日暮が鳴いていた。

連日の酷暑で都内は蒸し風呂のような空気をそこここに纏っていたが、流石にここまで田舎となると空気は何処と無く冷えていて、不思議と涼しささえ感じた。夏の時期の日は出ている時間が長いが、暮れ始めると早い。

本当はこの時間になる前には退散する予定だったのだが、酷く懐かしくって思わずその辺を歩いているうちに、とうに予定していた時間は過ぎていた。「夜には雨が降るだろう」。祖母が私が散歩に出る前にそう言っていたが、確かにややひんやりとした湿り気を帯びた空気が気持ちがいいくらいで散歩するにはちょうど良かった。

『もう着きましたか?』

画面に表示された律儀なラインに『はい。』と返せばすぐに既読がついて、『申し訳ないのですが、仕事の急用で都内に帰ることなってしまいました。お会い出来ないのが残念です。本当にすみません…。』と返事が来た。それに『仕事では仕方がないですね。気をつけてください。良かったら、写真送りますね。』と返事を返した。

律儀で心配性な彼の事だから、きっと私を必要以上に気にかけている事だろうと憂慮し、『気にしないで!』という感じの軽快なスタンプを送れば、可愛い猫の『ありがとう』というスタンプが返ってきた。それを確認すると一旦スマホをポケットにしまいこもうとしたが、思わず再び画面を開いた。

『お兄さんには会いましたか。』

そう打とうとして、思わずアプリを打ち消すと、結局、そのままスマホをポケットに入れて歩き出した。国道のガードレール沿いにすれ違った柴犬の散歩をする親子に会釈をし、ふと前方を見た。視界に映った遠くに見える民家の玄関には提灯がぼんやりと燈り始め、目を細めると火垂るのようにも、並んだ民家の提灯なんかは不知火のようにも見えた。

人通りの少ない国道沿いを当てもなくフラフラ歩いていれば、とうとう川に差し掛かった。小さな田舎の橋の下の川はいつも何の変哲もない顔をしているが、この時期になると少しだけ賑やかになる。それは明日になればおのずと分かることだった。眼下に一つだけポツンと流れてきた灯篭をぼんやり眺めて、それから何故だか酷く懐かしいような、少しだけ背筋が凍るような不思議な感情に陥った。

遠い昔、私はこの灯篭を見た気がした。

川の流れに沿ってゆっくりと流れていく一つの灯篭を見ながら、何だか無性に物悲しい気持ちになった。フラフラと一人だけで暗闇へと突き進んでいくその灯篭はとても心許なくて、悲しくて、寂しく思えた。誰が流したかも、どうしてこの瞬間に灯籠流しを流したのかも、皆目見当がつかなかった。だが、とても言葉にしきれない何かが、あの一つの灯篭から伝わってきた気がした。

あまりスピリチュアルなことを信じる方でも無いし、朝にやっている占いも全くもって信じないのだが、不思議とあの灯篭からは何かを感じ取ることができた気がした。早く帰ろうとしていたというのに、結局、灯篭が米粒ほどの大きさになるまで見送ってしまった。その間、不思議とあれだけ大合唱のように命懸けで鳴いていた蝉たちの声が薄れて、日暮の声だけがはっきりと耳に聞こえていた。

ふと、今朝祖母と一緒に作ったナスときゅうりの精霊馬を思い出して山の方に視線を上げた。山の端に隠れんとする日の色は橙色で、もう自分の周りは群青色が支配していた。それを見た瞬間、何故だか現実に戻っていく感覚がして酷く安堵し、思わず自分の胸を抑えた。先程と変わらぬ現実世界であることを漸く確証を得ることができてホッと胸を撫で下ろしたのもつかの間、ふと視線をあげれば何かが近付いてくる気配を感じた。

前方からやってくる赤い灯火に少し目を細める。灯火はフラフラと此方に向かって歩いてきているようで、暗いので近くまではわからなかったが一人の男であった。再び目を細めてその顔を確認しようとしたが、彼の顔を捉えた瞬間、心臓がドクンと波打つのを感じて思わず「あ、」と声を漏らしたきり、動けなくなってしまった。そんな私の様子などつゆ知らず、赤い灯火と紫煙を纏ったそれはペースを崩さずについに私の前まで来ると、僅かに口角を上げて、それから煙草を川の方に向かって投げてしまった。赤い灯火は弧を描いて瞬く間に黒いうねりに飲み込まれて消えてしまった。

「よう、」
「あ、」
「まさか、幼馴染の顔も忘れちまったんじゃねえだろうな」
「ひ……尾形君、だよね?」

私が名前を呼べば彼は猫のようなその目を細め、ゆっくりと口角を上げた。









「ずっとここに居たの?」
「ここに居たってどうにもならんだろう。」
「まあ、確かに。でも、尾形君SNSも何もやってないから。元気かも全然分からないし…。」
「面倒くさくてやらねえだけだ。それに、お前が思うよりも俺は上手くやってる。気に入った外車を買うくらいには上手くやってる。」
「すごいじゃない。」
「今お前こそ何やってんだよ。」
「私も働いてるよ、東京で。貧乏OLだけどね。」
「ふん。」
「なに、」
「いや、あんだけ鈍臭かったお前でも何とか一人でやってるみたいで関心しただけだ。」
「もう随分昔のことじゃない。尾形君こそ、よくそんな捻くれ屋だったのに出世したわね。」
「言っとけ。」

そう言って目の前の男は煙草を取り出すと口に咥えたが、一瞬私の方をちらと見た。

「お前、治ったのか。」
「え?」
「喘息持ちだったろう。」
「…ああ、うん。もう全然平気。週一でジムに通うくらいには。」

まあ、最近あんまり行ってないけど。そう言って笑えば彼は興味があるのかないのか分からないような生返事を返して、それから咥えた煙草に火を灯した。しとしと降り出した雨はあっという間に庭の朝顔の蔦を這い、花のなくなった紫陽花の葉を滑って最後に地面へと到達し、茶色だった地面を黒くしていった。目の前の男はぼんやりと薄暗い縁側の庭を眺めて、それからぼうっとした表情を下げたまま少しだけぬるくなったビールのグラスに口をつけた。もう先に休んでしまった祖母の為にテレビも消してしまったせいか、家の中が随分静かだ。雨のせいか蝉も日暮も消えてしまったかのように聞こえなくなった。

そうこうしているうちに、亡くなった祖父が使っていたガラスの灰皿にはすでに3本以上の煙草がぐにゃりと腰を折っていた。目の前にあるよく冷えた美味しい西瓜には目もくれず、彼はビールを飲み干すと再びポケットから煙草を取り出して滑らかにジッポで火を点けた。煙草の匂いと側に置いてある蚊取り線香の匂いに混じって、雨に濡れた地面の香りがする。

「雨の匂いがするね。」
「くせえだろ。」
「いい匂いだよ。なんか、嫌なものが浄化されていくみたいな匂いがするの。大地って感じ」
「…そういえば、お前はそういうよく分からんことをいう奴だったよな。」
「それは尾形君の方でしょう。」
「そうでもねえよ。」


縁側の柱に凭れ掛かって「はは、」と小さく笑うと尾形君は足を組み替えた。薄っすらと光る廊下の光によって、辛うじて彼のその髭の生えた顔と、随分太くなった足腰を確認することができた。彼と最後に会ったのは、そうだ、もう十年以上も前のことだった。中学三年生の夏であったと記憶している。その頃の記憶は一段と曖昧で、自分の中ではすっかり抜け落ちていたのでどうしても思い出すことが出来ない。

私の中の彼のイメージは中学生の頃ですっかり止まってしまっていた。なので、目の前の少々柄の悪い髭を生やした男が不思議で仕方がなかった。私の知っている『尾形百之助くん』という少年はいつも色白で、何処か覇気がないように見えるがその瞳の奥に一体何を考えているかは知れないが密かな野心を宿している少年であった。自分から何をどうこうと率先して語るような男の子でもなければ、感情に流されて行動するような男の子でもなかった。成績はいつもよくて、体育もよく出来たし、美術も目が良いのか石膏などの静物画の写生がとても上手だった。顔もそう悪くはなかった。

黒目がちな目が不気味に思えることもあったが、顔の造形は悪くなかったし、字面だけ並べれば学年でもモテる男の子にも思えたが、実際はそうでもなかった。彼はいつも一人でいて、それを良しとしていた。時折大人びたように物思いにふけているような顔を見せていたので、他の男子生徒よりもいい意味でも悪い意味でも浮いていた。彼をよく思っている女の子も幾人かは居ただろうが、彼がそのような有様だったので、結局、彼には浮き足立った噂などなかった。

「尾形君、変わったね。」
「良い男になったろう。」
「うーん…、そうだねえ…」
「そこは即答しろよな。」
「あはは、ごめんごめん」
「そういうお前も随分良い女になったな」
「えっ。」
「昔より色々丸くなったな、」
「太ったって言ってくれた方が気が楽だよ」
「はは、そうは言ってねえだろ。胸がでかくなって良かったなって、言ってんだよ。」
「…ああ、そんな事も言ってたっけ。」

彼にそう言われてふと思い出したが、そう言えば昔は私は他の女の子よりも発育が遅れていたのか、幼児体型でそれがコンプレックスだった。酷い持病持ちで、生理も不順していたし、背も低いし胸もつんつるてんだしとよく彼に愚痴を溢していた気がする。今考えれば年頃の男の子に一体何を言ってたんだかと呆れるのだが、彼とは家が近所のせいか、よく帰りにそういうどうでも良いことを話した。彼も私の取り留めもない話なんぞによく耳を貸したものだと感心したが、そう言えばその当時も同じように皮肉を言われたり、バカにしたような態度を取られていたような気もする。

十年以上もお互い連絡を取り合っていなかったというのに、こうして他愛もない話をしていると会わなかった期間がなかったかのように感じられて不思議だ。彼も同じようにそう思っているのだろうかとぼんやり彼を再び見やれば、彼もまたぼんやりと少し雨脚の弱まった庭を見ていた。連絡を取り合っていた勇作さんの近況報告で何とか生きていることだけは確認できたが、相変わらず仲は悪いようだったので、なんだか勇作さんが不憫で聞くに聞けなかったというのもある。勇作さんも尾形君も誰も悪くは無いのだが、こればかりはデリケートなので部外者が口を出せるわけでも無い。

帰ってくる頃にはびしょ濡れになってしまった服の代わりに祖父が着ていた浴衣を祖母が気を遣ってお風呂上がりの彼に当てがったのだが、それがまあ随分と似合っていた。祖母が爺さんよりも似合っていると笑えば満更でもない笑顔を見せていたのを見て、そう言えば彼は昔からお婆ちゃん子だったことを思い出した。

「尾形君、お婆ちゃんのお墓参りできたの?」
「…まあな。」
「そっか。私、お爺ちゃんのお墓参りに来たんだけど、実は、先に此処に優作さんが来てたみたいで。」
「………」
「一昨日、久々にラインが来たかと思ったら、墓参りはしないのかって。自分がちょうど此処にいたから、良かったら一緒に灯篭を流さないかって連絡くれてね。」
「ほお…」
「仕事始めてからなかなか来れなくて。」
「薄情だな」
「だって、忙しいんだもの。」
「まあ、俺もそうなんだが」
「人のこと言えないじゃん…」

本当にこの男と来たらと思ってじとっとした目で睨めば男はくつくつと喉を鳴らした。

「でも、優作さん、もう先に帰っちゃった見たい。仕事が忙しいんですって。」
「父親の跡を継いだんだ、忙しいだろう。」
「会ったの?」
「いや、風の噂で聞いたんだよ」
「ふうん…(相変わらずあんまり仲が良く無いのね……)」
「灯籠流しは明後日だろう」
「そうなんだけど、仕事で急用が出来ちゃったみたいで。尾形君聞いてる?」
「いや、何も。」
「そう、」

それきりだんまりを決め込んでしまった彼を少しだけ眺めた。彼の首筋に目を向ければ、少しだけ肌蹴た浴衣の隙間から銀色の筋が見えた。その筋は一つの小さな指輪に通されていて、廊下の照明に照らされて一瞬光った。指には指輪を嵌めて居なかったので結婚はしていないのかと思っていたが、指に付けていなかっただけで結婚はしているのかもしれない。或いは結婚をしていなくとも良い人はいるのかもしれない。そう思うと唐突に二人の間に流れていた時間の壁を感じずには居られなくて、気まずさに何となく視線を逸らすと空になった自分のグラスにビールを注いだ。

別に彼を今更思っているという訳ではなかった。ただ、こうして同じ時間を一度でも過ごした旧友との再開によって、過ごしてきた時間の厚みや、物事の変化に少しだけ嬉しさと同時に寂しさを感じていた。放課後の橙色の中に見えた間延びした影も、遠くの山間の海から見える入道雲も、道端に咲いていたぺんぺん草も、日に焼けて白くなってしまったポートレートも、教科書の端に書いていた落書きも、一体いつの間にやら何処に行ってしまったんだろうと思う。

プールの後の授業の気怠さや、給食後のふわふわとした微睡み、朝の学校のあの不思議と新鮮な空気も、もうきっと、二度と感じる事は出来ないのだろうと思うと、途端に自分が歳をとったのだなとしみじみ思ってしまうのだった。目の前の男と一緒に共有していたあの何の変哲も無い日々が、突然、遠くてもう手に入らないもののように思えて胸が苦しくなるような感覚がした。実際、もう二度と来ないし、私のあの日々は実に呆気なく消えてしまったのだ。何の前触れもなく、そして唐突にその日はやってきたのだから。そう言えば、あの日も確か、こんな感じの酷く暑い夏であった気がする。私に知っている尾形百之助の最後の姿は、夏の日のあの坊主で汗だくで白いシャツを着て灯篭を持つ、あの姿だった。

「……何だか、全部夢見たいね。」

そう呟いてグラスに口をつけてしみじみとしていれば、彼は随分小さくなった吸い殻を灰皿に押し付けて、それから私の方に視線を寄越した。彼の瞳はこうして距離を置いて見ると真っ黒に見えるが、本当はそうではない。近づいて見るとうっすらと深い青みを帯びた青を覗くことができる。ちょうど、この夏の夜に見える空のような色をしている。間近で彼の見た瞳も、ちょうどこんなうっすらと青い綺麗な色をしていたのを思い出して思わずあ、と声を漏らしそうになった。どこで私は彼のその瞳の色や形を知ったのだろうと思い出そうとしたのだが、思い出そうとすればするほど、何故だか頭に鈍痛のようなものが込み上げてきて、思わずこめかみを抑えた。

「なあ、」
「…ん?」
「明日暇か」
「うーん、朝お婆ちゃんの畑手伝ったら、時にすることないけど。」
「だったら少し付き合えよ。」
「良いけど……。どこ行くの?」
「イイところ。」

そう言って目の前の男は静かに口角を上げた。
雨はもうすっかり止んででいた。

2019.08.10.








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