いには胸を手で覆ってしまっていた。
 こんなにも、僕の中で大きな存在になっていたなんて、近くにいて当たり前すぎて、気付いてすらいなかった。

 冷静になって思い返した今ならちゃんと分かる。
 あれは兄貴に嫉妬していたのだ。

 あの子のことなら一番僕が分かっていると思っていたのに、あの子のあんな表情をいとも簡単に引き出すことのできた兄貴に、嫉妬していたのだ。

 僕のあげたのは、テディベアで、兄貴があげたのはルビーの高そうなネックレス。

 あまりにも差があるじゃないか。
 まるで、僕と兄貴みたいに。

「……はぁ、」

 でも、今更気付いても遅いのだ。
 ごめんと謝ろうにも、なんだか怖くて僕の足はあの子の家には向かってはくれないし、あの子だってあんなにひどいことを言った僕を許そうとは思わないだろう。冠葉のように女の子の扱いにうまければよかったのかもしれないけれど、あいにく僕はそう言うのに長けていないし、なにより、泣かせてしまったと言うのが思うのほか僕は引きずってしまっていた。
 あの子を泣かせる原因はたいてい、兄貴と虫が主で、記憶上では僕が泣かせてしまったことは今回が初めてだったのだ。
 兄貴とあの子が喧嘩した時は悪い方に謝れと言っていたけれど、その立場が自分にまわってくると、情けないことにうまくいかない。反面教師とはこのことだ。
 情けないなあ、と思ってはあ、とため息を吐いて大学の門を通り抜けようとしたところで、暗がりからぴょこんと勢いよく僕の前に飛び出してきたものがあった。

「うわあ!!……って、え?!」
「……昌ちゃん、」

 そう僕の名前を読んだのは先ほどまで考えていたはずの子だった。

 僕の幻覚?
 見間違い?

 いいや、本物だ。
 僕の三歩分先に本物の彼女がいる。

「どうしてここに!? っていうか、え?」

 会うのが気まずいとか言ってたのは誰だ?
 僕だ!
 なのに、こんなタイミングで会うなんて、はっきり言って気まずいし、逃げたい、激しく逃げたい。でも、だからといって、逃げたらまた傷つけてしまうかもしれないからと、足が瞬間接着剤でひっ付けられたのかって言うほどぴったりと昼の太陽の熱を吸収して暑くなっているアスファルトに足をくっつけられて動けずにいた。

「遅かったね」
「…明後日提出の課題があって、」
「……レポートしてたの?」
「…うん」
「そう」
「うん」

 そういったきり、彼女は口を閉じる。

「……僕を待ってたの?」
「…うん」
「いつから?」
「わかんない……お昼くらい?」
「そんなに?!」
「うん、昌ちゃんがいつ終わるか分からなかったから。……昌ちゃんに、会いたかった、から」
「っ、」

 思わず、目から涙が出そうになって、ぎゅうぎゅうと目蓋を閉じて引っ込むように念じた。こんなところで泣くのは、男として恥ずかしいじゃないか。

「冠ちゃんが、」
「かん、ば…?」

 なんで、ここで冠葉なんだよ?
 すこしだけ、イラッとしたようなムッとしたような感情がのし上がってくる。

「……ううん。違う、わたしが、昌ちゃんに謝りたくて」

 謝る?
 ちがう、謝るのは僕のほうじゃないか。
 そう思うのにからからに乾いた舌はうまく動かない。

「昌ちゃん、ごめんね。大嫌いなんて言って。違うの、嫌いなんて、真っ赤な嘘なの、ほんとはね、ホントはっ……!」

 そういって、街頭にキラキラ輝く真珠みたいにきれいな粒が俯いたあの子の顔からぽろぽろぽろぽろ地面に落ちていくのが見える。

「昌ちゃんのこと、好き!…大好きなのっ!」

 そう彼女が叫んだ瞬間、体に電気が走ったんじゃ中ってくらい体中にびりびりと電気が走って、引っ付いていた足はぱっと離れて、三歩分の距離にいた彼女をぎゅうっと僕の腕の中に抱きこんだ。

 なんて小さい肩なんだろう。
 なんて薄い背中なんだろう。
 なんて、愛しいんだろう。

「しょう、ちゃっ、」
「謝るのは僕のほうだ。ごめん、ごめんな」

 思わず、よしよしと背中を撫でてやれば唸るように涙を流す姿が見えて、ほんの少しだけおかしくて吹きだした。

「ひ、ど! 昌ちゃん、笑った!」
「うん、ごめん。かわいくて、つい」
「な…っ!」

 そう言ったとたん、ぼんっと真っ赤になる彼女がいてあれ?と不思議になった。
 いつもだったら、かわいいと言ったら嬉しそうににこにこ笑うのに。今日はいつもと反応が違う。思わず顔を覗き込んで名前を呼べば、唸りながら、今度は僕の胸に顔を押し付けてきた。

「もしかして、恥ずかしいの?」
「うぅ、」

 そっか、……そっか。
 もしかしたら、僕の思い違いなのかもしれないけれど、僕と彼女の思いは一緒なのかもしれない。

「おんなじ気持ちか分からないけど、」

 そう前置きを言えば不思議そうに首を傾げる彼女がおかしくて笑う。

「僕は好きだよ。女の子として、幼なじみじゃない一人の女の子として好きだ」

 そういって笑えば、今度はわ、わたしも!と嬉しい答えが返ってきて、僕の心臓はばくばくと動き出した。
 ああ、頬が熱いな。
 アスファルトの熱にやられて夏バテになりそうだ。
 そうだな。今日の晩御飯は冷やし中華にしよう。

「よし、今日の晩御飯は冷やし中華にしようか」
「え! ほんと!」
「うん」
「わーい! 冷やし中華大好き!」
「じゃあ、買い物して帰ろう」
「うん!」

 ゲンキンだな、と思わず頬が緩む。
 でも、そんな彼女が僕は大好きで。
 ぶらぶらと仲良く手をつないで駅までの道をたどれば、また僕らはいつもどおりに戻ってそうして、時を過ごしていくのだ。
 そう、これからもずっと。



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