青い春の終わり

 夏油傑が旧■■村の住人百十二名を殺害して逃走した。血痕と呪力の残穢からどうやら実家の両親も手にかけているらしい。
 呪術高専の廊下で夜蛾先生の悲痛な面持ちと共に「悟にはもう話したが」との前置きで切り出された話は、私の理解を遥かに超えたものだった。全身の血がさっと引く心地に、無意識に握りしめた手に爪が食い込む。まるで水に沈められたかのようにすべての音がぼんやりと遠のいていく。うまく息ができず、喉奥にはひきつれた声が引っ掛かっていた。
「どうか落ち着いて聞いて欲しい。無理な話だとは思うが」
「……うそ。何かの間違いですよね? 傑が人殺しなんて、するはずが」
「名前。頼む」
 聞き分けのない子供に言い聞かせる口調に、ようやくこれが紛れもない事実なのだと悟る。理解はしても、実感は湧かない。あまりに信じ難い内容に、夏油傑という同姓同名の別人の話だろうかと働かない頭で考える。脳内を疑念と絶望がぐるぐると渦巻いて、今すぐ胃の中のものを吐き出してしまいそうだった。
 五日前に突如連絡が途絶えた夏油傑の安否を、私はずっと祈るような気持ちで心配していた。頭の片隅には常に死の可能性が過りながらも、呪術師だからとどこかで覚悟もしていたのだ。灰原の殉職だって記憶に生々しい。それがまさか、傑が他人の命を奪うだなんて。乾いた口と震える唇で辛うじて聞けたのは、ここにはいない傑のことだった。
「傑は今、どこに?」
「わからん。ただ、捕まれば呪術規定9条に基づき呪詛師として処刑されるだろう」
「どうして」
 民間人を殺めた呪詛師が死刑になるのはわかる。私が知りたいのは、どうして傑が人を殺したのかだ。優しく正義感が強く、非術師を守るのだと人一倍ノブレス・オブリージュを説いていた傑が、どうして。私に優しく触れた手で、己の父と母まで殺したというのか。傑と殺人という行為とがうまく結びつかない。この目で傑の犯行を見たのではないから、当たり前だ。
 私の詮無い質問にも、夜蛾先生は黙って首を振るばかりだった。
「上層部から、恋人であるお前にも共犯の嫌疑がかかっている。傑の犯行を事前に知っていたのではないか、と」
「そ、そんなわけないじゃないですか
「わかっている。……俺じゃ上を動かせない。すまない」
「そんな、」
 謝られてしまえば、それ以上は何も言えなくなる。担任から深々と頭を下げられたのは初めてで、サイドに剃り込みの入った坊主頭を、私は呆然と見下ろしていた。悟と硝子はどうしているのだろうか。孤立無援らしい私は尋問、軟禁、拷問などこれから起こりうるいくつかの選択肢を考えた。
「話は済んだか」
 そう声を掛けられて、いつの間にか背後に中肉中背のくたびれたトレンチコートが立っているのに気づく。何度も任務で組んだことのある彼が、私を捕らえる役目に抜擢されたのだろう。
「日下部さん」
「……悪ィな。俺だってこんな真似したかねぇよ。お前が妙な気を起こさねぇようにっつう上からのお達しだ」
 苦虫を噛み潰したような顔をして、咥えた飴をガリッと噛み砕いた。夜蛾先生も日下部さんも、痛々しいものを見る目で私を見ている。私はそんなに酷い顔をしているのだろうか。抵抗の気力もとうに失せた私が棒のように突っ立っていると、片方ずつ手を取られて木製の手錠が掛けられた。これじゃまるで、罪人と変わらない。

 三日経っただろうか。
 傑とのやり取りが記録されたケータイは没収され、窓もカーテンも閉め切った部屋の中では日付感覚が曖昧になる。ただ外が三度明るくなって時計が六度頂上を指したから、それなりに時間は経過したのだと思う。この数日は尋問を受ける以外は、寮の自室から出ることすら禁じられていた。食事はきっちり三食運ばれてくるけれど何も手をつける気になれず、水ばかり飲んでいる。手首に嵌められた呪具の木枠が絶えず膨大な呪力を食うため、術式も使えそうになかった。空腹か呪力不足か、重い体でただぼんやりと虚空を見つめる。
「ハンガーストライキでもしてるのかよ」
「……悟」
 ノックもなしにドアが開く。断りもなくズカズカと部屋へ乗り込んでくる大きい図体に、逆光で顔が見えなくともそれが誰かなんて明白だった。悟と顔を合わせていなかったのはたった数日のことなのに、随分と久々のように感じられる。
「上層部が俺とお前を会わせるのに散々渋ってさ。見張りの冥さんに賄賂渡して通してもらった。黙秘してるんだって? 何も知らなかったって正直に話せば解放してもらえるだろ」
 そうだ。私が傑について出せる情報は何もない。潜伏先は? 動機は? 尋問で何度もしつこく繰り返された質問には、そんなの私の方が訊きたかった。
「……今まで何度も、何度も考えた。どうして傑があんなことをしたのか、私は何をすべきだったのか。……気づけなかった。何も見えてなかった! 私はずっと傑の横にいたのに」
 この三日間、私はひたすら傑との記憶を反芻していた。少し痩せた。目の下にくっきりとした隈があった。「大丈夫」と笑うことが増えた。どこか遠い目をしていた。セックスをしていても心ここにあらずだった。思い返せば、ずっと予感はあったのだ。星漿体の一件から少しずつ生じていた傑の変化に、気づけなかったのは私の過失で過信だ。己の愚かさに愕然とする。
「お前が責任を感じる必要はない。現場を見る限り、あれはおそらく計画的犯行じゃない」
「でも私は傑に置いて行かれた。傑は迎えに来ない! なら、そういうことでしょ」
 傑は私に何も告げず、黙って姿を消した。例えあの晩あの集落で傑の価値観を覆す何かきっかけがあったとしても、その時私は傑の凶行を食い止めるに足る存在ではなかったのだ。地べたに座り込んで両膝を抱える私からは、身長差のせいで悟の表情は窺い知れない。
 伸びてきた腕に勢いよく胸倉を掴まれる。尻が宙に浮いて、高専の制服の胸元がぐっと締まった。彼が漂わせるかつてない怒気と容赦なく気道を押し潰す圧迫感に、にわかに命の危機を感じる。
「……! 悟、」
「……お前だけだと思うなよ」
 はっとして、弾かれるように顔を上げる。傑がいなくなって以来、私は今はじめてまともに悟の顔を見た。サングラスの越しの青い瞳には涙の膜が張って、水面に波紋が広がるかのようにゆらゆらと不安定に揺れている。今にも溢れてしまいそうだ。悟だってギリギリなのだと、私はやっと気がついた。
「悔しいのが、お前ひとりだと思うなよ! 俺だってわけがわかんねぇし、そんな自分を殺したいほど腹立ってんだよ!」
 息を呑む。悟の剣幕に怖気づいたのではない。私もいつの間にか信じられないほどの視野狭窄に陥っていた。きまり悪そうに「……悪い」と謝った悟が手を放して、私は再びドサリと尻餅をついた。
「ごめん。そうだよね。親友の悟が悲しいのは当たり前だよね」
 私達は傷だらけで、無力だ。その辺の大人よりも強いというプライドがあった。呪術師としてそれなりの人を救ってきたつもりで、最愛の人のSOSを取り零すなんて。
「……どうすればよかったのかな。もう私、わかんないよ」
 いくら自問自答をしても答えは出ないし、答えてくれる人はもういない。膝を抱えて顔を埋めた。鼻の奥がツンとして額と目頭が熱くなる。傑の離反を聞かされてから、まだ一度も泣いていなかったのに。泣いてしまえば、今度こそ傑を失った現実を認めてしまうようで怖かった。
 嘆き悲しむのがいくら無為な行為でも、やめられない。私はこれからどうやって生きていけばいいのだろう。傑を忘れて、他の人と恋をして、この先何十年も呪術師として戦い続ける? できない。私には無理だ。
「アイツの中で何があったかは知らねぇけど、これだけは言える。傑はお前を好きだった。その気持ちまで疑ってやるなよ」
「私も傑が大好き」
「知ってる。本人に聞かせてやりたいけどな」
 悟は優しい。傑も優しかった。優しい傑がどうして人を殺したのか、どうしても納得のいく答えが欲しかった。殺人を正当化できる理由なんて、ないのかもしれないけれど。
「ねぇ悟。人は簡単には変われないのかな」
「は? どういう意味……」
 悟が怪訝そうに眉を顰める。
 人は変われないのだと、今の私はそう信じたかった。傑だってまさか一夜にして信条が180°変わったわけではなく、少しずつ蓄積した疑念や絶望が彼の内側を徐々に侵食して、ついに決壊したのだと思う。何かの拍子に歯車が狂うことはあれど、人がすぐに変われるのなら苦労しないのだ。できないから悩み、矛盾し葛藤する。
 そして同じく変われない私は、夏油傑が人殺しだとしても、どうやら傑を嫌いになれそうにはなかった。呪術師失格だ。倫理すら凌駕する己のエゴイズムに驚きつつも、どこかで薄々わかってもいた。
「ありがとう。悟」
 心は決まった。私だって、いつまでも聞き分けのいい女の子のままではいられないのだ。

 今日ほど自分の呪力をありがたいと思ったことはない。特級呪術師二人と反転術式の使い手である硝子とは、パワーもレアリティも劣る術式。頼れる仲間と肩を並べたこの三年間、私は己の力不足や不甲斐なさを何度も呪った。けれど針の穴に通すような精緻な呪力操作とレーダー並みに研ぎ澄まされた呪力探知だけは、私の右に出る者はいないと、あの悟ですら認めていた。
 丸々二日だ。夏油傑を見つけるまで、私はそれだけの時間を要した。
どの呪術師にも気づかれないよう、糸のようにか細く目に見えない私の呪力を、寮の一室から都内全域へと蜘蛛の巣のように張り巡らせる。今にも浅い眠りに落ちていきそうな意識を必死に繋ぎ止めて、目を固く閉じ、数十キロ先にあるいくつもの呪力に意識を集中させる。ほとんどの一般人が平均的な呪力しか持たない中、極稀に全く呪力を持たない天与呪縛を除けば、呪いが見える人間はごくわずかだ。術式を持つ人間となれば、更にほんの一握りになる。その気配を、洗い出すのだ。
 正直賭けだった。どの呪術師だって、私がここで一か八かの賭けに出るとは予想だにしていなかっただろう。私も千里眼めいた使い方は初めてで、成功するか否かは良くて半々といったところだった。途中でバレれば処分は免れない。呪力を封じた手枷は、触れた部分から呪力の流れを読めば構造は理解できた。呪具そのものに込められた呪力を利用して、内側から破壊する。私にかかれば操るのはそう難しくない。
呪力のキャパシティを超えた過度な負荷に、鼻から血が滴り口は血の味が滲む。袖で乱暴に拭って、荒い息を整えた。精神も体力も呪力も、いつ底をついてもおかしくない体に鞭打つ。何度も触れて交わって私の体に刻み込まれた傑の呪力を、私が見間違えるはずがない。どこにいても必ず見つけ出してみせる。目蓋を下ろし、また意識を深く潜り込ませた時。
ーー居た。

「傑!!」
 夏油傑は都内の、それも街中に居た。くたびれたレジ袋を手に、指名手配犯だなんて少しも感じさせない足取りで歩いている。人が絶えず行き交う雑踏で、黒づくめの長髪の後ろ姿を見つけた時、私は無意識に彼の名を叫び走り出していた。振り向いたその人が、私に目を留めて足を止める。まるで急襲でも受けたかのような慌てた動きだった。
「……!? なんで君が、ここに」
 まるで幽霊でも見たかのように、傑の顔に驚愕の色が浮かんだ。高専の制服のままで髪も顔もぐちゃぐちゃの私を、頭のてっぺんから足先までまじまじと見つめている。
「忘れたの? 人探しは私の十八番だって。他の誰が辿れなくても、私が傑を間違えるはずない」
 なんで殺したの、とか直接会って尋ねたいことはいくらでもあったはずなのに、いざ本人を目の前にすると何も言葉が出てこない。傑が生きていてよかった。会えてよかった。そんな嬉しさが勝って、私はどうやったってこの人を嫌いになんてなれないのだと思った。
 けれども傑は嬉しいどころか、焦りとも恐怖ともつかない険しい顔で私を見ている。明らかな拒絶。薄々予想していた可能性がいよいよ真実味を帯びて、私は竦みそうになる脚に力を込めた。私はもう邪魔な存在なのだろうか。殺すなら殺して、と投げやりな気持ちが頭を過る。決別するくらいなら傑の手で殺された方がよっぽど幸せだった。
 傑の大きな手が、私の両肩を掴む。
「私に会ってはいけなかった。今ならまだ戻れる。呪術高専へ帰るんだ」
 苦しそうな、きつい口調で私にそう言い聞かせる傑は、眉根を寄せ「頼む」と掠れた声を絞り出した。肩に触れた傑の手が、服越しにわかるほどに震えている。
ああ、傑は私を心配しているのだ。どうにか私を遠ざけて、傑の人生に巻き込まない道を必死に探している。優しい傑らしい行動だ。今までの私ならここですごすごと引き下がっていただろう。自分で言うのも何だが、私はずっと分別のつく控えめな彼女でいようとしていた。傑を困らせたくなくて、食い下がるなんてしたことはなかったのだ。
「……嫌」
 私の答えに、傑が目を見開く。
「愛しているんだ。私の最後の願いくらい聞いてくれ」
「嫌!! さよならなんて、絶対にしない!」
 縋りついて涙ながらに叫んで、無様だと思う。でも離してなるものか。もう一度手を掴み損ねれば、今度こそこの人は手の届かないところへ行ってしまう。言い争う私達を興味深げに振り返っては通り過ぎて行く一般人のことなんて、もうどうでもよくなっていた。
「私も連れて行って」
傑が唖然として、唇をわななかせる。
「意味がわかっているのか? 呪詛師に寝返れば死刑だ」
「わかってる。ぜんぶ捨てていい。傑以外、何もいらない」
「冷静になるんだ。君は優しいから、私を切れないだけだ」
 違う。同情なんかじゃない。一時の感情に流されているのでもない。もっとシンプルで、ずっと自己中心的な理由だ。
「馬鹿言わないで! 傑のためじゃない。私は他人の命と恋心を天秤に掛けて、私が私のために傑を選んだの」
 最低なのはわかっている。けれど好きな人のためなら正義など些末なことだと、犠牲だって見て見ぬ振りできてしまうのだと、私は私の内なる声に気づいてしまった。許されなくていい。傑となら地獄の果てまでだって行けると思った。
「……全く、敵わないな」
 傑がふっと脱力して、口元を緩める。今日はじめて見る笑顔。まるで私の存在を確かめるように、目尻から頬へ、そして唇へと傑の指が優しく這わされた。そして抱きしめられる。私も応えて傑の背に腕を回すと、ぎゅっと一層強い力で抱き寄せられた。耳元に傑の静かな声が落とされる。
「きっと厳しい道だ。苦労させると思う」
「いいよ」
「今までようにはいられない」
「どんな傑も好き」
 好き。好き。大好き。たった十八年足らずの人生経験だけど、こんな風に誰かを愛すなんて。呪術師になる前の私なら思いもよらなかったことだ。
「ありがとう」
 傑の声が濡れていたのは、気のせいだろうか。抱きしめられているせいで彼の表情を知ることはできない。傑のしっかりとした胸板に頬を寄せれば、トクントクンと規則正しい心臓の音が耳に届く。ようやく触れられた体温に、私はそっと身を委ねた。
 傑の望む世界で、どうか傑が傷つかないといいと思う。それまでは、二人で。私はそう願わずにはいられなかった。




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