偽であることが真

 人は人に救われることもあるのだ。おそらく人が人を憎み、絶望するのと同じくらいには。
 涙を流し頭を床に擦りつけ、感謝の言葉をひっきりなしに口にする非術師達と、それを冷めた目で見下ろす袈裟の男。完璧な笑みを張りつけながら、その目の奥は少しも笑っていない。目を疑うばかりの異様な光景は、いつの間にか見慣れた日常となっていた。信者は傑を神さまのように扱う。けれどこれは慈善事業などではないのだ。呪いと金を集めるための、ハリボテの教団とデタラメの教義。
 でも、人は縋るものを探しているのだと思う。みんな何かに寄りかからずには生きていけない程度には、この世界は残酷だ。ならばやはり、傑は他人を救っているのではないか。

「まやかしだ」
 私の話をそうばっさりと一刀両断した傑は、汗ばんだ首に張りついた髪を払い、後ろで大雑把に一纏めにした。そして先っぽに溜まった白濁液の重みで細く伸びた、役目を終えたゴム――こっちは避妊具の方だ――の口を器用に結んで、ティッシュごとくしゃくしゃに丸める。……目のやり場に困る。後処理の慣れた手の動きを目にするといまだ落ち着かない気持ちになってしまう私は、シーツの上に転がっていたコンドームの個包装の切れ端を弄んだ。指の腹に角が食い込むチクチクとした僅かな痛みを、痛覚が訴える。
 私から切り出しておいて、ピロートークには不適切な話題だったかもしれない。今になって少し悔やまれるが、どうせ後の祭りだ。傑は非術師を猿と呼んで忌み嫌っている。そこに至った経緯を私は嫌と言うほど知っているはずなのに、いまだ傑の剥き出しの憎悪を目の当たりにする度、ひやりと背筋に冷たいものが伝う心地がしてしまう。
「人はそう簡単には他人に救われないさ」
 性行為の痕跡を易々と隅のゴミ箱へと放り込んだ傑は、ベッドボードに背を預けて口の端を上げた。わずかに笑いを含みながら、いやに平坦で乾いた声色。嘲笑以外の何と呼ぶべきか、私は知らない。
 呪術高専で過ごしていた頃の傑は、こんな顔をするなんて到底考えられなかった。いつも柔和な笑みを浮かべていた傑がフラッシュバックして、瞼の裏で重なり、輪郭が揺らぐ。忘れようとしても忘れられなかった。今は誰よりも近くにいるはずなのに私を抱く男のことが、こうして時々怖くなる。傑の、非情とも言うべき猿へのを行いを恐れているのではない。いつの間にか私の知らない"なにか"に変貌してしまうのではないかと、いつからか漠然とした不安が頭の片隅に巣食っている。
「どうしてそう思うの」
「猿共が私に感謝し崇め奉るのは、私がそう仕向けてるからに他ならない。呪いは精神にも作用するからね。祓ってやれば心身が軽くなるのは当然さ。あとは一度信じ込めばなんだって都合のいい様に解釈する。人間の心なんて案外そんなものだ」
 身も蓋もない。でも正論だ。それ以上に言葉を重ねることなく、傑はベッドボードにあったタバコの箱に手を伸ばし、取り出した一本を唇に挟んだ。こちらに断りはない。カチリ、とライターに指が掛かる無機質な音がする。半裸のまま喫煙する精悍な横顔はひどく艶しい。しかし数年前の傑ならばまず人前で吸うことはなかったし、眉を顰めて「体に悪い」「受動喫煙が」などと小言を並べていただろうとも思う。事後の無防備な姿を晒すことが気を許されている証なのだとしたら、喜ばしいことなのかもしれないが。
 濃灰色の瞳が歪む。その目に浮かぶのは少しも隠そうともしない、侮蔑と厭悪。私は傑の目の色が好きだった。深い闇のような落ち着きがあるのに、至近距離で覗き込むとさまざまな色に煌めく。その瞳が激しい感情を宿すようになったのは、いつからだっただろうか。
 ペットボトルの蓋を開け、ゆっくりと嚥下する。喉を潤すと同時に、今の今まで痛いほどに喉が渇いていることに気がついた。つい数分前はあられもない声をあげていたのだから、当たり前といえば当たり前だ。
「……美々子と菜々子は、傑に出会って救われたはずだけど」
「私は彼女達を救っちゃいないさ。猿に不当に虐げられていた分、つまりマイナスを0にしたまでだ。まともな衣食住なんて、子どもは当然に享受すべきものだろう」
「あの子達が傑を慕ってるのも?」
「まともな大人が私達以外にいなかったからね」
 あの子達の気持ちを軽んじてると思う。しかし反論できるだけの材料も、私は持っていなかった。
 閉ざされた集落で、人知れず虐待を受けていた美々子と菜々子を救い出したのは、他でもない傑だった。あの時、呪術師と袂を分かつ以外の道は残されていなかった。非術師に蹂躙されてきたあの子達に、非術師を守るために戦って死ねだなんて残酷なこと、口が裂けても言えるはずがない。後悔などできない。死を前提としての行動ではなく、生き延びるために戦い、稼ぎ、みんなで身を寄せ合って暮らしてきた。幸福でかけがえのない時間だったと思う。しかし、私たちの手で双子と外界との関わりを絶ち、非術師を憎み侮るよう仕向けてしまったことも事実だ。命に優劣をつけ強者が弱者を踏み躙って憚らない生き方を、育ての親であるはずの私たちが教えてしまった。
 あの晩、傑が傷だらけの二人を連れ出したのは、美々子と菜々子にとって奇跡のような、一生色褪せない経験だろう。心酔、親愛、憧憬、未熟な恋心。少女とは一途で頑なで、嫌になるくらいひたむきな生き物だ。かつての私もそうだった。そんな彼女たちにとって傑は神様にも等しい。そしてどれだけ罪深いことか、きっと傑は気づいている。
「もちろん家族のみんなは傑を信じてる。それに……」
 そこで言葉を切り、唾を呑み込む。
――傑は悟に救われなかったの?
 言ってはいけない。他人が救えるのは、他人に救われる準備がある人間だけだ。だからたぶん、そういうことなのだろう。救われることなんて、傑は望んじゃいなかった。許さなかったし、許せなかった。
 息を吸い込み、コツン、と額を預ける。傑の胸にくっきりと刻まれた、生々しい十字の傷痕。反転術式でも完全には治せなかったそれは、白く盛り上がって所々引き攣っている。薄い皮膚越しに、トクントクン、と規則的な鼓動が伝わってくる。
「……私は傑のおかげで救われたけど」
「救う? 私のせいで"堕ちた"の間違いじゃないか?」
 弾かれたように顔を上げる。咄嗟に、タバコを持っていない方の腕を強く掴んでいた。
「違う! 私も傑も、堕ちてなんかいない。傑が教えてくれなきゃ私はきっと今も、私がどんな人間か知らないままだった。理子ちゃんの死も灰原の死も必要な犠牲だったんだって自分を納得させて、たぶんあのまま嘆きながら呪術師を続けて、すぐ死んでたと思う」
 守るべき人を目の前で失った。悟が最強になった。あの日から、傑は少しずつ変わっていったように思う。気づけなかった。どこかで悟っていたのに、気づかないふりをしていた。傑がいつか、非術師を嫌う自分と否定する自分の、どちらかを選ぶ日が来ることを私は薄々勘づいていたように思う。けれど地続きの日常があんなにも脆いものであることを、私は知らなかった。
 傑が私を道連れにしたんじゃない。私が傑のもとに転がり込んだ。そうしなければ術師の犠牲の上で成り立つ非術師の幸福も、上層部と非術師の醜悪さも、私は何も知らなかった。この世に蔓延る理不尽を教えてくれたのは、他でもない傑だった。
 どんなに醜くとも無様でも、私は、ここで生きていきたい。見ず知らずの他人の命と惚れた男への情を天秤に掛けられる人間であったことを、躊躇なく後者を選べる女であったことを、私はあの時生まれてはじめて知った。己の内なる声を騙し騙し呑み込みながら生きるより、私は生き別れるその日まで傑のために、傑のそばで生きていたい。嘘偽りない本音だった。
「だから、堕ちただなんて言わないで……」
 堕ちてたまるものか。傑は一度だって、諦めて、抗うことをやめていない。身を隠し金と呪いを集め、千載一遇の打開の機会が巡ってくるその日まで、非術師の死体の山の一角を築いている。
 ねぇ傑。あなた本当は、誰よりも傷ついてるの。そう口にしかけては、何度呑み込んだだろうか。血溜まりで大きな口を開けて笑えるようになったって、新たな家族をつくったって、失ったものの代わりになりはしない。傑だってとっくに気づいてるはずなのに。
「……訂正するよ。私は君に救われてる。呪詛師になろうが何人手に掛けようが、私を見放さない、他でもない名前にね」
 私は私が憎い。己の無力を嫌というほど痛感しては、どうしようもなく許せなくなる。傑の求めるものが、私の中にあればいいのに。けれど現実の私には悟のような世界の均衡を崩す力も、硝子のような命を救える能力もない。ただ自らの肉親すら手にかけたこの人を一人ぼっちにしてはおけないと、そんな独りよがりをよすがに、ここまできてしまった。
 眼球とおでこが熱い。鼻の奥がツンとして、慌てて鼻を啜った。
「だからそんな顔して泣かないでくれ」
 へにゃり、と眉を下げた傑の手が伸び、私の濡れた頬を撫でた。ただでさえ細い目が、笑うと糸のようになる。毒の抜けた情けない顔が、水の中で目を開けたようにゆらゆらとしていた。たぶん私だって、みっともない顔をしている。
「まだ泣いてない! だって、傑が、ぜんぶ否定するようなことを言うから……!」
 他でもない傑自身が、傑の選択を、軽んじないで欲しい。甘やかな日常を捨て過酷な生を選び取った恋人を、私は誇りに思う。
「傑……私ね、本当に後悔してないの。たとえ呪術高専にいた時に戻ったとしても私は傑を好きになるし、バイバイなんてできないって。家族になれた今、幸せなの」
「わかってるさ。感謝してる」
「ううん、わかってない。傑は私がどれだけ傑のことが好きか、わかってない。だから負い目になんて感じてるんだよ」
 そこまで一気に捲し立てたところで、肩で息をつく。時間差で羞恥が襲ってくる。勢いに任せて、私は一体なにを口走っているのだろう。下手すればセックスよりも恥ずかしいと思った。
「名前は本当に私のことが好きだね。……たまに呆れるくらいに。私が一番わからないよ」
 瞠目してやれやれと首を振る傑は馬鹿だ。聡いくせに、自分へと向けられる感情には鈍感なのだから。私含め幾人もの女の人生を狂わせておいて、罪な男である。
「いくらでもあったんだよ。私が、傑を好きな理由なんて」
 軽く唇が重なる。ただそれだけで、こんなにも満たされた気持ちになる。とにかく今日を生き延びた。明日の保障はない。それで十分だ。
 傑が過去に封印してきた涙のぶんだけ、私が泣き、怒り、笑おう。共に行くと決めたあの日から、心の内だけで密かに、決めた事だった。人間らしさを無理に削り落としては透明な血を流し続けているこの人の分まで、私は愚かな人間でいたい。
 人は人に救われるし、救えると思う。
 私の祈る先は夏油傑、ただ一人。優しくて愛しい、神様みたいなこの人だけなのだ。




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