夜の潮

 じわり、と生温かい感触で目が覚めた。布団の中で寝返りを打って身じろぎすると、パジャマの裾が湿っている。ごそごそと手探りで触ると、濡れているのは布団の方だ。
 そこで原因に思い当たって、浅い眠りから一気に引き戻された。むくり、と上半身だけ起こす。半ば諦めながら掛布団を捲ると、案の定そこには大きな染みが広がっていた。染みの中心は私の隣に寝ている、パジャマのお尻だ。
「あちゃー…またやっちゃたね」
「う……うぅ。ひぐッ」
「いいよ。平気だからね」
 お漏らしだ。今日は美々子だった。菜々子の日もあるし、たまに両方の日もある。
新たな家族での生活をスタートさせてから一カ月と少し、板についたこともあれば新たな問題も生まれていた。これもその一つだ。二枚の敷布団を並べて横並びに寝ていると、両端に寝る私か傑も被害に遭うことが多い。週に一、二回。それが二人分。夜中に起こされるのもだいぶ慣れっこになってきたけれど、睡眠不足が続けばやはり体はつらい。
「うわぁーーーん!」

「あ〜! もう泣かないの! 大丈夫だから」
 ついに声を上げて泣き始めてしまった美々子の横に、慌てて膝をつく。トイレの失敗は本人のプライドも傷つくし、ショックなのだろう。理解はできるけれど、どうか泣き止んで欲しい。美々子が抱える人形にぼたぼたと涙が落ちて、いくつもの染みをつくった。
「う、グスッ……ひぅッ」
「菜々子まで……」
 美々子の泣き声につられてか、隣の布団で寝ていた菜々子まで体を丸めぐずり始めた。こうなるともう収集がつかない。頭を抱えたくなるが、理性で何とか思いとどまる。子どもに手がかかるのは当然だ。空きビルを棟ごと借り上げているので騒音の心配はないものの、深夜三時のハプニングに、顔には出さないけれど脱力してしまう。
「……名前? どうした?」
 隣の布団で眠っていたはずの傑が、肘をついて上体を起こしていた。欠伸を噛み殺しながら寝癖のついた前髪をかき上げている。
「あ、傑起こしちゃった? 今日は美々子が失敗しちゃって。私が片付けるから傑は寝てていいよ。明日も仕事でしょ」
「いいや、私も手伝うよ。シーツは私が替えて洗濯機回しておくから、美々子とシャワー浴びておいで。菜々子は寝なさい」
 傑が菜々子の顔を拭いて、寝かしつけにかかる。寝ぼけて鼻をすすっていた菜々子も、傑の胸にすり寄って顔を埋めると呆気なく静かになった。ほっと息を吐く。
 お昼寝ができる美々子や菜々子と、彼女達の世話につきっきりの私とは違い、傑は日中も教団の運営に奔走している。傑の疲労が心配になるが、それでも今は彼の言葉に甘えるしかない。もし私ひとりで二人の子育てをすることになっていたら、とっくに潰れていただろう。
「ありがとう。それじゃ、美々子は私とお風呂いこっか。濡れたまんまだと気持ち悪いでしょ」
 布団の傍らに立ちすくんだ美々子の小さな手に触れる。しかし美々子はシクシクと肩を震わせたまま、俯いてその場から動こうとしない。傑は濡れてしまった敷布団カバーと敷パッドを手早くべりべりと剥いでいた。
「美々子?」
「うぇ、ごめんなさいッ、ごめんなさい! 私が悪いから怒らないでぇ……!」
 美々子は火のついたようにわんわんと激しく泣き出す。私や傑の声も聞こえていないようで、天井を見上げ顔を真っ赤にして全身で泣く様は、まさにパニック状態だった。普段はこんな赤子のようには泣かない。尋常ではない様子の子どもへの対応はどうすればいいのだろう。つい助けを求めて傑を見るも、傑もお手上げといった風に無言で首を振った。とりあえず頭を撫でようと手をかざすと、美々子が反射的にビクリと首をすくめた。涙や鼻水でぐちゃぐちゃになった顔が、恐怖に歪む。まるで叩かれるのを耐えようとする仕草に、私は伸ばしかけた手を空中で引っ込めた。傑が何とも言えない顔をして私達を眺めている。
 そうか。ことあるごとに殴られ暴言を吐かれながら、この子達は育ってきた。正しい叱責を知らない美々子は、失敗を咎められるのを過剰に怖がっている。傑や私に折檻をされると思って。なんて悲しいことだろう。そして幼い子どもを虐待していた非術師達に、腸が煮えくり返りそうになる。
「あのね、美々子。私も傑もこんなことで怒らないよ。一々ごめんなさいなんて思わなくていいんだよ。子どもなんだから。世話をするのが私と傑の仕事」
「そうだよ。それに私だって昔はトイレを失敗した。誰にでもあることだ」
 傑の言う「昔」はきっと十何年も前のことだけれど、傑はまるで昨日のことのように話すから少し笑ってしまった。
「名前も昔はおねしょしただろう?」
「うん。今もたまに生理で汚しちゃうけど……おしっこより血の方が洗うの大変だし。掃除は慣れてるかも」
 傑の話に乗っかる。お漏らしと経血漏れを同列に語っていいものかと疑問は残るものの、おねしょは大したことではないのだ。それが伝えられれば十分だった。笑いを堪えながら私達がそんなシモの話をしていると、美々子がやっと顔を上げた。
「……ホント? みみこのこと、嫌いにならない? 要らない子だって捨てたりしない?」
「美々子も菜々子も、要らない子なはずがないじゃない!」
「嫌いになんてなるわけないよ。大好きな家族だからね。ずっと一緒さ」
 笑った傑が美々子の頭に手を乗せると、彼女は今度こそ安心して力を抜いた。柔らかい黒髪が、傑の手で自在に形を変える。

 温かいシャワーで洗い流して清潔なパジャマに袖を通せば、美々子もだいぶ落ち着いたようだった。やっと眠気が襲ってきたのか、とろとろと目を擦っている。寝室に戻れば菜々子はすやすやと深い寝息を立てていて、傑はいなかった。代わりにまっさらな一組の布団が敷かれていて、美々子はそこにころんと寝転がった。
「美々子。安心して眠ってね」
「おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
 素直に目を閉じた美々子のおでこを撫でる。安らかな寝顔。この顔を守るために頑張っていると思えば、いくらか疲れは吹き飛ぶようだった。おかしなものだ。母性なんて呼べるほど立派なものではないけれど、私の中にはいつの間にか情が芽生えていた。

 探す手間もなく、傑は屋上にいた。手すりに体を預け、煙草を燻らせている。雑居ビルの屋上から見下ろす東京の街並みは、東京で学生生活を送った私にはさして目新しくもない。こちらに背を向ける傑の表情は見えなかった。
「へぇ。煙草吸うんだ。知らなかった」
「……! すまない」
「消さなくていいよ」
 私に気づき慌てて煙草を手すりに押し付けようとした傑を、手で制する。そのまま近づいて、私も傑に倣って手すりから身を乗り出した。あと一時間ほどで夜が明ける空は、わずかに明らんでいる。バツが悪そうに目を泳がせた傑の目の下には、うっすらとした隈が浮いていた。
「……悪い」
「ううん。未成年にしてヘビースモーカーの人間を知ってるから、別に」
 肺にこびりつく独特のにおいに、硝子を思い出す。元気にしているだろうか。彼女なら私が居なくとも淡々と仕事をこなしているはずだ。悟は私の離反に責任を感じていないといい。一人娘が犯罪者となってしまった両親には申し訳なく思っている。きっと肩身の狭い思いをさせてしまっているだろう。たったひと月余りしか経っていないのに高専での日々が遥か昔のことのように思え、少し寂しくなった。
 屋上に設置した物干し竿には、染みをつくった敷布団と洗い上がったシーツが風に揺れている。
「掃除ありがとね。敷布団は?」
「濡れタオルで叩いて、クエン酸かけておいたけど。そろそろ染みになるかもな」
「もう防水シーツとか買った方がいいのかな」
「次の休みに見に行こう」
 なんだか会話が随分と所帯染みてきた気がしてこそばゆい。呪術師をやっていた頃はいつか傑と結婚できたら、なんて密かに夢見たりもしていたけれど、まさか一足飛びに家族になるなんて予想だにしなかった。経験のない育児という責務に対して、私と同じ目線で悩み試行錯誤をしてくれる傑は本当にいい父親なのだと思う。
「呪術高専で君と付き合い始めてからは、やめていたんだけどね」
 一瞬何の話だろうかと考えて、すぐに傑の指しているものがその手にある煙草だとわかった。煙草を咥える傑の薄い唇がやけにセクシーで、未成年とは思えないほど妙に様になっている。
「だと思った」
 お世辞にもいいとは言えない人相に、長髪とピアス。はじめて夏油傑と会った時、私はその威圧感に随分と気後れしたものだった。不良でいかにも飲酒喫煙してそう、と失礼な感想を抱いたものだ。その第一印象はあながち間違っていなかったらしい。でもそれから傑が優しく真面目な人物であると知り、紆余曲折の末に私は彼と恋人になったのだから人生とはわからない。
「君は品行方正な私が好きだろうから。私も好きな女の子の前では猫被ってたんだ。付き合えた時は嬉しかった」
 苦笑する傑の、かわいらしい一面を今になって知る。人殺しを犯した今となっては優等生など論外だ。咎める大人はもう居ない。実感した途端に、魔が差したのか私まで羽目を外したくなった。
「傑。私にも一本ちょうだい」
「ダメだ」
「どうして」
「健康に悪い」
「どの口が言うの」
 ダメ元のお願いは、案の定あっさり却下された。健康に悪いとわかっているなら、傑だって自分の身体を大切にして欲しい。
「美々子と菜々子のおねしょのことだけど」
「見たところまだ五歳かそこらだろう? まだ気にすることないんじゃないか」
「うん。でも、たぶん心の問題なんだと思う」
 一般的にあの年でのおねしょが問題視されるものなのかはわからないが、あの子達は夜になると酷く不安定だ。PTSDの一種なのか、暗闇に怯えスイッチが入ったように泣き、常に傑か私の姿を探している。年の割に幼く、身体の発達も遅い。ずっとまともな生育環境になく過剰なストレスに晒されてきたのだから当たり前だ。私達は一つ一つの問題に向き合って、解決していく必要があった。
「いつか、あの子達の心の傷が癒えるといいな。あの子達が自分の力を愛して、心から笑える日が……」
 子どもに不安が伝わってはいけないと、気丈に振舞ってきた。けれど隙間風が吹きこむように、時々ひどく心細くなる。私達は終わったのか、始まったのか、はたまた廻っているのか。
「……私達、これからどうなっちゃうんだろう」
 口に出してから、はっとする。震えて今にも消えてしまいそうな、情けない声だった。私がこんなことを言ってはいけない。でも傑は特に気分を害した風でもなく、ぐいと柵の向こうに目をやった。
「さぁ。私はできることを精一杯やるだけだ」
「ごめん、こんなこと。私は傑について行くって決めたのに。夜だから弱気になっちゃったみたい」
「私は君も美々子も菜々子も守るよ。何があっても」
 きっぱりとした口調でそう告げられて、動きを止めてしまう。傑を見ると、傑も私を真っ直ぐに見つめていた。そういえば彼の口からはっきりと今後の展望を聞かされるのは、これが初めてのことだ。
「力と金が必要だ。信者の猿からもっと呪いと金を集める。そうすれば非術師が淘汰された、理想の世界がつくれる。呪いがなくなれば、終わりのないマラソンゲームで呪術師が傷つくことも死ぬことも、こんな風にこそこそと暮らすこともないんだ」
 そんなこと、果たしてできるのだろうか。あまりにスケールの大きい話は、机上の空論にすら聞こえる。少なくともそれが一朝一夕で実現可能でないことくらいは、無知な私にもわかった。でも口には出さない。傑だって理解しているはずだ。それでも傑は人生を費やして、精一杯やるべきことをやろうとしている。それが同胞の死体の山の一角を減らすだけに留まろうとも、やらないよりは意味があるのだ。
「……傑の罪を、私が背負えたらいいのに」
 夏油傑がそれを許さないだろうということも、私は知っていた。それでも祈ってしまうのは、私が傑を愛しているからだ。
「どうか君はそのままで、私と共に生きてくれ」
「いいの? それだけで」
「幸せにする」
「傑……ん、」
 傑が屈み、顔を寄せる。紫がかった目に、私の惚けた顔が映っていた。二人の鼻先が擦れたところでこの先の行為を悟り、そっと目蓋を下ろした。傑の温かい息が肌を撫で、間を置かず唇がそっと重なる。はじめてキスをした日の記憶が蘇るような、丁寧で優しい口づけ。柔く湿った唇に、何度か角度を変えて啄まれる。ふに、と触れては離れていく刺激がもどかしい。額に全神経が集まったかのようにカッと熱くなって、細く吐き出した息が震えた。
「緊張してる?」
「だって今日、なんか変」
「ほら。力抜いて」
 なぜか生娘のようにどきまぎしている私に、おでこをコツンとぶつけた傑が笑い混じりに囁く。薄目を開けると、私を見る傑の瞳孔は黒々と開き、濡れていた。わかりやすい性的興奮。久々に見た男の顔に、何も告げられなくなる。開いた口は再び塞がれ、間髪入れずに傑の舌が侵入してくる。厚くてぬるぬると滑る舌は頬の内側を撫で歯列をなぞり、私の舌を絡めとった。軽く吸われると、じゅるりと生々しい音が響く。気持ちいい。性器の接触に負けず劣らずの快感が背筋を駆け抜ける。疲れとさまざまな欲求が溜まった体は、キスだけでイってしまいそうだった。
「んぅ、あ……ふ、」
「……ッ、く」
 酸素が足りない。思考が霞む。とうとう息が苦しくなって、逞しい胸板を押し退けた。新鮮な空気を求めて顔を背けると、私と傑との間に銀の糸が伝う。
「はッ……ん、苦い。なんかスース―する」
「メンソールだからね」
 変な後味だ。舌が痺れるえぐみと、歯磨き粉のような清涼剤が口の中に残留している。俗にいうヤニの味がこれなのだとしたら、何がおいしいのだろう。私には一生わからなさそうだ。息を乱す私の肩を、傑の手がそっと撫でる。
「戻ろうか。ここは冷える」
「そうだね」
 日常が始まる。「幸せにする」との傑の言葉を、私はきっと一生忘れないだろう。道なき道の行き先はわからないけれど、隣にいる傑だけは確かなのだ。




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