side冠葉 「おい」 「……」 「水もらうぞ」 「……」 話しかけるソファーの上のかたまり。一向に反応はないが否定されないので肯定として受け取る。 冠葉は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、自分の分ともう一人分コップに注いで片付けた。ぺたぺたと床を鳴らしながら戻って、ソファーの上で体育座りをして縮こまっている彼女の前のローテーブルの上にコップを置き、もといた位置に座り込む。動きをやめたせいで、よりいっそう暑くなった気がした。 夏場の室内というのはひどく蒸し暑い。どれくらいかというとクーラーをつけずにいれば動かなくても座っているだけで湿気と暑さのダブルコンボで、背中を汗が伝うのが分かるくらい。陽毬がいたら「冠ちゃん、暑いね〜。サンちゃん、ペンギンさんだから暑いとこ苦手そうだし、とけちゃわないかな〜」ととんちんかんな心配をしそうなくらいにかなり暑い。 床に座って、近くの壁に寄りかかれば壁の冷たさが自分の熱を吸い取ったが、すぐに温くなった。 「くそ、あっつ……お前も脱水症状になる前に水飲んどけよ」 「……」 クーラーもつけずによくもまあ縮こまれるな、これが冠葉の彼女への感想である。 冠葉はソファーの上で縮こまってしまって動かない自分にとっては幼なじみ、弟にとっては幼なじみ以上彼女未満の女を見てため息をついた。冠葉が来てからもこの態勢だったのだから、かれこれ一時間以上はこの態勢だろう。ちなみに家にはいるときは勝手に入った。 「…それで?」 ぴくり、と肩が跳ねた。このまま黙っていても埒が明かないと思ったので、冠葉はしょうがなくも口火を切った。 「なんか聞いてほしいことがあったんじゃねーのかよ」 「………」 久しぶりに届いた幼なじみからのメール。件名も本文もない空メール。なにも書いてなかったけれど、無言のたすけてが聞こえたメール。 しばらく悩んだけれど、これから予定していた女の子との予定を放り出してきた。後で文句を言われるだろうが、適当に誤魔化せばいいだろう。 「なにも言わないと分からないからな」 「……昌ちゃんに…」 「ん」 コップの中に注いだミネラルウォーターをごくりと飲む。相手の様子をうかがうと、冠葉がこの部屋に来て一時間、ようやく身じろぎをして膝に埋めていた顔をあげて口を動かした。 「しょう、ちゃんに、大嫌いって、いっちゃったの」 「そうか」 喉を絞められたようなか細い声を冠葉の耳が拾う。クーラーの効いてないこの部屋は窓を開けていて、蝉の声が反響しているけれど、ようく冠葉には聞こえた。 「…わたしが悪いんだってわかってるの」 「わたし、昌ちゃんにいつも甘えてて」 「昌ちゃん、わたしにいつも優しいから」 「今回も許してくれるって思ってた」 「でも、ダメ」 「昌ちゃん、ため息吐いてでてっちゃった」 「きらいって、言っちゃったから」 「きっと、きらわれちゃった」 そういったきり、女は口を閉ざす。涙ももう枯れてしまったのか、まぶたは腫れていたけれど、彼女の目からついぞ涙がこぼれることはなく、そして冠葉もなにも言わなかった。いや、かける言葉が見当たらなくて言えなかったのだ。 冠葉は、昌馬に冠葉菌がうつると言われるほど、女の子が途切れたことがない。けれど、それと対照的に、一人の女の子と長く続くことがないのも日常茶飯事だった。たいていは冠葉が切ることが多数だったけれど、冷たくなる冠葉に離れていく女もいた。冠葉はくるもの拒まず、去るもの追わず。 そのスタンスは長いこと崩れておらず、現在も進行形でそのスタンスを貫きとおしていた。だから、冠葉は喧嘩をしてめんどくさくなれば手を切るし、慰めるにしてもその場限りの言葉を適当に吐いて、相手の女を喜ばせればそれだけでたいていの女は機嫌は治っていた。 でも、目の前のこいつは、そいつらとは違う。 冠葉はこの女の涙が苦手だった。 弱音を吐く姿が苦手だった。 それは、幼いころからの気心が知れている仲というのもあるし、冠葉の言葉に素直に耳を傾けることもない性格だというのもあるし、目の前の女が普段、底抜けに明るい性格ゆえにこんな姿を目の当たりにしたくないというのもあった。 でも、一番の要因は、自分じゃこいつは手に負えないというのを一番知っていたからだからだ。 彼女の中では今も昔も、昌馬が一番で唯一の存在だ。 たとえば幼いころから昌馬だけをずっと見ていたし、昌馬の言葉には誰よりも素直に聞いていた。昌馬の一挙手一投足に振り回されていたし、彼女が泣いているのを慰めるのも昌馬の役目だった。 そういうすべてを、冠葉は近くで見守ることしかしていなかったから、彼女のすべては昌馬という人物でできているのを、冠葉はよく知っていた。 こうやってできた三人の関係だ。だから、冠葉には彼女にかける言葉はないし、昌馬と彼女のことに口出しする気も毛頭ない。ただ、メールで来てと言われたから来たし、家で昌馬が落ち込んでいる姿を見ていたから、ふたりの間に何かあったのだろうなと推察して、この女を心配するくらいには冠葉は彼女が大事だった。 物を大事にする方法なんて人それぞれだし、冠葉は冠葉なりにこの女のことを心配していたのだ。でも、彼女を慰めることができるのも、悲しみの底から救うことができるのも自分じゃないとわきまえている。幼いころから、ずっとずっと、痛いほどその事実を突きつけられていたんだ。分からないはずがない。 それは、自分じゃなくて、弟の役目だ、と。 「それを俺に言ってお前はどーしたいわけ? 俺がお前らのことに口出しはしないこと、分かってるだろ」 「………」 「言わないと分からないだろ」 「…昌ちゃん、に、…昌ちゃんに会いたい…! あって声が聞きたい」 ぽろぽろと涸れていた涙があふれてくる。立ち上がってくしゃりと頭を撫でる。 汗でしっとりと湿った髪。 蝉の声だけが占める空間。 「ありがと、冠葉」 大切な幼なじみの言葉に冠馬はそっと微笑んだ。 ![]() |