不義の正しき
濡羽の様な黒。悩ましげに伏せられた瞳を縁取る睫毛。桃色の唇。細く嫋やかな手足は柳の様に柔らかい。透き通る肌も白磁の器の様だ。
わたしは彼女────お市の外観に価値を見出していないが、見る者が見れば一目で心を奪われる事だろう。
妖花と例えられる姿とその美貌は、魂を絡めとる様な魔性の魅力がある。彼女の髪が揺れる度に漂う香りは甘く脳を蕩けさせていき、着物から除く白い肌は目にも心にも毒を振り撒く。
深入りしてしまえば最後。同姓であっても気の振れるような美しさであると、わたしは客観的に判断している。
「...ねえ、長政さま」
明媚な声だ。耳を震わす鈴の音はわたしの主君の名を呼んだ。
消え入るような呼び掛けは、か細い姫君のものである。そう分かるというのに、わたしは少し恐ろしく思う。市が泣かず、何かを言う時。それは大抵、彼女の言うような“不幸”の発端であるからだった。
「市、淋しいわ。長政さまが居ないと...一人は嫌。おねがい、一緒に...」
「そのような事を言うな、市。私は正義の為、戦さ場へ参じねばならん。貴様もそれは理解しておろう」
「そう、...そうね。市、市が...わがままで、ごめんなさい...」
はらはらと溢れる涙は静かに着物に染みを残す。
その姿は美しく、長政さまと立ち並ぶ姿は一枚の絵のように浮いて見える。しかしわたしは矢張り、彼女を見ても狂うような心地と言うのは理解出来ないのであった。
美しいとは思うのだが、それ以上の感慨は無い。心が弱く、生き辛い方であるなとも思う。哀れとまでは言わないが気の毒であるとは思っている。
ただそれ以上に、思うことが無い。
お市の方は悪意と策謀と好奇の中で生きて来たと聞く。それは浅井家に従う末席であるわたしも知る所で、家中では既に触れ回られた話である。
しかし。魔王の妹として生を受け、その人生の全てを苛まれた痛ましい姫君であるから一層丁寧に扱うべき────とは、長政さまは言わなかった。
わたしの主君は何処迄も正しく、真っ直ぐなお方だった。
織田が朝倉を攻めるから、浅井も加われと言ったのに。それを道理でないと棄却して、朝倉に早馬で一報を送るような。家臣団や城仕えの者がお市の方を哀れと見下す事を、長政さまは許さなかったのである。
そのようなお方であるから、奥方も長政さまの側では悲壮な雰囲気は軽減されていた。彼の前では微笑み、少しだけ明るい顔をする事さえもあった。
「...しかし、そうだな。私は戦に出るが、人を増やそう。必ず帰還する故、それまで待っていろ」
奥方の涙を指で拭った長政さまは、酷く動揺している。
主君が彼女を泣かせる────市が何かを思って泣く事など、良くある事だ。しかし、その度に長政さまは狼狽し、砕心為される。
此度も普段と変わらず、憂いた姫君の心を案じた長政さまは口約束をした。それを聞いたお市の方は少しだけ顔を明るくする。彼女を見る長政さまも微笑んで、慈しむように奥方の手を握った。
反対にわたしは、酷い悪寒に苛まれる。
姫様が笑っていて、長政さまも嬉しそうだ。良いじゃないか。わたしが案ずるようなことなんか、なにも────。
「...じゃあ、ね。あのね、市はね...」
魅入られる家臣団を擦り抜けて。白い脚先が木目を踊るように飛び越えて。
控えるわたしに、烏の黒が擦り寄った。
「あの子が良いわ。あの子を、ちょうだい?」
▽
そうして死に場所を失ったわたしは、主君が死んでも何一つ変わらない快晴を見ている。
「...ねえ」
絶世の美女と称するに相応しい容姿の女は、何かを言い掛けて口篭った。
わたしは口を開かず、お市の言及を待つ。怯え、哀しむような瞳が恐る恐る此方を覗き見た。しかしわたしは一連の動作を見ても、何一つ心が揺れ動かない。
単純に、お市の方に対する興味が薄いのである。
「貴女は...市が嫌い?」
「好きも嫌いもありませんよ。お役目ですから、そのような事は考えません」
率直な感想を伝えれば、市は息を吐く。憂鬱で湿度のある吐息は、可憐でありながら妖艶さをも持っている。
柴田が彼女に狂わされたのも理解が及ぶ話だ。市は一挙一動が艶かしく、他者を見る瞳は生ぬるさがあり思わせぶりなものである。
それはわたしという、今は亡き浅井家の家臣だった浪人にも向けられるものであり、そのような無防備さも魅力として数えられるのだろう。
曇った黒曜は薄い膜を張っている。
この所、お市の方は常に不安定だった。理由は明快で、彼女の兄である第六天魔王が長政さまを討ち取ったから。その理由も単純。元より織田は朝倉を攻め滅ぼし、邪魔な勢力共々葬り去る算段だったからである。
彼女が何をしてなにを想おうと、魔王は長政さまを殺していただろう。だって長政さまは道理の無い侵攻をお嫌いになるから。
長政さまは清く正しく誠実なお方であったが為に、民を捨て名を捨て家を捨て、泥臭く生きるなどとはお考えになられない。
流れるままに誉れ高く討ち死になさって、焼けた土地と、遺言と、守られたお市の方だけがこの越中には遺されている。
「ですから、私などに心を割く必要はございません」
好きか嫌いか、それについては答えなかった。前述の通りに、意味の無い問答であったからだ。
わたしは死に行く主君に、市の伴にと命ぜられたから。
何も思わず、考えず、感じず。この毒花の手を引いて何処迄も駆けて落ち延びたのであった。
「...貴女は、長政さまの家臣だわ。...市はもう、いえ、最初から。織田に...兄さまに逆らえない」
「存じております」
「そう。そうよ。いずれ、兄さまが市を捕えるわ。義姉さまも。もう、終わりなの。市は、生きているだけで不幸を呼ぶのよ」
わたしはさめざめと涙を零す市を、何処か遠い気持ちで見ていた。
確かに魔王は市を追うだろう。わたしは市に利用価値を見出さないし、使える人で有るとも思わない。しかし魔王は市を眷属と称し、市は魔王の心を恐れながらも理解する。
市が生きている限り、わたしと共に逃げる限り、追手は常に差し向けられるだろう。しかしわたしが生きている限り、市と共に逃げる。それが主君の望みで、自分の役割だった。
なれば、それについて考える意味も理由も無い。ただわたしは、長政さまに言われた通りにお市の方を逃すだけ。
だが、極めて淡白なわたしに市はより一層気分を害したらしい。はらはらと淡雪のように溶ける涙が肌を伝って、誰にも掬い取られずに落ちていく。
わたしはそれをじっと眺めて、少し悩んでから口を開いた。
「拭いませんよ」
「...え?」
「私はお市様を慰めません。長政さまは、上辺の言葉を許しませんから」
わたしは火縄を構えて、撃つ。火薬が弾けて木の葉の間を擦り抜ければ、人が高所から落下した。この辺りも既に手が回っているらしい。煙を吹いて、銃を背中に担ぎ直した。
「そう、ね。長政さまは...きっと、そう言うわ。ごめんなさい...
市が、ううん。市は、長政さまが言ってくれたみたいに...」
市は落ち着かない面持ちでわたしを見ている。
わたしは特に哀れみなどを向けることも無く、「馬を引いて参ります」と声を掛けた。彼女は静かに頷いて、打ち掛けを深く面に被せた。
▽
越中にて落ち延びたわたしが向かうのは、越後。
其処は上杉が納める領地であり、今は亡き朝倉の同盟国である。南へ降りれば豊臣、駿河へ向かえば徳川が居る。どの陣営も市を匿うことは考え難い為、行き先は早々に決定されていた。
朝倉も雑賀も壊滅したとなれば北へと下向するしか道は無く、最上に近付き過ぎない程度に落ち延びるのが理想と言えるだろう。
それに。信長包囲網に加わっていたとはいえ、本願寺教団や毛利などの手は借りたくは無い。長政さまであれば、そう断言すると思ったからだ。
わたしは道中一度も使わず、丁寧に運んで来た刀剣を畳に並べる。
最初から上杉を頼る腹積りであったわたしは、落城の際に価値も分からない脇差しを何本か持ち出していた。
「お市様を匿って頂けないでしょうか」
頭を下げて、指先で献上品を押す。
市の戸惑いが衣擦れの音から分かる。わたしは彼女になにも相談せずに春日山まで来た。上杉の忍びも、事前に聞いていた話と違うと声を荒げる。
「話が違う!貴様は謙信さまに、魔王の妹を献上しに来たと...!」
「かすが」
忍びは口を引き結んで、尚も何かを言いそうにして上杉の側に控えた。わたしは頭を下げたまま、其れを静かに聞いている。
「かおをあげてください」
わたしは言われるまま、面を上げる。
上杉謙信は片膝で立ち、わたしの頬に指を添えた。流麗で整った容姿であるが、かすが程に狂わされる何かは感じない。
「まず。これは、うけとれません。このらんせ、なにがあるかわからないでしょう。さきだつものは、つねにおもちなさい」
「しかし」
「このようなものがなくとも、わたくしはあなたがたをこばみません」
上杉謙信は柔らかく微笑んで、わたしと市を見た。
肌に指先を触れさせたまま上杉は問い掛ける。凪いだ双眼は、澄んだ色をしていた。
「うえすぎは、おだとてきたいしています。わたくしがあなたがたをたばかるとは、おもわなかったのですか」
市が息を飲み後ずさる。不安からか彼女はわたしの袖を引いて小さく震えた。押し殺した吐息が心拍に合わせて吐き出される。
わたしは自身の胸に手を当てたが、普段と相違無い。だからひとつも惑う事なく、ただしく答えた。
「長政さまならば、貴方を頼ると思ったのです」
上杉は少し驚いて、すぐに微笑を浮かべる。その眼差しには僅かに友愛が見えた。
軍神はなにも言わなかったが、長政さまの“ただしさ”を知っているようだった。
▽
織田信長は本能寺にて討たれたという。
越後に来る早馬よりも、上杉の忍びよりも早くわたしは知る事になった。首級を持ってふらふらと、頭のおかしい男が市を訪ねて来たからだ。
「出しなさい、あの方と血を分けた者を」
開口一番に男はそう言って、大切そうに抱えた首級を腰に吊った。
元より痩せぎすだった身体は、見ない間に細枝のように枯れている。やつれた腕に似合いの壊れた鎌を携えて、明智光秀は片腕だけを振るっていた。
「出しません。明智さまは此処で死にますから」
「おや。浅井如きの犬が私を殺す気なのですか。あの甘い男の飼い犬が、そのような狼藉を?」
「明智さまは人でなしですから。討ち取れば、正義を為したと言えるでしょう」
人でなしという言葉に明智は笑った。貧相な身体から不相応な高笑いを上げて、わたしの首へと鎌の柄を突き付ける。
喉を抑えて仰け反れば、溜飲が下がったような顔をして笑う。今のは殺すつもりの一打でなく、相手を苦しめる為の暴行だった。
どうやら先程の言葉に大層腹を立てたらしい。今度は利き手で信長公の首を抱き締めて、空いた方の手で大鎌を薙ぐ。
わたしはそれを適当に弾いて、助かったと冷静に思う。
明智が万全の状態で、両手で大鎌を振るわれていたら、わたしはすぐに殺されて居ただろうから。
「負けて死んだ男の戯言など、なんの価値も無い」
明智はそれを血と共に、吐き捨てるように言う。
明智光秀は織田信長に依存していた。だから死後もこうして首を持ち歩いているのだし、血縁などと云う呪いにも似た何かに追い縋っている。わたしに誹られれば激昂するし、同じ様に言い返そうともする。
しかし長政さまの言葉が、信念が、戯言であるか。
明智は挑発のつもりで発したのだろうが、わたしには何も響かない。だって────。
「その通りだと思うよ」
「...は?」
「長可さまは何も為せずに死んだから。明智さまの言う通りだって、わたしも思っている」
──────だって、自分もそう思っていたから。
乱世で生きるには、あの方は清すぎた。詭弁が過ぎたのだ。正義など価値は無く、掲げるだけ無意味だと云うのに。
心の底から可笑しくて、笑いも、嘲りも、罵声も止まらない。ケラケラ声をあげて、血で滑った刀を放り投げた。それに目を奪われた明智に詰め寄って、こう囁く。
「でもさ」
鎧を掴んだ。指に棘の様な意匠が食い込んで、鮮血が散る。
「敗者の首は、君に言葉をくれるのか?」
鎌が振り下ろされる。
明智は随分と機嫌を損ねたようで、自身から流れる血も、開く傷も無視して出鱈目に武器を振り回す。
「羨ましいでしょ。人としての正しさが」
わたしは明智を蹴飛ばした。織田信長の首が転げて、彼はそれに手を伸ばす。
その手が届く前に、わたしは思い切り首級も蹴り飛ばしてやる。何かに当たる音が数度して、そうして首は谷底へと消えて行った。
明智はそれを虚ろに眺めて、フラフラと首を追い掛けた。明智は蹴鞠を追う子供の様に、嬉しそうに笑っている。
やがて崖に辿り着いて、彼は静かに落ちて行った。
その姿を見ても、溜飲が下がる様なこともない。わたしは既に、とうの昔に、憎しみが無かった。
織田があんなに恨めしかったというのに、最早それも時代だと思うのだ。
ああ、でも。今のは正しくなかったな。
長政さまと出会う前の、ただの無骨者であったわたしのようだった。
─────人としての正しさが羨ましいのは、何も明智だけではない。
わたしもそれが欲しかった。その燃えるような義憤に焦がれたから、わたしはあの方に憧れていたのだった。
「いけない」
八重歯を隠す。人を殺して微笑むなんて、けだものみたいだ。
だが、少し思う。知性無きけだものであれば、正道を解さない外道であれば。
わたしは、長政さまと最期まで共にあれたのだろうか。
▽
─────わたしは武家の子であった。
何処にでも居るような、それなりの身分の武士のこども。一つ他と違うのは、わたしの家には強い男児が生まれていなかったということ。
我が家は武門の名家であった。半端者は受け入れるに値せず、万が一にも軟弱なこどもが継ぐようなことはあってはならない。
わたしの弟たちは、たおやかで美しい母に似て細い姿をしている。父はそれが大層不満らしく、弟が育つ度に違うと吐き捨て、次を次をと母に子を産ませた。
母が病んで身体を壊せども、父に似た男児は生まれなかった。唯一父に似たわたしは女であるから、家を継がせるという選択もしない。
そうして父は母を殺してしまった。
次は残った弟たちに無理な鍛錬を課し、彼らの心身を蝕んでいく。わたしはそれを見て、ただ拳を握るばかりだった。
町の道場に降りて、剣を握り、振るう。
わたしが家を継ぐ日など絶対に訪れはしないというのに、その“もしも”を捨てきれない。
「お前が継げば良いだろう。私が言ってやる」
「何故だ。恥じることも、引け目を感じることも無いだろう。お前は強く、正しい」
わたしはその時、この方の正しさを愛してしまったのだ。
▽
「市を、頼みたい」
出立の朝。長政さまはわたしを呼び付けてこう言った。
兜を被る前の御姿は何度見ても見慣れない。わたしにとって長政さまとは、その正義に相応しい輝く兜をお召しになり、戦さ場であっても清く正しく白く有られるお方だからだ。
無礼な思想だと己でも思うが、あまりその姿を見せないで欲しいとわたしは思っている。
だって、その佇まいは何処までも、長政さまが普通の人間であるように見える。
この神聖なるお方が、ただの人であると知覚してしまったら。わたしなどのような畜生でも、想っていいと思い上がってしまう。そんなことは、あってはならない。
「...もしも、義兄上が私を討つのならば。市は笑顔を失うだろう。思い上がりなどではない。市には、手を引く誰かが必要なのだ」
市が、市がと長政さまは言う。
わたしはそれを黙って聞いて、「承知しました」と返す。もうそれ以上言わないでくれとわたしは心で叫んだ。
だが長政さまにそのような事をお伝えなど出来る筈もない。ただ黙って、時が過ぎるのを待つ。
「市を、導いてやってくれ」
わたしは頷く。言われずとも、そうすべきだと分かっている。
黒い御髪が風に揺れて、長政さまはそこで初めてわたしを見る。何処までも真っ直ぐであった筈の瞳は、揺れていた。
「其方は私が知る中で、誰よりも────」
▽
わたしは長政さまと別れた時のことを思い出していた。
あの時、長政さまはなんと仰っていたか。随分遠くまで来てしまったものだから、記憶も段々と薄れて思い出せなくなっていく。
時代は流れ、今や豊臣の時代が訪れていた。
その頃には市を追う織田の残党なども居らず、ただ静かに越後にて余生を過ごしている。
この頃にはお市様も落ち着かれて、穏やかに過ごす事が多くなった。それでも月に何度かは乱心なされて、彼女の喚ぶ黒い手が常闇のように廊下へ長く長く続いている。
わたしはそおっと近付いて、お市様に布を差し出した。拭わないと言ったのに、いつの日かわたしは市に「泣かないでください」と懇願するようになっていた。
しかしそれは受け取られず、畳にはポツポツとちいさな染みが出来て行く。
「長政さまは、市の、市の所為で」
「違いますよ。長政さまは己が正義に殉じたのです。お市様が居られずとも、織田に滅ぼされておりました」
「違うわ...市が、もっと強かったら。兄さまを止められれば...長政さまは...長政さまは...」
全身の血が凍ったようだった。握り締めた拳は、力を込め過ぎて感覚が無い。
「訂正しろ!それは正しくないだろう!」
叫んだ声が自分のものだと分からなかった。唖然とわたしを見る市を見下ろして、己の口に手を遣って。
わたしはそこで漸く、自分が激昂しているのだと理解した。
「...言葉が過ぎました」
わたしはすぐに頭を下げる。膝は付かなかった。間違えたことは言っていない。わたしは、正しいことを言っている。
「長政さまが、お市さまを責める訳がありません。姫さまも、それはよくお分かりでしょう」
そう呟くように続ければ、市は「...そうね」と目を伏せた。
暫し静寂が訪れて、互いに言葉も無く外を眺めていたが、先に口を開いたのは市の方だった。
「ねえ...貴女の言葉は...長政さまみたいだわ... それは、どうして?」
「...わたしが、お市様の護衛を頼まれたからです。身だけでなく、そのお心も守るようにと」
「どうして、貴女が言い付けられたの? 他にも、長政さまには家臣が居たわ」
「わたしは浅井の家臣で誰よりも、彼の方の正義が分かる、と...」
“────誰よりも正しく、私の正義を理解するだろう。”
わたしはふと、最期の言葉を思い出した。
それだけに縋って生きて来たというのに、何故記憶から抹消していたのか。長政さまの言葉は、わたしの光であった筈なのに。
「そう」
市はか細い声で相槌を打つ。
視線を上げれば、濡羽の黒がこちらを見ていた。床に落ちる絹に仄明るい蝋の炎が反射して、それは妖しく輝いている。
闇の中に映るわたしは、迷い子のように────いつか見た明智のように、酷く空虚な眼差しで揺れていた。あの日見捨てた彼は、わたしだったのだ。
「そう。そう、なのね。貴女は、市が。市の所為で。...ふふ、ふふふ」
毒婦は壊れた笑い声をあげて、指を伸ばした。わたしの頬に白い指先が触れて、紹巴のような手触りの肌が冷たく滑る。
畳に溢れる髪は錦の模様のように広がっていて、見事であった。だけれど、それをわたしは蜘蛛の巣のようだとも思った。
蜘蛛? 市が蜘蛛だと、わたしは思ったのか。それでは、絡め取られるのは──────。
「可哀想。かわいそうだわ。長政さまは、市の事を分かっていたけれど...貴女のことは、わからなかったのね」
ああ。なんということだ。わたしは彼女が妖婦であると、知っていた筈なのに。
市はわたしの唇に指を添えて、そして自身の紅を引いた。彼女の好きな色が、彼女の好みの桃色が、わたしの肌に乗る。
わたしはとうの昔に、毒牙に掛かっていた。彼女の思うままに変わって、望んだ姿で手中に落ちていたのだと。今になってやっと気が付いた。
わたしの言葉は自分のものではない。
長政さまならば。長政さまであれば。────いつからか、それだけになっていた。わたしの自意識は薄れ、借り物のただしさがそこにある。
長政さまは、他でも無いわたしに任せてくれたというのに。
「でも、ね。貴女は、市のものね。長政さまが、市にくれたんだわ」
泣いてばかりだったお市様は、ほんのりと頬を紅色に染めた。嬉しそうに哀しそうに、壊れた心で憐れな浪人を慈しんでいる。
瞳に映るのは、私か。私の中にある、長政さまの面影か。もはや、わたしには分からないことだった。
「貴女は長政さまと一緒に。市を、正しい方へ連れて行ってくれるのでしょう」
そうだ。それだけはきっと、正しい。わたしはその為に、正義を成すために。
死に損ねて、此処に居るのだから。
長政さまの正しさは人を救うけれど、長政さまに救われた人は長政さまが生きて導いてくれないと生きて行けないと思う。