告げない君

「っ、」

目を開ければ嗅いだことのない香りに思わず顔をしかめる。それからとてもいい匂いだと気づいて肺いっぱいに吸い込んだ。イソップやドットール、ハレクラニにありそうな香りだなあとぼんやり思った。体を包むそのシルクの柔らかさに頬ずりをしてみる。そして大きなあくびを一つして、パシパシと目を何度か瞬いてから目を開く。数秒間、白い世界を見つめたのち、反射的にガバッと起き上がると見たことのない景色に思わず息を飲んだ。

「…ど、」
「失礼します。入室してもよろしいですか。」
「あ、はい」

つい普通に返事をしてしまったので、慌ててふんわりとした布団を手繰り寄せると体を覆った。一応、服は身にまとっているが、寝起きの無防備な姿を他人に見られたくない一心だった。低い男性の声は大きな扉の向こう側から聞こえた。この部屋で唯一の出入り口らしい。扉が開かれたかと思えば、小綺麗なスーツに身を包んだ見知らぬ男性が宣言通り入ってきた。坊主頭に鋭い眼光。明らかに一人や二人は殺めていそうなその風貌に、初対面とはいえハッと驚いておれば、彼は何事も無かったかのようにズカズカと目の前まできて私を見据えた。

「おはようございます。」
「お早う、ございます…」
「私は長谷川の部下の月島と申します。生憎、長谷川は外出してしまったため、私が諸々ご対応させていただきます。」
「あの、ここは長谷川さんのお家ですか?」
「はい。左様でございます。ですが、誤解されないように。長谷川とは別々で貴女は休まれました。ご安心を。」
「はあ…。あの、もしかして私、昨日潰れてしまいましたか…?」
「どうでしょう…。申し訳ありませんが、私は今朝参りましたので。ですが、みょうじ様が起床なさったらご不便がないように諸々対応をするように申し遣っておりました。長谷川に代わって私がご自宅までお送り致します。その前に、どうぞ、ご入浴と、朝食を召し上がってください。」
「い、いえ、すぐに帰ります。送迎も結構です。」
「困ります。」
「は、」
「長谷川に言われておりますので。ご入浴の準備も、朝食の準備も、全て整っておりますので。ポーズで構いませんので受け入れていただけませんか。」

私が叱られます。淡々とそう告げるとツキシマと名乗った部下(秘書?)は何やらポケットからリモコンを取り出すと、窓に向かってボタンを押した。その瞬間、閉ざされていたこの部屋の全てのカーテンが徐々に開け放たれ、どこからともなくBGMなのか鳥のさえずりと川のせせらぎや小さくピアノの音が聞こえてきた(一体どういう家なんだここは)。何だかモデルルームやフリー素材とかで検索すると出てくる外国の豪邸のようだ。

「昨日着られていたお洋服はあちらのクローゼットにございます。後は私ではかえってお気を遣うでしょうから、女性の者がご案内致します。それでは、失礼いたします。」

表情一つ変えずに私にそう伝えると、月島さんは入ってきた道を戻っていった。入れ違いに使用人風の妙齢の女性が現れて、洗面所や風呂場に案内いたしますと言って私にガウンを着せた。まるで不思議の国にでも来てしまった心地で、言われるがまま、されるがまま、一先ず入浴をした。まるでホテルのような待遇とその家の様式に思わず息を飲む。成金趣味のような趣は決してないが、まさに外国の高級ホテルのような佇まいだ

古い家柄だということを聞いていたからか、勝手に長谷川さんのお家は武家屋敷のような物を想像していたが、そうではないらしい。そもそもこの家の平米数もどれほどの物なのか。先ほど私が寝ていた洋室(私の1Kの部屋のおそらく3、4倍以上の広さはあった)は差し詰めゲストルームなのだろうが、普通の家では多分メインのベッドルームに匹敵するだろう。

案内されたこの浴室もゲストルームに併設された物だが、洗面所は2ボールで一面鏡張り。2メートル以上の天高を誇る窓には完全オーダーメイドの高級そうなカーテンがかかっている。大理石の床は一見冷たそうだが足をつければそんなことはないのでおそらく床暖なのだろう。一体どれほどのお金をかければこれほどのお家に住めるのだろうか。おそらく仮に私が写真家として成功したとしても、多分、私はこれほどの家を手に入れることは出来まい。鏡に映った全裸の自分を前にため息を吐くと、言われた通りにジャグジー付きらしい浴室へと足を踏み入れた。

「おお、」

恐る恐る足をお湯に入れて、試しに傍にあったボタンを押すとボコボコと泡が出てきた。長谷川さんはこんな素敵なお風呂に毎日入っているのかと感心しつつ、窓を見やる。窓の向こう側は木々で遮られていて向こう側は見えない。恐らくわざと見えないようになっているのだろう。ここでもし人が出てきたらやばいな、と変な空想をしつつ、備え付けのシャンプーに手を伸ばした。ロクシタンというチョイスに年齢を感じなくもないと不躾なことを思いつつも、使い慣れないレインシャワーのレバーを捻った。体を丹念に磨くように洗い終わると、再び湯船につかる。ボコボコいまだに言うジャグジーを消すと静寂が訪れた。

湯気の中のシックでモダンな内装をぼうっと眺めたのち、ふと故郷の実家のお風呂を思い起こして目を閉じた。実家のあのこじんまりとしたあの湯船とはえらい違いだ。今住んでる1Kの家なんか目ではない。きっと、他の女の子だったらインスタ映えだの何だのいって撮って、勝手にインスタにあげるのだろう。人ん家だから流石に出来ないか。それにしても、長谷川さんにご迷惑をかけてしまった。彼に謝罪をしなければなるまい。本当に、なんであんなに飲んでしまったんだろう。ため息を吐いて瞼を閉じた。

「ご安心ください、か」

正直、言われなくともそれは直感的にわかっていた。彼にとって私はただの写真家の女の子で、それ以上でもそれ以下でもないことは昨日の飲み会でわかったことだ。嬉しいような嬉しくないような、ちょっぴりさみしいような気がする。そもそも、私のような何の取り柄もない小娘に魅力を感じてくれるだなんてあまりにお天気な考えだったのだ。彼は住む世界が違うではないか。家柄のある坊っちゃまで、でも会社を立ち上げてここまで成長させる実力だってある。今は結婚はしていないと言っていたけれど、こんなゲストルームまでこさえているのであれば、きっと、そう言う女性も複数いるのかもしれない。そこまで連想を巡らせて、それから勢いよく湯船から体を立ち上がらせた。








「長谷川さんはいつもあのようなお食事をされているんですか?」
「ええ。外食は会食以外あまりされない方なので。時折自分でも調理されます。」
「そうですか…」

月島さんの背中についていくように歩みを進めていく。朝食に案内されて向かったリビングは思っていた通りモデルルームのようで、まるで映画やドラマのような朝食が出てきた。青山や代官山の家具屋さんでしかお目にかかれない様な家具や装飾品に目移りする。いい匂いがするし、大きな窓からは見事な庭が広がっていた。ここは比較的高台らしい。この街の最寄りの駅から近い沼のある公園があるのだが、その公園が見事に見えたので、もともとこの土地を持っていなければ建てられない場所に建っているのだろう。長谷川さんは毎日こんな洗練された生活を営まれているのかと改めて圧倒されつつ、出された朝食を黙々と機械的に食べた。

食後の珈琲を楽しんでいれば先ほど見た顔が現れて思わず背筋が伸びた。月島さんは私の傍までいらっしゃると、じっと私を見つめて、いつでも私の好きなタイミングで送れますということを伝えた。私がもう行きますと言えば、彼は別段引き止める様子もなく、そうですか、とだけ言って、案内しますと言って廊下へと出て行った。キッチンにいらっしゃった調理師さんにごちそうさまを伝えると鞄をひったくって慌てて月島さんを追った。この家は広いのできっとついて行かないと迷子必須だと思ったからだ。

「月島さんは長谷川さんとは長いんですか」
「ええ。私が成人するよりも前よりお世話になっています。」
「へえ。そうなんだ」
「………」
「あの、お庭立派ですよね。さすが、社長さんのお家って感じで…。あ、いや、嫌味とかではなくて。」
「ええ。そうですね。」
「はい。」
「………」
「………」

仏頂面というか、ピクリとも笑わないので絡みずらいなあと思いつつ、視線を外に向ける。大きな窓から途切れ途切れではあるが先ほどの庭が見える。晴れているからか庭の先に見える公園の沼はキラキラ水面が輝いていて美しく、休日だからか小さなボートもちらほら見える。高台からではないと見えない景色に感心していれば、ふと、あることを思いだして思わず立ち止まった。

「…如何いたしましたか?」
「あの、水槽、見てもいいですか?」
「水槽?」
「私、教えていただいたんです、長谷川さんに。彼は、熱帯魚を飼われているでしょう?」

私がそう言えば目の前の月島さんは少しだけ目を見開いて、それからどこか思案する様に目を細めた。窓から差し込む光が彼のその決して高くはないお鼻やお顔を照らして眩しく感じる。月島さんは私を見つめて数秒間沈黙した後、何やら眉間に皺を寄せてどこか面倒臭そうな雰囲気を見せつつも、ふう、と小さくため息を吐くと踵を返した。

「水槽は長谷川のプライベートの部屋にございますので、個人的にはご遠慮いただきたいのですが…。」
「そう、ですよね。すみません。お許しがないと、難しいですよね。人の家だし。」
「ですが、ちょっとの間で宜しければ。」
「え、いいんですか?」
「長谷川からあなたのご要望は最大限尊重する様にと、言われておりますので。」
「長谷川さんが?」

私が問えば月島さんは小さく頷かれて、それから歩いてきた廊下を戻る様子を見せた。私も黙って彼の背中についていった。階段を上がると2階に到達し踊り場を経て再びリビングの様な部屋を抜け間も無くプライベートの洋室のある廊下へと出た。吹き抜けの天井は前面窓で、雲ひとつない空が見える。月島さんの案内した部屋は2階の部屋の一室で、扉を開ければ薄暗く思わず目を細めてしまった。足を踏み入れると薄暗がりには無数の照明が付けられていて、その照明の下には水槽が無数に置いてあった。まるであの熱帯魚屋さんの様な景色に思わず圧倒されて入り口に立ち竦んだまま動けなくなっていたが、月島さんが電気を付けてくれたのを受けてようやく足を踏み入れた。暫く水槽たちを眺め、その魚たちの美しさや水草の計算尽くされた緻密で繊細な細工に思わず一人で唸っていたが、ハッとして思わず月島さんの方を向いた。

「あの、もっと大きな水槽があるとお聞きしたのですが…2メートル以上の、壁に備え付けたっていう。」
「…その水槽は、長谷川の寝室に当たりますので、お見せすることはできません。」
「そうなんだ…」
「申し訳ありません。寝室は、私も足を踏み入れたことがないのです。…ご理解ください。」
「………そっか」

そう言って再び水槽の方に視線を向ける。さすがに人の寝室に土足で入ろうというほど私も常識の弁えていない大人ではない。彼の言う最大限の尊重はここまでと言う事なのだろう。それ以上は余所者が足を踏み入れるべきではないのだろう。聖地と言えばいいのか、それともオソロシドコロと言えばいいのか正直どちらが近いのかわからない暫く水槽の中の熱帯魚を観察して気が済むと感謝を述べてそのまま“水槽の間を”後にした。










「それで帰ったの?」
「うん。それで終わり。」
「ふうん。でも、まさかあの高台の家とは思わなかったね。特にあの真ん中の家すげえなあって、明日子さんと散歩する度に思ってたら。」
「あそこにお家がある人ってお金持ちばっかりだもんね。」

私がそう言えば杉元君は頷いてハイボールを口に含んだ。平日とは言え駅前のこの焼肉屋さんは基本的に盛況していて、店主が韓国人らしく本格的なサムギョプサルも食べれるのがここの売りだ。私が久々にサムギョプサル食べたいと言えば、杉元君は次の瞬間にはお店に電話をしてまだ席の予約をしてくれた。たまたま駅前でばったり会って、飯でもどう?と誘えば彼はニッコリと笑った。今日は明日子さんも修学旅行で居ないのだという。きっと寂しいのだろう。彼の手にはビールが2、3本入ったビニール袋が握られていて、中にはさけるチーズとじゃがりこ、ポテトチップスの袋が入っていた。

「中もいい家だったんだろう?」
「うん。まるでドラマの中の世界って感じ。趣味もいいし、モダンでシックな内装だったよ。水槽もいっぱい有った。」
「へえ、」
「でも凄く違和感を感じるの。」
「違和感?」
「うん。何だろう、何とも言い難いんだけど…。価値のある物がたくさん並んでいるはずなのに、まるで伽藍堂なの。そこにある様で、実は何も無いような…。並んでいるものもまるで他人行儀で部屋に馴染んでいないの。生きている人が住むには、余りにも全てが完璧すぎて、かえって居心地が悪いの。」
「ふふ、それはなまえちゃんが不慣れなだけじゃなくて?」
「そうかなあ。」

ほら、と言われてトングでお肉をくれる杉元君に素直にお皿を差し出す。サンチュを手に取ると、よく焼けた豚肉にタレをつけて挟み込む。口に運べば豚のさらっとした油とタレの香ばしさ、サンチュの風味が合間って熱くて思わずあふあふと息を吐いた。長谷川さんの食生活を考えたら、きっとこんな庶民的なお店になど来ないだろうな。頭の裏でそんな考えが一瞬過ぎったが、ずっとここに住んでいたのなら、もしかしたらこの焼肉屋さんも知っているかもしれない。ちょっと似合わない気もするけれど。

「あ、そうだ。杉元君はバレンタイン今年も大量だったでしょ。」
「別に、普通だよ。」
「そう言えば、この間行ったっていう合コンはどうだったの?」
「普通だよ、普通」
「なあに?普通ばっかり。」
「うーん…。俺のことなんかどうでもいいよ。それより、そのおっさん、結婚してなくてよかったね。」
「…さあ、どうだろう。」
「なあに?その反応。」
「私は余計にわからなくなってしまったよ、杉元君…」

ため息を吐くと付け合わせのカクテキに手を伸ばす。ここのカクテキを始めとするキムチや胡瓜などの漬物は全て店主のおばさんの手作りで、韓国で食べたものと然程変わらぬ高いクオリティだ。安価でこれほどの味を提供してくれるので地元の人にはもちろん、食べログのおかげで最近はわざわざここに足を運ぶ人も少なくは無いらしい。現に私と杉元君の座る両端のテーブルには味にうるさそうなOL風の女性達が囲んでいる。杉元君が浮くくらいには女性率が高い。

追加で頼んだビールと焼酎のちゃんぽんでお肉を流し込むと一息つく。杉元君をチラチラと見やる横の女性達に思わずふっと笑うと、一生懸命お肉を焼くことに意識を集中させる目の前のイケメン青年に向かって悪戯半分にカクテキをあーんと差し出した。そうすれば一瞬驚いて、それから恥ずかしそうにしながらも大人しく口を開けてくれた彼の口にそれを放り込んだ。杉元君といるとたまにこうした戯れをしたくなる。別に恋人でもないしマウントを取りたいわけでもないのだけれど、時々、本当に悪戯心が芽生えるのだ。こういう心は歳を取っても実は大切にしたほうがいいのかもしれない。遊び心というやつだろうか。

「こういうことは俺じゃなくて、その“長谷川”って人にやるべきじゃ無い?」
「できたらこんな苦労しないよ。それに、長谷川さん私のこと女性としては余り意識してないみたいだし。」
「いやいやいや…恋人がいたなら夜遅くまで一緒にいないだろうし、自分の家に呼ぶなんて結構ハードル高いよ。俺だったら、いくら気に入った子でも自分の家に入れようとはなかなか思わないもの。」
「杉元君はそういうタイプだもんね。」
「その人はどういうタイプなの」
「よくわからんタイプ。何を考えてるんだろうって思うタイプ。」
「厄介だな。」
「厄介だね。」

ふとお店の窓の向こう側を見やる。駅前の煌々としたフィラメントが眩しい。中央線と総務線の黄色と橙色が交互に通り過ぎていく。2階建てのお店で、2階の禁煙席の窓際の席からは駅のホームの様子と一緒に駅前のタクシープールの様子がよく見えた。ガールズバーのティッシュを配る女の子の膝小僧がとっても寒そうだとぼんやり思う。駅前の大通りには絶えず車が通り過ぎて、中には待ち合わせかお迎えか、ハザードを焚いて誰かを待ち続ける車もいくつか見受けられた。

タクシープールのすぐ脇道は商店街の入り口になっている。入り口の1店舗目にはみずほ銀行があって、ATMは稼働しているが隣の宝くじの売り場はシャッターが閉じられていた。その向かい側の比較的新しいコンクリート打ちっ放しのビルの1階路面店もシャッターが閉められていて、隣の入り口も明かりはついているもののひっそりとしている。それをなんとなしに眺めていたが、ああ、と一言小さく呟いて納得すると思わず目を見開いた。

「あそこだったのか、」
「ん?なんだい?」
「お店。あの人のお店があのビルだったんだ。だからか。」
「不動産屋さん?」
「うん。前に見かけたの。長谷川さんが駅前で乗られてる車を。もしかしたらあのビル丸ごと自社ビルかも。」
「まじで?すごいね。」
「うん。そういうことかも。」
「てか、名刺に載ってるんじゃ無いの?」
「あんまり見てなかったんだよね。いっぱいいっぱいで。」

私がそう言えば呆れた様に杉元君は笑って、それからデザートのアイスを2つ店員さんに頼んでメニューを閉じた。明日休み?と問いかければ明日は非番と答えた。消防士は丸一日勤務で潰れる代わりに、お休みが多いらしい。最近杉元君は柔軟剤を変えたのか時折焼肉の香りに混じって柔軟剤のいい香りが鼻孔を掠めた。長谷川さんのお家のあの素敵な香りを思い出そうとすると、もうどんな香りだったかさえも思い出せない。ほんの数日前のことだというのに、まるで数十年前の出来事を思い起こす様だ。ザアザアいう砂嵐の向こう側に消えてしまったみたいに。あのいい香りは忘れてしまったのだが、一月ほど前に駅前で長谷川さんを見かけたことはとてもよく覚えていた。間違いなく、あの車はあのお店の近くだったから停まっていたのだろうと一人納得して、それから間も無く運ばれてきたバニラアイスに口をつけた。

「それよりも、その写真展、出るんだよね?」
「えっ?」

思わず視線を目の前の男性に移す。暫く窓の外をぼんやり見ていたせいか久しく見えた目の前の男の顔はいつになく真剣だった。思わず目を見開けば、目の前の彼は続けて口を開いた。

「本当は出たいんだろ?」
「…まあ、検討はしているけれど。でも、まだ踏ん切りつかなくて」
「とりあえずエントリーしといたらどうだろう。無理だったら断ればいいし。最初から断るなんて、勿体無いと思う。出たくても出られない奴らなんてきっと山の様にいるだろうし。」
「うん、そうだね…。」
「なまえはもっと喜ぶべきだと思うよ?もし一人で無理って言うんなら、俺とか白石巻き込んだっていいから。明日子さんだって喜んで協力してくれるよ。」
「ありがとう。本当に前向きに検討はしてるんだよ。でも、何を撮ればいいのかさっぱりわからなくて。」
「何か写真のテーマとかないの?」
「“秘密の場所”」
「秘密の場所?」
「うん、秘密の場所。誰にも言いたく無い場所、言えない場所。見せたく無い場所、見せてはいけない場所。」
「なるほど…なんか、思ってたより難しそうだね…適当言ってごめん…。」
「ふふ、全然。」

アイスを食べ終わって食後の珈琲を二つ頼む。ここの珈琲は別に自家製でも何でも無いが、不思議とたくさん食べた後の食後の珈琲はどうしてこうも美味しく感じるのか。いつもとても不思議に思う。お酒を飲んだ後だからこそ、こうしてしゃんと食事の最後はきちんとした何かで締めくくらねばならないのだ。気がつけば両端にいたOLは片っ方の組みはいつの間にか既にいなくなっていて、もう片方のOLの方は片方の女性が何やら仕事の愚痴を始めたらしい。聞き手の女性が明らかに面倒臭そうな顔をしてウンウンと相槌を打っていた。

「杉元君なら、どこを想像する?」
「秘密の場所かあ…。そうだなあ、なんか、こう、行っちゃいけない場所とか、そう簡単にはいけない場所を想像するかな。例えば、人のあんまりいない秘境みたいな場所とかかな?」
「いいね。なんか物語性があって。」
「具体的な場所、全然出てこねえけどね。」
「ううん。最初はそんな感じでいいんだと思う。それでだんだんと構成を決めていくんだよね、きっとプロは。直感的にここだ、って言うのが見つかるまで、きっと撮り続けるんだと思う。」
「でも秘境はお金かかりそうだし、時間もかかりそうだから、現実的じゃねえか…。あとは何だろうな。」
「以外に身近にあるかもしれないんだけどね。」
「ふうん。例えば?」
「ごめん、適当に言ったかも。」
「何じゃそりゃ。」

呆れた様に苦笑いすると、杉元君は珈琲のマグカップを口につけて、その苦さに少しだけ眉を顰めた。外を見ればポツポツと静かに雨が降り始めていて、ちらほら傘をさす人々が見えた。そう言えば今日、天気予報は夜から雨だと言っていたっけ。目の前でスマホを弄る杉元君をぼんやり眺める。嬉しそうな顔をしているから、きっと相手は明日子ちゃんだろうか。再び視線を外に戻すと、どこか見たことのある様な車を見つけて思わず目を見開いて、次の瞬間には見間違いだよなと我に返って杉元君を見やった。

「入っちゃいけないって言われている森とか山とか…。あるいは、……開かずの間とか。」
「ん?何が?」
「秘密の場所。」

にこりと笑えば杉元君はもう話を忘れてしまったのか、それともラインに夢中だったのか、首を傾げて私を見やったので思わず再び笑ってしまった。無意識につけたコーヒーのその熱さに先ほどの杉元君同様、眉を顰めて舌先をベッと出せば、目の前の杉元君は大丈夫か?と笑いながらお冷やを差し出してくれた。


2019.3.10.
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