なんて人

 ファーストインプレッションは重要だ。だから新生活に胸躍らせる私は登校初日、ほんの少しだけ背伸びしていた。アイロンで整えた前髪に、膝小僧が覗くスカート丈。流行りのインカントチャームの香水に、主張しすぎない色つきのリップ。下ろしたての紺のハイソックスからピカピカのローファーのつま先まで今一度見渡して、小さく深呼吸をする。別に何かを期待をしているわけではない。呪術師の学生生活なんて過酷なこと請け合いだろうけれど、十五歳の私はどうしても浮かれてしまう。
 しかし、どうしてこうなった。今この教室に一歩踏み入れれば命は無いかもしれない。そんな本能的な危機感を覚えた私は、扉に手を掛けたまま呆然と立ち尽くしていた。
「テメェ! 顔と股間は卑怯だろうが! 急所ばっかり狙いやがって!」
「大口叩いた割には情けないじゃないか。お坊ちゃんは喧嘩の仕方も知らないようだね」
 大男二人が、罵り合いながら殴り合っている。どちらかが一発入れればやり返す、一進一退の攻防だ。白髪にサングラスを掛けた男子にはどこか見覚えがあるが、もしかしなくても五条家の坊だろうか。あんな目立つ容姿の人間が何人もいてたまるものか。念のためこっそりと頭上を確認するも、プレートが指し示すのは他でもない呪術高専一年生の教室だった。つまり同級生だ。呆気に取られていたけれど、五条の長い脚が机を蹴り倒したところで肩が跳ねた。傍から見れば単なる小競り合いだが、普通の喧嘩と明らかに違っているのは二人が呪力を色濃く纏っているところだ。
「……チッ」
 長髪にボンタンのような制服を履いた男子が軽く舌打ちをして片手を掲げると、空中にぽっかりと穴が開いたように漆黒の球が現れた。中でいくつもの気配が渦巻き蠢いている。よく知った、しかし異様な気配に肌が粟立つ。式神じゃない、紛れもなく禍々しい呪いの気配。思わず彼の手元に目が釘付けになる。途端に登録外の呪力の反応を知らせるけたたましいアラームが校内に鳴り響き、鼓膜がビリビリと揺れた。あれは呪霊操術だろうか。文献で読んだことはあるけれど、実際の使い手と会ったのははじめてだ。珍しいものを見た気になって、ただ素直に感心してしまう。
「あの、おはよう……?」
 インパクトのある絵面に気圧されながらもかろうじて絞り出した挨拶は、怒声と破壊音にかき消されやむなく無に帰した。呪霊操術で呼び出された呪霊が窓ガラスを割っているが、彼は後で大目玉を食らうのではないかと心配になる。途方に暮れていると、先に席についていた女子生徒と目線が交差した。艶っぽい泣きボクロに同性ながらドキッとしてしまうけれど、この状況で平然としていられる神経が既に只者ではない。しかし彼女はちらっと私を見てまた興味なさげにケータイに目を落としたため、その対応には地味に傷ついた。
「なんの騒ぎだ。喧嘩か? 原因は?」
 入寮時に顔合わせを済ませていた夜蛾先生が、背後から顔をぬっと覗かせて、救世主現るとばかりに安堵の息を吐いてしまう。初対面では教師とは思えない強面に怯えたものだけれど、こんなに術師の治安が悪いのなら適切な人選だったのかもしれない。
「や、夜蛾先生! わかりません。私が来た時にはこのありさまで……」
「あの二人、反りが合わないだろうとは思っていたが、まさかここまでとは……」
 眉間をぐりぐりと押した夜蛾先生が「まぁ。いい」とため息を吐いた。こうして会話している間にも私達には気を留めず、二人は殴る蹴る呪霊をぶつけては祓うの泥仕合を繰り広げている。見たところ殺し合い一歩手前だが、反りが合わないで片付けられる問題なのだろうか。しかも二人ともかなりの実力者だ。止めるにしても骨が折れる。
 しかし次の瞬間、ファンシーな人形達が勢いよく飛び出したかと思えば、問題児二人の後頭部を容赦なくぶん殴っていた。

 で、どうして私がこの席に。呪霊操術を使っていた男子とクールな感じの女子に挟まれ、思わず身を縮こまらせる。欲を言えば一番端の席が良かった。だって男子が怖い。
 乱闘で荒れた教室をあらかた片付け終わったところで和やかとは程遠い空気ではじまったホームルームに、私は早くも帰りたい気持ちでいっぱいだった。なお喧嘩は夜蛾先生の鉄拳制裁で強制的に終幕を迎えた。体罰とか、呪術師はその辺りは治外法権なのだろうか。
「五条悟。一級」
 とりあえず自己紹介を、と夜蛾先生に促されるまま真っ先に名乗り出た彼は、ポケットに手を突っ込んだまま、ただ一言そう言い放った。先の一件で不貞腐れているのだろうか。名乗らなくてもわかるだろ、とでも言いたげな不遜な態度に、右横の男子がまた眉間に皺を寄せたのがわかった。頼むからもう喧嘩だけはやめて欲しい。私だけが一人はらはらと胃を痛めている。それにしても、五条悟はたった十五年余りの人生で社会性をどこに置いてきたのだろう。親に連れられ昔どこかの会合で顔を合わせた時は、生意気ながらもあどけない美少年だったと記憶しているけれど。
「準二級の苗字名前です。一応は術師の家系で、今はもっと近接格闘を強化したいです。よろしくお願いします」
 名前、階級、抱負。好きな食べ物なんて求められていないことはわかるので、にこやかに無難な自己紹介をする。隣の男子からも視線を感じるものの、怖くて見られなかった。
「苗字? あそこの家、まだ続いてたのか。最近聞かないからとっくに断絶したかと」
 夜蛾先生の「他人の自己紹介に口を挟むな」との注意にも耳を貸さず、彼はサングラス越しにじっと私を見ていた。つくりもののように透き通った青の瞳に捉えられると、心の内側まで見透かされているようで、後ろ暗いことなんてないのに気後れしてしまう。
「苗字は母方。お母さんは術式継いでないから元補助監督でお父さんは窓で……。私、五条君と十年くらい前に会ったことあるはずだけど」
 術式の隔世遺伝は珍しいことではない。五条家を除き衰退の一途を辿る呪術界で、我が家も例に漏れず落ち目にあることは自明の理だった。もちろん私だって大人しく淘汰されていくつもりはない。私の代で立て直す覚悟だ。しかし五条悟はそんな私の気持ちなど知る由もなく、鼻で笑うと嫌みなほど長い脚を組みかえた。
「覚えてねぇ〜弱いやつに興味ねぇもん」
「おい」
 咎めるように険のある声が場に投下される。弾かれるように顔を上げれば、長髪の彼が看過できない、といった顔で眉を顰めていた。三白眼がすぅっと剣呑に細められると、中々の迫力がある。彼がそのまま言葉を重ねようとするのを、私は首を振って遮った。
「いいの、事実だから。ありがとう」
 怒気を滾らせている彼を苦笑いで制すると、首を傾げ「本当か?」と解せない顔をしていた。見た目が厳ついだけで、悪い人ではないのかもしれない。今だって見ず知らずの私のために怒ってくれている。ただ五条悟の態度が鼻についただけかもしれないけれど。
 次に左隣の女子生徒が気怠そうに自己紹介を終えると、彼がすっと椅子から立ち上がった。日本人離れした体躯の五条にも負けず劣らずの長身であることに今さら気づく。
「ゲトウスグル。四級。術式は呪霊操術。両親は非術師だ」
 ゲトウ。下藤? どんな字を書くのだろう。よく通る声が告げる、耳慣れない珍しい苗字に口の中だけでそっと復唱してみる。長髪を後頭部で一つに結い上げた特徴的な髪型。横顔を一房の前髪が覆い、大振りのピアスが揺れている。今は口の端が切れて所々が腫れているけれど、よく見れば涼やかな男前だ。五条のように目を引く派手さはないけれど、すっと通った鼻筋に薄い唇、眼窩の奥に覗く切れ長の目には十代らしからぬ妙な陰がある。すると不意に彼がこちらを見た気がして、盗み見ていた目を慌てて逸らした。これでは私が感じ悪い人だ。見惚れていたわけではないけれど、少し不躾だったかと反省する。
 おかしな罪悪感に苛まれながら、唯一の同性のクラスメイトに恐る恐る話し掛けた。
「家入、さん。これからよろしくね」
「硝子でいいよ。よろしく」
 近づき難さを醸し出していた彼女は喋れば意外と気さくそうで、内心ほっとする。飾らない態度なだけで、私への棘は感じられない。声のボリュームを落として顔を近づければふわりとタバコのにおいが鼻についた。……タバコ? 内心訝しみつつも本題に切り込む。
「硝子ちゃん。あの、さっきの二人の喧嘩の原因って……?」
「ああ。ゲトウが普通に挨拶して、五条が『雑魚には興味ねぇから話しかけんな』って吐き捨てたらゲトウが一発入れた。で、術式ありの殴り合い」
「それはひどい……」
 薄々そんな顛末だろうとは予想がついていたものの、改めて聞かされるとげんなりする。初対面での舐め腐った態度もあんまりだが、だからといっていきなりボディブローを入れるのも野蛮すぎる。この言い方はあまり好きではないけれど、どっちもどっちだ。争いは同じレベルの者同士でしか発生しない。しかし不意打ちとはいえ、あの五条悟に一発入れたのはすごいと思う。やはりゲトウスグルもかなりの実力者なのだろう。

 お節介は百も承知で、それでも血の赤さが頭から離れなくて行動を起こしてしまった。お説教から解放された彼の姿を探せば、案外すぐに見つかった。校舎の裏の洗い場で腰を折ってバシャバシャと豪快に顔を洗っている。新品の真っ黒な制服には白い土埃の跡がいくつもついていて、先の喧嘩の激しさを物語っていた。見たところ五条悟も同じくらいボロボロだったから、たぶんお互い様なのだろうけれど。
「……怪我、大丈夫?」
「! えーと、苗字さん?」
 迷った末に声を掛ければ、彼はぱっと弾かれたように顔を上げた。私の姿を視界に捕らえて、途端に細い目が丸くなる。彼の顎を伝う水滴に若干の気まずさを覚えながら、私は後ろ手に持った救急箱を差し出した。
「はい。血、出てるけど。消毒液とか湿布持ってきたから、よかったら使って」
「ありがとう。こんな些事で医務室の手を煩わせるわけにはいかないからね」
 些事というには少々痛々しい。やっと鼻血は止まったようだけど、今度は時間が経って頬や顎が紫になっている。成人男性顔負けの体格が本気で殴り合えば相応のダメージがあるのは当然だ。歯や骨が無事だったのは幸いだが、きっと服の下もあちこち痣になっている。流血沙汰にけろっとした顔をしている時点で普通ではない。
「まず腫れてるところに保冷剤当てて。擦り傷消毒するね」
 出過ぎた真似と鬱陶しがられるかと思えば、彼は言われるがまま素直に従った。袖とズボンの裾を捲り、保冷剤を頬に当てて大人しくされるがままになっている。一言断って血の滲む箇所に消毒液を垂らし、ティッシュでトントンと叩く。まだ面識の浅い相手との無言の間に内心どぎまぎしていると、彼が切り出した。
「五条の方には行かなくていいのかい?」
「あの人無限張れるからそこまで大した怪我してないでしょ」
「無限?」
「あのバリアみたいなの。五条家の相伝なんだ。私も理論はよくわからないんだけど」
「そうか。君は五条と古い知り合いだったんだね」
「有名人だから。向こうは私のことなんて眼中になかったみたいだけど」
「あいつはどうにかならないのか? さすがにあの態度はいただけないな」
「私に言われても……。悪い人ではないんだけど、最強だから誰も口出せないんだと思う」
 苦虫を噛み潰したような顔で呟く彼に、同じ気持ちの私は苦笑いしかできない。もし天下の五条悟を変えられる存在がいるとしたら、きっとそれは彼を理解し対等に渡り合える人間だけなのだと思う。例えば目の前にいる彼のような。私じゃ役不足だ。
「ゲトウ君ってどんな字書くの?」
「春夏秋冬の夏に、揚げ物の油。傑作の傑」
「サマーオイル……」
「その言い方やめてくれないか」
 夏油傑。『傑』はとびぬけて優れた人に、という意味だろうか。呪霊操術の使い手である彼にふさわしい名前なのかもしれない。
 ようやく緊張が解れてきた私が軽口を叩くと、夏油君もふっと口元を緩めた。見た目はどう見ても不良だけれど、急にキレて殴られるようなことはなさそうで安心した。だからこそ、そんなまともな彼が勘違いされたままでいるのはもったいないと思ってしまう。
「喧嘩しちゃダメだよ。他人に呪いをけしかけるのもダメ」
 人を殴ってはいけない。人が嫌がることもしてはいけない。小学校低学年で習う道徳の授業のようなことを告げ、つい神妙な顔をしてしまった。なんだか自分がすごくアホみたいに思えて悲しくなってくるけれど、誰かが諭さなければ。
「……」
 なぜか彼まで神妙な顔をして黙り込んでしまい、沈黙が落ちる。
「どうかした?」
「いや、まさかこの歳になってそんな真っ当なことを諭されるとは……」
「私だってこの歳で殴り合いなんて見ることになると思わなかったよ」
 それも一歩間違えれば殺し合いの域だ。「術式使うなんて、非術師なら死んでたよ」とつけ加えようとして、非術師家庭の出身である彼はそれを人一倍理解しているだろうことに思い至った。非術師は弱い。私達がその気になれば赤子の手を捻るよりも簡単に命を奪えてしまう。五条悟だから使ったのだ。信頼というか、遠慮がないというか。わかりにくい特別に、私までつい笑いそうになってしまう。
「呪霊操術の使い手、はじめて見た。私も相伝の術式を継いではいるけど、正直夏油君が羨ましい」
「そうなのか? 今までは見える人間と会うことがなかったから……私は知らないことだらけだな」
「じゃあ、すごいプレゼントをもらったんだ。ご両親に感謝だね」
 なんの気なしにした発言だった。ギフテッドというか。湿布のシートを剥がしながら彼の『私』という男子にしては珍しい一人称に気を取られていると、彼が再び黙り込んだ。あれ? もしかして地雷を踏み抜いてしまったかと、一拍遅れて血の気が引く心地がする。
 非術師の間では、術式は必ずしも祝福されるわけではないと聞く。無力な非術師にとって見えないものが見え呪力を操る術師は、理解が及ばない異分子だ。排除しようという力が働くのは無理もない。ひどい場合では嘘つき呼ばわりされたり、後ろ指を差され暴力を振るわれたり。呪術師として育てられてきた私には想像の及ばない話だけれど、もしかしたら彼も今までに嫌な思いをしてきたのかもしれない。だとしたらとんでもなく無神経なことを言ってしまった。
「ごめん! その、術式って生まれ持ったものだから才能というか、悪気はなかったんだけど無神経だったかも……」
 悔やめども失言は取り消せない。慌てて頭を下げて謝罪すると、彼は静かに頭を振った。包帯が巻かれた白い腕をひと撫でして、表情を和らげる。腫れて端の切れた唇が弧を描いて、彼の目はどこか遠いところを見ているようだった。
「いや、いいんだ。……そうか、贈り物か。考えたことなかったな」
ふっと息だけで笑って噛み締めるように呟いたその横顔は、ひどく大人びている。私はなぜだか目が離せなかった。なんて寂しげで、優しい顔で笑う人なのだろう。
 しかしその後いつまでもクツクツと喉を鳴らしている彼に、一層の気恥ずかしさが積もる。こちらは真面目に治療しているというのに、一体何がそんなに面白いのか。
「なに笑ってるの」
「痛ッ」
 照れ隠しに脇腹を軽く小突けばちょうど運悪く患部に直撃したのか、彼が小さく呻いて身を竦めた。やはり服の下も打撲しているのだ。さすがにここで半裸になられても困るから、残りの湿布は持ち帰ってもらおう。捲り上げていた彼の制服の袖を直してやる。
「私は真面目に心配してるのに!」
「ごめんごめん。もしかして苗字さんって天然?」
 口では謝りながらも顔が笑っている彼は、悪戯っ子のように歯を見せた。冷たい印象与える三白眼も、笑うと糸のようになっていくらか幼く見えた。しかし言うに事欠いて天然とは、馬鹿にされているのだろうか。少なくとも夢見がちだとは思われてそうだ。術式がプレゼント、なんて少々臭すぎるセリフだったかもしれない。でもこの仕打ちは。
「……夏油君ってもしかして性格悪い?」
「さぁ?」
 それは性格が悪い人の返答だ。五条悟だけではなく一癖も二癖もあるらしい同級生に、そっとため息を吐く。たぶんこれからわかってくるのだと思う。なにしろ高専での生活は五年間もあるのだ。答え合わせにはきっと十分すぎる時間だろう。
 わざわざ手当てしたけれど、もう一人の同級生が反転術式の使い手だと知るのはもっと後のことである。




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