寝月譚

 救われた。崖から身を投げた俺の腕を掴んだのは蒙武だった。
 国に捨てられたのならば、こちらも国を捨ててやればいい。この秦の地で立ち、二人の名を天下に轟かせる。俺は一度死んだ。ならば生まれ変わったつもりで、為すべきことを為すまでだ。
 蒙武の言葉は雷のように楚子を貫き、心を震わせた。

 だが先立って清算せねばならぬことがある。伸ばされた手を振り払ったのは、他でもない俺だ。
『あなたが死ぬなら私も死ぬ』
 あの時苗字名前はたしかにそう言った。その場凌ぎに耳障りのよい言葉を嘯く女ではないことは、痛いほどにわかっている。苗字名前を軽んじた。あまつさえ嘲った。そうだ。このままでいいわけはない。許しを乞い、例え拒絶されたとしても、許されるように生きていこう。そうと決めれば、次に取るべき手段はおのずと解っていた。最適解を導き出すのは日々錬磨してきたことだった。
 人と物が蠢く生きる要塞と呼ぶべき咸陽も、一旦夜の帳が下りればその鳴りを潜め、息の詰まるような闇が街中を覆いつくす。雲の間から細くさす月明かりを頼りに、人気のない路を進む。先も見えぬ漆黒の中で絶えず煌々と松明が燃えているのは橋を渡ったその先、咸陽の最奥に位置する王宮と、その宮殿区を守るように取り囲む貴人宅だけだ。苗字邸もその一角にあった。

 一国の公子という肩書きを失った俺はもはや苗字家の門をくぐる大義名分を持ち合わせてはいないということは、重々承知していた。野盗を警戒してか門は太い閂で閉ざされ、その両脇を一晩中門番が固めている。正攻法は取れない。屋敷の裏手へと回った。方法は蒙武を見て知っている。外塀の中腹、斜めに走った亀裂の溝に爪先を掛けそこを足掛かりに両の腕に力を込めれば、あとは塀を登りきるのは容易く、なんの抵抗もなく境を越えられた。身軽なのが幸いした。まだ成長途上の己の体格がまだ青年と少年の間にあったことを、この時ばかりはありがたく思う。
 人の気配に、咄嗟に身を屈める。あれは苗字家に出入りする冗官だ。顔に見覚えがあった。彼らは木の陰に身を隠す楚子には気づかないまま、顔を寄せあい口々に言いあっている。声は潜められてはいたが、静寂の中では明瞭に耳に届いた。
「ご容態は? 苗字家の娘御にもしもの事があっては事だぞ」
「今夜が峠かと」
「旦那様は今どちらに」
「平旦には領地からお戻りになるはずだ。それまでもつか……」
「そもそも姫様はなぜ屋敷を抜け出して雨の中行き倒れるような真似をされたのだ! とうとう気でも触れたのか」
「おい! 口が過ぎるぞ」
「とにかく今はもう祈るしかない」
 俺のせいだ。俺の為に、苗字名前は。
 鉄の味がする。気づけばきつく唇を噛み締めていた。小さく息を吸うと、凍える夜風が肺に針となって突き刺さる。この石門の上、苗字名前と出会ったとき、桂花が芳醇な匂いを放っていた。気づけば玉雫の花はすっかり散り、冬へと移り変わろうとしている。咸陽の冬は、楚の都である陳のそれより厳しい。体温も、命も、弱った者から貴賎なく等しく無慈悲に奪い去っていく。
 生垣の陰に身を潜めて様子を窺う。名前の寝所からは灯りが漏れていた。看病に勤しむ世話役の女達がちょうど出払った隙を見計らい、中庭に面した格子戸の隙間から無音で室内へと滑り込んだ。

……死んでいるのではないか。
 苗字名前を目にした時そんな縁起でもない考えが過ぎったのは、固くまぶたが閉ざされた青白い顔にあまりにも生気が感じ取れなかったからだ。額の上には濡れた布こそ置かれていたものの、意識が朧げになるほどの高熱に対してはさして用をなしているようには見えない。浅い呼吸を繰り返しわずかながらも上下する胸に、とりあえずは息があることに胸を撫で下ろした。
 薄く目蓋が開き、澄んだ目がこちらを捕らえた。見つめられて、用意していたはずの言葉が途端に消え去る。押し黙ったままの俺を見て、掠れたか細い声が名を呼んだ。
「そ、し」
「……ああ。俺だ」
 牀の側に膝をつく。燭台の心許ない火のみが揺れる部屋で、楚子が跪いてようやく苗字名前の表情がはっきりと目視できた。
 咄嗟に触れようとして、止める。俺にその資格はない。行き場を失った手が空を掻いた。
 あれだけの啖呵を切っておきながら、こうしてのうのうと生きながらえている。その事実に気まずさを覚える楚子を他所に、苗字名前は頬を緩めた。蝋細工のような肌に、わずかながらに赤みが戻る。
「生きててよかったぁ……」
 ふっ、と緊張の糸が切れるように呼吸を乱したかと思えば、透明の膜がみるみる瞳を覆い、つつ、と無色の雫が顎の下へ伝う。かすかな丸みを帯びた頬に、こぼした涙が幾筋も跡をつくった。
「……お前という奴は、この期に及んでそれか」
 拒絶されることも、なじられることも覚悟していた。だがそんな予想に反し、目の前の女は恨み言のひとつもなく、楚子の生を心から安堵している。死の淵に瀕してもなお他人の心配とは、お人好しにもほどがある。呆れにも似た、しかし似て非なる愛しさと切なさが胸を締めつけた。
「崖から飛び降りたが、間一髪のところで蒙武に引き上げられた」
「そう、蒙武が……さすがね」
 もう一度「よかった」と、今度は噛み締めるように苗字名前は呟いた。
 浅く繰り返す呼吸に時折、隙間風のようなか細い雑音が混じる。蒙武から聞いた話では、苗字名前は哮喘を患っていた。こうして会話を交わす間にも、血色を失い紫がかった唇は空気を求めるように小さく咳き込んだ。その身に鞭打ち、必死で駆けてきたのだ。
「……お前には酷いことを言った。謝る。すまなかった」
「ううん、いいの。私こそごめんなさい。楚子の気持ち、少しもわかっていなかった」
「いや。たしかにお前の言葉で、俺は」
 救われた。
 蒙武の手が、命と共に楚子を絶望の淵から掬い上げたように、名前と過ごした時間は、楚子の心の棘をいくらか抜き去り、束の間の安息をもたらしたのは紛れもない事実だった。愚痴を吐くことも、弱みを晒すことも、自分で自分を禁じていた。それが、今ではどうだ。馴れ合うこと、笑うこと、泣くこと……愛すること。
 愚かしいと、無駄だと切り捨ててきたそれらは楚子の心を、渇きを満たした。笑ってしまうくらいの綺麗事だ。だが、言葉がこんなにも人を変えることを、はじめて教わったのだ。
ーーああ、そうだ。お前の言う通り、俺はずっと帰りたかった。俺を、俺が俺として生きられる場所に。
 だが祖国はもはや楚子を必要とはせず、信じていた夢も公子としての身分も陽炎のように呆気なく消えた。
『一緒に帰りましょう』
 苗字名前はそう言った。その言葉を、俺はずっと心の奥底で欲していたのかもしれない。
 薄い手がこちらへ伸ばされ、頬を撫でた。まるで聞き分けのない子どもを見る目で、苗字名前が眉を下げて笑う。
「そんな顔しないで」
 どうして俺が慰められているのだろう。今この場で気遣われるべきは苗字名前のはずなのに。喉の奥に球でも押し込まれたかのように息が詰まる。眼球が湯に浸したように熱くなり、苗字名前の輪郭が滲んで揺れた。
 もう一度強く、奥歯を噛み締める。名前の涙は俺の弱さだ。不甲斐ない真似を決して繰り返さぬよう、目蓋の裏に刻みつける。
「嘆き絶望するのは、金輪際やめにする。祖国は捨てた。俺はこの秦国で蒙武と共に、天下に名を轟かせる男になってやる」
 天の定めという濁流に逆らい泳ぐことは楽ではない。それでも踏み止まり、生き延びてやる。祖国のためではない、他ならぬ俺のために。そして、俺を生かした人間に報いるために。たったそれだけのことが、どうしてわからなかったのだろう。
 苗字名前は楚子から目を逸らさぬまま、小さく頷いた。
「なれるわ」
「……」
「私はあなたを、信じる」
 憎むことは赦すことより容易く、疑うことは信じることより容易い。ただ「信じる」という根拠なき肯定に、かつてはこんなに心動かされることはなかったはずだ。
それでも闇より光を、悪より善を苗字名前の強さなのだと、今となっては骨身にしみてわかっていた。そんな苗字名前の情を跳ね除けられなくなったのは、俺の方だ。
 視線を天井に移し、遠い目をした苗字名前の声がふと陰った。
「聞いて。楚子」
「なんだ」
「私ね……本当はずっと、いつ死んだって構わないと思ってたの」
 天真爛漫を体現したかのような普段の苗字名前には到底似つかわしくない。息を呑む。けれど聞かねばならぬ話だと悟った。咄嗟に上手い言葉は見つからなかったが、苗字名前としてもちんけな慰めなど欲していないのだろう。内心の動揺には蓋をして、ただ黙って先の言葉を促した。
「生まれた環境は嫌になるほど恵まれているのに、私一人では走ることすらままならない。ただ生きるだけで周りの手を煩わせるばかりの私は、一体なんのためにこの世に生を受けたのだろうって。塀に囲まれたこの屋敷の中で一生を無為に過ごすくらいなら、この生がいつ終わりを迎えたとしても悔いはない。そうすれば、お父様や召使い達にもこれ以上迷惑をかけずに済むと」
 ひどく平坦な声だった。変に悲観するでも被害者ぶるでもない、淡々と語り続ける感情のこもらないその口調が、苗字名前が昨日今日思い至った考えでないことの証左だった。
 そこで一度話を区切った苗字名前が、こちらに目を向ける。濃い闇の中で、苗字名前の猫のような目は、夜に凪いだ湖面を連想させた。
「でもね。退屈で窮屈でたまらなかった毎日が色づいたのは、蒙武と、楚子。あなた達がやってきてくれたから。あなたと出会って、外を知って、私ははじめて命が惜しいと思えたの」
 透けるように白い手が、楚子の手に重なり、握り込んだ。手は持ち上げているだけでも精一杯のはずなのに、絡められた指には弱々しくもたしかな力が籠っている。
「だからね、ありがとう。楚子」
 ああ、そうかと楚子はようやく合点した。俺達はよく似ているのだ。おそらく苗字名前の語彙を借りれば、『寂しがり屋』だなんて笑うのだろう。
 はじめて会った時から、花が綻ぶように笑う女だと思っていた。屈託のない笑顔、無防備な仕草、真摯な言葉にこちらが後ろめたさを感じるほどに。ただ時折ふと見せる寂しげな眼差しの正体にやっと思い至って、深く息を吐いた。
「なぜお前が礼を言う」
「大切な友人だから。私を救ってくれた」
 違う。救われたのは俺の方だ。俺の方がずっと。
ーー俺の負けだ。認めよう。
 情を挟む危うさを知っていたはずなのに、気づけばこんなにも失い難く、すっかり背負い込んでしまっている。そうだ。これからは失わぬよう、守るために戦うのだ。
 すべて呑み込んで、目を瞑った。
「長居して悪かった。早く治せ」
「うん。あんなに苦しくて堪らなかったのに、あなたの顔を見たらようやく安心して眠れそう……」
 回復のため身体は休息を欲しているのだろう、瞳がとろんと潤んでいる。うつらうつらと緩慢な瞬きを繰り返す苗字名前に、自然と笑みが浮かんだ。そろそろ頃合いだろう。屋敷の者が戻ってくる前にこの場を離れなくてはならない。
 頬に残る涙が乾いた跡を、親指で丁寧に拭い取る。はじめて苗字名前の涙を目にしたあの日とは違い、柔く温かい肌に直に触れても、もうあの時ような躊躇いは感じなかった。
「楚子」
「なんだ。もう眠れ」
「ふふ、おやすみなさい。またね」
「ああ。おやすみ」
 目を閉じたまま、苗字名前が擽ったそうに小さく笑う。
 眠る前の挨拶。明日を、そして当然その先も続いていくであろう未来を約束するという行為が、こんなにも心を満たすとは知らなかった。どこか名残惜しさを感じながら、握られた手を丁寧に解く。
「……友。友か」
 敵国の人質であった楚子とって、生まれてこの方縁のなかった言葉だ。関係にどう呼ぶかに、どれほどの意味があるのかはわからない。だが友であるから、苗字名前はこれからも変わらず楚子に笑いかけ、慈しみ、大切にするらしい。わからないが、それならば構わない。名前など瑣末な事だ。
 苗字名前の穏やかな寝息が聞こえる。それが先程よりも規則正しいものになっていることを確かめて、楚子は静かに部屋を後にした。
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