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「そりゃっ」
「うぶっ!」
川に入って翼くんめがけて水をかけると、見事に翼くんの顔に当たってしまった。
「あ、ごめんね!翼くん!」
「……ぐぬぬぬぬ、これでもくらえー!」
「う、わあっ」
翼くんがびしょぬれになって心配していると、油断しているところにもってきて手のひらいっぱいに掬った水をわたしに向かってかけてきた。
「ぬははは!どうだ!まいったか!」
腰に手をあてて声高々に言う翼くん。どうにか怒る自分に「翼くんは年下なんだから、おちつけー」と唱えるけれど、びしょびしょになってしまった服やら髪やら、これじゃあ、気持ちが収まるわけもない。わたしも手のひらいっぱいに掬った水を翼くんめがけてかけてやった。大人げないなんて言うなかれ、だ。
わたしが放った水の軌跡を辿ると、翼くんの「ぶへっ」という間抜けな声に続いて、翼くんの長い前髪がぺったりと顔に引っ付いた顔が見えた。しかもぽたぽたと間抜けな顔でこっちを見る翼くんがおかしくて笑いがこぼれる。きょとんとした顔がとってもかわいいなあ。そんな感想を抱いてしまったのは仕方ない。
「あははは!」
「わ、笑うな!」
「ごめ、だって、翼くんってば、ふふ、」
「ぐぬぬ、」
どうにもこうにも肩を揺らすのを止めないわたし焦れた翼くんが「それ!」と言って水をかけてくる。そうすると間抜けにかかったわたしも返して翼くんもやり返してのエンドレスという結果になる。もちろん、収拾なんてつかなくてどうしようもない。
だって、目には目を歯には歯を、だもの。
結局、二人が止めたのはそれから一時間くらい経った後だった。
「も、もうむり…」
「俺もだー…うぬぬぬ…ちかれたー」
ごろんと二人して疲れてよろよろになった体を草むらの上に横たえれば、ちくちくと首やら顔やら背中やら、とにかく体中にちくちくと草が当たってくる。でも、なんだかそれが気にならないくらい体が疲れていてそのまま寝転がった。さわさわと草むらを夏の暑さをもった湿った風が通るけれど、水にぬれて冷えた体にちょうど良かった。上を見ると真っ青な空が、視界いっぱいに広がっていて、それを横断するように電線が通っているのが少しもったいないなあ、と思った。
凛子はいつも自転車に乗っているな、そういって横にいる翼くんの声にわたしは耳を傾けた。そんなに乗っているだろうか?「そうかな?」と首を傾げたわたしに「会うときはいっつも乗ってるぞ」と返されてそういえば、そうかもしれないなあ、と思った。
「俺、自転車乗ったことないんだ…」
寂しそうに呟く翼くんに、わたしはどう返していいのか悩んでしまう。
翼くんはまだわたしにとって不思議な男の子だった。知っているのはこの辺に来たばかりで(だから、遊ぶ子もあんまりいないって言っていた)、しかも、今住んでいる家は自分のほんとの家じゃない、ということだ。ほんとの家じゃないというのは、貸家に住んでいるという意味か、本当の家族と住んでいないという意味か。それはなんだか聞けなくて聞いていない。ただ、わたしはこんなにもはしゃいでいる翼くんが、とても寂しそうな瞳をすることを知っていた。どこを見ているのか分からなくて、ふらっとどこかに消えてしまいそうに儚くなる翼くんを。それでも、わたしはそこに踏み込むことのできない臆病ものだった。だって、わたしはそこに踏み込むということがそれ相応の覚悟がいるということをもう、知っているからだ。
「じゃあ、わたしの後ろに乗ろっか」
でも、だからこそ、踏み込まずにそっと遠回りして、翼くんの手を持つことはできる方法をわたしは知っているのだ。
「ほんとか?」
「うん」
「ほんとのほんとのほんとか?!」
「ふふ、ほんとのほんとのほんと、だよ」
そうして、体を起して隣にいるはずの翼くんを覗き込むと嬉しそうに頬を緩ませて「ぬはは、」と笑っていた。
翼くんの目尻から涙がこぼれたなんて見ないふり、だ。