奥底を揺らして

 男の友情とはつくづくわからないものだ。入学初日の騒動から早ひと月余り、犬猿の仲かと思われた二人は互いにめきめきと頭角を現しながらも根底に通じ合うものがあったのか、一転して驚くべきスピードで意気投合をしていた。とはいえ彼らは肩を組み馬鹿笑いをしていかと思えば相変わらず数日に一回は盛大な喧嘩を繰り広げているため、仲が良いと言っていいのか疑問は残る。しかし唯一無二で対等にぶつかり合える彼らの姿が私にとって眩しく映るのは事実だった。

 その日は気がくさくさしていた。
 任務で派遣された先は手遅れだった。呪いを祓っても、そこには物言わぬ肉塊が二つ。喰い荒らされてお世辞にも状態のいいとはいえない遺体は、もはや人の原型を留めていなかった。あまりの惨状に顔を背けたくなる衝動を堪えながら呪いの腹を裂きトドメを刺せば、頭からもろに返り血を浴びた。亡くなった人たちの血だ。血を吸ってゴワゴワとした制服で、すえた臭いが肺にこびりついたように離れない。
 別にこんなこと自体は珍しくない。呪術師が呼ばれるのはいつも事が起こった後だからだ。いくら必死に掬い上げても、救える命より救えない命の方が多い。高専へ戻って熱いシャワーを勢いよく頭からかぶった。ガシガシと力ずくで泡立てても気のせいだろうか、死臭が消えない。洗っても洗っても爪の間に赤が残っている気がして、痛いほどゴシゴシと擦る。排水口に吸い込まれていく赤が混じった水を見て、私は少しだけ吐いた。
 挙句の果てに、帰った先の教室では悟と鉢合わせて口論になってしまった。いつもなら流せる発言もささくれだった心には受け入れ難く、つい突っかかってしまったのだ。
「お前がお得意のいい子ちゃん発言で御託を並べるのは、力及ばず助けられなかった時に後悔するのが怖いからだ。保険だよ。臆病なんだろ」
 私の言い分を「詭弁だね」とばっさり切り捨てた悟の、感情を消した声が頭の中でリフレインする。彼は正しい。この程度でぐらついている私には呪術師の適性がないのかもしれない。ひよっこが何を言っているかと怒られそうだが、今世紀最強とも名高い術師と稀有な反転術式の使い手と肩を並べてのほほんとしていられるほど、私はおめでたい性格をしていなかった。有り体に言えば自信喪失。素質が大きくものを言う業界で、一朝一夕でどうにかなる問題ではないとわかっているのに焦燥感ばかりが募る。完全な空回りだ。

 少しでも気を紛らわそうと自動販売機で甘い飲み物を買えば、間違えて同じ商品を二つ買ってしまった。泣きっ面に蜂とはこのことだ。どうして悪いことは重なるのだろう。胸の内だけで悪態を吐きながら西日が差し込む廊下をとぼとぼと歩を進めていれば、視界の端で動いた影にふと足を止めた。図書室の扉の向こうには、見紛うはずもないシルエット。
「げとうくんだ」
 そういえば今までも彼がこうして背を丸めて机に向かう後ろ姿を何度か見かけていた。しかし図書室といっても呪術高専に楽しい本などあるはずはなく、古びた怪しい文献が詰め込まれ半ば倉庫化した黴臭い空間である。彼はあんなところに放課後もよく籠っているのだろうか。もし疲れていたら気分転換に甘いもの欲しいかな、なんて。取るべき行動を迷っていると気配を感じたのか、視線を上げた彼とばっちり視線がかち合った。彼の大きな口が「苗字さんか」と動く。バレてしまえば逃げ帰るのも感じが悪いかと、観念して開けっ放しの図書室の敷居を跨いだ。
 入学初日といい、彼とはなぜだかこういう出会いばかりだ。成り行きとはいえ、これじゃなんだか私が彼をひどく気にかけているようだ。くたくたのTシャツに濡れたままの髪という己の格好を思い出して少し恥ずかしくなったけれど、ひとつ屋根の下での寮生活では今さらだと思い直した。誤魔化すように手櫛で前髪を整える。
「どうしてここに?」
「私は今日の任務の事後処理してきたところ。そういう夏油君こそ」
「私は少し調べものをね。担任に頼んで資料を京都の方から取り寄せてもらったんだが」
 そこで言葉を切り、背もたれに体重を預けた彼は「参ったな」と額を掻いた。机の上に散らばった蛍光ペンとびっしりと付箋が貼られたノートに、今しがたまで格闘していた痕跡が見て取れる。見かけによらず読書家なんだ、と失礼極まりない感想を抱いたところで彼が何に苦戦しているのか気がついた。かなり劣化の激しい、欠けて黄ばんだぼろぼろの和紙。掠れた墨で流れるようなくずし字がびっしりと綴られている。
「……もしかして読めない?」
「恥ずかしながら。辞書片手に解読を試みてはいるけど骨が折れるよ」
 どこか照れくさそうに前髪を摘まんだ彼に、私は半ば無意識に提案をしていた。この時はただ純粋に、努力家で困っている目の前の彼の力になりたいと思ってしまったのだ。
「手伝おうか? 私も崩し字すらすら読めるわけじゃないけど、実家の蔵書を読むためにちょっとは齧ってたから」
「本当かい? 悪いな。助かるよ」
 よほど消耗していたらしい。いくらか顔を明るくした彼は頷いてあっさりと承諾した。勧められるまま隣の椅子に腰掛ける。生憎その場で現代語訳できるほどの能力は私に備わっていないため文面をそのままとうとうと音読すれば、私の声に倣って彼はスラスラとペンを走らせた。丁寧だが少し右上がりで角ばっている、なんとも男子らしい字だ。
途中まで読み上げて、私はやっとこの本が意味するものに気づく。
「『古より呪ひ食ふ者ありて、これ天地を動かし荒ぶる神をなごめ、国をおさめ』って
これ、呪霊操術の記述じゃ……」
「ああ。私以外に存命の術師がいないから、できる限り記録を遡ってみたんだ。何か有益な情報が得られればと」
「勉強熱心だね」
「私は君たちとはスタート地点が違うからね。人より努力して追いつかないと」
 既に私よりも先に居るよ、と言いかけてさすがに卑屈が過ぎるかとぐっと飲み込んだ。出自なんてものともしない実力を兼ね備えながら、彼はどこまでも謙虚だ。だからこそ彼の隣にいると私のしょうもなさや不甲斐なさが一層際立つようで、惨めに思えてしまう。彼に非はない勝手な被害妄想なのは自覚しているため、つい誤魔化し笑いを浮かべた。
 そのまま切りのいいところまで共同作業を続けたところで、軽く息を吐く。集中力が途切れたのは彼も同じようで、こきこきと首を鳴らしていた彼が不意に口を開いた。
「そういえば、苗字さんはどうして呪術師になろうと思ったんだ?」
 雑談めいたその質問に、おそらく他意はない。しかしシンプルだからこそ核心を突いた質問に、どきりと心臓が跳ねた。入学前に夜蛾先生から似たようなことを聞かれた際にはすらすらとそれらしい答えを並べ立てられた質問も、今では何倍も重い意味を持っていた。呪術師はつらく、厳しい。体の傷はある程度治せても傷痕は残るし、心の傷は治せない。いつ死ぬかもわからない。それでも己を奮い立たせるに足る理由なんて、あるのだろうか。
「私は術式が発現したときから、ずっとそう育てられてきたから。他の選択肢は考えたことなかったかも。それに……見えるものを見えないふりして、呪いで傷つく人たちを見殺しにしながら生きていくことなんて、たぶん私にはできないと思う。ただそれだけ」
 言葉にしてみると、我ながらそれはすいぶんと薄っぺらい理由に思えた。一度知ってしまえば知らなかった頃には戻れない。仮初の平穏の上では心から笑うことなんてできない。なんとも曖昧で笑えるほど子どもっぽい理由かもしれないが、紛うことなき本音だった。
 笑われるかな、と内心覚悟を決めていたものの、彼は依然として私のたどたどしい話に穏やかな顔で耳を傾けていたため少しだけ拍子抜けした。そして興味が沸く。非術師の両親のもとで育った彼こそ、どうして呪術師を志したのだろう。呪術業界に片足を突っ込みその厳しさを十分に心得ていたつもりの私でさえ、心が折れそうになっているというのに。
「夏油君は? どうして呪術師なんて」
「私は、私を知るために呪術高専に来た」
 聞き返せば、彼は淀みなく答えた。どこか遠いところを見る彼の横顔に既視感を覚え、それが入学初日のやり取りだと気がついた。伏せられたまつ毛は意外にも長い。すらりと整った研ぎ澄まされたナイフのような透明の瞳は、あたたかな温度を宿している。
「物心ついた時から人とは違うものが見えた。当時は私以外にも呪術師がいるなんて知らなかったからね。どうして私だけに力が与えられたのか、その理由をずっと考えていたんだ。意味なんてないのかもしれないが。……でもそうだな。強きを挫き弱きを守るのが私の役目なんだと、最近は納得できるようになったよ。君や悟たちのおかげでね」
 微笑んで「だから高専に来れたことは感謝してる」と続けた彼の笑顔があまりにもきれいで、私は不覚にもぼぅっと見惚れていた。
 ああ、この人はなんて優しいのだろう。家族、仲間、顔も知らない非術師達。守りたいものがあって、いつだってそれらを守るため懸命に手を伸ばしている。彼は私や悟のおかげと謙遜するけれど、きっと違う。意味もなく呪いを祓っていた私とは違い、彼はちゃんと意味を見据えている。たぶん信念を抱く才能があるのだ。
 しかし次の瞬間、ぎょっと目を見開いた彼に「どうして泣く」と言われてはじめて、私は自分が泣いていることに気がついた。眼球に水の膜が張り、すぐ隣にあったはずの彼の輪郭がぼやける。一度緩んでしまった涙腺は言うことを聞かず、溢れた涙がひっきりなしに頬と顎を伝い落ちた。鼻の奥から余計なものまで垂れてくる気配を感じて、慌てて鼻をすすり上げる。
「あ、あれ? ごめん、情緒不安定なのかな私! なんで涙なんか……」
 最悪だ。動揺のあまり、弁解の声は裏返っていた。クラスメイトの前でいきなり泣き出すなんて、ただのやばい女じゃないか。絶対に引かれた。恥ずかしい。早く泣き止もうにも喉の奥が引き攣ってうまく息ができず、肩で息をしてしまう。自己嫌悪のループに陥っている私を、夏油君は眉を下げ黙って見つめていた。明らかに困らせている。
「大丈夫かい?」
「……うん。ごめんね」
 気丈に振舞おうにも、開いた口からはうぅと言葉になりそこないの情けない嗚咽が漏れるのみだ。そんな間にもとめどなく流れてくる涙を手の甲で拭おうとすれば、正面から「だめだ。擦ると赤くなってしまう」と何かが顔に押しつけられた。近すぎてよく見えない。ふわりと柔軟剤の清潔な香りが鼻孔を擽って、彼のハンカチだと気づいた。おとなしく顔を拭かれているなんて子どものようだけれど、もうどうでもよくなっていた。一度本音をさらけ出してしまえば、私のちっぽけなプライドは涙と一緒にぼろぼろと崩れ落ちる。
「私、すごく羨ましかった。呪術師である限り最善の選択を取り続けることは不可能だし常に後悔もついて回るけれど、自分の弱さが許せなくて。……強くなりたくて、勝手に焦って泣いて。馬鹿みたいだよね」
 空元気なのは否めない。でもこの重くなってしまった空気を払拭すべく、あははと乾いた笑い声を上げた私がつい自虐すれば、彼は一転して眉を吊り上げた。
「馬鹿なんかじゃない。立派な呪術師じゃないか。あまり自分を責めるのはやめてくれ」
「でも私、弱いし」
「弱くなんかないさ。焦る必要もない。それに、生きていればこれからいくらでも強くなれる」
「そうかな」
「そうだよ」
 そうだろうか。生きて戦い続けさえしていれば、必ず強くなれる。それまでは己にできることを精一杯やるだけ。やらないよりは意味があるのだ。
 なんだかひどく楽観的にも聞こえるけれど、強くて優しい彼にそう諭されれば不思議と心が軽くなった気がした。人目も憚らず泣いたからだろうか。肩が軽くなって、憑き物でも落ちた感じだ。私は気づかないうちに自分で自分に呪いをかけてしまっていたのかもしれない。
「落ち着いた?」
「……ん」
 正しく生きる彼の言葉には説得力がある。一種のカリスマ性と呼ぶべきか、要するに人たらしなのだろう。将来はカウンセラーか、宗教の教祖でもやったら儲かりそうだ。面と向かって褒めちぎるのは照れくさくて、手に持ったままだった紙パックを差し出した。
「ありがとう。これあげる、よかったら。甘いもの大丈夫?」
「貰っていいのか?」
「うん。差し入れしようかと迷ってたから。だいぶ温くなっちゃったけど」
「じゃあこれで貸し借りなしで」
 一本分では足りないのではないかと思う。けれども今は彼の言葉に甘えさせてもらうことにした。ファンシーな象のパッケージにストローを突き刺し、黙って口をつける彼はかわいらしい。笑いをかみ殺しながら、私も甘ったるい紅茶を吸い上げた。
「げとうくん」
「傑でいいよ」
「え?」
「悟と硝子は呼び捨てだろう?」
「まぁ二人は気楽というか……」
 唯一の女友達である硝子はもちろん、悟のことも呼び捨てだった。たしかに気心の知れた仲ではあるが特別親密だからというわけではなく、単に由緒正しい家の名で呼ばれるのを悟が拒んだためだ。自分を除けば三人しかいない級生、一人だけいつまでも他人行儀なのもおかしいのかもしれない。私だって名前を呼べない理由があるわけではないけれど。平然としている彼が少しだけ恨めしかった。
「なら私も、名前でいいよ」
「ありがとう。名前」
 名前を呼ばれることは、こんなにこそばゆいものだっただろうか。やけに顔が熱い。呪力と血液ぐるぐると巡って、頭がくらくらとした。唇を「すぐる」の形に動かそうとしても、舌が絡まってうまく呼べない。おかしい。傑を前にすると、私は私じゃないみたいだ。
 その理由を今は考えるのをやめて、私は口の中に残る甘い味をそっとかみしめた。




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