きゃんきゃんきゃん、と小型犬が喧しく吠えた。なんだっけ、この犬種...と、あまり興味の無い項目についての記憶が無い己の頭と戦いつつ「あ、そうだ、ポメラニアン」と正解に行き着く。 しかし、何故にポメラニアン。 事の経緯を話そう。まず今日は平日である。そんでもってスーパーのタイムセールが昼間である。だからセイバーにお使いを頼んだのが朝の話。好きなもの一個買っていいよと言えば割とノリノリだった。 それで葉子が家に帰って来たのが夕方の話。どっから入ったか分からない犬が玄関で寝てたのに困惑したのがさっきの話。思わず扉を閉めたらきゃんきゃんきゃんとめちゃめちゃ吠えられた。やめろ。学生向けの賃貸はペット禁止なんだぞ。 そして、警察のおじさんが葉子の財布と保険証と買い物袋と脱ぎ捨てられた衣類を届けてくれたのもさっきの話。昼から雨だったから、全てが水浸しの件についてはセイバーに文句を言わねばならない。 この件に関して言えば葉子はこれ以上を考えないことにしようと思いたいのだが、ほんとに頭痛すぎて考えたく無いのだが、行き着く答えは全裸のセイバーである。一体どこで何をしているのか。何故服を脱ぎ散らかしたのか。買い物帰りに一杯やってしまったのか。 「いやだよ全裸のセイバーを探しに行くの...」 痛み出す頭に手を添えれば、ぐるるるるる、とポメラニアンに噛み付かれる。痛い。痛い。物理的に痛い。いやに攻撃的なポメラニアンだな。しかし甘噛みが上手らしく、適度に痛いだけで済んでいる。 黒色でもふもふとした毛皮。飼い主はおしゃれさんなのか知らないが、首輪代わりに薄茶色のスカーフを巻いている。だが、あんまり行儀の良い子ではないらしい。立派な毛並みは薄汚れている...と、いうか。煤汚れ?どこかを無理やり通ったような、と思って部屋の小窓を見れば、丁度小型犬一匹通れそうなくらい空いている。なるほど、と納得すると同時に賢い子だな...と感心した。 「お利口さんだね」 首の下に手を伸ばせば、少したじろいだ様子だったが素直に撫でさせてくれた。そのまま背中に移動させれば、小さな尾がはたはたと揺れた。おいで、と手招けば一瞬動きが止まったが、渋々と言った感じでちょこちょこと歩み寄る。やはり頭の良い犬らしい。膝の上に乗せれば居心地悪そうに座った。きゅうん、とこちらを見て、何かを伝えたそうにしている。なんだか素直じゃない性格の子だが、揺れる尻尾が内心を表している。かわいい。 なんだろうなあ、この既視感は、と思って直ぐにセイバーが過ったが、本人は絶対怒るので心の中に留めておく。犬は犬でも柴犬とかだろう。ポメラニアンは流石にねえわと内心笑っていれば、がぶがぶと手を噛まれた。なんなんだ。 この子が勝手に人の家に入って来た迷子の犬であるのは間違いないのだが、だからと言って締め出すのは忍び無い。今日はもう時間も遅いし、明日は幸いにも土曜日であるし、とりあえずは家に置いてあげるつもりだ。セイバーがなんて言うかは知らないが、家主は一応葉子である。文句こそ言いそうだが、別に反対はしないだろう。 だが、よく見れば歩いたらしい道が少し汚れている。それもそうだ、犬は外を歩くもの。加えて煤汚れだ。本来であれば外に繋いでおくべきなのだが、ここはペット禁止の賃貸。室内にしか置けない。そして家に置くのであれば、やはり一度洗う必要があるだろう。 やむなし、とポメラニアンを持ち上げれば、何をされるのか困惑したらしいポメラニアンの頭上にクエスチョンマークが見えた。くうん...?と為すがままに抱えられた犬に「お風呂入ろうね」と言えばじたばたと暴れ出す。水嫌いか。本当に賢い犬だ。大人しくしててね、と胸の方に寄せれば一層暴れ出した。そんなに嫌なのか。 けれど、やはり風呂は入れねばなるまい。そのまま抑え込んで脱衣所に放れば、きゃんきゃんきゃんと喧しく吠え始めたポメラニアンが逃げ出そうとする。が、それを許す葉子ではない。扉を閉めてしまえば、犬の足じゃ絶対に開けられない。かしかしかしかしと尚も足掻くポメラニアンを尻目に、スカートを脱ぐ。ハイソックスも脱いで、洗濯機に突っ込む。ワイシャツのボタンをぷちぷちと外せば、諦めたらしい犬が扉の前で突っ伏しているのが見えた。 もはやなんの抵抗も無くなったポメラニアンを持ち上げて、水の張っていない浴槽に入る。別に浴槽に入らなくても洗えるのだが、暴れられてシャンプーとか洗剤とか倒れてしまったら面倒だし、犬の嗅覚にはきついだろう。ぎゅうう、と音が聞こえて来そうなほどに目を閉じているポメラニアンに「いいこいいこ」と声をかければ、くうん...と哀愁漂う鳴き声が帰ってきた。よほど水が怖いらしい。全く目を開けようとしない。 なるべく手早く済ませてあげるからね、とシャワーの蛇口を捻ってお湯を出す。暑くないように調節して、手で温度を確認する。ほどよく温く、ほどよく温い。犬の体感温度がどれくらいか知らないのだが、まあ問題は無い、と思いたい。 そして、シャワーノズルを近付けて、片手でもふもふの毛並みを確かめるように触って、立ち込める湯気に怯えたのかびくりとした犬を優しく撫でて、 ぼん、と嫌な音がした。 ぼん。ぼん。ぼん。理解が及ばず音がリフレクトする。ぼん。なんだ、ぼんて。 ぼん? ぼん... ぼん。 湯気にしては恐ろしいほど煙い。おかしい。火災警報機が付いてたら絶対アウトだった。もくもくと上がる白い煙に、触れた毛並みの感触に、嫌な予感がする。犬の毛は、こんなに硬かったか。否。しゃがんでたはずの葉子は、いつの間にか浴槽のヘリに背中を預ける形になっている。否。何かに押し倒されている。 無骨な手が葉子の首を撫で上げた。ひい、と走る感触に声を上擦らせれば、そのまま背中へと伸びていく。優しい手付きだったが、止める気は無いらしい。そしてそれは先ほど葉子がポメラニアンに対してやった行動だったと思い出す。 少しずつ晴れていく謎の煙に、いやに冷静な葉子の思考回路が「らんまにぶんのいち」とトンチンカンのようで的を得ている答えを弾き出した。そうして、目の前のポメラニアンの正体に行き当たりそうになって、行き当たって、現実から目を背けた。 「ヨーコ」 「よ、よう、セイバー」 現実に戻された。恐ろしく冷めた声だった。 ぎらぎらと鈍い色を映す赤い目は、全然笑ってない。口角は上がりきっているが、笑顔と言うには悪すぎる。 「わしは、やめろと警告したき、なんも悪うないがよ。のう、ヨーコ」 「いや、きゃんきゃん言われても分かんないよ」 咄嗟に出てしまった返しに口を押さえても、もう遅い。口は災いの元。葉子は何度その脊椎反射の返しで叩かれているのだろう。しかし、このタイミングは最悪すぎた。軽率な己の行動を死ぬほど後悔した。 ほお〜、とセイバーが葉子を覗き込む。楽しそうに目を細めて、ああ、そうだ。この顔。獲物を見つけた時の、相手をいたぶる気の時の。じたばたと暴れるが、あっさりと抑えられる。ああ、完全に先程と逆転してしまった。ぎゅう、と目を閉じれば、熱い吐息が耳を通り、首に降りて、そのままがぶりと噛み付かれる。べろりと舐めあげられる。甘噛みだろうが、跡は絶対に残っただろう。程良く痛かった。犬よりよっぽど犬じゃないか、と悪態を付けば、嗜虐心の滲んだ目が葉子を見下ろした。 「据え膳喰わぬは男の恥と言うがのう、わしはヨーコが望まんなら、恥じゃろうがなんじゃろうが手は出さん思っちょったけんど、」 「望んでないです」 聞こえんわ、と口を塞がれる。もう聞く気が無いらしい。キャミソールがたくし上げられて、肋骨に指が這う。思わず舌を噛んでしまえば、セイバーは一層楽しげに笑った。のう、ヨーコ。また同意を求める。はいでもいいえでも変わらないくせに。ぷは、と息を吸って、整わない呼吸で返す。なんだよ、セイバー。 「きゃんきゃん鳴かせちゃろうか」 こんなやつ、絶対ポメラニアンじゃないだろうが。 |