日暮が鳴いていた。

黄昏時を過ぎた山はもう橙色ではなく群青色が支配していた。転んで怪我をしては行けないと普段は夜に近づく事を禁じられているこの山も、お祭りの時は大変に賑やかになる。賑やかな参道を逸れて裏側に来れば喧騒から一歩離れているせいか、少しだけ間遠に人々の声が聞こえるがこの辺りはとても静かで下流にある川の音がよく聞こえた。

「薄暗いね。」
「転ぶなよ」
「百ちゃんも。…ねえ、川上はこっちじゃないよ」
「良いんだよ。ここからがよく見えるんだ。」
「ふうん。」

まだ火を灯さない灯篭を抱えてヅカヅカ登っていく百ちゃんの背中を追いかける。喘息もちの私に気遣って出来るだけ平坦なルートを登っていく百ちゃんの足元を懐中電灯で照らしてゆっくりと登っていく。灯籠流しの前に村長や村役場の偉い人たいの長い話があるからと抜け出してきたのだが、本当に良かったのだろうかという気もする。先ほど会った勇作さんは浴衣を着ていて私を見つけるなり飛んできた。横にいた百ちゃんに沢山話しかけていたというのに、百ちゃんはむすっとした顔で生返事を返すだけだった。

そうこうしているうちに勇作さんは灯籠流しの前の余興が始まるからと、一度お婆ちゃんに呼ばれて行ってしまった。その隙にと言わんばかりに百ちゃんは私の腕を取って神社とは別の、裏の方に足を進めたのだ。どこにいくかと問えば、「イイトコロ」としか答えなかった。百ちゃんは時としてこういうよく分からない行動によくでるのだ。

「百ちゃんの灯篭、立派だね」
「ふん」
「一日で本当に作っちゃうだなんて」
「小さいけどな」
「でも立派だよ」

私がそう言えば百ちゃんは少しだけ満足そうに口角をあげて、それから岩に腰を下ろした。膝の上には小さいが立派に完成された青色の和紙の貼られた灯籠が収まっている。裏山の中腹に位置するこの場所はよく山登りの休憩場として普段からも人がいた。明るくて晴れていれば富士山が見えたり、前方には綺麗な海も見える。見下ろせば確かに下の方に灯篭を流す川が見えた。

「よく知ってるね」
「毎年、ここで見てるんだ」
「…そっか」

誰と、だなんて野暮な質問、余程ぼんやりとした私でも出来なかった。百ちゃんはずっと此処で毎年一人で見ていたのだと思うと悲しくてやり切れない気持ちになる。足腰の悪い百ちゃんのお爺ちゃんお婆ちゃんが此処に来るとは到底思えなかった。ましてや、彼のお母さんは…とそこまで考えて思わずかぶりを振った。私はいつもこの時期はお婆ちゃんとお爺ちゃんと来ていたから、彼がその間どうしているだなんて、あまり深く考えていなかったのだ。昼間から降った雨のせいか油蝉たちの声は弱々しく、日暮が鳴く声がよく裏山に響いていた。なんて物悲しい声なんだろうとぼんやり思って、百ちゃんの座った岩の隣に腰掛けた。

さっき屋台で買った蜜柑飴を百ちゃんと食べながらぼんやりと下の方を向いているとだんだんと川上の方から無数の光の点が流れてくるのが見えた。此処から川上の方を見ると、町内会のテントの文字と、櫓が組まれているのが見える。じっと目を凝らせば、点のようにわらわらと蠢いている人々の中に一緒のクラスメイトの顔や、酒屋のおじさんの顔、八百屋の若夫婦の息子さんなど顔がぼんやりと見えてくる。きっと私よりも目のいい百ちゃんは全員誰だか判別が付いているだろうなと思う。きっと、その人々の中に私たちを探して回る勇作さんの顔や、勇作さんと百ちゃんのお父さんの顔も、彼は見えているのかもしれない。

「百ちゃん、その灯篭、流さないの?」
「あとで流す。人多いの、苦手だから。」
「そっか。でも、此処は特等席だね。焼きそば、持ってくれば良かった。」

私がそう言ってサイダーの瓶に口を付ければ、百ちゃんはがりりと蜜柑飴を噛み砕いた。彼を伺うように横目で盗み見ながら、少しだけ視線を落として昨日の事を思い出していた。本当はきちんと謝れずにいて罪悪感を感じていたし、今日は本当に来てくれるかどうか心配になっていた。結局、時間になって外にでた途端、家の門の前で律儀に灯篭を持って立っている百ちゃんを見つけてホッとした。ちょっとでもいいから勇作さんの所に行こうと言えば、しかめ面をしたけれど。

「あのさ、」
「ん」
「お母さん、来ないんだね」
「…来てると思う、多分。」
「え」
「家出る前に部屋見たら、居なかったから。」
「そっか…どこに居るんだろう。」

そう呟くようにそう言って、視線を再び川の方に向ければ、すでにいくつもの光の玉が川を滑るように流れていくのが見えた。百ちゃんのお母さんは一体何処に行ってしまったんだろう。胸の中でふつふつと別の罪悪感が生まれて、胸に巣食っていく。私があんな事を言ってしまったから、ずっとお家から出た事の無かった百ちゃんのお母さんに影響を与えてしまったのだろうか。一歩も外に出てい無かった百ちゃんのお母さんがまさかあの一言で出るだなんて夢にも思わなかったというのも事実だった。「おじさんも来る」。あんな事を言ってしまったから、おばさんはおじさんを探しに今夜、出て行ってしまったのだろうか。百ちゃんには言っては居なかったが、さすがに言うべきかとチラと見遣れば、サイダーを飲み干した百ちゃんと目があった。彼の目はとても綺麗だ。近くでないと分からないが、実はとても深い青色をしている。

「なんだ」
「ううん…百ちゃんのお母さん、何処に居るんだろう。」
「………」
「探したほうがいいかな…」
「気にするな、別に子供じゃねえだし、たまには外に出た方がいいだろう」
「何もないかな」
「何もないだろ」
「…うん」

そうだといいな。再び小さな声でそう言えば百ちゃんは返事を返さない代わりにふう、と息を吐いた。灯篭はあっという間に流れていって、光の粒はあっと言う間に小さくなっていく。やがてこの灯籠は海へと到達するのだろう。それとも海の方へ行く前に回収されてしまうのだろうか。それでも人々が灯篭を流し続けるのは如何してなのだろうか。死者を供養するためや、お盆の終わりにあの世へ送り返すために行われる行事がきっとこの先も人が生きている間に脈々と受け継がれていくのだろうと思う。色んな人の思いを運んでいく色とりどりのこの光の玉は、どうしてこうも美しいのだろうか。まるで昔見た夢の中のような光景に、瞼の裏がとても熱くなるのを感じた。

「百ちゃんのお母さんにも見せてあげたかったね。お爺ちゃんもお婆ちゃんも、腰悪くしてなかったら見たかったろうに。」
「……きっと知ってると思う。」
「え?」
「婆ちゃんが言ってたんだ。ある夏の盆に、母親はきっと此処で父親に会ったんだろうって。灯籠流しの日に、裏山の真中でたったひとつ、青白い光がぼんやりと灯っているのが見えたんだって。俺が生まれる、一年くらい前の事だったらしい。」
「百ちゃんが生まれる?」
「母親が家出る前、爺ちゃんが作った灯篭を一つ持って、何も言わずに家を出たらしい。探しに行った爺ちゃんがとうとう見つけられなくて、仕方がなく川上に戻ろうとしたら、一個だけ、不思議と山の方に光が一つ見えたんだと。淡い青色をした光だったらしい。間違いなく、爺ちゃんが作った灯篭だったって。」
「………」
「その一年後、母親は生まれたばかりの俺を連れてなんの前触れもなく実家に戻ってきた。父親が東京に帰ったのは同じくらいの時期だったらしい。勇作さんが生まれた年だった。母親はその時から憔悴し切っていて、あれだけふくよかで綺麗だった頬も痩けて、その頃からおかしくなったって。」
「…その青い灯篭はどうなったの。」
「さあ、分からん。」

百ちゃんはそう言うとよっこらせと腰を上げた。私も同じように立ち上がり、そしてもうすっかり真っ暗になってしまった眼下の方に視線をやった。町内会の人々もすっかりまばらになっていて、もうあっけなく終わってしまったらしい灯籠流しに少しだけ寂しく思った。あとは二人でこの百ちゃんが作った青い灯篭に火を灯して流すだけだ。来た道を戻ろうとした刹那、突然視界の端に蛍が光ったような、小さな青白い光が見えた気がして、咄嗟に傍にいる百ちゃんのTシャツの袖を引っ張った。それに気が付いたのは私だけではなくて、百ちゃんも微動だにせずに、その光の方を見やった。

「百ちゃん、あれ、」

思わず落として足元に転がった懐中電灯を拾おうとすれば、それは目の前の男の子の手によって遮られた。百ちゃんは私の懐中電灯を拾うと、そのままプカプカと浮かぶそれに光を灯した。真っ暗闇の中の沼というのは実に不気味で、その漆黒はまるで私たちを飲み込もうとあんぐり口を開けて待ち構えている化け物のように見えた。百ちゃんの腕を引いて早く帰ろうと促すが、彼はずっとその光を懐中電灯で追うことをやめなかった。まるで催眠術にかかったみたいに、彼は目を見開いて黙ったまま、沼に浮かぶ灯篭を照らし続けた。

「…百ちゃん、帰ろうよ、」
「誰かいる…」
「え」
「…髪の毛」

そう行った刹那、懐中電灯の先にはっきりと灯篭に巻きつくように、まるで海藻のように水面に漂う人型を見た。半分沈んでいて、半分浮かんだような状態でそれは沼に打ち捨てられたかのようにあり、そして灯篭を抱きしめるようにして沼の奥の方に引っかかっていた。懐中電灯の照らされた光に当たって僅かに銀色の何かが反射した気がした。ひゅっと息を吸い込んで思わず後ずさった瞬間、体が大きく後ろに倒れるのを感じた。その瞬間だけ、酷く世界がゆっくりと緩やかに動いている気がして、それから思わずめいいっぱい腕を伸ばした。最後に視界に捉えたのは、黒目がちな目を大きく見開いて私を掴もうと必死に手を伸ばす、可哀想な少年の色白で悲しい表情であったことまでは覚えていた。









「…通りで、おかしいと思った。皆、嘘ついてたのね。」
「………」
「ごめんね。私、あの時階段から転げ落ちたんだ。気が付いたら東京にいて、気が付いたら病室で、夏休みも終わってた。…ねえ、百ちゃん。どうして連絡してくれなかったの。こんなに大変だったのに…」
「…連絡したところで、お前、嫌な記憶を思い出すだけだろう。お前まで発狂したらどうすんだよ。流石に責任が取れねえ。」
「……そうだけど、」
「俺は、父親とは違う。」

そう言った彼に対して酷く後悔した念が込み上げてきた。すっかり暗くなってしまった辺りにはだんだんと下の方から人の声が重なっていくのが分かった。灯籠流しの群衆に混じっていっそのこと消えてしまいたかった。忌忌しい記憶が蘇ってくると同時に自分に対する恐れや失望の気持ちが強まっていく気がした。

「尾形君、おばさんが死んだのは、私が…」
「いつか母親が言ってた。俺は父親に似てるんだと。」
「………」
「お前、どう思う?」
「それは……」
「…言われた時俺は無性に腹が立ったよ。会った事もねえ親父に似てるだなんて言われても困るだろう。でもな、あの夏、初めて親父を遠目だが見たとき、合点が言ったよ。正直、勇作さんよりも俺の方が似てるんだなと、客観的にそう思った。」
「……」
「つまり、俺の母親は年々自分の想い人に似てくる実の息子と対峙しなければならなかったんだ。息子と会えば会うほど、父親のことを思い出さざるを得なくなる。母親はどんなに苦しんだろうか知れない。だから部屋が隣同士だってのに母親は殆ど部屋から出なかった。」
「……」
「誰も悪くねえ。これ以上母親が苦しむくらいなら、俺が直接手を下すか、母親が先に辛抱ならず死ぬかの、どっちかだったんだ。」
「…違う、」
「いや、そうなんだ。」
「違う、違うよ、全部私のせい、」
「病んでたんだよ。」

彼はそうなんの迷いもなくそういうと、ふう、と静かに煙草の煙を吐いた。間遠に人々が灯篭を流す賑やかな声が聞こえてきて、まるで山を隔てたあちら側が現世で、こちら側は地獄のようにも思えた。お婆ちゃんがよく言っていたが、この辺りの古い人は皆、死んだら山に行くのだと聞かされているそうだ。彼のお母さんは何故ここでその生を絶ったのか。もうそれは私たちの知るところではないが、きっと、彼女は最後におじさんを一目でも見ていたのではないかと思った。おじさんと逢瀬したというこの秘密の場所、この地獄から、人々の雑踏の中で幸せそうに自分の子ではない、他の女性の息子の手を握る、あの姿を。一体、どんな気持ちで眺めていたのだろうかと思うと胸が苦しくて仕方がなかった。

「そう言えば、質問に答えてなかったな」
「…え」
「何で銃なんかやってたかって。」
「急になに」
「もし母親を苦しまずにやるなら、それが一番いいと思ったからだ。銃で心臓か頭を打てば、ケリがつくだろう。」
「………」
「だが、そんな手間も結果的には省けた。俺はむしろ母親に感謝してるんだ。誰の手も煩わずに一人で行っただけ、マシだと思わないか。危うく俺は子供のくせに犯罪者になるところだったんだからな。」
「…もうやめて、」
「葬式には父親は来なかったが、その代わり、勇作さんが来てくれてね。父親の代わりに来たと言って花を手向けてくれたんだ。『父親も本当は来る予定だったけど、仕事がどうしても忙しくて』って、子供のくせに慣れない余計な嘘までついて。当時は心底、驚いたもんだ。」
「もう、わかったから、やめて…」

項垂れる私を横目で見ながら彼は随分小さくなった煙草の吸い殻を手に取ると、そのまま後ろの沼の方に投げ入れてしまった。その瞬間、昨日見たあの一個の灯篭を思い出して、抱えた頭の隙間で少しだけ目を見開いた。そしてゆっくりと彼の方に視線をあげれば、こちらを見下ろす黒目がちな目とかち合った。

「…じゃあ、あの灯篭は」
「ああ。」
「やっぱり…通りで見たことがあると思った。」

そう言って力なく笑えば頬に生暖かなものが一筋伝った。東京の大学病院で目覚めたとき、後頭部の痛みよりも先に感じたのは胸の痛みだった。目を覚ますまでの数週間、私はいくつかの夢を見ていたような感じがしたのだ。この田舎での日々が、まるで全て夢の中のような気がしていた。喘息も不思議とこの頃から改善を見せて、もうここに寄り付く事もなくなってしまった。きっと、祖父母が無理をして敢えて里帰りを誘わなかったのも、この事があったからなんだと合点が行くと、無性に愚かな自分を殴りたくなった。

「説得力はないかも知れんが…。別にお前を追い詰めたいと思ったわけじゃなかった。」
「……」
「嘘じゃねえよ、本当だ。もし会ったとしても何も知らねえふりしてニコニコしながら昔話をしてやるくらいの気概はあったさ。俺だってもうガキじゃねえんだ。そんな昔のこと、別にあの頃からお前が悪いだなんて思ってねえよ。」
「尾形君…」
「だが、昨日、あの橋でお前が灯籠流しをぼんやり見つめているのを見た時、どうしても無性に俺の中でふつふつと燻るものがあった。もしここにお前を連れてきたとして、思い出さなくてもそれでもいいと思った。いや、実際その方が幸せだったのかも知れねえけど。…ただ単に、知りたかったんだ。お前はあの時どう思ってたか。あるいはどんな反応を見せるのか、知りたかった。お前はそれでも俺を認めるのか。」
「………相変わらずいい性格してるのね」
「前にも言ったかも知れねえが、俺は人よりも欠けてる部分が多いんだよ」
「嘘。そんなこと、言ってなかったよ」
「いいや、言った。」
「嘘だよ。…でも、そうだね。百ちゃんは、昔からそうやって人を試すところがあったね。心配しなくたって、私はこんな可哀想で悲しい人を一人ぼっちになんかできないよ。」
「………」

私がそう言えば尾形君はふ、と小さく口角を上げて、新しい煙草を咥えた。なんで、もっと早く気づかなかったんだろうか。自分が惨めで軟弱で、無知蒙昧に見えて仕方がなかった。まるで今まで頑張ってきたものや、切実に信じていたものがプツンと切れて価値のないものになってしまうような、そんな感覚を覚えた。私はずっとここでの生活や出来事がまるで夢のように感じていたけれど、本当は逆だったのだ。ここが現実で、今まで百ちゃん抜きで生きてきた都会での日々がむしろ幻想だったのかも知れない。ずっとどこか心をどこかに置いてきてしまった気がしていたが、きっと、私の心はあの十年以上も前の夏に、置いてけぼりにしてきてしまったのかも知れない。

「百ちゃん、」
「ん」
「灯篭流しに行こうよ」
「………」
「今度は、私が流す番だから、」
「………」
「私って本当にバカね。昨日の灯篭は、お母さんの分じゃないんでしょう。」
「………」
「昨日のあれは、お父さんの分なんでしょう。私、ようやく思い出したよ。おじさんが亡くなった日だもんね。勇作さんがそう言ってたのにすっかり忘れちゃった。」
「………」
「今度は、私が流す番だね。」
「…頼むから今度は転ぶなよ。」

視線を横に向ければ、こちらを向いて意地悪そうに笑って目を細める彼が見えた。そして何方でもなく自然とたぐり寄せるように手を伸ばした。重なってきた大きな手を握り返せば、訳も分からず思春期のようにお互い暫く黙ってしまった。


2019.08.13.








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