昨日降った雨のせいか今朝はそう暑くはなかったが、代わりにもわんとした空気が漂っていた。祖母の畑仕事の手伝いは早朝から行われた。精霊馬に使ったきゅうりも茄子も、この祖母の畑でとれたものだった。精霊馬なんて、都内の方ではあまりお目にかかれない代物だ。お盆には地獄の釜が開いて先祖の御霊がやって来る。きゅうりはお迎えの馬で、茄子は帰りの牛なのだと、お婆ちゃんがそう言いながら、昔と変わらず、私が幼い頃と同じようにそう説明しながらお供えした。

「ねえ、今日何処に行くの?」
「まあ、そう焦るな。」
「何着て行けばかも分からないんだけど。」
「別にパーティーに行くんじゃねえんだから、普通でいいだろ、普通で。」
「そう?じゃあこのままでいいかな。」
「虫避けスプレー持ってけ、念のために」
「(本当に何処に行く気なんだ…)」

ん、と彼がお椀を差し出してきたのでムッとしながらもそれを受け取るとお味噌汁をよそった。朝ごはんにお婆ちゃんが作ってくれた茄子の味噌汁と胡瓜のぬか漬けを痛く気に入ったらしく、お昼にも彼はご飯を2杯おかわりした。今夜は灯籠流しをする日だからその準備に忙しいと言うお婆ちゃんに人手が必要だろうと二人で手伝うと申し出て、久々に午前中は町内会の方に顔を出した。尾形君は最初嫌がっていたが、「いい男になった」だの、「都会で出世したんだろう」だのなんだのと、町内会のおばあちゃんやおじいちゃん達にちやほやされて満更でも無かったようだ。

そしてお年寄り特有の余計な勘違いとでも言おうか、私と彼が結婚したのかと言いだす始末ではあった。もちろんしていない。何なら昨日久々に会ったくらいなのだから。そして午前中の準備を手伝い、お昼を食べ終わった後に漸く時間ができたので尾形君と散歩に出ることにした。最初こそまだ町内会の方は忙しそうで準備することが多かったようなので、引き続き手伝おうかとお婆ちゃんに申し出たのだが、私と彼に変に気を遣ってか、「二人で出かけて来い」と言って、お昼を食べ終わると早々に軽トラで出ていってしまった。多分、変な誤解をしているとは思う。

お皿を洗い終えると薄化粧をして、日焼け止めを塗っていく。私が支度をしている間、尾形君は昨日洗ってもう夜のうちに乾いてしまった服を来て縁側で煙草を吸っていた。あまり朝が得意では無いようで、既にもう柱に凭り掛かりながらうつらうつらとしていた。彼の肩越しに見えた空は昨日の雨模様とは打って変わって、澄み切った青空に白いもくもくとした雲が映えていた。縁側に咲いていた朝顔の蔦が隣の瓜に侵入して、くるくると塒を巻いている。ぼんやりと眺めているとまるで蜃気楼のようにも感じた。隣の部屋から香る線香が風に乗って夏の空へと流れていく。暑い、と小さく呟けば返事を返すように彼が煙草の煙を吐いた。

鏡台に向き合いながら横目で縁側の彼を見ていると不思議と昔の光景を思い出した。彼は確か中学の時もこうして縁側の柱に背を預けて麦茶を傾けていた。昨夜は煙草を吸って足を組みながら浴衣をはだけさせていたものだから思い出すこともなかったが、こうして日差しのある下で見れば何処となく少年の頃の影を感じなくもなかった。

坊主だった頃からの癖なのか、前髪をなで付ける仕草や、不健康そうな色白の頬は変わっていない。今はこうして雰囲気のある色男に変貌してしまったが、私がいない間に彼は一体どんな人生を歩んでいたのだろうか。私が消えてからというもの、一人で色々なことをどう乗り越えたのだろうか。考えれば考えるほどまるで意識だけが時間を遡っていくようで、かろうじて吹いている夏の風が風鈴を揺らすたびに現実へと引き戻された。

「尾形君、あのさ…」
「…ああ。」
「………」
「………」
「ううん、なんでも無い。」
「ふん、」

彼は横目でチラと私を見て、何事も無かったかのように視線を外に向けた。









「昨日よりも濁ってるね」
「昨日雨降ったからな。転ぶなよ。」
「うん」

そう言われて足元に気をつけながら歩く。国道を抜けて畦道を通る足取りは思ったよりも軽かった。彼の忠告を半ば無視してサンダルで来たが、道はもうすっかり乾いていた。日傘を刺して歩くすぐ横の道路側を彼は歩いていて、時折首筋からするりと汗を流した。遠くの田んぼはもう稲穂達が首を擡げていた。今年はあまり雨が降らなかったせいか粒が小さいのだとお婆ちゃんが言っていた。お天気がいいことは好きだが、雨が降らな過ぎるのも、こう酷暑が続くのも、やはり異常だと思う。

家の周りには山や林、川が多い。この土地は昔から米を始め作物を育て存続してきた小さな集落だったそうだ。海は近いが背に山があり高い位置にあるせいか津波の被害もなかったそうだ。だがその代わり、不思議と沼が多かった。山の中にも、田んぼのすぐ横にも、大小問わず酷く濁った沼が存在していた。一見すると深さのわからない沼は、じっと見ていると底なし沼にも感ぜられて、幼心に少しだけ奇妙で怖いものとして感じていた。小さい頃、まだここに私が預けられる前にはよく家族で夏休みになると祖母の家に遊びにきていたが、その度にこう言われたのを思い出す。『沼にはこの時期に近づくな。足を引っ張られるから。』と。

「懐かしい。裏山か。」
「お前よく此処で狸の糞踏んでたよな。」
「余計な事ばかり覚えてるのね…」
「お前が一々面白いことするからだ」

はは、と笑うと彼はヅカヅカと裏山へと入っていく道に入り込んでいった。此処までくると周りには木々が生い茂っているので日光が遮られて少しは楽になってくる。山の側にある川のおかげか、風もいくらか涼しく感じた。「裏山」と呼ばれるこの山はそう大きいものではなく、全体的に見れば小高い丘くらいの規模だ。私たちが裏山と呼ぶ由来は一つ、表側にこの辺りの神社があるからだ。此処は昔からある古い神社で、此処ら一帯の人は昔からこの神社を中心に事あるごとに行事を行ってきた。

元々は神社なのかお寺なのかもルーツは曖昧だが、その横には集落のお墓があって、古いものは江戸時代からのものもあった。神社の裏にある山なので裏山と言う安直な名前ではあったが、この辺の人は昔からそう言っていたのだ。戦争の時はこの裏山に穴を掘って防空壕にしたし、大昔の飢饉の時はこの裏山に住む狸を狩り飢えを凌いできたと言う。だから神聖で敬うべき山ではあるのだが、一つだけこの辺りの人が気をつけなければならない事があった。小さいが微妙に急な山だというのに、不思議と沼が多いのだ。本当かどうかは謎だが、昔おじいちゃんが、裏山の沼の数を数えると、毎回増えたり減ったりするので、この裏山の沼は生きているのだと、そうよく言っては怖がらせたり、笑わせたりしていた。

「あららら、」
「おい、危ねえ」
「ありがとう」
「だからサンダルで来んなって言ったんだよ」
「ちゃんと道を歩いてくれれば平気よ」

眉間にしわを寄せて柄の悪い顔を更に凶悪にさせた尾形君が差し出してきた手を素直に握った。冷たそうなその手は外の気温に触れているせいか少しだけ暖かく感じた。裏山には階段があるが、随分古いので崩れかかっていて一歩間違えれば普通に転んでしまう。危なっかしいと言う事で彼は私の腕を掴むとどんどん階段を登っていく。何だかこうして歩いていると両脇から猪や狸がバッと出てきそうな雰囲気だ。

そう言えば、彼のお爺ちゃんが地元の猟友会で銃をよく扱っていた。そのせいか彼もまた銃に詳しかった。勇作さんの話でしか知り得ないのだが、彼はきちんと狩猟免許を持っているらしく、時折田舎で駆除に立ち会うこともあったそうだ。見たことはないけれど彼はきっと腕がいいのだろうという確信はあった。今では絶対にダメなのだが、彼がその昔私の祖母の畑を荒らす猪に対して独断で駆除をしたことがあったのだが、その時に用いた空気砲の扱いが玄人のようだったからだ。その時初めて彼の銃の腕前を見たわけだが、本当に感心したのを覚えている。今も趣味としてやるのかはよくはわからない。

「尾形君、あのさ」
「ん」
「昔、猪狩にいったの覚えてる?」
「…ああ」
「あの時ばれてお婆ちゃんにすっごく叱られたの思い出した。あと、尾形君、すごく銃の腕前ががあってびっくりしちゃった。」
「普通だろ、あんなもの。」
「空気砲の扱いに慣れてる中学生なんて普通じゃないよ。秘密で練習してたの?」
「…雉とか撃ってた。ガキの頃な。爺ちゃんと婆ちゃんに隠れて。バレたら取り上げられるから。」
「ここで?」
「こことか、あと学校のそばの山とか。」

悪びれる様子もなく彼はそう言うとちらと私を見た。それを聞いてふと、それまで記憶の奥底にあったはずの思い出が思い起こされた。尾形君は喘息持ちでよく体調を崩していた私に学校帰りに差し入れをくれたのだ。雉や鹿肉、猪肉など、彼はそれらの肉を持ってきては、祖母に見舞いだと言って手渡したという。彼の話では「爺ちゃんが取ってきたから」と言っていたそうなのだが、今考えるとそんな頻繁に猟友会は活動していただろうかとも思う。悪いやつだなあとぼんやり思いながらくすりと笑えば、前を歩く彼が微妙な顔をした。

「何だ」
「ううん、どうして銃なんか練習してたのかなって。狸や猪は一時期大発生したけれど、でも、そう騒ぐほどのことでもなかったし。そんなに好きだったの?」
「………」
「ていうか、この裏山って、こんな小さかったっけ?」
「こんなもんだろ、山が大きくなったり小さくなったりするもんか」
「大きくなったってことかなあ。」
「年取ったってことだろ」
「ねえおっさん」
「何だよおばさん」
「ちょっと、疲れた…息辛い。」
「…早く言えよ。」

そう言えば突然ピタリと足を止め私を見やった。喘息持ちは子供の頃より随分よくなったとは言え、日頃の運動不足が祟ったのかすでにこんな山でもハアハアと肩で息をしていた。ジムに毎週きちんと行っときゃ良かったなあ、と笑ってそう言ったものの、尾形君はひどく真剣な眼差しで私を見て、それから何事も無かったかのようにしゃがみこむと背を向けた。

「え、いいよ、別に…」
「よくねえよ。黙って乗れ。」
「良いってば。本当に、ちょっと息切れしたくらいなのに」
「此処で喘息起こされても迷惑なんだ。乗れって。」
「起こさないってば。デブだの何だの言ってたくせに」
「真に受けるなよ、良いから乗れ。」

語気を強めて彼が舌打ちをする勢いでそう宣ったので渋々彼の首に腕を回した。重いのに…と呟きながら彼の背に体を預ければ彼はおじさん臭くよっと、と一声かけると階段を上がり始めた。真夏の時期にこんな大の大人を背負うだなんて自殺行為だと詰れば、彼はふん、と鼻を鳴らした。いつもは人を小馬鹿にした態度で接してくるくせに、こう言う時だけ何故か行動的なのだ。いつの日だったか、中学の持久走大会の時も喘息を起こして道端で休んでいた私を見つけてわざわざ私を負ぶったせいで二人してビリになった事があった。その時は照れ臭くて言えなかったけれど、本当に嬉しかったのを思い出した。思春期で皆に揶揄われて恥ずかしかったのだと思う。

あの時どうして素直に有難うと言えなかったんだろうと、持久走大会の後に自分をどれだけ攻めたことか。「百ちゃん、有難う」。たった一言だと言うのに。何も言わずに負ぶってくれた彼はゴールに着くと飄々とした顔を崩さず、何も無かったかのように私を保健室の先生のところまで負ぶってそのままどっかに行ってしまったんだっけ。汗だくで重かったろうに、私を攻めることなく何も言わずに帰ってしまったのだ。あの時のまだ幼さの残る背中に向かって有難うと言ったら、彼はあの時どんな顔をしただろうか。

「百ちゃん、有難う。」
「………」

蝉の声のせいか、聞こえなかったのか分からなかったが、一瞬、彼の一歩前に出た足が止まった気がして思わずふふ、と口角が上がった。

「デブとは言ってねえだろ」
「でも丸くなったって」
「まあ、捉え方はそれぞれだけどな」
「………」
「はは、」
「(有難うって言わなきゃ良かったかな…)」

彼もこの酷暑で暑いだろうによく成人女性を負ぶさってまでその「イイトコロ」とやらに行こうとしているなと感心する。果たしてそこまでする何かがこの山にあっただろうか。必死に思い出そうとしたけど、どうしても思い起こすことができなかった。











「此処?」

私がそう言えば彼はこくんと頷いて、それから負ぶさっていた私を下ろした。裏山にはお墓があることは分かっていたが、まさか彼の言う「いいところ」とやらが此処だとは思わなかった。眼下に広がるのは美しい田園と、寂れた集落がポツポツとある景色だった。驚くほどに緑が青々としていて、遠くから見える山間の奥の海がキラキラと光っているのが見えた。まだお昼を過ぎて間もないので日差しが白くみえる。もくもくとした入道雲のすぐ横にうっすらとクレヨンで引いたような飛行機雲が一筋見えた。

裏山の頂上には神社の御神木があるのだが、此処は裏山の中腹に当たる。中腹でももともとこの辺りは高地なのか景色がよく見えた。階段で言えば踊り場のような場所になるが、踊り場と言っても広い空間であり、散歩コースとして数十年前に設置されたらしい小さな柵と小休憩用の木のベンチは風化して、勢いよく座れば崩れ落ちてしまいそうな寂れ具合だ。

地元の人もほぼ高齢化が進み、なかなか此処に足を踏み入れないのだろう。本当に、何の変哲も無いよくある日本の田舎の風景であるなあと感心していれば、背後から煙草の香りがして振り向いた。手頃な岩に腰をかけて煙草を咥える尾形君と目が合った。そしてトボトボと彼の方へ向かって歩いていけば、彼は隣に座るように目で指示したのでその通り腰をかけた。

「尾形君、この辺に何か合ったんだっけ」
「…何か思い出したのか」
「うーん、何かよく分からないんだけど…」
「………」
「此処は…」

そう言って視線を後ろに向ければ、視界には森の木々に紛れて小さなお地蔵様が見えた。お地蔵様の裏には小さな沼があり、ぐるりと柵とロープが張られていたいた。此処は見たことがある気がするのだが、果たしてこんな黄色と黒色の規制線のように張られていただろうか。随分古いのか、ベンチと同じくらい風化して少し引っ張れば直ぐに千切れてしまいそうに見えた。

目を細めてその沼を凝視する。夏の木々の青々とした緑の色に負けぬほどに深い緑色をした沼はそう大きくはなく、かと言って小さくも無い。子供が誤って転落すれば一溜まりもないだろう。時折何か魚がいるのかぶくぶくと泡が出てきたり、アメンボがいるのか波紋が広がったりして静寂を保っていた。水面に木々の隙間から溢れてきた木漏れ日が当たると神秘的にも見えた。

「そこの沼、何かあったんだっけ…」

私がそう言って尾形君の方を見遣れば直ぐ間近で私を見つめる彼と目が合った。深い青色をした彼の視線が見えて思わずハッとしたのもつかの間、突然頭の裏を鈍器で殴られたかのような衝撃が脳の内側から走った気がして思わず、「あ、あ…」と、みっともないような、声にならない声を絞り出して息を吐いた。直ぐ間近で劈くような声で泣き喚く蝉の声さえ間遠になっていくような、そんな不思議な感覚に陥った。

「此処で、何が起きたの…」

私がそう言えば尾形君は笑うとも泣くとも言えぬ沈んだ目をして私を再び見て、それから静かに口を開いた。

「お前は、本当に忘れたのか」


2019.08.13.








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