行く年来る年

(夏油 side)

「初詣、混んでたね」
 マフラーに顔の下半分を埋める名前の頬は寒さで赤らんでいる。彼女が話す度に、白い息がふわふわと吐き出されては消えていく。初詣から帰る人と向かう人の群れが絶えず行き交う雑踏の中、私がはぐれないように無言で手を取ると名前は照れたようにはにかんだ。
「徹夜明けの初詣に誘った私が言うのもなんだけど、体はキツくないか?」
「徹夜は任務で慣れてるから大丈夫だよ。お正月って呪いが少なくて私は好きだな。やっぱり新年迎えると気持ちも一新する人が多いんだね」
 私達の年越しは帳の中だった。どこかで鳴る除夜の鐘を聞きながら、お互いに呪いを討伐している間に呆気なく迎えた新年。呪術師らしい大晦日の過ごし方ともいえる。同級生の恋人とはそのまま日の出を見て、電車を乗り継ぎ明治神宮へ初詣に来ていた。完全に思いつきと勢いだけの外出だが、普通の十代の男女らしいデートに浮き足立つ気持ちは抑えられない。クリスマス前後は人間の負の感情から呪いが発生する呪術師の繁盛期のため、二人きりの時間は中々取れていなかった。光を吸い込むように真っ黒な呪術高専の制服の上にコートを着込んだだけの二人は周囲の華やかな装いからは若干浮いているが、名前も今さら気に留めている様子もない。
 人混みに押されながら忙しなく参拝を終えた帰り道、手を繋ぎながら駅まで歩く私達の間には優しい時間が流れていた。肌を刺す空気の冷たさに暖かな部屋が恋しいが、同時にこの穏やかな帰り道が永遠に終わらないで欲しいとも思ってしまう。
「実家には帰らなくて良かったのか?」
 何気なくした質問だったが、名前はふいと目線を落とした。心なしか歩く速度も遅くなって、慌てて彼女に歩幅を合わせる。名前は手袋越しに私の手をきゅっと握った。
「ほら私の家、両親も親戚も呪術師でしょう?だからみんな悪い人ではないけど、考え方が古臭いというか……ちょっと息苦しくて。御三家の悟の方がずっと大変だとは思うんだけどね」
「ああ。悟は気の毒だな」
「実家にほぼ強制送還だもんね」
 悟は「なんで年明け早々からジジイの辛気臭い顔見なきゃならないんだよ」と五条家からの再三の呼び出しにぶつくさと文句を垂れていたが、担任の夜蛾にも「東京校と御三家の仲をこれ以上は拗らせないでくれ」と懇願され渋々実家へ帰省していった。五条家が寄越した迎えの黒塗りの車に半ば押し込まれる形だったが。
「だから私、今年は三が日に任務が入ってるって嘘ついちゃった。……傑と一緒に居たいし」
 最後の言葉だけが尻すぼみになって、照れているのがわかる。身長差があるから、俯いた名前の伏せられた長い睫毛がよく見えた。彩られた瞼も綺麗に上を向いた睫毛もつやつやと蠱惑的に光る唇も、それが恋人である自分に向けられたものだと思うと愛しさが溢れて身悶えそうになる。自身でも夏油傑という人間は淡白な男だと思っていたけれど、高専に入学し名前にありふれた恋をして付き合い始め、初めて自分がこれほどまでに他人を深く愛せるのだと知った。知らないことばかりだ。彼女と居ると、私は特にそれを痛感する。
 と、そこで名前かのいじらしさに、ふと悪い考えが浮かんだ。
「唇に髪の毛がついてるよ」
「嘘!?やだ恥ずかしい、たぶんグロスのせいだ……」
「私が取るから、動かないで」
 慌てて立ち止まり口元に手をやろうとする名前を制止して、道路脇で向かい合う。念のために言うと、嘘はついていない。彼女の下唇に触れる髪を優しく払った。されるがままにきゅっ、と口を引き結び固く目を閉じている彼女の表情はわずかな緊張を帯びていて、いつものセックスで羞恥に耐え快感に震える様子を思い起こさせた。思わずそのまま身を屈めて軽く口付ける。彼女がびくりと身を硬くしたのがわかった。冷えた鼻先が触れてひやりとするが、触れた唇は柔く湿って温かい。わずかに唇を開くと、お互いの熱い息が口内で混ざり合った。離れる時にちゅっと控えめなリップ音が鳴り、名前の睫毛がふるりと震える。
「……道端で何やってるの。ばか」
「なんとでも言ってくれ」
 顔が緩んでいる自覚はある。悪戯が成功しニヤニヤと笑う私を、名前はジト目で見上げた。彼女がいくら眉根を寄せ怒った顔をつくったところで少しも迫力がない。さっきより頬が赤いのは気のせいではないだろう。熟れたリンゴのように鮮やかでつるりとした彼女の肌は美味しそうだ。男の本能に突き動かされるままにかぶりつきたい、と物騒な考えが頭をよぎったりした。
 道端でイチャつく学生カップルを、通行人は呆れた目で見て追い抜いていく。元旦なのだからこれくらいの浮かれ加減は見逃してほしい。今日の私の理性は休業だ。心の中でそんな適当な言い訳をした。



「苦しくないか?」
 乗り込んだ地下鉄は案の定混んでいた。老夫婦や子供連れの家族、カップルなど皆がそれぞれ楽しげな顔で笑い合っている。普段は都内の外れに位置する高専の寮で生活しており任務の送迎も車移動のため、私達が公共交通機関の世話になることは少ない。痴漢や不審者の標的になることがないようにと私が名前の壁になるように立つも、彼女はただ物珍しげに周囲を見回していた。
「割と混んでるのに余裕あるね?いつもならぎゅうぎゅう押されるのに」
「……さあ?」
 名前の疑問の原因は十中八九、私にあるのだろう。気づいていないのか感覚が麻痺しているのか、黒ずくめの大男が否応なく周囲に与えてしまう威圧感に彼女は無自覚なようだった。同級生に190cm越えのサングラスの男と、長髪にピアスと誤解を招きやすい格好の男の二人しか居なければ仕方がないのかもしれない。同じ車両の人間がそれとなく私達を避けて距離を取るのが、心底不思議だというように首傾げる名前に私は思わず苦笑した。
 暫く経った駅で何人かが降車しちょうど目の前の席に並んで空きができたため、名前に座るよう促し自分も腰を下ろす。行儀良くスカートの裾を整えて座る彼女を眺めていると、突如として横顔に衝撃が走った。正確には、何者かの手によって強制的に顔だけ左を向かされた。地肌が無理に引っ張られる痛みに、思わず「いてっ」という声が漏れる。視界の右側で「傑?」と名前が不思議そうな声を上げた。
「あああ!こら、お兄ちゃんの髪離して!すみません……!」
 犯人の正体は子供だった。弟妹の居ない私にはその子の月齢がどれほどかは見当もつかないが、とにかく隣の席の見知らぬ幼児が母親の膝の上に乗ってこちらに懸命に手を伸ばしている。ふくふくとした小さな拳に私の前髪をひしっと握り締めて、あー、とかうーとか声を出して笑っていた。よくわからないが心底楽しそうだ。一房だけ垂らしている私の前髪が触角か何かに見えたのだろうか。無垢な色をしたまんまるの瞳に見つめられて、思わず言葉を失う。透き通った瞳に、私の惚けた顔が映っていた。
「離しなさい!お兄ちゃん痛いから……!本当にすみません!」
「いえ、大丈夫ですよ」
 パニックになってるのか気の毒なほど顔を青くして頭を下げるお母さんを、安心させるように笑う。無害な人間であるのをアピールするためだ。そうすると、前のめりになる子供を必死で押さえながらも母親は少しだけほっとしたように眉を下げた。ただ子供だけあって力加減はできないようで、遠慮なくグイグイ引かれると地味に痛い。毛根からわずかに不穏な音がしたため、首を竦めて子供に身を寄せた。
「困ったな……離してくれるかい?」
 言葉は通じないか。横目で幼児の顔を見ても、キョトンと目を丸くした後ニコニコと笑うばかりである。餅のようにぷっくりとした頬が上がってキャッキャっと笑う様子はとても愛らしい。しかし降車駅も近づいてきているしどうするかと思案していると、横から伸びてきた白い手がもみじの手に優しく触れた。名前だ。彼女が、覗き込むようにして幼児と目線を合わせる。
「ふふっ、お兄ちゃんの前髪が気になるよね。でもそうやってギュッてしたら痛い痛いだよ?おててパーにできる?あ、できたね!えらいね〜〜ありがとう」
 目を細めた名前が、俗に言う赤ちゃん言葉で語りかけた。眼差しには慈愛と一抹の緊張の色を浮かべている。名前がじゃんけんをする時のようにパーの手を掲げると、幼児の興味の対象がそちらに逸れたのか、髪を握り締める手が緩んだ。その隙を逃さず脱出する。名前は満面の笑みで幼児を褒めていた。漸く解放されて小さく息を吐いていると、母親に申し訳なさそうに改めて謝られる。感謝を述べられた名前は、「こういう時って他人の言葉の方が案外気を引けたりするみたいですし。お母さんはいつも大変ですよね」と照れ臭そうに笑っている。その後の停車駅に着くまでの間も、お母さんと雑談をしながら幼児と遊ぶ名前は「かわいい」を繰り返していた。
 電車から降りても名前はクスクスと笑っていた。幼児に言葉が通じたのが余程嬉しかったのか、弾む声色は興奮の余韻を引いていた。
「傑、あの子のお母さんに最初すごい怖がられてたね」
「私の見た目が怖がられやすい自覚はある」
「あるんだ」
 「その特攻服みたいな制服じゃ仕方ないよ」と言われ「特攻服じゃない。これは私のこだわりなんだ」と返す。側から見てもちぐはぐの印象を与えるカップルだろうとは思う。お世辞にも好青年のイメージとはかけ離れた私とは対照的に、名前は一見では呪術師とはわからない、どこか汚れを知らなさそうな無垢な雰囲気を纏っている。
「赤ちゃん可愛かったね。傑、子供にも優しいんだ」
「子供はかわいいからな。名前も子供が好きなのか?」
「うん。私もいつかお母さんになりたいな……あ!そういう意味じゃなくて!」
「……?いい母親になるだろうな」
 さっきの対応だって見事だった。彼女にも弟妹が居るわけではないから経験値の差というよりは、素の子供好きと面倒見の良い人柄が為せる技なのだろう。きっと良い母親になるのだと思う。無償の愛を注ぎ、必要な時には厳しく諭す。恋人に聖母の面影を見るなんて少し気持ちが悪いかもしれないが、私がその愛情深い人柄に惹かれたのも事実だった。
 何気なく放った言葉だったがなぜか慌てて弁解し始めた名前に、数秒してその意味を理解する。彼女はなにかを言い淀み口をパクパクした後、意を決めたように絞り出した。消え入りそうな声量だったが、その言葉はしっかりと私の耳まで届いた。
「その時は、お父さんは傑がいいな……」
 時が止まったような気がして、思わず瞬きする。一瞬遅れて彼女の言葉の意味を咀嚼した。あまりにベタで甘いセリフを口に出してしまったことを後悔しているのか、赤面して俯いてしまったつむじを見下ろす。名前の手が、くしゃりとスカートを握り締めて皺をつくった。呪術師として多忙ながらも充実した毎日で、漠然とでも考えたことのなかった『これから』の話。なんて甘い響きだろう。駅のプラットホームで絶えず人が交差する中、棒立ちになった私たちの周りだけ違う世界のようだった。
「……そうだな、私もそれがいい」
 噛み締めるように答えると、自分の中にじわじわと嬉しさが広がった。心の奥に炎が灯されたように、ぽかぽかと温かく指先まで染み渡っていく。その熱が顔にも伝染して、不意に目頭が熱くなり慌てて気づかれないように小さく息を吸った。二人して、赤い顔をして向かい合っている。
 この先も隣で新しい年を迎えていって、それを重ねた先にある『これから』なら悪くない。いつか家族が増えて、私と名前と新しい家族と初詣に来たい。子供と三人で手を繋いで、体温を分けあいながら帰り道を歩きたい。その相手は名前がいい。名前以外は嫌だと思う。彼女と思いを馳せる未来のあまりの眩しさに、私は思わず目を細めていた。




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