言葉に形は無いけれど
困った事になった。
わたしは机の上に広げられた書状を見て、思わずしかめ面を浮かべてしまう。別に手紙が嫌いとか、くれた人が好きではないとか、そういう訳ではない。
これはわたしを囲い、安芸に置いて下さっている元就さん────毛利元就さんが直々にお書きになられた書状である。その本文が恐ろしく冗長なのは明白であり、一目見て“長ったらしい”と申し訳ないが思ってしまった。
しかし、問題なのはそんなことではない。
「令...可...?せしめるべき?何を?」
わたしは文盲なのである。
文盲。文字が読めない事。別に、日本語が分からない訳じゃないのだ。ただ、この戦国時代に於ける書き言葉────漢文混じりの古文書が読めないのである。
それも当然と言えば当然。わたしは現代社会から突如この戦国に飛ばされた令和の人間であった。
▽
訳が分からないまま厳島に垂直落下して、自重を無視し空から良い感じに舞い降りてしまった哀れな女。
それが、わたしというタイムトリップしてきた現代人である。
そんなわたしを、毛利元就さんは巫女として奉りこの安芸に置いてくれていた。
しかし文字が読めない、社会常識も持たない、元就さんの話し言葉すらたまに意味分からない。
そんな女に思う所はかなり有ったらしく、ある日の元就さんは言った。
「勉学に励めとは言わぬ。然し、何もせずのうのうと過ごせるとは思うな」
「ええっと、それって...?」
「言うた通りの意味ぞ。無学な女を囲う程、我は暇ではない」
危惧していた事態が起きた。
自分は使い道の無い、非常に無能なただの娘。遂に城を追い出されるか、或いは戦に出されて戦巫女として采配を振らされる日が来たかと、わたしは来るべき処遇を考え遠くを見る。
「使えぬ女よ」と元就さんは常日頃わたしに吐き捨てており、捨て駒として打ち棄てられるのも世の理であろう。寧ろ今まで囲って貰っていたのが奇跡に等しい。
だが、ここで放り出されようと今まで大変世話になっていたのは事実で、わたしは深く元就さんに感謝している。
飢饉だとか、領土争いだとか、日々を生きることすら大変な世の中である中で、こうして穏やかに暮らしていた事が幸運過ぎたのだ。そう思うと、感謝こそあれ恨み言など一つもない。
安芸に陽射す日輪のように晴れやかな心地で、わたしは別れの言葉を述べた。
「わかりました。今まで、ありがとうございました」
深々頭を下げれば、元就さんが同じくらい深く溜息を吐いた息遣いが聞こえる。表情を伺うことは出来ないが、どうやら酷く呆れている様子だった。
「貴様は愚かだな」
愚かであったから、暇を出されているのは承知の上である。元就さんはわたしに面を上げさせると、大変渋い顔で此方を見ていた。
彼は表情の変化に乏しい風に見えるが、よくお顔を拝見するとそうでもない事が分かる。努めて動かないように徹しているだけで、本来そこまで非情で心無い人物ではないのだと、わたしはそう感じていた。
愚かという言葉も、帳面通りの嘲りではない...ように思った。
そして言外に、わたしが浅慮だと責めているような語り口である。何か間違えた選択をしたかと首を捻れば、焦れたように元就さんが正解を提示した。
「誰も、そなたに野垂れ死ねなどとは言っておらぬであろう」
「つまり?」
「...せめて文の一つや二つ、読めるようになれと言うておるのだ」
「......文?文って、手紙ですか?」
「他に何がある」
わたしは放逐されると早合点していたが、元就さんにそのつもりは無かったらしい。
「手配する故、手習をせよ」
手習い。文字を習うこと。つまり、習字である。
そういえば以前に筆と硯と墨は頂いていたな、とわたしは思い出す。特に書くことが無いので箪笥に仕舞われたままであったが、あれは非常に遠回しな習字をしろとの提案だったのかも知れない。
思い当たることがあった、という顔を隠しもしないわたしに、元就さんは冷ややかな視線を向けた。
どうやら、直接言わないと伝わらないことに呆れているらしい。或いは全て顔に出てしまう愚直さか。もしくは、その両方にだったかも。
「我とて常に居城に構えておる訳ではない。時に、この安芸を留守にすることも有るだろう」
一国のお殿様であれば、そういう時もあるだろう。
現に、元就さんは殆どこの安芸の居城と厳島を往復して過ごしてらっしゃるが、戦の渦中などは城を空けられる。
大抵は短い期間で、流れるような手腕で戦を制されると聞き及んでいるが、当人や家臣から詳細を聞く事は無いので細かい事情は知らなかった。
元就さんがそう言うのであれば、そうなのだろうという認識である。
しかし、なぜ突然そんな話を?
わたしは会話の前後関係が掴めず、首を傾げる。
元就さんは強く此方を睨み付けたと思うと、「阿保が。少しは頭を使え」と吐き捨てて、そして少し思案してから告げた。
「...貴様を戦場に立たせたとて、矢避けにもならぬ。故、連れて行く事は無い。己が領分を弁え、精々努めよ」
なるほど?
▽
そう言ってすぐ、元就さまは安芸を離れられた。
何をしているのか特に説明が無いのはいつもの事だった。ただ今回は「暫し居らぬ」と仰られたので、わたしは珍しく見送りに参列し、手を振って送ったのである。
毛利家臣の皆さんのハラハラした雰囲気を感じていたが、元就さんは声を掛けた程度でお怒りになるほどではないので大丈夫だ。
「いえ、それは巫女殿だからですよ...」と家臣団は言うが、またまたあ

普段と違うのは、思ったよりも長く居ない事である。今迄も居城を留守にすることは度々あったが、暫し居ないとの宣言通り、本当に暫くお戻りになられないらしい。
「なるほど!それで手紙か!」
わたしはやっと一つ、腑に落ちた。
元就さんは度々わたしに何かを命じる事があったが、今回の件は割と唐突で、強引だったとはなんとなく思っていたのだ。
“暫く帰って来ないから、手紙を送るね。だから読めるように勉強もして欲しいな”
たったそれだけのことだったのだ。回りくどく言わずとも、そう普通に言ってくれたらいいのに。
そして前述へと話が戻る。家臣の方が届けてくれた書状を前に、わたしは大いに頭を悩ませる次第となった。
手習をし始めたとはいえ、文盲に毛が生えた程度の教養である。現代での義務教育という下地こそあれ、急に古典を履修した所ですぐに読み解ける訳も無い。
だが幸いな事に、元就さんはわたしが阿呆であることを重々承知の上で手紙を認めている様子である。
というのも、送られて来た文書は草書や行書の走り書きでは無く、かなり現代文化に近い書き方────ほとんど楷書に近い文字で記されていたからだ。
わたしは元就さんのこういった細やかな優しさが好きだったが、それはそれとして恐ろしく長い手紙は見ているだけで気が触れそうである。
わたしは手習の師を命じられている家臣の方────赤川さんを手招いて、「あのう、お願いしたい事が」と小さく言った。
「お手紙を書こうと思いまして。先日、元就さんが習字しろって仰っていたでしょう。多分、いま手紙欲しいって事だと思うんですけど...どうでしょうか?」
赤川さんは元就さん曰く、“優秀な捨て駒”だ。
普段は元就さまの御側衆として働いておられるのだが、この度なぜかわたしの習字の師として居城に残る事を命じられている。
そう評される理由もわたしには分かる。
今の質問はかなり答え辛い内容だったが、赤川さんは「左様で」と即答をし、予め用意していたらしい返信用の文を持って来ていたからだ。
わたしは元就さんの手紙をひとつずつ読み解いて、読めない所は飛ばしつつも内容を噛み砕いて行く。
わたし。わたしの名前だ。仍如件...これはなんだろうか。よってくだんのごとし。
これは一体と赤川さんをチラリと見遣れば「前述の通りだと仰っておられます」と補足が入る。前の文が理解出来なければ、意味の通らない文章だったようだ。
非常に長い時間をかけて、逐一赤川さんに解説とフォローを入れて貰いながらわたしは文を読んでいく。もはや読むではなく聞くではあったが、牛歩でありつつも確実に書状を解いて行った。
そしてやっと、全文が明かされる。頂いた手紙の横に、わたしの現代語訳が並ぶ。
“先日告げた通り、我は暫し不在にする。
その間そなたは習字を納め、最低限の読み書き程度は出来るように努めよ。
またこの書状に対して、右筆を依頼してはならぬ。貴様が必ず筆を取り、返信を寄越せ。
言うまでも無い事だが、見るに堪えぬものは書くな。読むのは我ぞ。分かっておろうな“
文章上でも元就さんは高圧的である。
わたしは戦国時代の言語表現でここまで圧を出せるのは一種の才能だと、斜め上の関心を向けた。令...命令する時に使う表現と、可...そうするべきだと言い切りの言葉が多いから、すごく示威的なのだと分析する。
つまりわたしが人に手紙を出すならば、こういった表現は避けるべきだと反面教師の例文として大変に参考になった。
「ええっと... 連々...申...うけたまわり...の、條...さいひつ...そうろう... 恐々謹言」
再筆候。手紙が来たら、言われた通りに筆を取ります。恐縮ですが、よろしくお願いします。書きたい内容はこうである。
合っていますか?と恐る恐る赤川さんを見れば、「概ね合っておりまする」と複雑な顔をしていた。わたしはなんで?と思ったが、まあいいかとサラサラ書いて行く。
しかし困ったことになった。業務連絡のような、つまらない手紙が作成されたのである。
生真面目な元就さんこそ、そういう手紙を書きそうなものであるが、案外あちらの書く文章はそうでもない。頭が良い人間というのは、形式ばった文章にも用いる言葉のセンスが出るのであろう。
毛利元就は連歌の名手だったと聞いた事があったし、元から得意分野なのかもしれなかった。学の足りない下手な物言いをすれば、後から言及されるかもしれない。
因みにであるが、連歌というのは詠み手を順番に交代し、繋げて詠む和歌のことだ。暴言の禁じられたラップバトルだとか、リレー創作みたいなものと思って構わない。
わたしは困って、めばるの絵を描く。今朝は豊漁で、季節の変わり目を感じるのだと下女が言っていた。安芸に居られない元就さんにも、春のお裾分けである。
喜ぶかどうかは微妙な所だが、元就さんは地元が大好きであるから、まあ悪い気はしないだろう。
不格好だし自分で書いた内容が理解し切れないしで大変な手紙だったが、一応は形となった。わたしはそれを赤川さんに渡して、遠い地で軍略に励む元就さんに想いを馳せる。
たまにはこんな日も悪くない。
▽
先日の手紙を出した後に知ったが、あれは自ら手紙をおねだりするような表現だったらしい。
思っていたより早く届いた長い手紙を見て、わたしは「しくじったか?」と内心で冷や汗を書く。
元就さんは些細な事で怒るような人でも無いが、わたしが想定を超えて思いっきり失敗した時────着物の裾を踏み付けて池に頭から突っ込んだ際などは、一日中顔を合わせる度に文句を言っていた。
何か気を損ねる内容...具体的に言うと、元就さんの意向を無視して催促するような内容を書いてしまったこととか。
それで大変に機嫌を損ねて、凄い速さで咎めの書状が届いた可能性も否めない。だって、この手紙は早馬でやって来たから。
怖がりながらも恐る恐る紙を広げ、現代人からすれば古文書にしか見えない現代文を読み解いていく。
並んだ几帳面な字は見慣れたもので、さらさらと滑るように綴られたのが見て取れる。迷いのない筆跡であるとわたしは感じた。
まず、ひとつめ。
“継続し筆を取るのは言わずとも当然よ。
我がわざわざ貴様宛てに文を書きしたためておると言うのに、踏み倒すなど有り得ぬ。今後も疾く返信をせよ“
どうやら怒っては居ないらしい。
前回送った内容…手紙が来たら返信をする旨に対する答えであった。元就さんは非常に高圧的な返答をして来たが、今後も継続して筆を取ってくださる様子である。
古文書を今後も読むことは億劫であるのだが、元就さんが手紙をくれると言うのは嬉しい申し出だった。
きっと鬱陶しがるだろうから言わないけれど、完全に交流がないまま何ヶ月も過ごすのは寂しいと感じるし。
ふたつめ。
“覚束ない稚児のような悪筆であるが、読めぬ程ではない。然し、貴様は口頭では小煩く喧しい娘であるのに、文面では突然しおらしく、それが非常に不気味ぞ。”
言い草が酷くて思わずわたしは笑ってしまった。気を遣って形式ばった文章を作成したと言うのに、元就さんはそれが不服らしい。
続けて、こうも書かれている。
“我が今更貴様の粗相に目くじらを立てると思うてか?
だとすれば、それは思い上がりよ。手紙くらい好きに書けば良かろう”
目くじらを立てる。あまり元就さんが好むとも思えない言語表現である。敢えてそれを使う理由があるとすれば、わたしが海産物をもじった表現を好むからだろう。
言い方の強い命令文ばかりであるのに、こういう細やかな部分で此方への慮りを感じるのだ。
わたしは前述の文章に、素直に“うれしいです“と返すことを決める。喜ばしいことは、なんと書けばいいのであったか。
嬉しくって、今すぐハグでもしちゃいたい気分!...そのような表現を何処かで見たような。
「ええっと…うれしいから、やがて参りさうらうて、くちをすい可もうし候…」
さらさらと筆を滑らせて、大体こう言う風だったとうろ覚えの言葉を書いていく。元就さんが自由に書けと言ったのだから、こちらも聞き齧った言葉をつらつらと書いていった。
間違っていれば、恐らく元就さんは修正をくれるはずだ。“今後赤川を挟むな”とわざわざ書き加えてあるのだから、手ずから教えをくれるつもりだろうとわたしは考えている。
そうして手紙を書き切った後、空いたスペースにマイワシの絵を描いた。
安芸の夏を、元就さんにも伝えたかったからだ。
▽
安芸に日射す陽気は涼やかになって来て、マイワシからカタクチコイワシが旬となるような初秋が訪れていた。
わたしは朝食として用意された目刺しを箸でほぐし、不自然に開けられた上座を見遣る。
座するべき主人の居ない部屋が寒々しく感じるのは、夏が終わったからというだけでは無いはずだ。
わたしの部屋は元就さんの寝室とやや近い場所に用意されている。
元就さんは必ず早朝に起きて日輪を拝み瞑想をするのでで、巫女としての地位を与えられたわたしも元就さんが叩き起こしやすい場所を定位置として定められているという訳だ。
やっていた当人は今留守にしておられるけれど、それなりの期間行ってきた慣習というのは中々抜けないものである。
わたしは日の出と共に起床し、立ち入りを許された天守閣から空と海を仰ぎ見て、生まれ育った時代とそう変わらない覚めるような青を見る。
そうして今日も明日も安芸と元就さんに日輪の加護あれと、あと瀬戸内の魚介にも太陽の恵みあれと、そう願って一日を始めるのだった。
「巫女殿、元就様から書状が届いております」
部屋に戻るわたしを呼び止めたのは、赤川さんである。
もう随分前に手習いの師としての役目から解放された身であるが、彼は変わらずこの居城に在住しているのでわたしと顔を合わせる機会も多い。
手紙は嬉しくはあるが、少しだけ物足りない気持ちでそれを受け取って、わたしは自室へと引っ込んだ。部屋には数点の調度品と、元就さんの手紙が大切に収められた飾り箱があるばかり。
なんてこともないそれも何処か寂しげに映る。秋はなんだか、物哀しいのかもしれない。
紙を広げて、ひとつずつ解していく。
今回は開けた瞬間に力強い文字が目に入った。読み取れる感情は怒りだろうか。
わたしは首を傾げて、なぜ怒っているのかを考えた。珍しく感情的に跳ねている文字を指でなぞって、漸くその理由に辿り着く。
“斯様な品も教養も無い文句を、貴様は何処で覚えた。まさかとは思うが、他者へ申してはおらぬだろうな。
即刻あの文言を忘れ、毛利の女として相応しい言葉を身につけよ。
好きにしろとは書いたが、ふざけた物言いをしろとは言ってはおらぬ。だから貴様は愚かだと言うのだ。
第一、安芸から出るなど片腹痛いわ。犬死にするだけぞ。無駄な考えは止めよ、わかったな。
また、あれを貴様に吹き込んだ者の名を吐け。それなりの処遇を与える必要がある。
庇えばどうなるかは、貴様の足りぬ頭でも理解に及ぶであろう”
よく読まずとも、大変な長文で元就さんはキレていた。細部まで言及し、とても目くじらを立てている。
どうやら前回送った、‘’今すぐ会いに行って、キスしちゃいたい‘’という豊臣秀吉の用いたとされる文章表現が気に障ったらしい。変に捻らず、嬉しくて飛び上がる心地だと素直に書いた方が良かったようだ。
元就さんに次会うときは、この件を酷く絞られることだろう。今から少し頭が痛くなって来たが、怒られるのも当人が居てこそだ。
素直に聞き入れ、甘んじてお叱りを頂くこととしよう。
わたしは笑みをこぼし、続きの文章を読む。
大部分が説教であったが、その随所随所にはわたしの綴った日常への返答がある。元就さんは一貫して、戦況などを此方に述べはしなかった。
しかし今回は事情は違ったらしい。此度の手紙にはあまり喜べない近況が書かれていた。読み進める程に、なぞる指が段々と重くなっていく。
そしてわたしは最後の文を目にして、息が詰まった。
“大事ないか”
簡潔だったが、迷いのある筆跡である。珍しく文字の書き始めが掠れており、わたしはそのお心を少しだけ察することが出来た。
恐らく紙の上で筆を構えて、何を書こうか────いや、そうではない。この問い掛けを書くか悩んで、墨を乾かしてしまったのだ。
率直に、元就さんらしくない文字だと思った。
こちらこそが本当のお顔なのかもしれないが、わたしに其方を見せないよう努めておられる以上は“らしくない”と言う他あるまい。
その御心に暖かさを覚えるも、胸に暗雲が立ち込める。急に、此方を慮るようなことを仰られるから。そこから彼の弱さを見てしまったから。
わたしは怖くなったのだ。元就さんはいつだって揺らがないから、有りもしない絶対を信じられていたのに。きっと無事に帰城なされて、わたしに小言を幾つも浴びせるのだと。
そう愚かしく信じられていたのに。
酷く吹き荒ぶ空は、夏が終わった事を示していた。
▽
元就さんは近く帰城すると述べていたが、戦況が芳しくないのだという。未だ帰らない城主は、負け戦で何を思ったか。
浅学なわたしでも理解に及ぶ。戦国というのは、はざまだ。情勢が苛烈に移り変わる、時代の節目。自分が未来から来た所で元就さんは変わらない。世界も変わらない。
ただうつろう季節に取り残されて、筆を取って悶々と悩む日が続くだけだった。
わたしは悩んで、筆を取る。
胸を刺す痛みは、知っていたのに知らないふりをしていた罰でもあった。
「...御心易かるべく候」
おこころやすかるべくそうろう。心配は要りません、だ。
わたしは内心堪らなかったけれど、そう書き留めた。前線で忙しくしている元就さんに、心労をお掛けしたく無かったからである。
「巫女様、それは...」
下女はわたしを咎めた。しかし其れには首を振って、これで良いと言外に答える。
元就さんと会わない日は度々あったけれど、それが季節ふたつ分ともなると心落ち着かなくもなるもので、この頃にはわたしも心身が弱って来ていた。
冷え込む夜半は気持ちも消極的にさせる。魚介を摘む箸もなんだか進まなくて、最近は義務のように食事をしていた。
心配した下女達が白身魚ばかりをわたしの膳に持つが、それを見てもっと淋しくなる。だって白身魚を特に好んでいたのは元就さんだった。
彼はそんなことを言わなかったけれど、共に食事をしていたわたしはなんとなく分かっている。
目を閉じれば、静かに一言「鯛か」と呟く声が、何を言われたか理解出来ないまま、脊髄反射で返答をする己の声が、昨日の事のように思い出せた。
▽
「鯛か」
ある日のことである。元就さんは、運ばれて来た朝食を見てそう言った。
普段は特に言葉も無く、静かに手を合わせてすぐ食べ始められるので、わたしは少々面食らう。あまり食事にコメントなされることが無いからだ。
たまにわたしの膳を指差し下げるよう命ぜられるし、先日も同様の事態が起きていたけれど、それについては言及しないようにしていた。
そのあと下女が減ったり守衛が減ったりもするが、わたしは全てを見なかったことにしている。
「一番美味しい季節ですね」
わたしは戸惑いながらもそう返す。鯛の旬は三月頃であるから、旧暦だと新暦とのズレも加味して卯月頃が旬である。
元就さんは此方の無駄口に返答をしないこともままあるので、これで会話は終わりだろうとわたしも手を合わせた。
そして箸を持とうと手を伸ばした矢先、「左様」と内心の伺えない声が掛かる。思わず手を彷徨わせて、元就さんを見た。
「そなたは物を知らぬが、馬鹿ではないな」
そう呟いて、今度こそ箸を手に取った。
それは先日の一件についてか、今の受け答えについてか。少し思案するも、両方と取るのが正しい、或いは言及しないことが正解だろうと結論を出した。
深く考えないことにして、小鉢に手を伸ばす。わたしは刺身が好きなので、すぐに食べてしまいたい派であった。
好きな物を後に残す派などが世には居るし、その考えもわかるけれど、魚は絶対に早く食べた方が美味しいからである。
そしてふと、先程の言葉が小骨のように刺さった。
なんとなく気になって、横目で元就さんを見やる。元就さんは、なんとわたしと同じように小鉢をお手に取られた。
普段は汁や煮物などの温物から手を付けられる元就さんが、玄米に温物を掛けて食すという戦国セオリーを無視して温物から食すあの元就さんが、まずワサビ酢の入った小鉢を手に取ったのである。
刺身と共に口に入れられがちな玄米でもなく、酢の皿。鯛を味わい食すという気概が佇まいから感じられる。
よくよく思い返してみれば、食卓はサッパの酢漬け...なますである。そういう料理が主菜の他に、小鉢として普通に出て来るなとは思っていた。
元就さんは酒を全く嗜まれないし、この時代は一菜が標準であるのに。
「元就さんって、お好きなんですね。白身魚」
好きな物を最初に食すことは、実に合理的で理に適った行いである。
わたしも同じ派閥だと笑って言えば、鋭く睨み付けられた。しかしそこに敵意などは無く、感じ取れるのは居心地の悪さか。
「...黙っておれば良いものを。ほんに愚かぞ」
元就さんは呆れてそう言った。彼はわたしに愚かと言うが、馬鹿だとは決して言わなかった。
▽
わたしは静かに目を開ける。微睡の中で、過ぎた季節を思い出していた。
机上には硯と、その上に掛けられた筆がてらてらと墨の色を反射する。しかし既に大部分が乾いているようで、わたしは随分気を抜いてしまっていたらしい。
春はめばるに雪解けを感じ入り、夏は入梅のうろこに日差しを見る。秋は鰯で生命の一巡を祝い、冬はあなごを米に炊き込み春を待つ。
それらは全て、元就さんと分け合った季節だった。
元就さんと話すのは魚のことばかりであったが、わたしの持つ知識で通ずるのがその程度であったからというだけ。
彼はわたしが物を知らぬ女だと分かっておられたから。先の世から来た小娘が、それだけしか持たぬと知っておられた故、敢えて乗っていてくれただけという話である。
わたしは座り直して、墨を擦った。掠れた筆跡などを見せては、元就さんにどう思われるか分からないからである。
だらしないと思われるだけならば良いが、きっとそうではない。人心掌握に優れた智将はわたしの精神状態をすぐに見抜くだろう。わたし如きですら、それが分かるのだから。
なれば、まともな字を書かねばなるまい。
擦り終わった墨に、筆先を倒して吸わせて行く。わたしは迷いなく一画目に点を打って、そのままサラサラと手紙の続きを書いた。
「...互いに露命つつがなく候わば、再び顔眉を開らき申すべく...」
心配は要らない。生きていれば、また会えるでしょう。
可愛くない女だと彼は思うだろうか。きっと、そうではない。わたしは元就さんが仰る通り、馬鹿ではない女だ。
馬鹿ではないから、最善を選んだことをお気付きになるだろう。そう振る舞えるだけの余裕があると、彼は見てくれる筈だ。
わたしが彼を知るように。元就さんもまた、わたしの狡猾さを────彼が望むように振る舞う、針魚のようなわたしのことを知っている。
腹を割けば黒い腑が流れ出る、愚かなわたしを。彼はきっと、分かっておられる筈だから。
▽
元就さんが帰って来たのは、晩秋の頃である。
わたしは帰城する彼を門前で迎えようと日取りを何度も確認したのだが、元就さんはサッサと帰還して、そのまま特に会話もせずに部屋に篭ってしまった。
会いたかったのは自分だけだったのかと酷く落胆したものの、それは早計であるとわたしは理解する。
元就さんは直接顔を出さなかったが、短文がしたためられた走り書きを何度もお送りになったからだ。そこには此方を慮るような内容と、自身の近情が簡潔に記されていた。
あの冗長で几帳面で無駄を嫌う元就さんが、草書の短文を何度も出す。同じ城内に居るのに。
それだけで、現在彼が大変に忙しいことはわたしにも分かった。畏まった文面を書く時間が惜しい程お忙しいのに、わたしに気を割いて下さっていることも。
“さびしいから会いたい”など、今は言えることではない。
それでもやっぱり一人で食べる食事は味気ないし、一人で見上げる日輪も何処か色褪せている。
しかしわたしが出来ることなどは一つも無いので、ただやって来る短文を読んで嬉しくなった後に、末尾に記された“不再筆“の文字を見てそれ以上に落ち込むだけであった。
せめて、返信を書かせてくれたらいいのに。
それでもいつか、日常は戻るだろう。
わたしは元就さんに何かを言うこともなく、漠然とそう思って日々を浪費していた。
だがそれは安易な考えだったようで、元就さんは碌に顔も合わせないまま、再び城を出るのだという。
下女からそれを聞かされたわたしは、内心で激しく狼狽する。元就さんは酷いお人で、帰城の迎えはさせてくれなかったというのに、出立なさる今は顔を見せに来いと言うのだった。
「我は直ぐに発つ。何か、申す事はあるか」
元々痩せておられたというのに、最近は部屋で筆を取ってばかりだから、益々細くなられたように思う。
わたしは久々に見た元就さんを前に、何を言うべきかと考えた。あまり、長い口上は好まれない。縋るような物言いは、知性に欠ける。引き留めるのは、最も良くない。しかし能天気な笑顔で見送れば、元就さんは機嫌を損ねるかもしれない。
「ええっと...その」
結局何を言うか悩んで、取り留めのない言葉が口を出た。元就さんはそれを見て、少し呆れた風だった。
何を言うか決まっていないのに、とりあえずと話始めた愚か者なのだから当然である。
帰って来たばかりだと言うのに、満身創痍の城主はすぐに安芸を発とうとする。それがやはり寂しい。
未だ敗戦処理などに追われているようで、直ぐにでも会合が開かれるのだと噂で聞いた。
「よい。要件ならば、文を以て」
元就さんはそのように仰った。わたしはそれを聞いて、思わず袖を掴んでしまう。
そうして感情を抑えられないまま、愚かにも思った事を口にしてしまった。
「お手紙も嬉しいですよ。...でも、」
わたしは何か気の利いた事を言うべきだったのに、本音をこぼしてしまったのだ。
「...お話し出来た方が、嬉しいです」
わたしは思わず、そう呟く。
自分で言って、ハッとする。拗ねた子供のような甘えたことを言ってしまった。元就さんもそんなわたしに、酷く呆れた顔をしている事だろう。
いや、違う。わたしは今、なんと。
元就さんに────この安芸の国主、毛利元就さまに、なにを申し上げたか?
わたしは背中に冷たい汗が流れるのを感じる。氷のように強張った指が、死んだ様に固くなる。
──────彼の行う内政に、踏み入らず踏み込まず。必ずそれを守っていたから、此処に居ることを許されていた。今のは明らかに、境界線を越えた行いだった。
指先は震えず、静止している。恐れを彼に見せれば、元就さんはわたしを見離すかもしれない。
彼が欲するのは家畜生のような馬鹿ではない。耳を塞ぎ目を塞ぎ、安芸の平和を象徴する様な、日和見主義の愚か者。誰が見ても分かるような、白魚の手の深層の娘だ。
わたしはそうあれと望まれて、そうあった。
「...我に意見をするか」
感情の読めない声だった。わたしは首を下げるばかりで、彼を見ることが出来ない。
それが気に障ったらしく、元就さんは「面をあげよ」と仰られた。ぎこちなく顔を持ち上げれば、その瞳は、存外────。
「そなたは文字が読めなければ、道理も通じぬ。何処まで愚かしくあれば気が済むのであろうな」
予想通り元就さんはわたしを強い言葉で糾弾する。しかし、その顔は思ったよりも侮蔑の滲んだものではなかった。
それどころか、少し困っているような。眉間に寄せた皺は普段と変わりないけれど、僅かに窺える感情は苛立ちの物では無い。
彼はわたしの弱音に対して、戸惑っているような様子に見えた。
「...心配要らぬと申しておったではないか」
元就さんは、そんな風に恨み口を叩いた。
そうして戸惑いがちな指がわたしの頬を攫って、口を吸われる。ちゅーである。
「そなたが申したのであろう。次会う時は、斯様にと」
そうしてふいと明後日の方向を見られた。
伺える耳は薄く色付き、慣れない気障な立ち振る舞いに照れておられるようであった。
わたしは含み笑いを堪えて背を追うが、結局笑顔を抑えられず、歯を見せて後ろに付く。
元就さんがわたしの手紙を大切に読んでくれていたことだとか、その内容を覚えていてくださることだとか、以前頂いたお叱りは不快ゆえでなく照れておられたのかとか、色々な事が胸中を巡る。
しかし、一番強い感情は一つ。
今この心中を表す言葉は────正しく、再びくちをすい可もうし候...もう一回、キスしちゃいたいというやつだった。
▽
それから元就さんはすぐに帰城した。予定よりもずっと早く、手紙の一通も届かない程に早く。
書くだけ書いてはいた様子なのだが、結局出さずに帰って来たらしい。「早馬より、我が駆ける方が早い」との事だった。
元就さんらしくない冗談でわたしは笑ってしまったが、家臣曰く「本当ですよ」らしい。...流石に、馬より早い人間なんて居ないだろう。みんなでわたしを謀っているのだろうか?
そしてわたしに手紙を書くことは極力せず、以前のように口頭で呼び出すようになった。
それはそれとして、空いた時間でわたしに文字を教え、自分がよく用いる文法表現を順に書かせている。時には手を取り、筆使いを正す事すらもあった。
他の人から手紙を受け取れば、きっとわたしは読めないだろう。
だけれど、元就さんの筆跡と、癖。それから好まれる言い回し。その類いはあらかた教えて頂いたので、いつの日か手紙を受け取れば、以前の様に気が重くなることもない。
わたしは彼の言葉を識ったから、理解が出来る。込められた想いを、伝えたい言葉を、ほんの少しだけ知ることが出来る。
寧ろ、元就さんが手紙をくださる日が今から楽しみですらあった。
彼は口頭でも文面上でも非常に手厳しいが、お書きになる手紙は確かな優しさを感じる。未だ読み書きの覚束ないわたしの為に、丁寧に楷書で認めて下さるからだった。
言葉に形はない。無いけれど、文字には心が表れる。込められた想いを指でなぞれば、その胸中を少しだけ図り察することが出来る。
元就さんは常日頃、“己を理解するのは己だけ”と仰っておられたし、わたしもその通りだと思っている。人は本質的に、他者を分かることなど出来やしないから。
だが、わたしは浅ましくも、一つだけ明確に理解していると自負があった。
元就さんは“即刻止めよ”と恋文を嫌ったが、その実おそらく満更ではないのだと。
不審者として捕縛された際、駆け引きなど全く出来ず、知り得る限りの歴史を喋り切ってしまったわたしを、元就さんは殺さずに生かしてくれている。
先知など持たない。巫女としての価値など無い。元就さんは「先の世を識るのであれば、使い道もあろう」とわたしを評するが、全く役に立っていないことを自分自身が分からない筈もない。
赦された理由を、愚かな私は知っている。
「立て」
回想に耽るわたしを元就さんは短く呼んだ。筆を置いて、下女に目配せをする。歩き出す背中を見ながら、一歩下がって付いていった。
こういう時は大抵「ついて来い」という意味合いであるとわたしは学習している。微笑みながら歩いていれば、不意に元就さんは立ち止まった。
「我は忙しい。それはそなたも分かっておろうな」
「は、はい。それは勿論」
「ならば良い。横を歩け」
元就さんは眉間に皺を寄せて、少しだけ言いあぐねて、こう言った。
「...我に、声を張らせる気か?」
それは────それは。
説明するのも野暮だった。それくらい、どうしようもない親愛の言葉である。
わたしは堪らなくなって、元就さんに飛び付く。
「離れよ。鬱陶しい」
そうは言うが、引き剥がす様子はない。わたしも特に離れる気は無いので、腕に纏わりついたまま歩き出した。
そうして許された通りに、おしゃべりをする。
冬はガザミが旬だからカニ鍋はどうだとか。長門国はフグが名産だから、禁忌を破って密食したいところだとか。大阪じゃずっと前から禁食で、人生損してるよねだとか。くだらない話題に元就さんは耳を傾ける。
会えない間に積もった話が沢山あるのだ。
元就さんは和歌が達者だと言うから、コソ練だってして来たのだ。普段わたしに合わせて魚の話ばかりしているから、今度は元就さんの好きそうな分野もリサーチしてきた次第である。
河豚もどき、鯒をフグとは片腹痛い────痛!わたしの足が踏み付けられた。
あまりの才能溢れる連歌の予感に、元就さんも嫉妬したのかもしれない。
「詠むに堪えん。もう少しまともな歌を詠め」
そう言う横顔は、非常に柔らかく見えた。
というか、詠むに堪えないと言ったか。それはつまり、詠むに値するならば返歌をくださるということである。わたしは嬉しくなって、今決めた今後の予定を発表する。
「次は、和歌の勉強ですね。全然詠めないし、たくさん学ばないと。
やっぱり歌の一つ二つは嗜めないと、格好が付きませんから」
部屋の前で足が止まった。元就さんはお忙しいから、今日は此処で雑談も仕舞いである。
わたしは離れようとするが、元就さんはじっと此方を見ている。何かを申し付けるような雰囲気であったから、その場で留まって彼を見上げた。
「貴様は無知ゆえ、勉学に励むのは当然ぞ。 ...だが、その勤勉さは褒めてやる。今後もよく努めるがよかろう」
驚いたわたしの身体が大きく揺れる。
絡み付いた袖に伝わって元就さんも揺れるので、彼は「止めよ」と煩わしげに此方を見た。強く諌めないのは、ご自身がらしくないことを何度も言った自覚があるからだ。
此処で引っ込めては、余計に恥と考えているに違いない。
文通が無ければ、わたしは調子に乗らなかっただろう。そうして口を滑らせなければ、こんな風に甘えることも、甘やかされることも無かった筈だ。
形無いものを伝える為に言葉があって、文字はある。手紙はわたしたちに、心を伝えてくれたのだった。
わたしは元就さんが好きだ。元就さんも、大なり小なり、きっと同じように思っている。
全部なんて知らなくて良いけど。それだけ分かれば、十分だろう。