ライフイズグッド

※夏油傑の両親&実家捏造

 東京都立呪術高等専門学校に長期休暇というものは存在しない。呪いは土日祝なんておかましなしに日夜発生し、絶えず人命を脅かし続けている。だから呪術師は年がら年中人手不足に悩まされており、未成年の呪術師だって例外ではない。この特殊な業界では未成年の深夜労働や長時間労働に関する法律は適用されないらしい。そんな無茶な勤務体制ゆえ、年末年始といえども数日の連休を取るのが精一杯だった。
 華の学生である私達も例に漏れず、せっかくの冬休みも数学やら英語やらの宿題は出されない代わりに、単位を人質に取られた命懸けの実習へとあちこちに駆り出されている。割りに合うかと言われれば、おそらく合わない。
「……ああ。そっちには日が暮れるまでには到着するから。え? 新幹線で行くよ。チケットはまだ取ってない」
 ケータイで通話する恋人の端正な横顔を、頬杖をついてぼんやりと眺める。大ぶりのピアスがケータイの液晶画面に擦れる度にカチャカチャ、と乾いた音を立てた。寮の建物に外付けの非常階段に並んで腰掛ける私は、そのやり取りを黙って聞いていた。
 傑の電話の相手は母親だった。心なしか口調がいつもよりぶっきらぼうだ。普段の慇懃無礼な口調こそ十代男子としては異様なのかもしれないが、傑が母親に対する照れや反抗心といった男子高校生らしい青臭い感情を持っていることに安心して、同時に微笑ましく思う。好きな人にかっこいいだけでなくかわいいなんて感情を抱いてしまうなんて、私もいよいよ末期かもしれない。燃え上がるような恋心に泣きたくなるような愛おしさが加わって、近いうちに私ひとりじゃ抱え込めなくなりそうだ。夏油傑と付き合い始めてからの私は、毎日どこかふわふわとして現実味が伴わない。端的に言えば浮かれていた。
 高専の寮はプライバシーが確保されているようで、実のところそうでもない。傑の部屋で恋人らしい行為をしようにも壁は薄いし悟は頻繁に突撃してくるし、談話室は後輩達が通りかかるから論外だ。詰まるところ、年頃のカップルである私達には人目につかない場所が必要だった。勿論いかがわしい意味である。そういった意味で、この人目につかない寂れた非常階段はとても好都合だった。
 今日もお風呂上がりに例の場所で落ち合って何気ない会話をして、やはりそれだけでは我慢ができなくなって布越しに触り合う。傑の爪がブラジャー越しに乳頭を引っ掻くと、小さく吐息が漏れて下腹部にじんわりと熱が集まった。耐えられなくなって顔を逸らすと首筋を吸われる。見えるところにキスマークつけないで、って言ったのに。そのまま唇を重ねて舌を絡めて二人の唾液を混ぜ合わせていた時、場違いな着信音が水音をかき消した。ぴくり、と動きを止めた引き締まった肉体がそっと離れていき、ケータイを取り出した傑が「……母さんだ」と呟いた。苦虫を噛み潰したような顔だ。私は気を遣って階段を離れようとしたけれど、傑が目で制したためその場に留まった。
「ん? ああ元気だよ。変わりない。学校はうまくやってるし、心配しなくても大丈夫だよ。……彼女? 母さんに関係ないだろ」
 急に自身に飛来した話題に、私も思わず体を硬くした。つい会話に耳を澄ましてしまう。傑は私という彼女の存在を隠してはいないけれど、傑とは一端の肉体関係がある以上、親の存在に気まずさを覚えてしまうのも仕方ないと思う。親の前では子供はいつまでも子供なのだ。
 それに傑は一般家庭の出だ。一人息子が得体の知れない女と交際しているのを、彼の非術師の両親はよく思わないかもしれないという懸念もあった。いくら階級が上がろうと優れた術式を持とうと、閉じられた呪術界から一歩踏み出せば何の意味も持たないことを私は知っている。
「……それじゃあ、年末に。母さんも父さんも体に気をつけて」
 そう締めくくった傑の親指が、真ん中のボタンに触れる。シャッとスライドして小さく畳んだケータイをポケットに突っ込む傑の隣へと、私はずるずるとにじり寄った。無言で逞しい肩へともたれ掛かれば、傑の大きな手が私の髪をくしゃりと乱す。
「待たせて悪かった」
「ううん。帰省の話?」
「ああ、やっと休みが取れる日が確定したから。たしか名前と同じ日程だ」
「私達は悟と七海と入れ違いなんだよね」
 好きな時に休みも取れない職場に今後数十年間も勤め続けるのだと考えると気が重い。ただし途中で殉職しなければ、の条件付きである。無事に呪術師の定年を迎えられる者は少ない。そのほとんどが志半ばで命を落とすか、心を壊すか、手足や臓器の欠損で戦線から退くことになる。けれど呪術師でなくとも今の日本なんてどこもかしこもブラック企業に溢れていて、命を賭けるぶん高給取りで適性のある職種の方がまだマシなのかもしれない。呪いの発生が絶えないのも納得のいく、世知辛い世の中だ。
「年末年始は帰らないんだろう?」
「うん。私の実家は都内だから帰ろうと思えばいつでも帰れるから。それに呪術師の親戚付き合いは……正直なるべく顔合わせたくないんだよね」
「それは……察するに余りあるな。悟も御三家には顔を出したくないと散々抵抗していた。結局折れて連行されて行ったが」
「ね。呪術師ってどうして変な人多いんだろう。お爺さん達なんて考え方も黴臭くて女を下に見てるし、話してるだけで消耗する」
 呪術界への不満を漏らせば、芋づる式にずるずるといくらでも出てくる。自分の両親との仲は幸いにも良好だけれど、今の呪術界やそこに身を置く人間に思うところがないかと言えば嘘になる。十代やそこらで嫁入りだ後継だと聞かせられるのは耳タコで、イエの嫌なところを煮詰めた考え方には辟易していた。私は強い呪術師になって、ただたくさんの人を守りたいだけなのに。
 その点、全くの外の世界から呪術界に足を踏み入れた傑はどこまでもフラットで優しかった。家同士の利権争いとも無縁で、弱気を助け強気を挫く、彼の真っ当な正義感が好きだ。傑と居ると私は束の間のひとときだけでも等身大の女の子になれた。
「傑は二泊三日で実家帰るんでしょ? 気分転換して来てね」
「ああ。お土産買ってくるよ」
「……ただ会えないのは、ちょっと寂しいけど」
 小声でそうつけ加えれば、傑は薄い唇をきゅっと引き結んでわかりやすく嬉しそうな顔をする。大人びた彼が時折見せるあどけなさが堪らなく好きだ。そして彼にこんな顔をさせられるのは恋人の特権だと、私はまた自惚れてしまう。
 眉を下げ「私も名前と会えないのは寂しいよ」と口にした傑がふと何か思い巡らすような顔をしたので、首を傾げる。空中に視線を彷徨わせた傑の三白眼が、再び私を捉えた。
「……来る? 普通の家だけど」
 来る? 誰が? どこに? おそらく私が、傑の家に。思いもよらない言葉にぱちりと瞬きした。対する傑は至って真面目腐った顔をしていて、その言葉が思いつきであっても冗談でないことがわかる。
 傑の言う「普通の家」とはおそらく非術師の家庭を指すのだろう。彼の両親にも会うのだろうか。その言葉の意味を理解して、途端に胸の辺りがそわそわした。
「いいの? 迷惑じゃない?」
「母さん達も前から会いたがってた」
「行く! 傑の育った場所、見てみたい」
 嬉しさのまま飛びついても難なく受け止められた。頼もしい胸に顔を埋めると男物のシャンプーの匂いが鼻を掠める。甘えて傑の肩に頭を擦り付ければ、背中に腕が回るその勢いのまま抱き寄せられた。「名前が私の家に来てくれるなんて嬉しいよ」と甘い低音が鼓膜を揺らし、私の耳は途端に火でもついたかのように熱くなる。
 夏油傑がどんなところで、どんな人達に囲まれて、何を見て、何を感じて育ってきたのか。私には知り得ない彼の生きてきた十五年間を知りたいと、最近は強く思う。愛と言えば聞こえはいいけれどきっと執着に近い。傑の「今」だけでは飽き足らず、過去までを欲している。己の欲深さに、私は恋をして男を知って、初めて気づかされた。片想いの頃は傑の心が欲しいとあれほど切望していたのに、今は傑の全てを欲しいと願う私がいる。好きが積もって爆発してどうにかなってしまいそうだ。
 いつかどこかで聞いた「愛は呪いだ」という言葉の意味を、最近は少しだけ理解できる気がした。



 東京駅から東北新幹線で三時間、JRに乗り換えて北上駅まで一時間、さらにそこからバスでニ時間弱。いくつかの鬱蒼と茂った山林を抜けた先、いつしか窓の外には見渡す限りの銀世界が広がっていた。日を照り返す眩しい雪の白さと密集した木々の黒さが自然の美しいコントラストを描いている。東京とは明らかに違う澄んだ空気を胸一杯吸い込むと、痛いほどの冷たさに肺が凍てつくようだった。
 傑の実家に刻一刻と近づくにつれ、バスの揺れに身を任せる私も今になって自信や覚悟までぐらぐらと揺さぶられているのを感じていた。誘われるまま勢いで来てしまったものの、夏油家の親子水入らずの団欒の邪魔をしてしまうのではないか。吐息で曇った窓ガラスには、浮かない顔をした私が映っている。
「緊張する……」
「そんなに気負わなくていいさ。家族の私が言うのもなんだけど、気の良い人達だから。名前と会えるの楽しみにしてるはずだ」
「だからこそ失望されないか心配なんだよ」
「安心してくれ。君は私の自慢のかわいい彼女なんだから」
 ジマンノカワイイカノジョ。言われた私の耳が溶け落ちそうなくらい、歯の浮くような言葉だ。そんな褒め言葉を恥ずかしげもなく言い放ち、おまけに様になるのが私の彼氏の怖いところである。涼やかなイケメンは年齢に不似合いな余裕を纏っていつも私を掌の上で転がすから、私はいつまで経っても生娘のような反応しかできない。私もあと十年もすれば女のいろはが身につくのだろうか。今だって「自慢のかわいい彼女」の言葉が嬉しくて、ついにやけてしまいそうな頬をどうにか取り繕おうとしてがひくひくした。そんな私の変な顔を見て傑が喉をくつくつと鳴らして笑う。
 緊張から無意識に小さく縮こまっていた私の腰に、傑の腕が回る。バスのシート内で抱き寄せられズボン越しに太腿が密着した。普段は人前であからさまなスキンシップをとろうとしない傑でも、プライベートの遠出にいくらか解放的な気分になっているのかも知れない。一方の私は乗客もまばらなバスの車内で密着していれば目立つのではないかと気が気ではなかった。浮かれたカップルへの地元の老人達の物言いたげな視線も傑はどこ吹く風で、今はその横顔が憎らしい。それでも暫くの間私達は隙間風で底冷えするバスに揺られながら、無言で体温を分け合っていた。
「さあ。着いたよ」
「わぁ! すごい雪……」
「路面が凍っているところがあるから歩き方に気をつけて」
「ひっ」
「おっと、危ない」
 手を引かれ、恐る恐るバスから降り立つ。道路脇や畑に数メートルは積もっていようかという見事な雪景色に周りを見渡していると、注意された矢先に靴裏が滑って空を切った。バランスを崩した私のお腹に腕を回したおかげで、凍結した路面とのキスを回避できた。体格差から小脇に抱えられるような体勢になって顔を赤くする私に「ほら。名前は雪に慣れていないんだから……」と傑は笑って、手をしっかりと繋がれる。これではまるで保護者と子供だ。
「ここが私の故郷だよ。何もないところだろう?」
 口ではそう言うものの、傑の目には愛情と慈しみが浮かんでいた。謙遜しながらも口調からは温かな郷土愛が滲み出ている。そう、ここが夏油傑の原点なのか。雪を被った山に囲まれた小さな町を彼と二人、手を繋いで歩く。民家と雪に覆われた田んぼばかりが続く道はたしかに傑の言う通り何もないのかもしれない。でも穏やかな時間の流れとのどかな自然が息付いていて素敵な場所だと思った。
 やがて「ここが私の家だよ」と、昔ながらのある平家の前で傑が足を止めた時、私は口から心臓が飛び出そうだった。鼓動の音が隣に立つ傑にまで聞こえるんじゃないかと心配になるほどで、きっと顔も引き攣っているはずだ。インターホンを押してから足音が近づいてくる時間がやけに長く感じる。玄関の引き戸が開いて女性が姿を現した瞬間、私は慌てて腰を90°に折り曲げた。血液が逆流して頭がくらくらする。
「は、はははじめまして! 呪術師の苗字名前です!」
「いらっしゃい、はじめまして。よく話には聞いていてるのよ。楽しみに待ってたわ」
「久しぶり。母さん」
「傑も元気そうね」
 しまった。日頃まともに非術師と関わりの私はいつもの癖でつい呪術師と名乗ってしまったけれど、口に出すとかなりの胡散臭さが拭えない。ファーストインプレッションから躓いているじゃないか。かといって「息子さんの彼女です」と名乗るのもどうなのだろう。しかし傑のお母さんは私のおかしな自己紹介にも大して気に留めた様子はなく、朗らかに目を細めていた。よく見ると涼しげな目元も薄い唇も一つに纏めた黒髪も、傑にとてもよく似た面差しである。
「あらまぁ、すごく綺麗な子じゃない! どうして傑と? あ、人数少ないから? 男は顔じゃないのかしらね」
「母さん。私に失礼だろ……」
「アンタどう見ても塩顔でしょ。見た目も厳ついし。そんなピアス開けて髪の毛伸ばして」
「今それは関係ないだろ」
 口喧嘩では悟に負けなしの傑が母親の前ではタジタジになっている。テンポよく交わされる親子のやり取りに傑も家では普通の息子なんだ、と至極当たり前な事実に新鮮な気持ちになった。その光景を物珍しげに見上げていると、私の視線に気づいた傑は気恥ずかしげに唇を尖らせた。
「こんな寒い中外で突っ立てるのもなんだから、どうぞ中に入って」
「お邪魔します」
「父さんは?」
「農協の集まりに行ってる。夕飯には帰ってくるよう言ってあるけど」
「そうか」
 農協、と聞き慣れない単語にどこか落ち着かずそわそわする。肩をすぼめながら敷居を跨ぐと、そこにはたしかな生活感が存在していた。呪いや呪力の気配が微塵もない、食事のおいしそうな匂いや人の生活の音に満ちた、地に足のついた素朴で温かな空間。血のしがらみや時代の陰が色濃く残る自分の実家を思って、私は心が浮き足立った。朝のドラマの中だけで目にした、どこか私とは縁遠いと思っていた絵に描いたような家庭だ。憧れていたと言ってもいい。
 自室に荷物を置いてくると言って離れた傑と別れ、私は彼のお母さんに客間へと案内された。
「名前さんは客間自由に使ってね。無駄に広い家だから部屋余ってるのよ。だからこうしてたまにお客さんが来ると嬉しくって」
「ありがとうございます」
 傑のお母さんの背は彼より頭ひとつ分ほど小さいだろうか。私と同じくらいだ。軋む板張りの廊下を歩きながら、その後ろ姿を見つめる。
 まだ出会って数十分も経っていないけれど、彼女は私を呪術師と知っても尚ごく普通の女の子に接するように接してくれている。見える人間と見えない人間の、埋めようのない溝を感じさせない態度だ。非術師と関わりが希薄な私にとってそれはとてもありがたいことだった。傑がどのような幼少期を過ごして来たのかは知らないけれど、この両親の元で育てられた傑はきっと幸運だったのだろうと根拠なく思う。
 優しい顔で「非術師を守る」と語る傑の温かな眼差しを思い出して、私は不思議とすとん、と腑に落ちる気がした。



 夕飯には農協から帰った傑のお父さんも同席し、四人で食卓を囲んだ。傑のお父さんは傑と同じように長身で、そして無口な人だった。でも気を抜いた横顔やふとした時の手癖が傑によく似ている。年の割に物腰が柔らかく口が回る傑は、どちらかといえばお母さん似なのかもしれない。
 ひっそりとそんな不躾なことを考えながら、ひっつみと呼ばれるらしい郷土料理の鍋に箸を伸ばす。ほわほわと湯気の立つネギから濃厚な出汁が舌の上にじわり染み出して、体の芯から解けて解けていくようだった。お刺身にすき焼きに円卓いっぱいに並べられた品々は、久々に帰省した息子とその彼女を精一杯歓迎してくれているのだとわかるけれど、客人の立場ではこちらが申し訳なくなるほど豪勢な食事だ。はじめは傑とお母さんの間で交わされる夏油家の親戚の話や近所の人の話、家業である農家の話などに私もぼんやりと耳傾けていたけれど、次第に話題は傑の学校生活へと及んでいた。
「呪詛師の学校ってどんなことするの? 呪術の知識なんて入学するまで私達さっぱりだったのた、傑はちゃんとやれてるのかしら。息子は家で仕事のこと全然話さないから……」
「母さんやめてくれ、食事中に。名前に根掘り葉掘り聞くのだって、」
「傑、いいよ。私は話すの楽しいから」
「本当か? それならいいんだが……」
 眉を潜めて会話に割り込んだ傑に私が安心させるように笑って傑を制すと、彼は納得いかないという顔をしながらも渋々引き下がった。傑は、私がここで呪術師として扱われるのを嫌がっていると思っているのだろう。そして傑はなるべく呪術師に関するあれこれを両親の耳に入れたくはないのだとも、今日この時間までになんとなく気がついていた。
 傑はあくまで呪術師と非術師の間にきちんと線引きをして、そこからは一歩たりとも踏み込ませようとはしない。それが傑なりの、大切な人間を守る術なのだと思う。寮生活の息子を気遣う両親の質問にも、傑は全てうまくはぐらかしていた。呪術師は仕事の特性上、守秘義務が多い。なにより任務の内容が危険で悲惨すぎて部外者には話せないだろう。呪いを祓うため私達は何度も怪我を負って死にかけて、その度に反転術式で無かったことにしている。あくまで目に見える形では、だ。心の傷は消えない。私も傑もたぶん悟だって、死と隣り合わせの恐怖や胸を裂くような自責の念や悲しみだってぜんぶ抱え込んで、それでも次から次へと舞い込む任務へと身を投じている。それが呪術師という職業だ。表の世界で生きていればまず見なくて良いような遺体だって、日常的に目にしている。腐敗した人の肉の臭いもこびりつく血の黒さにも意識を研ぎ澄ませば克明に思い出せるほどに、すっかり慣れてしまった。
 言えるはずがない。もしそんなことを傑の両親が知ってしまえば、嘆き悲しむに違いないのだから。でも息子を健気に心配する親の気持ちも痛いほどにわかって、私は何とか傑の頑張りを伝えたかった。何と言うべきか、何を言えばいいのか。テーブルの下で無意識に握りしめていた拳が、スカートにぐしゃりと皺をつくった。
「傑、さんは……その、強いし優しいです。いつも呪術師の在るべき理想を持ってて、常に弱い人を助けるために力を使って、立派です。かっこいいんです。だから私は彼を信頼してます、他の誰よりも」
 そういうところを好きになった。傑の理想は尊くて、悲しいほどに優しい。その気高さがいつか彼の身を滅ぼすのではないかとたまに怖くなるけれど、傑は強いから。悟だって居る。彼らにはきっと不可能を可能にする力があると、ヒーローを見る少女のような気持ちで無邪気にも信じている私がいる。呪術師としての信頼と個人的な恋慕がごちゃ混ぜになって、私は胸が張り裂けてしまいそうだった。
 拙いながらも必死に選んで並べた言葉が思いのほか愛の告白めいたものになってしまい、私は頭の中で懸命に打開策を探した。顔が燃えるように熱くて、今の私はきっと茹だったように真っ赤になっているのだろう。傑のお父さんもお母さんも目を丸くして箸を止めていて、隣に座る傑の顔が見れなかった。不自然な沈黙が落ちる空間にいい加減居た堪れなくなったとき、傑が呟くような声量で呟いた。
「……ありがとう、名前」
「まあ! 良かったわねぇ傑、こんなにベタ褒めしてもらえるなんて。学校では真面目にやってるのね」
「私はいつでも真面目だよ」
 ちらりと傑を盗み見ると、ピアスを吊るす耳が赤くなっていた。私の方を見ようとしないのは照れ隠しだろうか。それとも私が余計なことを言ったせいで気分を害してしまったのか、と暗い考えが過った時、机の下の右手がすっぽりと包まれた。動きの主は傑の左手だ。固く握り込んだ私の拳を解くように傑の指が私の指の間を這い、指を絡めるように上からぎゅっと握り込まれる。ありがとう、とでも言うように指の腹で優しく手の甲を撫ぜられて、なんだか私は泣きそうになりながらこっそりと手を握り返した。心の奥でぶわっと色んな感情が決壊して、この熱の正体が自分でもわからない。傑の手もいつもより熱く、触れた温度から愛が伝わる気がした。言葉よりもずっとわかりやすい愛情表現だ。
「名前さんのご両親もそういうの……えっと、呪い? が見える方なのかしら」
「はい。名家ではないけど一応は細々と呪術師を生業にしています」
「そうなのね。やっぱり普通の家の出だと肩身の狭い思いをしたりするんじゃないかしら」
「いいえ! そんな! 今は一般家庭出身で出世する呪術師も珍しくないですし、特級の傑さんはその筆頭です。後輩の二人はどちらも非術師家庭出身なので、彼らは傑さんをとても尊敬して慕ってます。いい先輩です」
 教科書のような回答になってしまったが、嘘偽りない本音なのだから仕方がない。私は傑のすごさをいくらでも語れるけれど、前のめりすぎると熱狂的ファンのようでなんだか気持ち悪くなってしまいそうなため、一旦言葉を切って息継ぎをした。
「名前さんの家業が呪術師なら傑はお婿さんね寂しくはなるけど仕方ないわ。息子をよろしくね」
「母さん……気が早すぎるし名前に余計なことを吹き込むのはやめてくれ」
 傑がげんなりした顔をするから、つい笑ってしまう。絵に描いたような、幸せな光景だ。この家は呪いから一番遠くて、やさしく溶けてゆくような安心感に爪先まで包まれているようだった。



 散々固辞したものの結局は一番風呂をいただいてしまって恐縮しながら居間に戻ると、傑が入れ違いに「風呂行ってくる」と席を立った。居間に残されたのは傑のお母さんと私だけ。どうしたものかと私がパジャマで所在なさげに突っ立っていると、ソファーを勧められホットミルクまで手渡された。一応客人とはいえ至れり尽くせりで申し訳ない。
「お風呂いただきました」
「湯加減どうだったかしら?」
「あ、良かったです!寮はシャワーだけなので、久しぶりにお湯に浸かれて気持ちよくて」
「そう。よかった」
 正直、気まずい。傑のお母さんが素敵な人であることは百も承知なものの、私はこの短時間で何かヘマをやらかしてはいけない、と謎のプレッシャーに襲われていた。嫁姑問題ではないが彼氏の母親と彼女というのも中々微妙な関係である。
 何か切り出そうか迷った末に、つけっぱなしのテレビから流れるご当地ホームセンターのCMをぼんやりと眺める。やけに耳に残る明るい歌声が、沈黙が支配するこの空間の調子を狂わせるようだった。傑がシャワーを浴びる籠った水音が微かに聞こえる。ここで気の利いた話題のひとつやふたつでも提供できれば良いが、如何せん私は硝子曰く「妙なところで浮世離れしている」らしい。口を開けばかえって失言をしそうで怖かった。
「……名前さん」
「は、はいっ!」
 名前を呼ばれ、思わず背筋も自然と伸びる。身体の正面ごとぐるんと彼女の方を向けば「違うの。そんなに硬くならないで」と彼女は苦笑して横髪を耳に掛けた。下げた眉の角度が傑にそっくりだ、とまた小さな発見をしてしまう。
「悪い意味じゃないのよ。呪術師というものを私達は知ることができないからどんな子かしらって初めは少し構えてたけど、とても気立ての良いお嬢さんで私、すごく嬉しくってね。名前さんを見る傑の目が、あまりにも優しいものだから」
「え……」
 そんな前置きの後に続けられた言葉は、予想とかけ離れた意外なものだった。ぽかんと呆気に取られる私の口からは思わず気の抜けた声が漏れる。
「いつの間にか大人の男になってたのね、傑は」
 そう語る傑のお母さんの横顔には一人息子が母の手を離れていくことへの嬉しさと、そんな背を見送る一抹の寂しさが見て取れた。何物にも替え難い慈愛に満ちた、優しい母の顔。その目はここではないどこかを遠いところを見ていて、きっと彼女しか知り得ない傑の幼い日々を映しているのだろうと思った。
「傑は昔から私達には見えないものが見えたから、他の人にもよく気味悪がられたり心ない言葉を投げつけられたり、苦労してきたの。小さい頃は暗闇を極端に怖がって、何もない空間を指差して幽霊だ妖怪だって怯えて泣いてばかりで。私も夫も、傑と同じものが見えればよかったとどれほど願ったことか」
「そんなことが……」
 知らなかった。夏油傑は決して苦労を語らない。語ろうともしない。彼を構成するプライドや優しさが、そうさせているのだと思う。
 だから私は傑の苦労に思いを馳せることはあってもこうして実際の話を耳にするのは初めてで、過去に言葉を失った。思わずぎゅっ、と握り締めたマグカップの熱さが薄い皮膚越しに鈍い痛みを訴える。
「はじめて聞きました」
「あの子はプライド高いから。理解ない周囲と孤立して一時期ひどく荒れてもいたから、彼女には過去を知られたくなかったんじゃないかしら」
「不良だったのかな、と思うことは今までもありましたけど……」
「あの見た目ならバレバレよねぇ。あれで隠し通せてるつもりなのかしら傑は」
 傑のお母さんは心底おかしそうに朗らかに笑った。
 しかし容易に想像ができることだ。私は物心ついた時には呪いの存在を教えられていたけれど、傑はそうではなかったのだから。正体のわからない魑魅魍魎が自分にだけ見える、というのはどれほどの恐怖だっただろうか。しかも奴らは時に見える人間を攻撃してくるのだ。傑が十五歳まで無事に成長できたことすら、きっと運が良かった。その呪いの恐怖を乗り越えあえて祓う道を選ぶのが高潔で、あまりに夏油傑らしい。
 今でこそ術師家庭出身の呪術師と遜色ないかそれ以上の知識を持つ傑だけれど、彼が入学した当初はその差を埋めるため血の滲む努力をしていたのを、私は知っている。夕暮れの呪術高専の資料室で一人、難しい顔で古い文献に向き合う傑の後ろ姿を何度も見かけた。一家相伝ではない、前例もほとんどない術式を持って生まれた夏油傑。これはあくまで私の想像に過ぎないけれど、傑自身も己を知るために呪術師をやっている面もあったのではないかと思う。
「傑に見えているものが呪いという名前で、傑以外にも同じ力を持つ人達がいることを知って。呪術高専に入ってから傑は本当に生き生きしているわ。喧嘩に明け暮れてた頃と違って、今では落ちついて別人のようなの。名前さんや五条君、呪術高専のお友達のおかげね」
「そんな……私は何も、」
 呪術高専に入学した傑に変化があったとすれば、それを引き起こしたのは悟だ。強すぎる力を持て余した傑は、同じく最強の悟と出会い衝突を乗り越えて、まるで正反対の磁石が引かれ合うように意気投合していた。運命とはまさしくあのような出会いを指すのだ。私はただ偶然そんな男と恋に落ちただけで、傑を劇的に変えるような力は持ち合わせていないと思う。それに私は傑が荒れていた時代を知らないけれど、思えば妙に喧嘩慣れしていたり長髪にピアス穴が拡張されていたりと色々と腑に落ちる。でも私の知る傑は最初から精神的にも安定していて、ずっと優しかったのだから。
 私が慌てて否定しても、彼女は「いいえ。名前さんのおかげよ」と微笑んで小さく首を振った。
「だから傑が同じ景色を共有できて愛し合える子に出会えたと聞いて、心底安心したの。親がしゃしゃり出ることではないとわかっているけど、感謝だけは伝えたくて。名前さん、息子をよろしくね」
「……私が傑さんを支えるとか、変えるとか、そんな大層な役目が務まる自信はありません。でも私は傑が好きです。すごく好きなんです」
 すぅと息を吸う。なんだか泣きそうだ。喉の奥が熱くなって、眼球にじんわりと薄い涙の膜が張る。込み上げてくる感情をそっと抱きしめるように、私はきゅっと唇を噛んだ。
 夏油傑は愛されている。守られ慈しまれて手をかけられて、掛け値なしの愛情によって育てられてきた。傑に呪力があっても彼の親に呪力がなくても、そこに違いなんてないのだ。そんな当たり前のことを今さら実感して私が泣くなんて、おかしなことだ。好きな人が愛されている、ということに嬉しさで心が緩んで、神様にほんの少し触れたような温い幸福が染み渡る。涙ぐむ私を見て、傑のお母さんはふふっと笑いティッシュを手渡した。
 いつまで一緒にいられるかは、わからないけれど。職業柄、傑も私も案外近い未来に死んでしまう可能性がないとは言い切れない。それでも傑から離れがたいと思う。できるなら、最期まで。
「……だから、私にできるのは生きて傑の側にいて、愛し続けることだけです」
「それで十分よ。それ以上に何を望むと言うんでしょう。傑は幸せ者ね」
「そうでしょうか」
「ええ。だってこんなに愛してくれる女の子に出会えたのだもの」
 遠くでお風呂のドアが開く音がする。「この話は女同士の秘密ね」と唇に指を当てて笑う彼女に、私も泣きながら笑った。早く涙を拭わないと、傑にバレてしまう。



「髪短い! ピアスしてないじゃん!」
「この時はまだね。生活指導の教師がうるさかったんだ」
「私は前髪のある傑も好きだな」
 家の外れに位置する傑の自室で、卒業アルバムを見ていた。個人写真にはまだ幼さを残す傑が不貞腐れた仏頂面で写っていて、少しだけ手配書の指名手配犯じみている。いつも薄い笑みを浮かべている今とは違って、たしかに写真の彼はその鋭い目つき同様、周囲を寄せつけない尖った雰囲気を纏っていた。もしこの時に私が傑と出会っていたら、恋愛どころか友人にすらなれかったかもしれない。
 傑の膝を椅子にしてアルバムを覗き込んでいると、いつの間にか傑のゴツゴツとした手が私のウエストのくびれを掴んでいた。その手が段々と下に降りて、服越しに腰をさすって臀部を撫で上げて鼠蹊部につつ、と指を這わせる。あれ、なんだか怪しい。快感を誘うようなやらしい手つきに、ジト目で首だけ振り返る。
「客間で寝るんだろう?」
「そうだよ」
「一緒に寝たかったな」
「……ここ、傑の家だけど」
 親が居るのに、と言外に告げるも傑はにっこりと笑うだけで無体を働く手を止めようとしない。些か大胆すぎるのではないか。綿の柔らかいパジャマ越しにもどかしい刺激が与えられて私もつい妙な気分になってしまいそうだった。傑が私の下でもぞり、と身動ぎして、やや質量感を持ち硬くなったものがお尻に当たる。臨戦態勢のソレに慌てて声を上げた。
「傑
「わかってるさ。最後まではしない」
「やだ! だめだって……んッ、ぁ、」
「お互いに慰めるだけだよ。悪いけど声我慢して。……いや、私にだけは声聞かせて」
「……ッ、ばか」
 傑の両の手が胸を掴んでやわやわと揉む。お風呂上がりでブラジャーを着けていなかったから、乳首が布擦れして小さく声が漏れた。先端を摘まれながら耳朶を軽く食まれれば、それだけで肩が震えて全身の力が抜けてしまう。傑は実家での行為に唆られているのか、少し荒い息が首筋に当たった。きっと今日もこのまま流されてしまう気がする。私は傑を拒めなくて、傑の前じゃどこまでもチョロい女になってしまう。いつもそうだ。
 ダメなのに。でもこのシチュエーションがかえって緊張感に肌を粟立たせて、やめてほしいと心底思うのに声を殺せるだろうか、と頭の片隅で考えてしまう私が居る。私の後頭部に鼻を寄せて「私と同じシャンプーの匂いで、興奮したんだ」と犬のようにすんすんと嗅ぐ傑に、男性の性欲のトリガーはよく理解できないと思う。
 私の耳裏に舌を這わせながらパンツの中に性急に片手を突っ込んでいた傑が、ふと手を止めた。
「そういえばさっき母さんと何話してたんだ?」
「秘密」
 私がくすくすと笑うと、傑は不思議そうな表情を浮かべる。傑のお母さんと私に交わされた女同士の約束を、彼が知る由はない。
「傑」
「ん?」
「……今日は連れてきてくれて、ありがとう」
 私に傑の過去に触れる許可を与えてくれてありがとう。弱みを見せたがらない傑が過去と現在を引き合わせるのは、きっと勇気を要したことだろう。それでも私に傑の心の柔らかい部分を見せてもいいと思ってくれたなら、彼女冥利に尽きるというものだ。
 傑は知っているのだろうか。彼がこんなにも愛されているということを。彼は祝福された存在なのだ。彼を大切に思う人はたくさん居て、彼が非術師を守りたいと思うのと同じくらい、傑に幸せになってほしいと願っている。そして私は彼のお母さんに誓ったように、傑から離れることはないだろう。例え破滅の道であろうと共に行く覚悟だ。
 今はそっと胸の内しまっておくけれど、傑が知らないでいるのは少しだけ惜しい気がした。




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -