幸呑話

 刃が届く。盤上で、大将を模した駒が倒れた。
「勝った!」
「まだだ」
 楚子は眉ひとつ動かさず、人差し指で木製の駒をはじいた。
 暇潰しにはじめた軍略囲碁であったが、戦況は白熱した。当初は駒の役割さえほとんど知らないであろうと予想していた苗字名前が、きちんと定石通りの、しかしなかなか手堅い戦いぶりを見せたのだ。楚子は今まで兵法に明るい女などと出会ったことはなかった。蝶よ花よと育てられてきた苗字名前ならばなおさらだ。
 聞けば、書庫への自由な出入りを許されているという。黙認されている、といった方が正しいか。辿れば殷の王朝の系譜を継ぐという苗字家は秦でも指折りの旧家であり、そこに納められた蔵書は古今東西、儒家や法家を筆頭とした諸子百家まで、中華全土の先人達による叡智の結晶にも等しい。長い療養生活のなか、教養程度の読み書きにとどまらず兵略書や詩に没頭する時間は、苗字名前にとって数少ない心の慰めであるようだった。未婚の女子は華やかに着飾って街へ繰り出していることを思えば、まさしく蒲柳の質たる名前の様子は楚子の目にもいささか気の毒に映る。
 名前は善意で「楚子にも書庫を見せてあげたい。きっと楽しいわ」と勧めてきたものの、大人が知ればきっと良い顔をしないだろうと断った。所詮は敵国の人間だからだ。
「背後からの奇襲でこちらの意表を突いたはいいが、兵を失いすぎたな。大将首を獲ったところで、この人数を包囲網からどうやって生きたまま脱出させるつもりだ」
 しかし相対する楚子とて、並の少年ではない。智においては同世代に並ぶ者がないと噂されるほど、研鑽を重ねてきた。
「あ」
 手を伸ばしひとつふたつ兵を動かしてやれば、指摘通りたちまち形勢は逆転する。途端に包囲され窮地に追い込まれた苗字名前の軍は、やはり楚子の手中にあった。
 しまった、とでも言うようにぱしぱしとまつげを瞬かせる。
「戦場ではこの駒ひとつひとつが人の命だ。一手にかかる重みが違う。軍師はそれを肝に銘じなければならぬ」
 すると見るからにしょんぼりと肩を落としてしまった名前を見かね、渋々つけ足した。他人を慰めるなど、楚子には柄にもないことだが。
「……まあお前は軍師ではないがな。師にも就かず戦も知らぬまま自己流で学んだにしては上出来だろう。そう気を落とすな」
「いいえ。いくら齧ったところで、私は戦の何たるかがわかっていないのだわ。……たったひとつの誤りで多くの兵の命を犠牲にしてしまうなんて、恐ろしいこと」
 そうしてまつげを伏せたまま身震いした苗字名前を見て、密かに嘆息した。
「お前くらいの頭が蒙武にもあればな」
 二人の会話の輪に入れないことにへそを曲げた蒙武は、庭で立派な枝を拾ってふらりと出掛けたまま帰ってこない。だがじきに戻ってくるだろう。不機嫌が長続きする男ではない。
「蒙武は蒙武でいいのよ。天から賜りし恵まれた体格と強靭な精神を持っているのだもの」
「そうやってお前のような奴が甘やかすから、あいつはいつまでも中華最強などと世迷いごとばかり言っておるのだ。今の乱世は武一辺倒では通用せぬ」
 苗字名前は蒙武に甘い。蒙武だけに限った話ではない、楚子にも大層甘かった。
それに呆れはすれど、さして苛立ちを感じることはなかった。孤独な日々を書物で心を慰める苗字名前の境遇に、少しばかり同情していたからかもしれない。
「ねぇ。楚子」
「どうした」
「楚子は強いねぇ。頭も良くて、喧嘩も強い」
「……突然なんだ。気味が悪い」
「もう! 褒めているのよ」
 こうも褒めそやされては居心地が悪い。偽らざる本音だとわかっているから尚のことだ。
「今は人質の身分だが、楚に帰った暁には身を立ててやる」
「……楚へ帰ってしまうの」
 苗字名前の声があからさまに硬くなる。あえてそれには気がつかぬふりをして話を続けた。
「当然だ。いつまでもこんなところで燻っては居られぬ。だからこそ、今できることをやっている」
 生き延びてやる。どんな悲運に喘ごうとも、己に好機が巡ってくるその日まで、刃を研ぎ、策を巡らせ、知恵をふり絞って生きてみせる。こんな場所で腐って堪るものか。誰にも隙を見せるな。夜の闇に心が孤独につけ入られそうになるたび、そう鼓舞して異国の地を踏みしめてきた。
「……そう。そうよね、楚子だって家族のもとへ帰りたいものね」
「別にそのような感傷に浸っているわけでは……」
 勝手に感傷的な結論へと帰着させた苗字名前に対し、わざわざ訂正する気も失せて口を噤む。どう説明したものか。いやそもそも身の上話なぞする義理はないのだ。
 国に帰れど、楚子を心から慈しむような父や母などいない。親子の情や、幼心の戯れ。物心ついた時には既にそういったものとは無縁に育てられてきた。楚子にとって王宮は心焦がれる場所ではない。そしてなにより父王の数少ない実子でありながら、宰相の春申君から直々に人質にと白羽の矢が立ったことこそが、祖国における自身の扱いを物語っていた。己の不遇を嘆き悲しみ絶望するような段階は、もうとうに過ぎた。ただ生国を繁栄に導くという夢だけが、唯一縋る心の拠り所であった。
 しかし苗字名前を前にして、ありのままを話すのは憚られた。知れば名前は我が事のように胸を痛め、悲しい顔をするだろう。別に同情が欲しいわけではない。
「楚はどんなところなの? 暑いと聞くわ。楚の地から見上げる空の広さは、月の輝きは、秦から見るそれとは違うのかしら。王都はたしか陳だったでしょう。叶うならば私もいつか、この目で見てみたいものね」
 行楽気分か、能天気な。秦領土内の城から城への移動とはわけが違うのだ。
「……お前なぁ。戦以外に、そう簡単に他国の地を踏めるものか。それこそどちらかが滅び、一つになった時だぞ」
「私はただ、楚子の見て感じてきたものが知りたいだけ。あなたが好きだから。国なんて関係ないわ」
 すぎた甘言は、楚子にとって毒だ。それは傷口を優しく撫で、ゆっくりと蝕み、やがて取り返しのつかない命取りになる。
 顎を引き、低く問う。知らず知らずのうちに強く奥歯を噛みしめていた。
「苗字名前。お前はいつもそうなのか?」
「そう……って?」
「お前は、珍しいものが好きなだけだ。見慣れぬ人間との接触は楽しいだろう。だが俺という人間に惹かれているわけでも、親しみを覚えているわけでもない。勘違いするな」
 勘違いして、地獄を見るのはこいつだ。
 ひとたび戦場へ出ればそこにあるのは生か、死かだ。人が肉片へと呆気なくなり果てる瞬間も、鼻をつく鉄と血のすえた臭いも、苗字名前は知らないから言えるのだ。知らないことは罪ではない。だが、なかったことにはできなかった。
「そんなこと……」
「ないと言い切れるか? 将来俺が、俺の考えた策で秦の人間を皆殺しにしたとして、それでもお前は俺を友だと言えるのか。俺は楚人だぞ」
 情を挟めば弱くなる。迷い、躊躇いがどれほど危険であるかを、盤上で学んできた。攻めるか守るか、退くのか滅ぼすのか、すべて判断は一手に軍師へと委ねられる。そしてその一瞬の判断に、国の存亡がかかっているのだ。いつか秦に攻め入るその日、名前の顔が己の脳裏にちらつくようになるだろうか。わずかな罪悪感が胸を掠めるだろうか。それだけは許されない。ならば、ひょんなことからはじまった縁もここまでだ。
 苗字名前は瞬きもせず、まっすぐ見つめてくる。今度は楚子の方が気圧された。
「楚子に信じてもらえないとしても、私の気持ちに嘘はないわ。国が許さずとも、私は楚子が優しく正義感の強い人間であることを知っているし、私にとっては蒙武も楚子もいつか離れ離れになる日がくるのはつらいもの。だって私は見送って、あなた達の武運をここから祈ることしかできない」
 どうしてそうもはっきりと言い切れるのだろうか。見るからに弱っちい癖に、苗字名前は時にこちらが面食らうほど強情なところがある。短い付き合いのなかで学んだことだった。その一途さを甘っちょろい理想論だと切り捨てることは容易い。容易いが、できなかった。最善手を選択し続けることは得意であったはずなのに、ただ楚子の無事を祈る健気な少女ひとりを前に、どうすればいいか見当もつかなかった。
「……あと数年もすれば蒙武は初陣へ行ってしまうわ。蒙武は武功を立ててやると息巻いているけれど、私怖いの。楚子だけじゃない、蒙武まで帰ってこないんじゃないかって」
 ぽろり、と目尻から一粒だけ涙を落とした苗字名前。真一文字に噛みしめた唇が小さく震えているのを見て、楚子はなんだか見てはならぬものを見てしまった気持ちになった。
「あいつは殺しても死なぬ。そう案ずるな」
 殺しても死なぬ化け物じみた人間など、敵としては堪ったものではない。だがそう信ずる他なかった。本日二回目の慰めの言葉に、慣れないことばかりするものではないと内心自嘲する。
「泣いたり笑ったり、お前は忙しいやつだな」
「呆れたでしょう」
「……いや」
 この頃はやたらと情に脆い奴らと共に過ごしているせいで、調子を狂わされてばかりだ。そして感化されているのか、その空間を心地よく感じている自分がいる。
「おい! なに名前を泣かしてんだ!」
「俺のせいではない。これだからバカは短絡的で困る」
 太い怒声ではっと引き戻された。いつかのようにずかずかと歩み寄ってきた蒙武は苗字名前の赤い目を見た途端、太い眉をこれでもかというほど吊り上げた。苗字名前が慌てて間に割って入る。
「なんだと楚子!」
「やめて蒙武。違うの、楚子に軍略囲碁で負けたのが悔しくて……」
「そうなのか。お前、見た目によらず熱いところあるんだな」
 蒙武はあっさりと納得した。コイツ単純すぎないか、と傍観する楚子の方が心配にしていると、なにを思ったかカッと目を見開いた蒙武が苗字名前の頭を両手でむんずと鷲掴んだ。そのままゴチン、とこちらに鈍い音が聞こえてきそうな勢いで額と額をぶつける。「痛ッ!」と苗字名前が呻いた。突然の奇行にも距離感にも言いたいことは山ほどあるが、なんてことをするのだ。さすがの楚子もぎょっとして身を乗り出した。
「おい! いくらなんでも女にその扱いは……」
「熱いぞ」
「は? それよりも苗字名前の額が赤くなっているだろうが」
 楚子の抗議の声も意に介さず、今度はたしかめるように苗字名前の額を手で覆った蒙武が頷く。
「名前お前、やっぱり熱があるぞ」
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