それから三度訪ねても、楚子が邸宅へと招き入れられることはなかった。
「申し訳ございません。苗字名前様はまだお加減が優れぬのです」
そう告げて門の前で深々と頭を下げた初老の女中が嘘を吐いているようには見えなかった。連日の看病疲れか心労も相まってか、小じわの刻まれた目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。
屋敷の人間が奥へと引っ込んだのをしっかりと見届けてから、薄々勘づいていた疑念を吐き出した。
「流行り病とは口実で、俺達が体よく追い返されているだけではないか?」
ただでさえ己は敵国の公子で人質という厄介極まりない立場の人間で、そうでなくとも十代も半ばに差しかかりつつある男と女なのだから、このようなささやかな交流を持つことすらいい顔をしない者もいるだろう。しかしそれには隣に立つ蒙武がきっぱりとかぶりを振った。
「いや。季節の変わり目はいつもこうだ。あいつは風邪のひとつでも大事になる」
「そうなのか」
「少しはしゃいだだけでも熱を出すことは日常茶飯事だけどな」
苗字名前の頼りなさげな薄っぺらい肩や、掴んだ二の腕の細さを思い出す。あの日苗字名前がやけに弱気になっていたのも、本人も気づかぬ不調によってただ感情の栓が緩んでいただけかもしれない。苗字名前が静かにこぼした透明な涙の痕が、脳裏に焼きついて離れなかった。
「なんだ楚子。そんなに顔が見たいなら塀をよじ登るか?」
その誘いには黙って首を振る。遠慮したわけではない。ただ、どんな顔をして会えばよいのかわからなかったからだ。
♂♀
しぶとく下がっては上がってを繰り返した熱がようやく引いた頃には、外の空気はずいぶんと肌寒くなっていた。もうすぐ冬がやって来る。一年で最も厳しい季節だ。飢饉、疫病、時には降り積もる雪が、容赦なく命を攫っていく。何人の秦人が冬を越せるだろうか。しかし私は少なくともここにいる限り、飢えることも、凍えることとも無縁でいられる。誰もが羨み望む、なんと恵まれた生活だろうか。でも時々内なる自分が、囁きかける。ずっと息苦しくて堪らなかったのだ。目に見えぬ檻から放たれる自由を、どこかで夢見ていた。そんな時だった。蒙武と楚子と出会ったのは。
牀から半身を起こして数日ぶりの外を眺めていると、侍女頭のばァやが側に膝をついた。封のされた帛書を渡される。簡策よりもひどく高価な絹布を雑筆に使えるような人間は、おのずと限られてくる。差出人はすぐに見当がついた。
「名前様が臥せっておられました間、蒙武様と楚子様が何度もいらっしゃいましたよ。楚子様からの見舞いの言葉がこちらに」
「そう。ならばこちらからも文を返さないとね」
加減はどうか。一日も早い回復を祈っている。そっけなくもこちらを気遣う言葉が、流麗な筆致で連ねられていた。彼らしい几帳面な字だ。その端々から、彼がそう遠くない将来に君主として大国を率いるべく、最高峰の教育を与えられてきたことは明白だった。そして、彼がそれに見合う聡明で怜悧な頭脳を有した人間であることも。そんな楚子がこれを書いている間は私を思って頭を悩ませていたのかと思うと、なんだか居ても立っても居られない気持ちになって胸がそわそわした。すぐに返事を出そうと、枕元の筆に手を伸ばす。
平穏を引き裂くような、鋭い馬の嘶きが聴こえた。次いで、泥を跳ね上げながら走る車輪の軋む音が耳に届く。この部屋で飽きるほどの時を過ごしてきたからわかる。土を蹴る蹄の音が、普段よりもずいぶんと性急だった。
「なんだか今日はやけに騒がしいわね」
「苗字名前様! いくら熱が下がったからといってお体を冷やしてはなりません。それに今日はそのうち雨が降り出します」
外の様子を窺おうと漏窓の方へ身を乗り出せば、やんわりと肩を押されて引き戻された。
「そうなの? 今はこんなにも晴れているのに」
「この咸陽で何十年も空を見上げていれば、おのずと空模様の変化はわかるようになるものでございます」
今度は壁を隔てた廊下で、バタバタと慌ただしく行き交う人々の足音がひっきりなしに続く。由緒ある官吏の家である我が家がこうしてざわめき立つのは、決まって国家の有事が起こったときだと経験則で知っていた。
「それはそうと、何か有事でも? 父上と兄様は今どちらに」
「ご主人様と兄上様は今朝まだ日も昇らぬうちに、大王様の命で出仕されましたよ。なんでも秦楚同盟が破棄され、楚との戦が始まったとか。でもご安心下さいませ。あの六将を擁する秦が負けることはございません」
手紙を取り落とす。それは衾の上にはらりと舞い、床へと滑り落ちた。
「姫様?」
「……そ」
「いかがされました? まだお加減が優れませぬか」
「楚と言ったわね!? そんな、いきなり戦争なんて、では人質の楚子はどうなってしまうの!? 祖国へ送り返されるのよね? まさか、殺されるなんてこと……」
言葉にして改めてその恐ろしさが伸しかかり、口を噤む。指先がカタカタと震えた。
「まだお体は万全ではないのです。落ち着いてください!」
「落ち着けるものですか! 楚子は私の大切な友なのよ!」
「私めは政には詳しくありませんが……慣習に従えば、加冠の儀も迎えぬ子どもをわざわざ処すようなご決断を昭王はなされないかと思います。おそらくは人質の永久交換として、楚子様はこのまま秦国で余生を過ごされることになるかと」
「永久交換……」
それは即ち、楚子の将来が完全に閉ざされたことを意味している。天下に名を馳せる英雄になることを夢見ていた楚子が、そのために血の滲むような研鑽を重ねてきた日々が、たったに一つの取決めによってすべてが泡と消えたのだ。では、その楚子は今。
楚子に会いにいかなきゃ。直観的にそう思った。虫の知らせなのかもしれない。女の勘と言うべきか、昔から私のこういう予感ばかりが不思議とよく当たるのだ。人一倍弱い体を持って生まれたから、ただそのぶん人よりほんの少しだけ第六感が鋭敏になったのかもしれないと思う。しかし胸騒ぎなんてなくとも、冷静な頭脳の下に誰よりも熱いものを抱えた彼が、どんな選択をするかなんて容易に想像がついた。
♂♀
人のいない方へ、いない方へ。行くあてもなく無我夢中で人の目を避けて走ると、おのずと王宮とは真逆の方角に来ていた。咸陽も外れとなれば、木々が生い茂った雑木林ばかりだ。遠くに切り立った断崖が見えた。惨めな生を生きるより、いっそのことあそこから飛んでしまえばーー
「楚子! そ、し……そし」
どうしてここにいる。ここにいるはずのない、今最も顔を合わせたくなかった相手は、息を切らしながらも楚子の名を繰り返す。こちらから三歩離れたところで立ち止まった。ゼエゼエと肩で息をして膝に手をつき腰を折った苗字名前は、見るからに疲労困憊だった。こめかみから伝った汗が、ポタリと地面に染みをつくった。いつもお手本のように整えられている襟元は乱れ、解けた髪にかろうじて絡まった簪が揺れている。走ることなど少しも考慮されていないであろう、豪奢なつくりの履物は土埃に汚れていた。まさか走ってきたのか。にわかに信じ難い気持ちになるが、答えは明白だ。
「どこへ行くの」
「……お前には関係ないだろう」
目を見ればすぐに、苗字名前がすべてを聞いたのだとわかった。唇をきつく噛む。哀れまれるのは御免だった。慰めの言葉など、なんの気休めにもならない。
「滅多な事はやめて。どうか思いとどまって。一緒に帰りましょう」
「……滅多なこと?」
思わず拳を固く握る。体中の血が沸騰するような錯覚に襲われる。言いようのない苛立ちが募った。手の平に爪が食い込み鈍い痛みを訴えるが、そんなものは喪失の苦しみに比べれば遥かにマシだ。
「人質としても公子としても用済みとなった俺に、今更どこへ帰れと言うのだ」
「それは……」
「俺は捨てられたんだ! 国のために英雄になろうと俺は、クソッ……! それも。こんなんじゃ、生きていても意味がない!!」
なにが中華か、なにが軍師か、クソったれが。俺の夢なんて、国という強大な権力の前ではなんの意味もなさなかった。気づけば慟哭していた。関係なしにとめどなく落ちてくる涙を、袖で乱雑に拭う。涙を止めることができない。公子から天涯孤独へと転げ落ちた、こんな惨めたらしい姿を苗字名前には見せたくはなかった。もう放っておいてくれ。
苗字名前が楚子の腕を掴んだ。きつく掴まれ、爪が食い込む。この細腕のどこにそんな力を隠していたのか、一瞬面食らう。
「そんなことはないわ! この戦国は、生き残った人間が勝ちよ。生きていれさえすれば、絶対に起死回生の機は巡ってくる。あの蒙将軍だって斉の生まれであそこまできたんだから。なにより楚子、あなたはこんなところで終わっていい人じゃない!」
「うるさい! お前になにがわかるんだ!」
「わかるわけない……ッ!」
「では離せ!」
手荒く指を振り払う。苗字名前の軽い身体はいとも簡単によろめき、尻餅をついた。つかさず立ち上がり、上等な衣が土に汚れるのもお構いなしに、楚子の腰の辺りへがむしゃらに縋りついてくる。
「嫌……! 楚子が死ぬなら私も死ぬ! 連れて行って!」
「訳のわからぬことを言うな! お前と心中などこちらから願い下げだ!」
「死んでも嫌! 絶対に離さない!」
また振り払う。振り払っても振り払っても苗字名前は懸命に掴みかかってくる。容赦なく拒否した。それでも手を伸ばしてくる。こちらが平静を欠いていることは百も承知だが、苗字名前も半狂乱だ。道の真ん中で揉み合いになる。意味がわからなかった。そもそもどうして苗字名前は、こんなにも必死になって俺を止めるのか。父王も後宮の母も従者達も、これほどまで楚子の生を切望する人間はいなかったように思う。ましてや国の後ろ盾すらなくなった俺に、無関係のコイツが命をかける理由などないはずなのだ。けれど、苗字名前は死んでもよいと言う。
「俺のために死ぬなど、できもしないことを」
吐き捨てるように出た言葉に、苗字名前の言葉が重なった。瞬きもせずにこちらを見つめる。あの目だ。あの日「私の気持ちに嘘はない」と語った目。苗字名前はいつだって誤魔化すことも臆することもなく、真っ直ぐ見つめてくる。
「できるわ。例えあなたが何者でなくとも、私はあなたを失い難い」
そこで言葉が途切れ咳き込んだ苗字名前が背中を丸めた拍子に、拘束する手が緩んだ。はっと我に返り、つかさず振り解く。今度はすんなりと体温が離れていく。考えるより先に、逃げるように踵を返した。
ーー俺は苗字名前と向き合うことから、逃げてばかりいる。ふとそんな思いがちらりと頭の隅を過ったが、すぐに霧散した。
全速力で走る。人気のない森は、走り抜けるには好都合だった。止まれば今度こそ、その場から一歩たりとも動けなくなってしまいそうだ。
♂♀
駆けだした楚子の後ろ姿は見る見るうちに小さくなり、すぐに見えなくなった。行ってしまった。止められなかった。私では力不足だった。声を出そうとしても舌がこわばり、ただ呆然と立ち尽くすしかできない。
……どれくらいそうしていただろうか。肌を撫でるように降り出した雨は、次第に激しく打ちつける大雨へ変わった。帰らなきゃ、とようやく顔を上げたときにはここがどこかもわからず、覚束ない足取りで歩き出す。手も足も重い。霞がかかったように頭がぼんやりとした。
「あっ」
足がもつれる。くらりとめまいがした。平衡感覚を失った身体は崩れ落ち、その場に叩きつけられた。泥水の中でもがいても、疲弊した手足はまるで他人のもののように温度を失い、言うことを聞かない。布を超え徐々に内側へと染みこんでくる水が冷たかった。先ほどから心臓が破裂しそうなほど不規則に暴れ、息を吸うたび胸が鈍く痛む。激しく咳き込むと鉄の味がした。
目の前が暗くなる。眠い。寒い。動けない。襲ってきた抗い難いほど強烈な眠気に、素直にまぶたを下ろした。もう、私のことはいい。もとより彼らに比べれば、意味のない生だ。このままじっとしていよう。でも、楚子は違う。遠ざかる意識の淵で、それでも思い出すのは彼のことだった。
ーー誰か。誰でもいい、楚子を助けて。私の命、あげてもいいから。
これほどまでに強く天に祈ったのは、これがはじめてだ。