凹と凸

(七海 side)

欲望と節制の問題である。

 呪術師といえどもただの男だ。異性に湧き立つ年相応の欲があるのは理解できるし、それはまた自分も例外ではない。もし身近に触れることを許されまた自分を求める相手が居たら、つい衝動的に手を伸ばしてしまうだろうということも容易に想像できる。しかし、これとそれは別の問題である。
 古い映画のワンシーンのように、男と女の影が重なっている。男がベンチの上に乗り上げ、座った女に覆いかぶさるように深く口付けていた。ベンチの背と男の腕が、まるで檻のように彼女を閉じ込めている。女の手が、縋るように男の胸に添えられTシャツを掴んで皺をつくった。男が服の上から女の腰のラインを撫であげ、女が半ズボンから覗く白い脚を物欲しげに擦り合わせる光景はどう考えても目に毒だ。時折息と一緒に鼻から抜ける女の高く甘い声は、喘ぎ声と紛う淫欲を滲ませて傍観者である自分の鼓膜も否応なく揺らす。こちらの体の芯に火をつける、彼女のよがる声に思わず唾を飲み込んだ。まずい。視覚と聴覚の両方から強制的に与えられる情報に、自分の表情筋が固まるのがわかる。色づいた男女の吐息と舌を絡めるくぐもった水音が、自動販売機の置かれた日常感溢れる空間に、嫌というほどミスマッチを起こしていた。
 異様に熱を上げるその空間にさすがに面食らって立ち尽くしていると、後ろから駆け寄ってきた同級生が「ひっ」と息を呑み小さく飛び上がったのがわかった。ここは見て見ぬ振りするのが無難だと踵を返そうとしたその時、男の肩越しに女とばっちりと目線が交差する。スローモーションのように綺麗にカールされ上を向いた彼女の睫毛がゆっくりと上下して、大きく目が見開かれた。女の口の端から透明な液体が伝うのが見えて、思わず目を逸らす。夢中で女の口内を貪っていた男が「うっ」と呻いた。相手の口内に挿し込んでいた舌を噛まれたのか、男が手で口元を覆い痛そうに顔を顰めて離れる。
「……どうしたんだ?」
「な、なななみ、はいばら」
彼女は、壊れた人形のようにカタカタと震えながらこちらを指差した。まるで幽霊でも見たような顔だが、どちらかといえば見せられたのはこちら側である。熱に浮かされ子猫のように濡れた女の瞳が動揺に揺れているのを見て、さすがの七海も哀れに思った。男が振り向き、驚いてその細い目が見開かれる。が、瞬時に取り繕った完璧な笑みを貼り付けた。七海と灰原の一学年上の先輩である夏油傑とその彼女の苗字名前が、今度こそ揃って身体をこちらへ向けた。
「……ああ。すまないな」
人好きのする笑み。しかしよく見れば若干引きつっている。「よくも邪魔をしてくれたな」という心の声がひしひしと伝わってくるようだった。一方で苗字先輩は気の毒なほどに顔を赤くして、捲れ上がった服の裾を直したり口を拭ったりと慌てて居住まいを正している。どう考えても遅い。興奮の余韻を残す赤く染まった耳が俯いた髪の隙間から覗き、恥じらいからか唇が小さく震えていた。自室でならいざ知らず、ここは紛れもなく寮生なら誰でも立ち寄れる共有スペースである。間違っても乳繰り合う場所ではない。普段はきつく結い上げている夏油先輩の髪が解かれ濡れていることから、二人が今さっきシャワーを浴びたばかりなのだと悟る。状況が整っていて尚のこと悪い。もし一年生がこの場に通りかからなければ、一体この人達はどこまでコトを進めるつもりだったのか。考えて頭痛がした。と、ここで漸く先ほどから石像にでもなったかのに固まり一言も言葉を発しない同級生の存在を思い出した。
「ああああすみません!何も見ていません!!」
 君は何を言っているんだ、灰原雄。茹だったように頬を染めた灰原は、苗字先輩と同じかそれ以上に動揺していた。無理もない。知り合い同士の濃厚なキスシーンを見せられれば誰だって混乱する。なにしろ灰原は、以前五条先輩が夏油先輩カップルを指して「こう見えてコイツら、部屋でヤりまくってんだからな」と戯れた際には「……?何をですか?」と素で言い放った男なのだ。まさか尊敬する先輩同士が欲に駆られたセックス一歩手前の生々しい肉体接触をしているなど、夢にも思っていなかったのだろう。夏油先輩を崇拝するあまり、彼が私生活では大して歳の変わらない等身大の男であるという認識が頭から抜け落ちていたのかもしれない。規則の緩い寮生活の男女なんて、とっくに一線を超えていることは容易に想像がつくだろうに。まるで中学生の恋愛観だ。灰原は慌てるあまりその場でUターンし前も見ずに歩を進めたので、「待ってくださいそっちは壁、」と急いで七海が言い終わるより先に壁に激突した。コメディさながらにゴチンと大きな音が鳴り、灰原は赤くなった額を抑えて「あ゛ー…」と痛みに悶絶し呻き声を上げている。まさか自分達のキスからこんな惨状を引き起こすとは思わなかったのか、夏油先輩と苗字先輩はきょとんと目を丸くしている。その二人の表情がそっくりで無性に腹が立った。
「……場所は選んでくださいよ」
 人相が最悪になっている自覚はある。七海が地を這うような唸り声を出すと、先輩二人は悪戯が見つかった子供のように眉を下げて決まり悪そうな顔をした。夏油先輩も珍しく殊勝な態度である。なぜ後輩である自分が先輩を嗜めなければならないのだろう。本来なら逆のはずだ。思わず深いため息を吐く。
「ほらもう!傑がこんなところで盛るから!私は嫌だって言ったのに!」
「名前だって乗り気で応じてきただろう」
「それは……その、傑に流されて」
「部屋でやってください」
 それかラブホテルにでも行ってくれ。痴話喧嘩にすらならない肘で突き合うじゃれあいを目の前で繰り広げられて、げんなりする。大変仲がよろしいのは結構だが、後輩の前で男と女の顔を見せるのはやめて欲しかった。
 基本的には尊敬できる先輩である。双方ともに実力は呪術界でも折り紙付きだし、足手まといになりがちな非術師家庭出身の自分達にも親身になって教え、任務でも適度にサポートへと回ってくれる。放任主義で好き勝手やっている白髪の先輩や感覚派の医者見習いの先輩と比べれば、この二人は七海からすればよほど"まとも"な部類だった。だから最初にこの二人が付き合っているのだと笑いまじりの五条先輩から聞いたとき、不思議とすんなり腑に落ちた。ありていな言い方をしてしまえば、お似合いだったのだと思う。一般家庭の出身で柔らかな物腰に一抹の毒を隠し持った夏油先輩と、呪術師家系で育ち聡明さの裏に驚くほどの激しさを併せ持つ苗字先輩。一見正反対の二人は凹と凸を埋めるように、あるいは磁石の正極と負極が引き合うように、不完全な人間が補い合ってひとつになろうとする摂理によって惹かれあったのだろう。ロマンチストがすぎるだろうか。彼らのお互いを見る目がどこまでも優しくて、七海は不器用ながらいつか自分も誰かとこんな関係を築いたりするのだろうかと、ぼんやりと夢想したこともあった。男女の機微に限らず、他者の様子の変化には敏感な方だと自負している。だから夏油先輩と苗字先輩が体を重ねた翌朝に二人だけの間に漂うわずかな気配だとか密かに交わされる目配せも、気づきたくなくともとっくに気がついてしまっていた。
「本当にごめんね。……その、変なもの見せて」
「……ええ、まあ。教育にはよろしくないですね」
「ちょっと七海!お、俺は気にしてないですから!!忘れるので……!」
「ごめんなさいっ……!」
 顔の前で拝むように手を合わせ謝り倒す彼女の襟口からは、鬱血痕が覗いている。髪が揺れるたびにキスマークが見え隠れしていることに本人は気づいていないのだろうか。だとしたら夏油先輩は悪趣味だ。「どこ行くんだ?」「私の部屋!帰る!」とついに居た堪れなさが限界突破したのか、彼女は叫び小走りで去っていく。そんな初々しい反応が夏油先輩をますますつけ上がらせているのだと、彼女は気付いていないのだろうか。スリッパの乾いたパタパタという軽い音が遠ざかっていくのを、夏油先輩は薄い笑みを浮かべて見送っている。後できっと、彼女の部屋でさっきの続きをするのだろう。想像したくもないが、今度は最後まで。

「2人とも何飲みたい?」
「口封じですか」
 呆れて聞くと、夏油傑は口角を上げ「さあ。何のことかな」といけしゃあしゃあと抜かした。食えない男だ。わざわざ固辞する理由もないため「……紅茶で。ストレートの」「俺はコーラでお願いします!」と頼むと、彼は満足気に頷き自動販売機に小銭を投入する。鍛え上げられた男らしいその背中を見て、小さく舌打ちした。
 彼らは紛れもなくお似合いだ。お似合いだけれど、それを認めるのは癪だった。男と女。世界は案外、恋とか愛とか性欲だとか馬鹿みたいな何かで動いてるのかもしれない。鏡合わせのように、自分にないものを相手の中に見つけた夏油先輩と彼女を見ていると時々そう思ってしまう。どうか末長くお幸せに、と心の中だけで願う。口が裂けても言ってはやらないけれど。

(おまけ)
「さっきはびっくりしたけど…でもすごかったね七海!俺達にはわからない大人のキスって感じ…!さすが夏油さん!」
「あれは悪い大人の例だろ」
 まともな大人はあんな人目につく場所で発情しない。




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