時至りなば眦を決せよおとめ


「おどろいたな。これほど私好みの尼さんがいるとは」
 思わず手から取り落とした箒が、音を立てて地面を転がった。吐くはずの空気を吸ってしまい、腹のなかが引き攣りそうになる。金縛りにでも遭ったかのように指ひとつ動かせなかった。それでもかろうじて首だけで振り返れば、そこにはーー
「……おどろいたのはこちらの方です。とうとう私のところにもお迎えが来たのかとおもいましたよ、トシさん」
「気が早いな。見ての通り"俺"はまだやれるぞ」
 墓石が立ち並ぶ寂れた墓地で、幕末に死んだはずの男は悠々と佇んでいた。死霊の類かと一瞬疑うも、目の前の男はまぎれもない生気を纏っている。
 土方歳三。私の人生に消えない爪痕を残した男。恋と呼ぶには時間を経すぎているのに、それを愛と慈しめるほどに傷口が癒える日は一向に来なかった。とうとう行き場を失ったままの熱を持てあましながら、私はもう帰らない人の帰りを待ち続ける。そのはずだった。
 せめて記憶と寸分違わぬ姿ならば、化けて出たか、私の鬆の入った頭が見せた都合のいい幻覚だとわかるのに、目の前の彼はたしかに過ぎた年月ぶんの歳を取っている。日の光に透けるような見事な白髪、痩けた頬、風に靡く豊かな顎髭。どれもが見慣れず、しかし若き日々の面影を色濃く残している。なにより刀の切先の如く鋭い光を留めた目が、彼が誰であるかを雄弁に語っていた。
「ご無事でいらしたのですね」
「ああ。長らく樺戸監獄で幽閉されていた。その後網走を脱獄してきたがな」
 とんでもないことをさらりと告げながら、トシさんはふっと口元を緩めた。しかしそんな気が遠くなるほどに長い時間を苛酷な条件下に置かれていたとは感じられないほど、目の前の人は壮健としている。弓に張った弦のようにぴんと伸びた背筋も、不思議とよく通る声も、老年期に差し掛かりつつある私よりもさらにいくつか歳上には到底見えなかった。その腰にある和泉守兼定を見た途端、やっと鎮まりかけていた心臓がふたたび早鐘を打つ。
「35年か。随分と待たせてしまったな」
「待ちくたびれて、私はこんなしわしわのおばあちゃんになってしまいましたよ」
 トシさんが歳を取るように、私も歳を取った。一人の男に操を立てているうちに月のものは"あがって"しまったし、老眼は否応なしに進むし、手入れを欠かさなかった黒髪には白いものが目立つようになり、柔くふっくらとした手の甲には皺が刻まれた。けれど心の時間だけが止まった私は、体と心がちぐはぐなまま、気づけばここで何年も、何十年も。
「老けたのはお互い様だ。だが私は一目見てお前だとわかったぞ。私が見染めた気品は健在だ、名前」
「お口がうまいのは相変わらずですこと。この35年、一日たりとも欠かさずあなたのことを供養してきました。まさか生きてらしたとは、とんだ骨折り損になってしまいましたよ」
「知らぬところで念仏を唱えられていたとはな。残念ながら成仏できずにこうして戻ってきてしまったわけだが」
 ぴんぴんしている人間のため毎日熱心に経をあげていたことを思うと、なにもかもがおかしくて笑えてくる。同時に、この虚しくも穏やかな日々がようやく救われた気もしていた。
 函館戦争が終結しても、トシさんは帰ってこなかった。遺体さえも見つからなかった。時間が出口を見失い同じところをただ廻っていた私は、記憶を心の片隅にしまい込んでおくのではなく、せめてトシさんが人生の幕を閉じたという北の大地で、彼を弔う日々を選んだ。
「……待て、とは言わなかったつもりだが。土方歳三のお手つきだろうと、お前のような器量良しはすぐに次の相手が見つかっただろう」
「ええ。ですから女が独り身を貫くには出家くらいしか道が残ってなかったのですよ」
「私以上の男は見つからなかったか」
「わかりきったことをわざわざ言わせないでください」
 ああ、変わっていない。夢見る少年のように無邪気な笑みを浮かべるから、喉元まで出かかった諸々の言葉はたちまち遠のいて、ただ愛しさばかりが残される。人たらしとはまさしく彼のような人のことを指すのだろう。
 忘れられるわけがなかった。ただの一日たりとも忘れたことはなかった。

□□□

 あの頃はもう既に、世間には尊皇攘夷の風が吹き荒れつつあった。そして意思などおかまいなしに押し寄せる近代化の濁流に呑まれぬよう、新撰組も多くの血を流していた。
 激動の時代の狭間で、今まで疑いなく信じていたものが足元から崩れゆく感覚が絶えずつき纏う。それでも榎本武揚や土方歳三を筆頭する佐幕派はい幾つかの戦いを経ても尚、徳川幕府への忠義を貫こうとしていた。
 天井の染みをぼんやりと眺める。私自身もまさに時代の岐路に立っているのに、男女の房事だけはいつの時代も大差ないのだろうと妙な感慨に襲われる。あと数刻もして夜が明け朝が来れば、また激動の一日がはじまるのだが。
「散々頑張ってきたじゃありませんか。もしどこか遠くでのんびり暮らしたとしても、バチは当たらないと思いますよ」
 そう口にしてしまってから酷く後悔した。幕府と新政府、どちらの掲げる思想が正しいかなど、私にはわからない。だからこそ彼らの忠誠心を軽んじたとも捉えられかねない今の言い草は、男の裁量次第では咎められ切り捨てられてもおかしくない物言いであった。
「……申し訳ございません。私如きが口を挟むつもりは毛頭なかったのです。つい出過ぎたことを」
「よい。俺の身をなによりも案じてのことだとは知っている。時に国への忠をも凌ぐ、女の深い情は嫌いじゃない。男冥利に尽きるというものだ」
 妻でもない、それ以前になにか誓いを交わした恋仲ですらない女の失言にもさして気を害する様子もなく、トシさんは鷹揚に笑った。
 部屋の隅の行燈と、障子越しのわずかな月明かりだけが頼りの夜闇では、同衾する相手の顔がかろうじて見えるだけだ。
 強い意志を体現するかのような凛々しい眉の下、切長の瞳は情事の余韻を引いてか、わずかに欲望の熱をもって潤んでいる。すっと通った鼻梁と長い睫毛に、揺れる光がやわらかい陰影を描いていた。なんてうつくしい男だろう。惚れ惚れとしてしまう。この男に限っては天は二物を与えず、なんて諺は戯言に等しいのだとわかる。
「しかしなぁ、俺は戦と馬と女しか得意なものがない。そういう性分なのだ。悪いな」
 開き直っている内容は大概ろくでもないのに、嫌味など微塵も感じさせない、清冽な風が吹き抜けていくかのような爽やかな笑顔。鬼の副長などという異名に似つかわしくない愛嬌が、彼が男も女をも魅了してやまない所以なのだと思う。
「最後のひとつは聞かずとも知っています」
「そうだな。最後のひとつはお前の体が嫌というほど覚えているはずだ。なにしろ時間をかけて散々言い聞かせてきたからな。そうだろう? 名前」
「もう! お戯れはよして」
 彼と枕を共にするようになりしばらく経つ。この男の恋は猫に似ている。寂しい時にはふらりと寄ってくるけど、用がない時には見向きもしない。けれど例え限られた儚い夜であっても彼はまじりけない愛を惜しみ無く与えるから、女である私は離れがたいのだ。
 トシさんは接吻が上手い。彼以外、碌に男を知らない私ですらそれがわかる。一切の無駄がない動きで私に跨った男は、あやす様にうなじに口づけを落とす。そして脱力した一瞬の隙を見計らって、間髪入れず唇を塞いで舌を滑り込ませてくる。敷布団と素肌が擦れる感触に矯正が漏れた。いつもは刀を振るう逞しい手が、敏感な箇所を優しく摘む。情熱的だ。彼らしいとも思う。一度目の情交ですでに一糸纏わぬ姿へと剥かれていた私は、ただそれだけの刺激で、先ほど注ぎ込まれたばかりの熱がどっと下るのを感じた。
 このままではまた成り行きで二回目に持ち込まれてしまう。このまま身を委ねれば息も詰まるほどの快楽が約束させているけれど、あまりに彼の思うまま乱されるのもおもしろくない。弛緩した体で、逞しい鎖骨の窪みに指を這わせた。
「……トシさんをお慕いする女の方々から腐るほど貰っていらっしゃるでしょうから、まあ私もわざわざ改めて恋文など書きませんけども。目を通すのも骨が折れましょうし」
 そう告げれば「どこで聞いた?」と途端に渋い顔をしたトシさんに、こみ上げてきた笑いを噛み殺す。
「あら。どこでもなにも、沖田様や永倉様に散々ご自慢なさってたのではないですか?」
「あいつらよくも……」
 これほど女好きのする顔をしておいて、知らなかったでは許されまい。彼がこうしてぬくもりを分かち合う行為を殊更好んでおり、私以外にも懇ろな仲の女性がたくさんいることは周知の事実だった。それは祇園の高級遊女から、私のような羽振りの良い商屋の娘までさまざまだ。しかしちらつく女の影に嫉妬を覚えるどころか、トシさんにいれ込む他の女達の気持ちが痛いほどわかってしまうのだから尚のことたちが悪い。
 最後の女になりたい、なんて贅沢は言うつもりは毛頭なかった。この時代の寵児は、元より所帯に収まるような男ではない。武士の生き方への誇りに掛けて、剣を手に乗り戦場を駆け回るこの人を、どこかに縛って留めておくことなんてできやしないとわかっていた。私だけじゃない、おそらくどの女性でも。
「これだけは、できれば心に留めておいてください。どうか心のままに生きてくださいませ。トシさんの信ずるもののために戦ってください。それでトシさんの気が向いたとき、いつでもお顔を見せてくださいな」
 よほど意外であったのか、トシさんはぽかんと口を半開きにしたまま目を見開いた。質素な一室に沈黙が落ちる。いつも女などお手の物だという態度の彼にしては、珍しいことだ。そして次の瞬間には相好を崩すと、白い歯を見せてはにかんだ。
「お前はいい女だなぁ」
 寝乱れ髪を、大きな手がわしわしとかき回す。
 ……そんな動物を撫で回すような手つきで、とやや複雑な心境になるが、彼が根っからの馬愛好家であることを加味すれば、おそらく最大級の愛情表現なのだろうと思い直す。
 そして彼が「苦労して口説き落とした甲斐があった」なんて続けるものだから、ひっそりと唇を噛み俯いた。一度は遠かったはずの涙が、熱を取り戻す。
(ねぇ。本当はね、一目惚れだったの)
 土方歳三をはじめて見たとき、心の奥に火が灯ったのを感じた。はじめて肌を重ねた日、彼の目が私だけを見据え、彼の吐息が耳朶を掠めたとき、何を捧げても惜しくないほどに心が満たされた。トシさんは聡く優しい。この上なく男前だ。そんな男に、私はどうしようもなく惚れている。
 しかし私に残されたなけなし女の矜持が、それを告げることを許さなかった。

□□□

「気が向いたら立ち寄れと言いつけられていたのでな。北海道の寺にいるとは予想外だったが」
「まさかあのような睦言を覚えておいでとは……」
「文がないのなら、心に留めておくしかなかろう」
 好いた男を取り巻く多種多様の女性関係に埋もれたくないというささやかな抵抗が、まさかトシさんの中で生き続けていて、35年越しに功を奏すとは。予想だにしなかった。
 けれども、たしかにかつての私は密かに空想してもいた。もしも一つだけ我儘が叶うならば、最後の最後で私を選んで欲しかった。この命が尽きる時、彼の近くにいることを許されたかった。
「また戦をするのですか」
「ああ。まだ生きてやらねばならぬことが残っている。生憎そういう性分なのでな」
「ふふ。だってトシさんが得意なのは戦と馬と……女でしたね?」
「……若さ故の軽口だ。忘れろ」
 なんてかわいらしいだのろう。少しだけ拗ねたような顔をするトシさんに、私の口元も緩むのがわかった。私にまだときめく心が残されていたなんて。そして先ほどから年甲斐もなく破裂しそうなほど高鳴っている胸に、死期を早めやしないだろうかと少しの心配が頭の片隅を過ぎる。
 私をすっぽりを包み隠す、あの日と変わらない大きな背中に、手を添えて抱き締め返す。
「今度は共に来てくれるか?」
「ええ。どこまでもお供いたします」
 答えた途端、唇を奪われた。触れるだけの接吻は優しい。
 ……この人が必要とする限り。何年だって。
 だって元よりこの命、全部あなたのものだから。
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