ひたり。頬に宛てられた冷たく柔らかいものの感触に、俺は急速に意識を浮上させた。重い瞼を開くと薄汚い天井が赤い瞳に映った。
ここはどこだろう。起きたばかりでうまく回らない頭が、自分の置かれた状況をぼんやりと考える。


「あ……臨也さん、」


聞き覚えのある声が名前を呼んだ。
それとほぼ同時に視界から天井が消える。代わりに視界に現れたのは、聞き覚えのある声の持ち主―――見覚えのある顔だった。


「み…かど、くん?」

「よかった…、このまま目を覚まさなかったらどうしようかと思いましたよ」


そう言いながら目の前の少年―――竜ヶ峰帝人は困ったように笑った。

ここはどこだと目で問うと、それを読み取った帝人は僕の家ですよ、と言った。予想した通りの答えだった。
なんで帝人くんの家に俺が、等聞きたい点はいくつかあったが、それ以上に人様の家で寝転がっているなんて堪え難いという思いの方が勝った。
動く度に感じる鋭い痛みに顔を顰めながら、俺はゆっくりと体を起こす。どうにか上半身を起こしたところで、額にうっすらと滲んだ脂汗を拭いながら息を吐いた。


「い、っ!」


冷たく柔らかいもの改め、帝人が手に持った濡れタオルが再び頬に触れた途端、ぴりりと小さな痛みが迸った。何の前触れもない痛みに、反射的に小さな呻き声を上げる。
すみません、と焦った風に言って帝人は慌てて濡れタオルを引っ込めた。


「怪我、治療しようと思って……あの、大丈夫ですか?」


おろおろしながらも心配そうに俺の顔を覗き込む、自分より幾分か幼い顔。

―――け、が。
帝人が怪我という単語を口にした瞬間に思い出した。そういえば自分は、暴力を振るわれた為に意識を失ったのだったと。
あの化け物に、愛する彼―――


「……平和島、静雄。」


控えめに告げられた名前に、びくり、と肩が揺れた。


「また…静雄さんから暴行を?」


真摯な瞳をこちらに向けながら、帝人が核心に迫る一言を放った。
かたかたと無意識に体が震えだす。


「な、んで…」


帝人くんがそれを知ってるの?
そう問い掛けるはずが、続く言葉は喉の奥でつっかえてしまった。
純粋な驚愕と、記憶に新しい恐怖感にその身を震わす臨也に、やはり帝人は困ったように笑った。


「勿論臨也さんほどではないですけど…、僕だってそれなりの情報網は持ってるんですよ。だから臨也さんと静雄さんの関係だって、少し調べたらわかることです」


さっきから、体の震えが止まらない。歯の根がガチガチと音をたて、焦点が定まっていないのが自分でもわかる。緊張しているのか強張った腕で、静かに自分の肩を抱いた。
情報屋としてその名を馳せる自分がなんともみっともない姿を晒している。普段の精神状態でこんな姿を他人に見られたとすれば羞恥で死にたくなるところだが、今の俺は羞恥を感じる余裕さえもなかった。


「ぁ……ぅ、あ」


震えてうまく力が入らない腕に無理矢理力を入れ、小さく呻きながら、体中に迸る痛みを無視して勢いよく立ち上がった。


「―――ッ!!」

「臨也さん!」


立ち上がった途端、ぐらり、と臨也の体が斜めに傾く。帝人が慌てて近寄って臨也の体を支えた。


「はぁ…ッ、い、ぁ、」

「臨也さん……?」


一層激しくガタガタと震えだした臨也に、帝人は何か不穏なものを感じる。
次の瞬間、


「ぅ、あァあぁああ!!」


絶叫。
それはまさしく絶叫だった。


「はぁッ、あ、ふっ…ゃ、」


怖い。


「やだ…、嫌だ嫌だいやだ嫌だ、ぃッ!」


怖い、恐い。


「っく、ぃ、ごめっ、」


怖い恐い怖いこわい怖いコワイ恐い怖い怖いこわい恐いこわい


「ご、めんなさっ…ごめっ、さ、ごめんなさい、ごめん、なさッ、」


譫言のように何度も何度も謝り、赤い瞳から涙を零す。半狂乱になって自身を抱き震え上がる臨也の様子に、帝人は思わずぐっと息を呑んだ。


「はッ…ふうぁ……。ご、め、」


荒い息を吐きながら、それでも尚臨也は虚空を見つめ謝り続ける。

―――ああ、こわい。シズちゃんが、しずちゃんが、


「ぅ……っひ、は…?」




―――シズちゃん、が?




「うぅっ…あ、あああ、」


―――ああ…、なにが。
何がこわいのかさえ、

わからない自分が、こわい。



「ぁ……はあッ、はっ…」


自分が恐れているものが明確な何かであると実感出来ていない自分に気付いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
俺は一体何を恐れているのだろう、恐れていたのだろう。なんで俺は自分のことさえもわからないのだろう。わかっていない。わからない。何がそんなに、こわい?なにが?

そんな……じゃあ、なに?
俺は、俺って、なに?


「……ッ!!」


混乱の末に放心状態に陥った臨也を、後ろからそっと抱きしめる腕。突然の出来事に体をびくつかせ思わず腕を払いのけようとしてしまう。しかし、体に回された腕には思った以上に力が篭っており、結局振り払うことは出来なかった。


「み、かど…く……?」


背後から己に腕を回し抱き寄せた帝人の名を呼び顔を覗くと、やけに真剣な表情で自分を見つめる少年がそこにはいた。


「…臨也さんが、苦しむ必要はないんですよ」


優しくかけられた一つの言葉。瞬間、赤い瞳が大きく見開かれた。


「臨也さんはもう十分苦しんだじゃないですか……。だからもう、」


苦しまなくても、いいんですよ。

そう帝人が言い終わる頃には、既に臨也の頬は涙に濡れていた。


「ふっ……、ぅ、あああああっ…」


1番欲しかった言葉。なのに今の今まで、誰もかけてくれなかった言葉。
これ以上苦しまなくてもいい。たったその一言で、今まで喉の奥につっかえていたものが全部吐き出されるような気持ちになった。


「うあぁあぁぁ…っ」


泣いた。いっぱい泣いた。声に出して、大声で。子供みたいに、わんわん泣いた。
赤い瞳から、ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちていく。でも不思議とこの涙は、殴られた時に流した涙とは違い…

随分と、あたたかかった。




  

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