デジャブ。既視感。二度あることは三度ある。いや、三度もあったら困るけど。とにかく、この現象を形容するのは、その辺りの言葉が妥当と思われる。 思わずドアを閉じそうになるのを堪えて、葉子は冷静に居間を見やった。学校帰りのいつもの放課後。自宅に居る人間はセイバーのみ。だが、小さくて、黒くて、丸くて、もふもふで────まあ、要するに。ポメラニアンである。 わふわふ、わん。人懐っこくぴょこぴょこ跳ねる姿は可愛いのだが、これセイバーなんだろうなあ...と思うと迂闊に可愛いなどとは言えるまい。一体どうして犬になってしまうのか。 葉子には露知らぬ話であったが、大衆が抱く無辜のそれは恐ろしいのである。つまるところ、そういうことだ。万人の思想が、万人の相互理解が、葉子のセイバーにも異常を起こしている...という話なのだが。冒頭で申した通り、葉子にはそれを知る術が無い。知る気も無い。魔術の神秘は不思議なものだ。 そうやって済ませるから魔術師でなく魔術使いのままなのだ。追求する探究心が無いから三流のままなのだ。向上心の無いやつはばかなのだ。なあ、そうだろハム太郎。全く持ってそうなのだ。 「セイバー、また犬になっちゃったの?」 わん、と良いお返事が帰ってくる。やけに素直だな、と驚きつつも、そっかそっかと返せば、わんわんと良いお返事が連続して投げ返された。 「なに、言いたいことがあるの?」 わん、と返される。あるらしい。葉子はどうにか意思疎通を図ろうとして、紙とペンを取り出す。人としての意識があるのなら、これで十分だろう。「はいセイバー」と差し出せば、わふ、と指を食まれた。 「悪ふざけなんて珍しいね」 はみはみと指を食まれて擽ったい。根性腐った風の人のくせに、存外と性根は真面目腐った人でもあるから、こういった冗談は好まないと思っていたのだが。セイバーもたまにはふざけるのだろう。ちろちろと小さな舌が掌を舐める。指の先をたまに甘噛みして、ちらちらと此方を見てくる。まるで遊んで欲しい犬のようだが、セイバーは何を考えているのか。葉子には分からなかった。 「真面目に考えようよ...」 わふ、と変わらずお返事だけは良い。すっかり呆れた葉子は無視してソファにもたれ掛かる。人のことを揶揄いすぎである、と少しヘソを曲げれば、わんわんと隣に飛び乗って来た。セイバーが葉子のご機嫌を取ろうとするのは珍しいな、と驚けば、べろん。...べろん? はっはっはっ、と犬らしい荒い吐息が顔にかかる。顔を舐められたらしい。あまりの衝撃に放心してしまった。そのままべろべろと顔面を舐められて、葉子は強制的に現実に引き戻される。いや、ちょっと、冗談にならないって。 「ま、待ってセイバー!犬だよ!今セイバー犬だよ!すごい犬だよ!犬だよこれ!」 訳の分からない発言が飛び出す。葉子は冷静なつもりであったが、完全にテンパっているらしい。尚もべろべろと人の顔を舐めさくるポメラニアンは盛ってしまっているのだろうか。いや、流石のセイバーもそこまでアンポンタンでは無かったと思っている。思っていた。信じていた。それがこのざまか。 もはや思考ごと投げやりになっているが、犬とにゃんにゃんするのは流石の葉子も嫌だ。犬だけにわんわんか?何も上手くない。解散。手でポメラニアンを押し退けて、叫ぶ。 「せめて、せめて人間になってか、」 ら。 がちゃん、と音を立てたドアノブに意識が集中する。何故、ドアノブが回るのか。どうして海は広いのか。どうして空は青いのか。どうしてそこに、セイバーが居るのか。 あ?と怪訝な顔をしたセイバーが家に入ってくる。は?と葉子は思わず声に出した。 「ヨーコ、おまん何しゆうがぞ?」 「えっ...」 セイバーと戯れてたつもりだった。そんなこと、言えるはずが無かった。 ▽ ばあたれ。機嫌こそ悪くは無いが、大変呆れたらしいセイバーが葉子を小突く。 「こがいな犬とわしの区別が付かんがか?」 そう言ってセイバーは正真正銘迷子のポメラニアンに指差しする。この前その犬になってたやつは何処のどいつだったか。そう思ったが葉子は言わない。言及して酷い目に遭うのは葉子の方である。 「だ、だって...ポメラニアンだったから...」 毛並みも黒いし。きっと犬好きの人間からすれば区別が付くのだろうが、葉子はそこまで深く犬に興味が無い。かわいいな、で完結してしまう。ほんの少し見た程度のセイバー犬と他の犬。犬種の区別が付いただけでも褒めて欲しいと言えば「アンポンタン」と返される。現代の言葉を好んで使わないくせに、揚げ足取りだけは葉子に合わせた言葉を使うのだから、中々に意地の悪い男である。それを少し嬉しいと思ってしまう葉子も葉子だが。 「ヨーコは抜けちょるからのう...まあえい。啓吉でお守りは慣れっこぜよ」 「それは酷くない!?」と返せば、セイバーが楽しげに喉を鳴らす。こうして人を馬鹿にして喜ぶところは、年上なんだかそうじゃないんだか分からない。 ねー、と迷子のポメ公に同意を求めれば、わふ、と変わらず良い返事を返してくれるものだから、良い子良い子と撫で回した。くうん、と擦り寄ってきた毛玉は、人懐っこいらしい。膝上に陣取って葉子の腹に頭を寄せている。 かわいいねえ、お利口さんだねえと撫で回していたら、急に毛が逆立った。驚いて手を止めれば、その場で跳ね上がったポメラニアンが葉子の膝から降りる。かしかしかしかしと爪がリズミカルに床を擦って音を立てた。 何事か、と目を白黒させていれば「なんちゃあない」と少し、結構、大分冷めた声が聞こえた。部屋の隅に走って逃げた犬は、吠えることすらせずに丸まっている。随分と脅かされたらしい。これで何も無いわけないだろ、と思ったが言わない方が良い。 黙っている葉子にどう思ったのか知らないが、セイバーは暫く黙り込む。そうしてのっそりと立ち上がったと思うと、葉子の横に割り込むようにして座った。二人掛けのソファとは言え、葉子が座っていたのは真ん中だ。横に割り込まれれば、きつい。 移動しようと立ち上がれば、腕を引かれた。立つな、移動するな、そのまま座れ、と言っているのだろう。仕方なく膝の間に収まれば、後ろから抱き込まれる。腰に腕を回される。肩口に頭を寄せられて、擽ったい。「にゃあ、」と問い掛けられる。土佐の言葉とは理解してるが、この状態ではじゃれつく猫のようにしか思えない。 「そがいな犬っころなんぞに構うなよ」 清々しい焼きもちである。比較的鈍いという自覚のある葉子でもここまで言われれば分かる。今日のセイバーは酷くストレートだ。嫌味も嫉妬も全力投球ド真ん中。何故なのか。 疑問に頭を悩ませたのを察されてしまったのか、随分と甘えたい気分らしいセイバーは少し頭を上げて耳に口を寄せる。掠れた声が鼓膜を震わす。 「...おまん抜けちょるし、呆れるほど鈍いき、分かりやすく言わんと伝わらんじゃろ」 ぐうの音も出ない。その通りである。返答に困って「よくご存知で」と返せば、「ようく学んだき、えい加減わかっちゅうちゃ」と追い討ちをかけられる。 腰に回っていた筈の手が、葉子の腕に伸びた。そのまま絡め取られて、手遊びが始まる。擽ったくて振り解けば、上へと誘導されてしまった。撫でろ、と言いたいらしい。犬に対抗するなよ、と思ったがそれよりなにより可愛くってどうしようもなくなった。 よしよしと撫で回せば、セイバーは押し黙る。自分で撫でろとアピールしておきながら、照れてしまったらしい。腰に回った腕が一層強く締まったが、すぐに緩んだ。反射で力が入ってしまったのだろう。申し訳なさそうに腰が引けて行くのを感じて「お利口さん」と撫でる。 まるで本当に犬のような扱いであるが、セイバーもセイバーだ。満更でもないらしく、離れた体温がまた近付いた。男性らしく無骨な手が、葉子の指を捕らえて、頬に擦り寄せる。本当に今日は、甘えただ。 この人は不器用だが、素直な人だ。天保生まれの長男坊だから、きっと甘えるのが苦手なのだと思う。葉子だってセイバーが好きだ。少しでも彼の常識に歩み寄りたいと思って、ググったりヤフったりしている。だから、彼の時代の一般的な男性像をにわか程度に知っている。堅物すぎるほどの硬派が、亭主関白こそが常識なのだと知っている。 何度も言うが、聖杯から知識を得ることと、その風習を受け入れられるかは別なのである。それでも、葉子に合わせてくれるところが嬉しいし、いじらしくて愛おしく感じてしまう。 ストレートな物言いも、積極的なスキンシップも、難解な文化だろう。そのくせ明確な区切りが無く、雰囲気任せの自由恋愛も、酷く勇気が要るだろう。大きな抵抗があるだろう。それでも、葉子を好いているから、歩み寄りたいと思ってくれているから、照れながらでも言ってくれるのだ。優しく触れてくれるのだ。 迷子のポメラニアンには悪いが、やはりうちの子が一番かわいいんだよなあ、と思えば「ヨーコ、今失礼なこと考えちょるな」と頭を小突かれた。ひどい。 |