聖なる夜に

 絵に描いたような幸せな家庭の一幕だ。例えそれがハリボテに過ぎないとしても、クリスマス・イブの今夜、私達の間には紛れもなく穏やかな時間が流れていた。テレビから流れる有名なクリスマスソングは澄んだ鈴の音を響かせ、愛の言葉を歌い上げている。事前に洋菓子店で注文していたホールケーキを冷蔵庫から取り出して、三人が待つテーブルの中央に置いた。白く輝く生クリームと宝石のような真っ赤に艶めくイチゴに、美々子と菜々子が歓声を上げた。その様子を、頬杖をついた傑がニコニコを眺めている。
 無人の雑居ビルの一室が非術師を大量呪殺した呪詛師とその幇助をした呪詛師の逃亡生活の拠点となっているなんて、一体誰が気づくだろうか。木を隠すなら森に、という慣用句の通り男女のカップルと子どもが世間と呪術師の目を欺くにはこの物件はとても好都合だった。年齢と身分を偽り、私達は名実ともに「家族」となった。傑が呪力と恐怖によって教団の猿を支配する裏で、私達は血生臭さとはあまりにもかけ離れた平凡な日常を送っている。不安定な土台の上に築かれた家族が不格好で危ういバランスで成り立っているのは火を見るより明らかだが、それでもこうして四人ではじめてのクリスマスを迎えられていた。
「はい、どうぞ」
「ケーキ!」
「食べていい?」
「切り分けるから二人ともちょっと待っててね。こら菜々子、勝手にチョコプレート取っちゃダメ!」
「菜々子ばっかりズルい! 美々子も!」
「こらこら、喧嘩しない」
 傑が止めに入る。効果は覿面で、双子は不満げな顔をしながらも大人しくなった。傑が教祖の仕事で居ない日中は私が叱ってばかりいるから、きっと二人も私の小言には慣れてしまったのだろう。子育ては難しい。高専生の頃は考えもしなかったことだ。いつか私も傑と子どもを持つのか、とぼんやり夢想したこともあったけれど、まさか十代にして血の繋がらない子どもを育てることになるなんて考えもしなかった。必然的に子どもの世話が中心となる生活は常に忙しなく終わりが見えないけれど、悪くはないと思う。人を育てる営みは尊く希望に満ちている。必死に掌で掬い上げても指の間から零れ落ちた命を嘆くしかなかった呪術師の頃と比べれば、いくらか心が軽かった。閉鎖的な山奥の寒村で生まれ持った呪力ゆえに迫害を受けてきた美々子と菜々子は、最近になってやっと屈託のない笑顔を浮かべるようになった。それを目にする度に、私は過去に置いてきた呪術師の自分が報われるようだった。
「ケーキ食べる前にクリスマスの歌うたう!」
「クリスマスってそういうものだっけ? 誕生日じゃなくて?」
「まぁいいじゃないか。細かいことは」
 笑った傑がCDプレイヤーのボタンを押すと、耳慣れた定番のクリスマスソングが再生される。子ども向けのその曲は日本で育った人なら誰でも知っているメロディーだけれど、当初クリスマスの概念さえ知らなかった二人はこの曲が大層気に入ったらしい。双子は今日のささやかなクリスマスパーティーもずっと心待ちにしていたようだった。
「真っ赤なおっ鼻の〜〜トナカイさんっがぁ〜〜」
 子供らしい調子ハズレの歌声が部屋に響き渡る。まあ、楽しければいいか。無意識に口元が緩むのがわかった。二人が部屋の隅で身を寄せ合って怯えた目をしていた頃に比べれば、多少のヤンチャだって許せてしまう。
 それに現に袈裟を着てクリスマスケーキを囲んでいる夏油傑こそ、この場で最も場にそぐわない人間だった。本人も言うように、元より信仰心の欠片もないのだ。新興宗教団体の教祖らしさを演出し円滑に呪詛師業を営むためだけの装いらしい。異教徒の服装で神の子の誕生日を祝うなんて、滑稽である意味日本人らしい感覚に笑ってしまう。しかし同時に私は彼の袈裟姿を目にする度、言い知れぬ一抹の寂しさにも襲われていた。でもその気持ちを、私は決して口にすることはないだろう。
明かりを絞った部屋でキャンドルの暖かな日に照らされた傑の横顔は、二人に優しい眼差しを向けていた。まるで神様のような顔だ。慈愛と、充足感を湛えた笑み。きっと私も同じ顔をしている。炎と一緒にオレンジの光がゆらゆらと揺れて、水の中を漂うように天井に波紋情の影を落とした。私の目線に気づいた傑が、目を丸くしてこちらを見る。
「ん?」
「ううん。……幸せだなって」
「そうだな」
 幸せだ。今この瞬間の気持ちに嘘はなかった。後悔がないわけではない。夏油傑が人を殺めずに済んだ道もあったのではないかと、私がもっと早く彼の苦悩に気づけていればと、存在し得た「もしも」の選択肢を模索してしまうこともある。そうすれば今も、傑は悟と肩を組んで馬鹿笑いして、私は硝子とそれを呆れた目で見て。そんな日常が続いていたかもしれない。傑以外の全てを敵に回して、先の見えない心細さに人知れず涙した夜もある。本当は悟にだって硝子にだって会いたい。一人娘が呪詛師となってしまった私の両親の気持ちや立場を思うと、罪悪感で胸が張り裂けそうになる。
でもこの聖夜に、考えるのはやめようと思った。目の前には愛しい人と、守るべき存在が居る。きっと私は、この先もエゴと倫理の狭間で悩みながら生きていく。一度汚れてしまったらもう何も知らずに生きていた頃には戻れない。願わくば、私が傑の背負うものを少しでも引き受けられたらいい。
 口の周りに生クリームをべっとりとつけてケーキを口いっぱいに頬張る美々子と菜々子を見て、くすりと笑みが漏れる。あとで吹いてあげないと。二人はすっかり興奮しているから中々寝てくれないかもしれない。私もケーキをフォークで突き刺して口に運んだ。口の中で甘いクリームがとろけて幸福の味が広がっていく。

 はじめてのクリスマスが余程楽しかったのか「まだ寝たくない」と駄々をこねる二人をなんとかお風呂に入れて寝かしつける。疲労感を引きずりながら寝室を出た頃には、時計の針は頂上を超えていた。リビングのソファーに腰掛けてケータイを見ていた傑に「お疲れ様。ありがとう」と労われる。私が二人の添い寝をしている間に入浴を済ませてきたのか、傑も袈裟から見慣れた上下のスウェット姿へと変わっていた。髪も下ろして裸足で寛いでいる。こうして見ると高専生の頃から何も変わっていない。変わったのはおもに私達を取り巻く環境と、目に見えない部分だ。
「寝た?」
「やっと寝てくれた。『サンタさんを捕まえるんだ!』って粘るから大変だったけど。五歳児は眠気に勝てなかったみたい」
「ははは。それじゃあプレゼントを置いてこようかな」
「よろしくね。サンタさん」
 きれいにラッピングされた二つの箱を、傑が抱えて寝室へ向かう。密かにオモチャ屋さんで購入し隠していたものだ。美々子と菜々子はサンタクロースの正体を「部屋に侵入するタイプの呪いかな?」とユニークな推測を立てていたが、その正体は傑である。何年後に双子がその事実に気づくのかと、少し楽しみだ。そして同時に、無意識にも「この先」の日常が続くのだと信じ込んでいる己に自嘲した。実際は明日の我が身もわからないというのに。
 傑の後ろ姿を見送ってから、水でも飲もうかとキッチンの冷蔵庫を開けると買った覚えのない白い箱がある。水の入ったグラスを傾けながら首を捻っていると、後ろから手が伸びてきてその箱の取っ手を掴んだ。傑だ。背中越しに見上げると、傑が口角を上げてニッと笑う。
「ケーキだよ。二人で飲み直そうか」
「え! 買っておいてくれたの?」
「ああ。酒もある」
「嬉しい! ありがとう。プレゼント気づかれなかった?」
「二人ともぐっすりと寝ていたよ。枕元に置いてきた」
「明日の朝が楽しみだね」
 話しながら、ソファーに移動する。久しぶりの恋人らしい時間だ。一時だけ素に戻って緩む雰囲気に、わかりやすく足取りが軽くなるのは致し方ない。有名店のロゴが入った箱から出てきたのは、洋梨のケーキだった。ツヤツヤと光る黄金の梨が眩しい。洋酒の濃厚な香りが鼻孔を刺激して、たしかにこれは子どもには食べさせられないなと思った。傑に促されるままシャンパンをグラスに注いで乾杯する。一口含むと、きめ細かい泡が口内で弾けて爽やかな果実の香りと仄かな苦みが鼻から抜けていく。アルコールは神経を適度に緩めて、心に巣食う不安や緊張を和らげてくれる。少し前まではお酒を飲みたいとすら思ったことがなかったのに不思議な話だ。
「いただきます」
 せっかくの高級ケーキも、傑は男らしく大口を開けてかぶりつくから笑ってしまった。私も彼に倣って齧ると、舌の上でほろりと崩れて果汁と洋酒が混ざり合い絶妙なハーモニーを奏でた。おいしい。大人の味だ。自分でも気づかないうちに、私達は大人の殻を脱ぎ捨てって大人になってしまった。傑と並んでしばらく無言でシャンパンとケーキを堪能していると、傑は丁度フォークを持つ手を置いた私の名を呼んだ。彼の真剣な面持ちと改まった雰囲気に、思わず背筋が伸びる。傑がテーブルにシャンパングラスを置くカタリという音が、やけに大きく響いた。
「いつもありがとう」
「え。どうしたの、いきなり……」
「改めて言わせてくれ。私についてきてくれて、本当に感謝してる。家族も友人も捨てさせたし、つらい思いもさせただろう」
 私の手が、傑の筋張った手に包まれる。少しカサカサした彼の指先が、私の手の甲をなぞり指先を絡めて、その大きな手の中に握り込んだ。触れたところから熱が伝わる。傑の表情は少しけ強張っていて、何だか彼らしくない行動に私は胸がそわそわした。ソファーで膝を突き合わせ見つめ合い手を握り合う男女は、側から見れば映画のワンシーンの様かもしれない。慣れない雰囲気ににわかに緊張しながらも、私は精一杯の思いを込めて傑の目を見つめ返した。
「『させた』なんて言わないで。感謝なんてそんな……私はただ傑の側に居たくて、自分でここを選んだんだから」
 どぎまぎして何とか言葉を紡いだ私がやっと伝えられたのは、そんなありふれたことだった。気の利かない言葉。声も少し震えていたと思う。でもそれを聞いた傑はふ、と安堵したように笑った。ぎこちなくて、でも隠しきれない嬉しさを滲ませた笑顔。私が彼にそんな顔をさせられることが奇跡だと思った。
 傑がスウェットのポケットの中に手を入れて、私の掌の上に何かを乗せた。ビロード地でリボンのかかった小さな箱。開けると指輪がひとつ。銀色のリングに、控え目な石が光っている。シンプルで洗練されていて上品なデザインだ。驚いてはじかれたように顔を上げると、傑は苦笑した。
「安物だけど」
 照れた様子で目を逸らす。目の前の男への愛しさが溢れて、私はもうどうすればいいかわからなかった。彼が大罪人だからといって嫌いになんてなれるはずがない。傑が困った顔をして私の頬に手を伸ばした。
「泣かないで」
 そう言われてはじめて、私は自分が泣いていることに気がついた。栓の壊れた蛇口のように涙がとめどなく溢れ、喉が詰まってうまく息ができない。思わず俯くと、降り出した雨のように水滴がパタパタと手の甲を濡らした。鼻の奥がツンとして、指輪が滲んで見えない。傑の優しい指先が私の目尻の涙を攫っていく。
「ありがとう。すごく、すごく嬉しい」
 辛うじて声を絞り出すと「そんなに喜んでもらえるなんて光栄だよ」と傑は眉を下げて笑った。私も傑も、自分が相手に与える影響をずっと過小評価してきたのかもしれない。私達は相手をずっと幸せにできるし、簡単に不幸にもできる。絶えず化学変化を起こして、変わっている。それはきっと幸せなことなのだろう。
 恐る恐る指輪を手に取ろうとして、ふとどの指につければいいのだろうかと迷った。
「……どの指に嵌めればいい?」
「左手の薬指に」
 傑が恭しく私の左手を取って、丁寧な手つきで指輪を嵌める。結婚式のようだ。プロポーズ、なのだろうか。今さら申し込まれなくたって、とっくに私の未来は傑のものだというのに。左手の薬指に初めて収まった違和感に、己の手をまじまじと眺めてしまう。指輪に軽く唇を落とした傑に、私は無言で抱きついた。傑の肩に額を押しつけると、背中に手を回される。
「今は法律婚はできないけど……」
「うん。わかってる」
「いつか本物を渡すよ」
 いつか、は来るのだろうか。来ても来なくてもいいと思った。逃亡犯の身分で法律婚は不可能だけど、今の私は十分すぎるほど満たされている。ひとつだけ確かなのは、私は法の証明なんかなくとも傑を愛しているということだ。
 例えば「結婚してくれ」とか「妻になってくれ」だとか決して言わないのが、傑なりの誠意なのだと思う。高専を離れてから、傑が私に負い目を感じていたのはわかっていた。だからこそ私を縛る言葉を持たないということも。それだけに、こうして傑が私を求めてくれたのが嬉しい。この指輪は傑なりのけじめなのだろう。おかげで私はこの先も愛の言葉を拠り所にして、彼と共に生きていけそうだ。
 とはいえサプライズのプロボーズは、私にしたら完全に不意打ちだった。心の準備もしていなかったが、もちろんプレゼントの準備などしているはずもない。
「ごめん傑。私、なんにもプレゼント用意してなくて……」
「いいさ。じゃあ、名前の身体をもらおうかな」
 悪戯っぽく笑った傑が、私の耳たぶをふにふにと揉む。私なんかより傑の方が数倍触り心地がよさそうなのに、彼はいつも私のを触りたがる。くすぐったさに身を捩ると、私の顔を楽し気に覗き込む傑の黒曜石のような瞳は濡れて、熱を宿していた。
「……酔ってる?」
「クリスマスの空気に酔ってるかな」
「もう!」
 キザなんだから! とソファの上で傑の胸を押して距離を取ろうとしてもビクともしない。傑の言わんとすることを察して、迷う。私だってその気がないといえば嘘になる。浴室でこそこそとコトを進めても双子が起きてきて未遂で終わった日以来、家庭内で性的なことにはとんと縁がなかった。
「……ダメ。美々子と菜々子が起きてきちゃう」
「今日はぐっすりと寝ているし、声を我慢してくれれば大丈夫だろう。さすがに寝室で二人が寝てる横ではできないからな」
「だからってソファーでは、ん、」
 傑に口付けられるとシャンパンの後味か、苦みを感じた。でもそれもすぐに甘くなり、どちらの唾液かわからなくなる。傑の手が私の髪を梳き、襟足を撫でつける。わずかに伸びかけたヒゲが引っかかる傑の頬に左手を添わすと、視界の端で指輪の石が淡く反射した。もっと、もっと深くでつながりたい。お互いの内面を余すとこなく探り合うよう、何度も息継ぎをしながら唇を吸う。水音と絶え間なく送られる刺激に腰砕けになり、思わずソファーの背に後ろ手をついた。降参だ。
「……ご無沙汰だから、優しくして」
「もちろん」
 観念して力を抜きソファーにくたりと身を委ねると、私に馬乗りになった傑は笑みを深くした。「夫婦で最初の夜だね」なんて戯れるから、私はまた泣きそうになる。体の前で、左手を抱きしめた。薬指の印は宝物だ。傑はその様子を見てまた笑った。この最高なクリスマスイヴを、私は一生忘れられないだろう。
 聖なる夜の淵で二人、触れ合ったところから溶けていく。溶けてひとつになっていく。




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