取り消して、と酷く冷たい声が響いた。 岸波白野はその声に聞き覚えがあった。しかし、知っているものとは、随分雰囲気が違う。彼女はもっと朗らかに、陽気に、穏やかに、なんでもないような声で騙し討ちをするような人だった。野次馬根性のようで罪悪感が芽生え無くもないが、好奇心は正直だったし、白野のサーヴァントも「情報を集めて損は無い」と後押しする。 恐る恐る件の中心を見やれば、予想通り片方は葉子だった。対峙しているのは、 「今の発言、取り消して。私のサーヴァントは幕末最強の剣士。高みに届くよ。届かせてみせる。まずは貴方から倒してやりましょうか、ユリウス」 全身を黒一色で固めた陰気な男───葉子が宣戦布告していたのは、ユリウスだった。 「取り消すも何も、事実だろう。貴様のサーヴァントは剣士などという崇高なものではない。どんな小細工をしているかは知らないが...与えられたクラスは覆らない」 「覆すよ、私たちは」 「...愚かな奴だ」 「なんとでもどうぞ」 セラフの強制介入が入る。既に小競り合いをした後らしい。だが、この場で取り締まられるということは、彼らが学園内の廊下で潰し合いを始めた、ということも意味する。 介入される競り合い。つまりは、打算も計画性も無かったのだろう。それほどまでに葉子は頭に来ている、のだろうか。踵を返すユリウスを冷ややかに見送った葉子は笑っていなかった。 盗み見をして分かったことと言えば、彼女のサーヴァントはセイバーではない、ということくらいか。ついでに言うのであれば、英霊の生きた時代も幕末に限定できる。彼女は大きなヒントを口走った。 では、先日見た対魔力はどこから? 幕末と魔術の神秘はあまりにも関係が薄い。セイバーなら兎も角、投影魔術を弾くほどの対魔力を有した他クラスとなると、存在しないに等しいだろう。 疑問は増えて行く。時間はもう無い。 ▽ タネさえ明かしてしまえば簡単な話だった。 アサシンクラスが対魔力を持つはずが無い。では何故、彼女のサーヴァントはそれを持っているのか。そんなの、一つしかない。所詮ところ、外付けなのである。 恐ろしく強いサーヴァント。 欠点の無いステータス。 油断も隙も無い完璧なサポート。 まともに戦えば、必ず岸波白野は負けていた、と思う。それほどまでに強かった。だが、一つ。一つだけ、致命的な穴があったのだ。 空気打ちを食らった葉子の身体は、既に元の形を保てて居なかった。本来であればマスターやサーヴァントを傷付ける事は出来ず、エネミーを怯ませるのが精々であるそれ。しかし、葉子のアバターはたった一撃で霧散する。穴の空いた風船のように、僅かなリソースを残して溶けていく。 詰まる所、葉子はアサシンに外付けの対魔力スキルを付与していたわけだ。そうしてセイバーに見せていたわけだ。では、それは何処から? 一つしかない。この女は、自らのリソースを使った。 自らの身体を削って、自らの知識を削って、容量を減らして、己のサーヴァントを強化した。たった一度の空気打ちですら致命傷になり得るほど、全てを削った。恐ろしい執念である。いかれた発想である。遠坂凛に言わせてみれば、自殺に等しい行為なのだと言う。自我を保てていることが不思議だと彼女は言っていた。それでも葉子が余裕そうに振る舞うのは、己のサーヴァントのためか。分からないが、きっとそうなのだろうとなんとなく思った。 「あーあ、負けちゃったかあ」 岸波白野は予想外だった。それほどの執念があるのだ、もっと激昂すると思っていた。しかし彼女は特に感慨深くもなく、ただ少しだけ落ち込んだ様子に見える。 「なに平然としゆうがか。これから死ぬんじゃぞ、おまん」 「そら負けたからね」 むしろ彼女よりもアサシンの方が不満が多いらしく、不機嫌さを隠さずに葉子を睨み付けた。困ったように眉を寄せた葉子だったが、それでもその表情に怯えや哀しみは無い。ただ、そこには少しの口惜しさが見えるだけだった。 後悔は無いのか、と岸波白野は問う。 完璧なサポート、完全な領域作り、完成された能力値。魔術師として決して優れてはいない回路を有しながら、細かな努力だけで全てを抜かりなく揃えてきた彼女の敗因があるとすれば────敗北しても尚、自身がアサシンのサーヴァントをセイバーとして扱った一点のみである。 彼女のアサシンは岡田以蔵。幕末の人斬り。剣士でありながら、外道に手を染めたセイバーの成り損ない。彼の剣技は間違いなく一級品であるが、彼にセイバークラスになる資格は無く、アサシンクラスの三流サーヴァント止まり。 だけれど葉子は好き好んで彼を呼び、セイバーとして扱った。そのせいで霊器が下がることになっても。気配遮断のスキルが使えなくなっても。勝利を、掴めなくなっても。 彼女は彼をセイバーだと言った。 そのことについて言及はしない。それは彼女の死よりも重い意地を傷付けることになる。だから、その選択に後悔は無いのかと投げ掛けた。 「後悔は無いよ。ユリウスをボコボコに出来なかったのは死ぬほど悔しいけど。岸波さんに負けたのは、私の実力不足が招いた結果だしね」 私のセイバーは最強だったんだけど、と残念そうに呟いた。続けて自分が三流の魔術使いだったから、と言い掛けて口を噤む。自虐をすれば岸波白野の勝利まで汚してしまうと葉子は思ったらしい。呆れたようにアサシンが溜息を吐いた。 「...叶えたい願いがあったんじゃろうが」 意外な言葉に面食らった葉子は、ああ、それね、と可笑しそうに言葉を転がした。 「別にいいんだよね。だって叶ってたし」 初耳である、と彼女のサーヴァントが目で語っている。驚いたような反応をしたアサシンは「そりゃ結構」と呆れた声を零した。見るからに拗ねていることに気付いたのか、葉子は困ったように笑う。 岸波白野にも分かる。この主従は互いに強く親愛を抱いている。岡田以蔵を剣として扱う葉子、葉子を己という剣の使い手として認めている岡田以蔵。それは一見歪んでいるが、恐ろしく澄み渡った関係性だと思った。どこまでも清らかな関係性だと思った。だからこそ、これ以上彼らに話しかける気は無かった。白野のサーヴァントもまた、事の経緯を黙って見ている。 「貴方が私の願いを聞いた時点で、今もこうして貴方と居られるだけで、今度は一緒に消えれるだけで、」 とっくの昔に、叶っていたんだよね。 うんうん、と自身の言葉に納得するように葉子は頷く。アサシンの方は疑念が深まったようで、更に渋い顔をしている。あまり、難しいことを考えるのが好きではないらしい。哲学的な葉子のペースに呑まれっぱなしであるが、付き合い慣れてるような雰囲気だった。 「…まっこと読めん女ぜよ。好き好んでわしを喚んで、至高の剣じゃと持て囃し、ほいでハナから願いは叶っちょったと言うがか」 「そだよ。だって、貴方は私のセイバーだから。誰より強くて何より優れた、私のセイバーですからね。召喚に応じてくれた時点で万々歳。かっこよくて強くて流行りのサイキョーサーヴァント!」 「……………恥ずかしい女じゃのう」 「恥ずかしくて結構。負けても、死んでも、悔いはあっても、後悔なんて絶対ない。大好き。一番好き。だからね、楽しかったよ私。今までありがと、セイバー」 「おまんええ加減にせえよ…!?外野が居るの忘れとるがか!?」 「照れんなって、最後くらい見逃してくれるよ」 耳まで赤くなって怒るアサシンを宥めて、ね、と葉子は無邪気に歯を見せた。すっかり白野たちは蚊帳の外であったが、きちんと意識の内にはあったらしい。敬意を払おうとしたのか、お辞儀をしようとしたらしい葉子は手を胸に添えようとして、添えられないことに気付いて残念そうな顔をした。 「…もう時間ないね」 今度は私が先に消えるのか、と彼女はぼやく。言葉の真意を汲めず、置いてけぼりのアサシンに何の説明もしないまま葉子は指先から溶けて行く。元々強い能力があったわけでもなく、アサシンの能力を底上げするでもなく、ただ"岡田以蔵の剣技が万全の状態で発揮される"状態を作るためだけにソースを割いていた彼女は、誰よりも早く電子の海へと消えかけていた。 その晴れやかな笑みは紫に融解していく。その穏やかな眼差しは薄く透き通って行く。その潔い心は海へと還っていく。 その顔に恐怖は無い。その顔に嘆きも無い。憂いも無ければ、後悔も無さそうだ。只々綺麗な顔を浮かべたまま、自身のサーヴァントへと振り返る。ああ、そうだ。なんてことない気軽さで、消え逝く恐怖など無い顔で、彼女は口を開く。降っていた雨は、いつのまにか止んでいた。 「月が綺麗だね」 それはいつかの返答だった。 それはいつかの告白だった。 それはいつかの失言だった。 七天の聖杯を月だと言った。綺麗だと言った。しかしその真意を知るものは居ない。知らないからこそ、彼女にしか分からないからこそ、彼女は此処にいる。此処に存在している。 彼女は死ぬ。彼女は消える。だけれど晴れやかに、穏やかに、そして誰よりも幸福そうに、己が信じたセイバーへと微笑みかけたように見えた。 あいしてると笑った葉子が彼に何を抱いていたのか、岸波白野には分からない。彼女のサーヴァントにも分からない。未完の英霊を完成させようとした葉子の執念を、献身の意味を誰も知ることが出来ない。 ただ一つ分かるのは、どこかの愛が、誰かの恋が、どこまでも青く寒々しく、だけれど何より美しく────儚く澄み渡って、水面に溶けていったことだけだった。 |