持病の喘息せいで私一人だけこの村に暫くいる事になったのは、小学校を卒業して間も無くだった。都内の大学病院の先生の助言で、スモッグの少ない、空気が清涼な田舎の方に住むことを勧められたのだ。まだ幼く小さかった私にとって継続して行う投薬治療は身体に負担が大きかったのだろう。都内は空気が悪いので、両親は苦渋の決断をして私一人を母方の祖父母の家に預ける事にしたのだ。正直幼い頃に両親と離れることは精神的ショックが大きかったが、それ以上に毎週通う大学病院と、咳の止まらぬ日々に苦しめられていた私はそれで少しでも救われるのならと子供ながらに少し諦観を持っていた気がする。

とは言え、仕事のある父は週に一度が限界であったが、母はわざわざ末娘の私の為に往復2時間かけて二、三日に一度は私の様子を見に来た。祖父母も孫に優しく良識ある人で、古い考えを持ってはいたが、それゆえに本当に色々なことを教えてくれたと思う。迷信や昔の人の考え方や風習なども教えてくれた。だから、「尾形百之助君」のような、腹違いで生まれて兄弟別々のお母さんがいる子も、昔はそう珍しく無かったということも教えてくれた。そして、そう言う子だからといって他の子と一緒にバカになんかせず、親切にしてしなければならないということも、小さい頃から祖父母から教えてもらうことが出来たのは、不幸中の幸いであったと思う。








「百ちゃん、明日灯籠流しに行こうよ」
「…行かねえ。」
「なんで」
「勇作さんと二人で行けばいいだろう」
「…意地悪ね」

私がそう言えば目の前の坊主は歩みを止めて、それからムッとしたような顔を下げて振り向いて私を見やった。修業式の日に髪の毛を切ったらしく、綺麗に切りそろえられた坊主は青々として、森の木々に負けないくらいに思えた。もう数え切れないくらい彼の頭を見ているが、見れば見るほど形のいい頭だなあとしみじみ思う。小学校卒業の頃よりも幾ばくか背も伸びたし、同じくらいだった肩幅もだいぶしっかりしてきたように思う。勇作さんの方がいくらか背が高い気がしていたが、もうそんな変わらないかもしれない。眉間に寄せられた眉は彼の中で特異な持ち物の一つであり、勇作さんも同じような眉をしていると言うのに、百ちゃんのそれはまるで別物のように思えた。お父さんが同じなのに、お母さんが違うとあれだけの違いがあるのだなと、口にはしないがぼんやりと心のうちでひっそり思っていた。

春休みに一度だけ、勇作さんのお婆ちゃんのいる大きなお屋敷に招待されたことがあった。まるで映画に出てくるような大きなお屋敷で、夜に来たらトイレに行くのが怖くなるくらいだと思った。お婆ちゃんが言うには、花沢さんの本家は神社の神主の家系で、昔からあの裏山の神社を守ってきた古いお家のだと言う。なんだか良くはわからないがとても偉い家なんだろうなと言うことだけはわかっていた。実際、大きなお休みが無いと東京から遊びに来れない勇作さんも、いつも神社で行事があると忙しそうにしていたので、子供ながらに他の家とは何かが違うのだろうなと思っていた。

でも、勇作さんや花沢家の皆が忙しくしていても、百ちゃんは別に関係がないのか、いつも通り、ひっそり過ごしていた。同じお父さんなのになぜ彼が、基、おばさんが蚊帳の外のように扱われるのか、子供ながらに不思議だった。それでいて、とても不憫に思っていた。百ちゃんはそのことについてどう思っているのか、正直分からなかった。けれど、言葉にはしないが神社で毎回お祭りや行事をすると言うことで村や大人たちが盛り上がったりするのを目にする度に、少しだけ寂しそうにするのを見ていたので、私はそれ以上彼に何も言うことが出来なかった。私の人生において尾形百之助と言う人物は、友人であり好きな男の子であると同時に、『寂しい』と言う気持ちを教えてくれる存在でもあったのだ。

「灯篭流そうよ、勇作さん、百ちゃんが来るって言ったらきっと喜ぶよ。」
「勇作さんとは行かない。」
「またそうやって仲間外れにする……。」
「……仲間外れにしてるのはあっちだ。」
「………」
「………」
「…ごめん。」

私がそう言えば前に居た百ちゃんはため息を吐いて、それから私の手首を取ると再び歩き始めた。百ちゃんのお家は私のお家を通り過ぎて数分歩いた先にある山の入り口にあるお家だ。古いお家ではなく、最近建て替えたばかりの新しいお家なのに、いつもひっそりしている。百ちゃんはお爺ちゃんとお婆ちゃん、お母さんの4人暮らしだ。

兄弟は、勇作さん一人だけ。勇作さんはいつも東京の私立に通っているので大きな休みしか会えない。勇作さんはお兄ちゃんの百ちゃんにとても会いたがって、よくこのお家の近くをトボトボ歩いたりしているのだが、百ちゃんのお家の呼び鈴を鳴らすことはなかった。きっと、勇作さん自身も何処と無く躊躇われたのだと思う。

朝から居て夕方まで百ちゃんを待ってこの辺りをうろうろしていたことも会った。きっと百ちゃんはそんな勇作さんを二階の自分の部屋から見ていただろうに、その日はついぞ外に出なかった。その様子があまりに不憫で、お婆ちゃんが暑いだろうからと声を掛けて家に入れたのが勇作さんとの出会いだった。勇作さんは太陽みたいな人で、私はすぐに勇作さんと仲良くなった。

勇作さんは夏休みや春休み、冬休みになると必ず家により遊びに来るようになり、次第に文通もするようになった。彼のお話は最近東京の学校で流行っていることや面白い友達の話、最近読んで感動した本などの話題もあったが、必ずその文末には百ちゃんは元気なのか、何をしているのか、と言うお兄ちゃんを気遣う文章で締めくくられていた。

そんな勇作さんが今年も例に漏れずこの田舎に遊びに来たのだが、案の定百ちゃんは会おうとしなかった。今年は勇作さんも中学生になったと言うことで、灯籠流しを大人に混じって手伝うことになったと言う。せめてそのタイミングで二人を引き合わせられないだろうかと子供ながらに各案したわけだが、百ちゃんはやっぱりしたくないみたいだった。かわいそうだけれど、百ちゃんが嫌がるなら仕方がないだろうとも、そう思っていた。

「百ちゃん、どこ行くの?」
「家。灯篭流すんなら作らなきゃだろう。」
「行くの?」
「………」

私がそう問いかければ百ちゃんはチラとこちらを向いて、それからウンともスンとも言わないがそのまま握った私の手首は離さなかった。







「お邪魔します…」

ガラガラと引き戸を閉めてそう言えば薄暗い廊下から返事が返ってくることは無かった。側で靴を脱いで無言で上がる百ちゃんに続いて私も靴を脱ぐと、百ちゃんの分の靴も揃えて漸く廊下を歩き始めた。

「お婆ちゃんとお爺ちゃんお出かけなの?」
「ああ。親戚ん家。明日帰ってくる。」
「そっか。」

百ちゃんの家に行くのはこれが初めてではないが、毎回あまり居心地のいいものでは無かった。お婆ちゃんのおかげで小綺麗だし、新しいので木のいい匂いがするのだが不思議と勇作さんのお屋敷とはまた別の少し怖い独特の雰囲気が流れている。階段を上がっていく彼の腕を思わず取るくらいには私はこの家が少し苦手だった。百ちゃんもそれに気が付いていて、お婆ちゃんとお爺ちゃんが居ないお家に私を招くことはほとんどなかった。だが、珍しく今日は私を招き入れた。

百ちゃんの部屋は二階の突き当たりにあって、畳のお部屋だった。彼の持ち物は昔から少なく、おもちゃで遊ぶ方でも無かったようで、荷物がとても少なかった。本棚には日焼けした岩波文庫の文庫本や、中学生にしては渋い内容の歴史小説が並んでいた。この辺りの地図や野生動物に関する本も沢山あった。海の生き物の本や、星座に関する本もあった。小さな机の上には数本の鉛筆と小さい消しゴム、赤と青色のボールペン以外は無かった。およそ中学生の部屋には見えない部屋だなあと思う。なので久々に上がって週刊雑誌が置いてあったりすると素直に驚いたし、押入れの中にえろ本の一つや二つあるのではと揶揄って開けても本当に何もなくてつまらないと思っていた。

「麦茶しかねえけど、いいよな。」

コクリと私が頷けば、百ちゃんも頷いた。お茶と一緒に灯籠の材料を倉庫から持ってくると言って、学校の鞄を机の上に置いて部屋に私を置き去りにしたまま部屋を後にした。少しだけ開いた扉の隙間から流れてくる生暖かい風に少しだけびくりとして、それから私も自分の鞄を畳の上に置くと座布団の上に腰を下ろした。百ちゃんのお部屋の隣の部屋は百ちゃんのお母さんのお部屋だと言っていた。だと言っていた、と言うのは、実際私はその部屋を見たことがないからだ。百ちゃんのお母さんは病気がちでいつもお部屋に閉じこもっていると言う。

それを気にしてお婆ちゃんがよくお見舞いにと果物を送るのだが、毎回受け取るのは百ちゃんのお婆ちゃんで、お母さんが出てくることは全然無くなっていた。お婆ちゃんの話では、百ちゃんのお母さんはこの辺りでも有名な美人だったそうだ。テレビ局の人が来るんじゃないかとか、将来モデルさんになるんじゃないかとか、この村の星だのと言われるくらい、とても綺麗な人だったそうだ。百ちゃんはあまりお母さんのことを話したがらないけれど、私がどんな人なのと問いかければ、「顔は悪くはない」と言うくらいなので、きっと今も綺麗なんだろうと思う。

そんな百ちゃんのお母さんが引きこもりがちになってしまった理由はよく分からないが、ここにきて初めての夏祭りに行った時、お祭りの若衆のお兄さんたちが尾形家の噂をしていたので知ることとなってしまった。尾形君のお母さんは勇作さんのお父さんと昔恋仲になっていたと言う。でもその頃すでに勇作さんのお父さん、つまり幸次郎おじさんはすでに勇作さんのお母さんと結婚していて、二人は不倫をしていたことになる。『花沢のおっさんは昔から別嬪に手をつけるのが早かったからなあ』と若衆のおじさん達は笑っていたけれど、一体何が可笑しいのか分からなくて、すごく悲しくなったのを今でも鮮明に思い出す。

百ちゃんのお母さんはそれでもきっと勇作さんのお父さんが好きだったんだろうと思う。それで百ちゃんが生まれたと言うなら、それは結構なことだろうとも思う。『誰も悪くはない』。お婆ちゃんがそう言っていたけれど、百ちゃんと過ごす時間が長ければ長いほど、本当にそう思った。今百ちゃんのお母さんは、何を考えどう思って一人で過ごすのだろうか。そう思ったら不思議と立ち上がっていて、少しだけ開かれた廊下に足を踏み入れた。ゆっくりと歩みを進めて隣の部屋の扉の前に立ち竦んで、それからゆっくりと息を吸って吐いた。

この中に人が居るはずなのに、まるで生気を感じない。手を伸ばしてその扉に拳を叩こうとしたが、不思議とその次の行動が追いつかない。どうしたものかとチラと廊下の奥の方を見遣れば、窓の方から橙色の日差しが差し込んで足元を照らしていた。薄暗かった廊下に日差しが差し込んで居るだけでも少し安心する。ホッとしたのもつかの間、中から突如声がしたかと思い思わず後ずさった。

「百…」
「あ、あの…」
「………」
「…お邪魔しています」
「……だれ?」
「みょうじです。あの、朝顔畑の横のお家の孫で…」
「みょうじさん…」

部屋の内から聞こえてくるか細い声はそれきり途切れ、暫くの間沈黙が支配した。遠くでカラスの鳴き声と、夕方を知らせる町内会の放送が聞こえて思わず生唾を飲み込んだ。どうしようかと息を吸った瞬間、わずかに目の前のドアノブが動いて思わず後ずさった刹那、開いたわずかな隙間からどんよりとした空気が廊下に流れ込んできて思わず声にならない声が出そうになった。そして案の定、次の瞬間には発作的にゴホゴホと喘息が起きてしまって、驚くよりもまず先にドアノブを握ったままその場で足を崩してしまった。

涙目でなんとか堪えようとするが、喘息はそんなものでは治らない。鞄の中の薬を取り出そうかと思った刹那、背中に冷たい何かが触れて優しく摩っていることを確認すると、思わず視線を上にあげた。視界に映ったのは、今にも消え入りそうなほどほっそりとしていて、百ちゃんのそれと負けないくらい白くて折れそうな首をした、綺麗な女性のその顔であった。

「大丈夫、ゆっくり、息を吸ってご覧。」

そう言われて瞬きをすることも忘れたようにこくんと頷くと、言われた通りに吸って、吐いてを繰り返した。いつもならそう簡単には治らないのだが、不思議なことに目の前の女性を前にしたら魔法のように上手くいったのだ。はあ、と最後に一段と大きく息を吸って吐けば、彼女は私の背中をゆっくりゆっくり摩って、今度はしゃがみ込んでしまった私の肩に手を置いた。私のお母さんとはまた違う、酷く骨ばった細くて小さな手だった。景気がよくないとは聞いていたが、ここまで酷いものとは知らなかったので唖然と見ていたが、視界に映ったその細い薬指に嵌められた美しい銀の輪っかに暫し視線を奪われた。

「あの、具合は大丈夫ですか?」
「………」
「百ちゃんのお母さん、ですよね。」
「…ええ、」
「あの、私、いつも百ちゃんと一緒にいるんです。」

私がそう言えば百ちゃんのお母さんはすっと立ち上がって、それから少しだけ口角をあげた気がした。気がしたというのは私がそう感じただけで、本当はそんなつもりなど無かったかもしれないのだが、あまりに表情に力が無かったので、薄暗いこの廊下では余計に表情が読めなかった。お部屋の中も電気を着けておらずカーテンも閉めっぱなしなのかほとんど真っ暗であった。窓も暫く開けていないのか綺麗なお家なのに少しカビ臭く、お母さん自身も窶れているように見える。ゆっくりと立ち上がって目の前の女性を見上げた。廊下の窓の日差しに目を細める骨の浮き上がった女性の横顔が視界いっぱいに見えて、なぜだか酷く悲しい気持ちになった。

「…百、いないの?」
「今、外の倉庫にます。灯籠流しの、灯篭を一緒に作ろうって、材料を取りに行ってくれてて…」
「灯篭…」
「明日、灯籠流しの日なんです。あの、よかったら、百ちゃんのお母さんも一緒に行きませんか?」
「………」
「神社でやるんです。村の人沢山来ますよ。神社の人も、全員来るって。」
「神社の人…」

神社という言葉に反応を見せた彼女に目敏く気付いて、思わず私の中で本当に余計な考えが起ころうとしているのが分かった。子供のくせに、一体どんな世話なんぞ焼こうと思ったのか。今でこそもう何故そんな事を言おうと思ったのか知れないが、私はあの時確かに、百ちゃんのお母さんに言ってはいけない一言を言ってしまったのだと思う。

「お父さんも、来るって、勇作さんが…」

そう言ったか否か、彼女が少しだけ目を見開いて、それからはあ、と息を吐くのが分かった。まるでそれまで空だった容器に、魂が呼び起こされていくような、不思議な光景に思えた。それまで色のなかった頬が色づき、そして輝きのなかった目に光が宿っていくような、本当に命が再び吹き返していくような、そんな光景であった。

「おい、」
「百ちゃん、」

ぎしりと階段から軋む音がして思わず振り向けば、そこには灯篭の木材とお茶のグラスを二つ持ってジトリと射抜くような目でこちらを見やる少年の逆光の顔が見えた。彼は迷う事なく私の方にやってくると、自分の母親なんぞは横目で流して、それから私に怒ったようにこっちに来いと言って引き戻した。部屋に半ば強引に引き戻されてしまったが、部屋に入る前に見た百ちゃんのお母さんは窓の外の夕日を見て少しだけ笑っていたように思えた。今度は隙間など開けずにぴしゃりと扉を閉めると、少し怒ったような、悲しいような顔をした百ちゃんが私を見下ろして、それから静かに腰を下ろした。

「なに話してたんだよ」
「明日灯籠流しだから、百ちゃんのお母さんも一緒に行こうって…」
「行かねえよ、あの人は」
「でも、いくかも知れないよ」
「行けねえよ。俺には分かる。」
「どうして」
「爺ちゃんと婆ちゃんが許さない」
「…どうして」
「どうしても」
「………」
「………」
「………百ちゃんごめんね、私、」
「もういい。灯篭、作っとくから、麦茶飲んだら今日は帰れ。」
「………」

百ちゃんはそう言うと私に背を向けて持ってきた木材で灯篭を作り始めた。その小さな背中が切なくて、でも何も言えずに静かに泣くしかできなかった。何も知らない自分が、惨めでバカで、やるせなかった。


2019.08.13.








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