ロングロングオーバー

「ご満足頂けましたか。」
「もう十二分に、」

勿体無いくらいです。そう言えば彼はふふ、と嬉しそうに微笑んで運転席の彼はエンジンをつけた。流石にこの時間になると駐車場には自分達以外誰もおらず、まるで異世界にでも迷い込んでしまった感覚に陥る。水族館の後に向かったレストランはスカイツリー展望デッキ内にあるフレンチだった。そこにフレンチがある事さえ知らなかったのだが、色々な意味で高いレストランに赴くのは初めてだ。意識はしていなかったとは言え、きちんとそれなりの服装で来て良かったと心底思った。

料理と共に出されたワインは全て頂いたのだが、長谷川さんは先日と同様、一滴もお酒を口にしなかった(車で来ていたので尚更)。なんとなく自分だけお酒を飲むことに罪悪感と抵抗を覚えたが、彼も彼で実に美味しそうにボトルティーを飲まれていたのでそれで満足らしかった(どうやらお酒と同等のお高いお茶らしい)。

車は先ほどここに来るまで通った道を遡るように走っていく。長谷川さんの計らいでカバーの解放された車の天窓からライトアップされたスカイツリーを上から見上げた。つい先ほどまでは上からここを見下ろしていたのだと思うとすごく不思議な気持ちになった。時刻は23時を少し過ぎた頃合いだが、土曜日だからか大通りは賑やかで、道ゆく若者が時折振り向いては日本一大きな塔を見上げて首を上げていた。

「長谷川さんはいつもどこで飲んでらっしゃるの?」
「都内ならどこでも飲むが、もうこの歳だからね。地元で飲むことの方が今は多いかもしれない。新宿や青山でも飲むんだけどね。ほとんど仕事だけど。みょうじさんは?」
「私もよく新宿で呑みます。最近全然、行けてないけど、ゴールデン街とか、実はよく通ってた時期がありました。」
「渋いね。私も若い頃は通っていたよ。そうか、ゴールデン街か…」
「やっぱり、そんな気がしてました。長谷川さんってどこか文学に精通してそうな雰囲気だから。長谷川さんの若い頃って、面白い人がいっぱいいそうね」
「あそこはいつだって面白い人が集まるん場所なんだよ。ああ、そうだ。良かったら寄ってみないか?」
「えっ」
「いや何、思い出したら行ってみたくなってね。すまない、思いつきなんだ。でも、明日早いならこのまま送るが…」
「わ、私でよければお伴します。」
「そう言ってくれると思っていたよ」

長谷川さんはそう言っていつものようにお得意のウィンクをされたので、いつものように私もドキドキする。正直、フレンチは最高だったし、水族館デートも思いもよらぬ収穫ではあったが、このまま何もなく帰ってしまうのが名残惜しく感じていた。この時点ですごく贅沢をしているのは本当にわかっているけれど、このまま意識がなくなるまで飲んだっていいし、長谷川さんとはできる限りずっと一緒に居たいと、心底そう思っていたのだ。勿論そんなこと、口には出来ないけれど。

「嬉しいなあ、久々に行くから、ワクワクしてきたよ。」
「新宿とはいえ、あそこは異様な雰囲気を醸し出してますからね。今は外国人のお客さんも多いんですよ。最近はどうか知りませんでしたが…。」
「見てみようか。いつも通っていたお店を紹介するよ」

もう知ってるかもしれないけれど。嬉しそうに言って長谷川さんは新宿へと続く首都高6号線へと車を走らせる。高速の方へと乗り上げてETCを通過すると、長谷川さんは思い出したかのようにFMのスイッチを入れた。高速の大きくて分厚い壁が時折途切れると、東京の美しい夜景が現れる。私はお酒が入っているからか、どこかふわふわとした心地で、ユーミンの言う通り、このまま本当に夜空まで飛んでいけそうな気がした。

長谷川さんはあくまで素面なんだからと、自分のテンションをコントロールするのがやっとで口数が減ってしまう。そんな私の心の内を知っているいるかのように長谷川さんは黙っている私に何も言わず、静かに運転集中し、音楽に耳を傾けていた。本当に優しい人だと思う。夜景をぼうっと眺めていれば、横で長谷川さんがふっと笑った気がした。

「東京の夜景は本当に美しいね。」
「ええ。」
「仕事やプライベートで色々な国を回ってきたけれど、やっぱり東京の夜景が一番だと思っているよ。ギリシャのサントリーニ島やシンガポールのマリーナ・サンズ・ベイ、アメリカのストラスフィアタワー。どれも素晴らしかったけれど、四方八方美しい夜景を映してくれるのは東京だったよ。」
「へえ、」
「皆この光の中で喜んだり苦しんだりしていると思うと、なんだか胸がいっぱいになるんだ。」

胸がいっぱいになる。心のうちでその言葉を反芻して、本当にその通りだなと心底思う。言葉で言い表せないけれど、嬉しいような、切ないような、本当に自分の語彙では表現しきれないような、複雑な感情が入り混じって、そうとしか表現できなくなる。こういう時、なんといえば良いんだろう。エモいって言葉で表現すれば良いのかな、とそこまで想像を巡らせて思わず笑いそうになった。

「何か楽しいことでもありましたか?」
「いいえ、なんていうか。私も何か素敵な言葉でこの感動を表現できたらなあって思ったら、陳腐な若者言葉しか思い浮かばなくて。」
「どんな言葉なんだい?」
「『エモい』って言葉です。ご存知ですか?」
「エモい?」
「emotionalから来てるらしいです。もう、私の歳でも使って良いのかわかりませんが。感動した時とか、心が動いた時に使うみたいですね。喜びとか、悲しみとか、哀愁を感じた時とか…」
「『あはれ』と似ているね。」
「長谷川さんが言うと途端に文学的になっちゃいますね。電車の中で女子高生が言うのとわけが違う感じ。」
「いや、思いつきで言ってみたけだよ。」

『あはれ』なんて言葉久々に聞いたけれど、確かにこの情景を表現するにはしっくりくる。清少納言もこの夜景を見たらそう言ってくれるだろうか。無地のまっさらなキャンパスノートをあげたら、きっと興奮気味につらつらと好きなだけ筆を走らせてくれるかもしれない。あっという間にカラフルなドコモタワーが視界に映り、新宿に行き着いたことを悟るとバレないように静かに欠伸を一つした。お酒が入っているし車内はとても暖かいので眠くなってしまった。私のその様子を見て長谷川さんは気を利かせて窓をすこしだけ開けて下さったが、いきなり入り込んできた冷気にすっかり目が覚めた。新宿の夜はこんなに寒かっただろうか。電線のない高速道路の夜空はひたすら真っ暗で、申し訳程度にちらほらと星が瞬いている。

「後部座席にブランケットがありますから、持っていきましょうか?」
「いいえ。大丈夫です。駐車場、思い当たる場所ありますか?」
「ええ。うちの支店が近くにあって、そこに駐車場があるので、秘密でそこに止めましょう。5分くらい歩いてしまうのですが、大丈夫ですか?」
「問題ないです。むしろ、助かります。あの辺そういえば駐車場ないなあってぼんやり思っていたので。」
「ふふ。このためにあそこにお店を作ったようなものです。」
「まさかあ、」

長谷川さんが言うジョークは一瞬、本当なのか嘘なのか良く分からなくなる。彼自身が雲のように掴めない人なので、彼が言うとそれはある意味本当になるし、嘘にもなる。私が杉元くんや白石さんに言う冗談とは訳が違う。本当にミステリアスな人だなあと思う。

車は高速を降りると宣言通りシャッターの閉まった不動産屋さんの側の小さな駐車場に止められた。大通り沿いなのに今はひっそりとしていて、人もいない。不動産はブラック企業だと思っていたが、この時間は誰もいないようでほっとした。ホワイト企業ですね。そう言えば長谷川さんは笑った。彼の勧めで結局ブランケットを持って行って、携帯とデジカメ、財布だけを持って車を出た。こうして肩を並べて歩くとあのアイリッシュハブの夜を思い出す。

「長谷川さんは何の本がお好きなの?」
「そうだなあ、歴史物とか好きだよ。若い頃は水滸伝とか、ギチギチしたかっこいいお話が好きだったんだ。あとは坂口安吾や三島由紀夫なんかもね。」
「小難しい人が好きなんですね。私は川端康成とかが好きです。歌も好きで、俵万智とか。」
「『この味がいいねと君が言ったから』、」
「『七月六日はサラダ記念日』。懐かしい。」
「『チョコレート革命』は僕も若い頃に読んだよ。俵万智はちょうど僕たちの世代だったんだ。現代の与謝野晶子だね。」
「ええ。好きで「クラクラ」にはよく行きました。」
「そうか、俵万智がアルバイトをしていたんだってね。お店の名前の由来を知っているかな?」
「いえ、すみません、無知で。」
「全然。実は坂口安吾夫人が銀座で開いていた文壇バー「クラクラ」から、承諾を得て、先のオーナーがつけたんだそうだよ。坂口安吾は『クラクラ日記』と言う作品を書いていてね。そこからバーの名前になったそうだ。」
「知りませんでした!」
「ふふ、僕も忘れていたけれど、ふと思い出してね。今日寄ってみようか。」
「はい!」

この味がいいねと君が言ったから、とぼんやり再び心のうちで今一度反芻して、それから長谷川さんの方に視線を向けた。まっすぐ前を向いてうっすら開けた唇からは白い息が漏れる。やっぱり綺麗な人だなあと感心して、足取り軽やかにゴールデン街へと向かう道を歩いていく。土曜日なので金曜日ほどの活気はないのだが、明日は休みだからと、この街に繰り出す人は多い。毎回この小さなアーケードを通る度に思うが、本当にここだけ異界のように感じる。すぐ側の公衆トイレも、神社も、まるで異世界の入り口のようだ。

ここにいる人たちは本当に多種多様な人ばかりで、数坪の10席にも満たない小さなお店の群は、まるで壊れかけの玩具やガラクタを寄せ集めたようだ。ハウルの動く城のような、チグハグなお城のように感じる。でもそこが妙に懐かしく感じてしまう。汚いし寂れているし、人によっては嫌いかもしれないけれど、愛着が湧いてくるような不思議な空気がこの街全体をすっぽりと覆っているのだ。

「おもちゃ箱みたいな街だよね。」
「偶然ですね、私もそう思っていました。ぼんやりだけど。」
「ふふ。きっと感性が似ているんだね。光栄だよ、写真の上手な人と似ているのは。」
「こちらこそ、素敵な紳士と共通点があるだけでも光栄です。」

敗戦後間もない時代にどさくさに紛れて作られたドヤ街。哀愁漂うゴールデン街のG2通りを抜ければ、奇抜な看板が目立つ中でも、より一層異彩を放っているのがバー「クラクラ」だ。初めて行ったのはいつだっただろうか。そういえば大学に入って初めて出来た彼氏と一緒に行ったのがここだった。そこまで思い出して思わずちょっと笑いそうになる。あの頃はお互いお金もなかったし(今もさほどないのだけれど)、でも若いから元気だし、むき出しの向上心と好奇心、とめどなく溢れる自尊心と自己顕示欲に突き動かされて足を踏み入れた。

文学通にでもなったつもりで、SNSや友人に文学少年少女を気取れるのではないかと考えついて足を運んだのが始まりだった。結局、その彼とは半年ほどで別れたが、そこで知り合った劇団員さんや草臥れたサラリーマン、自称演出家、売れない漫画家など、本当に様々な人と出会って、そこでどうでもいい話を何時間もしていた。長谷川さんもそうだったのかしら。ふとそう思って、でもきっとこの人ならもっと崇高で実のある話をするのだろうなと思った。

久々にクラクラに飛び込んでみたはいいが、クラクラは本日生憎の満室で(店内はとても狭い。ゴールデン街のお店ではよくある話だ)、なのでママさんに1時間くらい後にくると宣言し、そのままお店を出てしまった。長谷川さんの提案でその間どこか別のお店を探してみる事にした。

近頃、ゴールデン街は外国の『るるぶ』のような旅雑誌でも特集されてるらしい。すれ違う人々の中には外国の方々も多く、その多くはカメラを携えていた。少し歩いてみて手頃なバーを見つけると。長谷川さんは私の手を引いてそのお店の扉を開けた。こう言うディープな場所柄、最初こそ躊躇われるのだが、入ってしまえばこっちのものだ。店の店主がここにかけてくださいと案内してくれて、カウンターの真ん中の席を陣取った。

「文壇バー?」
「ええ。日本一敷居の低い文壇バーですよ。」

店員さんがそう言っておしぼりを渡してきたので、にこやかにそれを受け取る。長谷川さんはひとしきり狭い店内を眺めた後、足元にやってきた可愛い猫に目を細めて膝に案内した。この子はどうやらこのお店の看板猫らしい。流石に人に慣れているのか、私が撫でても何も言わずにあくびをする始末だ。日本一敷居の低い文壇バーと自称するだけあって、確かに壁やカウンターには所狭しと本が山積していた。

マスターの話では、一見さんはもちろん、大手出版社の編集さんなども来るらしい(あの芥川賞を受賞した芸人さんもたまに来るとか)。マスター自身も書籍を発行しており、店名の『月に吠える』はやはり萩原朔太郎から来ているのかと納得がいった。長谷川さんは車で来ていることを伝えると、マスターはにこやかに烏龍茶と、私が頼んだソルティドッグをカウンターに載せた。

「美人な子ですね。」
「おとなしいね。」
「長谷川さんの事が好きみたい。」

私がそういえば、すかさず女性の店員さんが、「イケメンが好きなんですようちの店長は」と笑った。横を向けば文壇バーと言うだけあって、何やら顔なじみらしい数名のお客さんが、芥川賞受賞を逃してしまったコメンテーターの本の感想と考察をしあって談笑していた。マスターも無理して私たちを仲間に入れようとはせず、適度な距離感を持って接してくれるので、こちらも気遣いをせず済んだ。なんとなく、目の前に並んだ文庫本に手を伸ばし、手に取った本をペラリとめくってみた。

「『青猫』か」
「はい、萩原朔太郎。」
「懐かしいな。」



“つかれた心臟は夜をよく眠る
私はよく眠る
ふらんねるをきたさびしい心臟の所有者だ
なにものか そこをしづかに動いてゐる夢の中なるちのみ兒
寒さにかじかまる蠅のなきごゑ
ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。

私はかなしむ この白つぽけた室内の光線を
私はさびしむ この力のない生命の韻動を。”



正直、私は詩を真面目に学んだことはなかった。萩原朔太郎がどれほど近代詩に貢献したかはなんとなく、歴史の教科書程度に知るところではある。けれど、きちんと作品を見るのは初めてだった。長谷川さんはよく読むのか、懐かしそうにそれを眺めて、それから少し水滴のついた烏龍茶のグラスに口を付けた。

「昔、家に萩原朔太郎の全集が置いてあってね。昔からあまりテレビを見る方ではなかったから、夜になると父の書斎にいって黙ってこれを読んでいたんだよ。書斎にいることの方が多くて、陰気な子供だと思われていたようだ。」
「賢い子です。陰気だなんて。」
「いいや。愛されなかったわけではなかったと思う。だが、いくら血が繋がっているかといって、この世にいる全ての子供が必ずしも、全面的に肯定され、理解され、認められ、愛される、と言うわけではないんだ。私の母はそうでもなかったが、父は子供らしく元気のない私を、いくらか気味悪がっていたらしい。」
「そうですか…」
「だが書斎に出入りする自由は認めてくれた。今考えると、それがどれほど救われたことかしれないよ。おかげで想像力と本を読む習慣がついた。」

カウンターに広げられた文庫本を眺めて、長谷川さんは私が読み終わったタイミングを見計らってページをめくってくださった。彼から漂う知的な雰囲気や、どことなく寂しそうな空気は、きっと彼の幼少の頃の境遇からくるものなんだろう。浅はかながらそう考えて、それから思わず視線を下げた。ソルティドッグの苦しょっぱい塩を舐めて、それからお冷やに口を付けた。

「みょうじさんはご両親にとても愛されて育ったでしょう。」
「普通、かなあ?父も母も優しかったです。」
「そうだと思ったよ。愛されて育ったんだなと感じる、しっかりした娘さんだ。頭の回転も早いし、立派に育ってご両親もさぞ鼻が高いでしょう。」
「さあ。早く結婚してくれって五月蝿くて。」
「ふふ。今はいろんな生き方があるからね。」
「ええ。…そういえば、不躾な質問ですが、長谷川さん、ご結婚は…。あ、してたらこんな時間に私を誘ったりしないか。」
「ふふ、したことがないといえば嘘になりますが、今は。子供はおりません。」
「そう、ですか」

意外に明るい店内は文壇バーらしからぬ雰囲気を感じる。あまり聞いてはいけないプライベートだろうと話題を切り替えたが、正直、気にはなった。バツ1なんて今時珍しい話でもないし、婚姻や婚姻の解消など、実際、紙ペラ一枚で終わることだ。長谷川さんともっと親しくなってからそんなものはいつでも聞けばいいし、こんな話を推し進めて嫌われる方が怖いとも感じる。

私だって人のことは言えない。東京に移り住んでからはとても目の前の彼には言えないような恋愛やワンナイトを過ごしたことぐらい、一度や二度、ある。人間なんて、そんなものだろう。古今東西、数多の文学作品でもそれを証明してくれている。

2杯目のピニャコラーダを飲み終わると、あっという間に1時間は過ぎていて、こんな小さなお店なのにクラクラ同様人気店らしく、人の入りも激しくなってきた。一見さんだしここはそろそろお暇しようかという話になり、名残惜しいが猫店長を一撫ですると、グラスをテーブルの上に置いた。長谷川さんも開いていた文庫本を閉じると、お膝の上で丸くなっていた猫店長を大事そうに抱き上げて、それからカウンターの上の座布団の上に乗せてあげた(ここが本来の定位置らしい)。

比較的度数の高いお酒を口にしたせいか、先ほどの酔いが再び回ってきてふわふわする。長谷川さんがすかさず私の手を引いてくださったので安心して歩けたが、クラクラでは私も烏龍茶を一杯頼もうと思い歩き出す。スカイツリーの方ではパパ活なのではと疑う視線も感じられたが、流石に場所が場所だけに、そんなことを考える人もあまりいないようだった。

よくよく考えれば、本気でパパ活をするような子が、こんなディープで教養を試されそうな場所にくるはずがないのだ。きっと同じ会社の人か、同じ趣味を持った仲間か、年の離れた友人か、はたまた本当の親子か何かかと思われているだろう。はたまた、年の離れた恋人とか。あるいは、パパ活ではなく、不倫、とか。正直、他人に何を言われようとも思われようとも、どうでもいいし、ここにいる人々はそんなことなど、気にも留めないのだ。

「『チョコレート革命』は長谷川さん読まれたことあるって仰ってましたよね。」
「ああ。読んだよ。」
「『知られてはならぬ恋愛なれどまた少し知られてみたい恋愛』」
「それは、不倫の歌ですね。」
「さすが長谷川さん。そう、不倫の歌ですよね。ようく考えてみれば。当時、全然わからなくて、もっと前向きに解釈してました。」
「どういう風な解釈をしていたんだ?」
「例えば…。学校一のかっこいい男子が付き合ってるのが実は学校で一番地味な女の子で、他の子は夢にも思わないんだけど、それは二人の秘密なの。」
「ふむ、」
「女の子はいつも分厚いメガネをしているし、いつも静かにしているから目立たないんだけど、本当はよーく見ると悪くない顔してるの。でも皆それに気がつかないんです。二人とも本当は言いたいけれど、何と無く言いにくい、でも言いたい、みたいな?」
「ふふ。少女漫画みたいで可愛いね。」
「でも、少女漫画のような思考だけでは詩を読み解くことはできない。大学に入ってようやく気づかされました。」
「私はその解釈も好きだよ。君らしくて。」
「幼稚ですか?」
「いいや。みょうじさんと一緒にいると、人間の善性を思い出すようですごく嬉しいよ。」
「なんだかよく分からないけれど、長谷川さんは物事をすごく難しく考えているみたい。」
「長年の癖でね。もうこの歳になってしまったから、なかなか抜けないんだ。」
「ふふ。私が治してあげましょうか?」
「ぜひお願いしてもいいかな?」
「もちろん。」

でもどうすれば良いかなんて正直分からないけれど。そんな言葉を飲み込んで視線を上げれば、目と鼻の先に『クラクラ』があった。長谷川さんは先ほどと同様、扉を開けて先に私を通してくれた。店員さんは私たちの顔を見ると、「先ほどのお客さんですね」、と言ってすぐさまおしぼりを渡してくれた。先ほどのお店同様、狭小で人が入るとすぐ満室になってしまう。名物ママに促されて、結局、ウーロンハイと烏龍茶を頼み店を見回した。

先ほどよりも賑やかで、ちょっと言葉を発するのが億劫にさえ感じた。猫の店長もいないので、長谷川さんのお膝を温めてくれる可愛い生き物もいない。カウンターの上にある生暖かいおしぼりを握ったまま、静かに俯いていたが、頼んだ烏龍茶とウーロンハイが運ばれてくると長谷川さんは一口烏龍茶を飲んで口を開いた。

「みょうじさんは、写真関係のお仕事をされているんですか?」
「いいえ。普通に事務員をしています。一応、不動産管理会社なんですけど…。」
「私と一緒ですね。」
「いいえ。私はただの事務ですし、全然小さな会社ですので。長谷川さんは不動産の会社を立ち上げられて、どれくらい経つんですか?」
「もうかれこれ10年以上は経ちますね。あっという間でした。」
「大変でしたでしょう。私、全然分からなくて恐縮なんですけど…」
「いいえ、そんなことはありません。運が良かったんですよ。支えてくれる人々が多くてね。それに、一番手っ取り早かったんです。」
「手っ取り早かった?」
「ええ。ある程度お金を稼げて、色々考慮した際、始めやすくて。地元に何人か面倒といいますか、個々に問題を抱えていてなかなか就職できなかった部下や後輩たちがいたのですが、不動産なら彼らの性質上、なんとか社会復帰できそうだったのです。」
「そうですか。部下思いなんですね。」
「いいえ。社会に適合するために必死だっただけです。生きていくのは、そう簡単ではありませんから。」
「…確かに、そうですよね。なかなかうまくいかないと言うか。」
「ええ。それより、みょうじさんはもともと不動産を目指していたんですか。」

長谷川さんがそう言って私を覗き込んできたので苦笑するとかぶりを振った。そしてウーロンハイを一口飲むと、一度おしぼりに底をつけて汗を拭いた。

「いいえ。本当は写真関係の仕事につきたかったですよ。でも、そう簡単にはいかなくて。フォトグラファーとして生きていくには経済的な心配が付きまといます。実家はそうお金持ちではないし、一人暮らしの女性は、何かと物入りですから。今は夢を見ている余裕がなくて。」
「…そうですか。」
「だから、写真は好きでも趣味の領域って感じかな。色々な国や色々な場所、色々な人に会っていろんな写真が撮りたい。お金なんか気にせず好きなものを撮って、人々に披露したいんですけどね。でも、そんなものはチャンスがあって、私以上に努力とラックがあった人だけですから。」
「でも、実に勿体無い。あなたは天才だと思っています。」
「ふふ、その言葉だけで十分です。」
「冗談でもお世辞でもありません。もし宜しければ、支援したいぐらいです。」
「し、支援?」

私が首を傾げれば長谷川さんは大真面目にうん、と頷いてみせた。一瞬、話の内容を超越して「パパ活」や「援助交際」などの無粋な言葉が浮かんでしまったが、彼が次に発した言葉によってその誤解はすぐに消えることとなった。

「個展や撮影現場に行くための移動費、旅費など、私が支援させていただくことは可能でしょうか?」
「いえ、そんな。お気持ちだけで十分です。」
「まあ、そう言わずにお話だけでも聞いてもらえませんか。実は今年の7月に銀座で写真の大きな個展が開かれます。私の十年来の友人で「木村伊兵衛賞」を受賞した、新進気鋭の若手写真家が開く個展です。彼の出身校が東京芸大なんですが、その後輩たちやプロのOBも参加した規模の大きいものをやるのです。」
「へえ。それは、一般参加もありなんですか?」
「ええ。推薦参加枠があります。私が彼に貴女を推薦させていただけませんか。そこでみょうじさんの写真を出していただきたいのです。」
「でも、私なんかが、ただのアマチュアで芸大も出ていないのに、」
「だからこそです。頭でっかちな芸大の子達が撮った大量生産されたような写真や、どこぞのポートフォリオを真似たような写真なんかよりも、みょうじさんの写真を飾って風穴を開けたいんですよ。主催の彼もこう言っていたんです。身内だけで十分だった個展に推薦枠をわざわざ設けたのは、気取った今の若いプロカメラマン達の意識を変えてやりたいからだとね。」

君は適役だ。そう言って長谷川さんは微笑まれるとお通しの肉うどんを綺麗にお箸で食んだ。夢のようなお話に思わず開いた口が塞がらなかったが、そんな私を余所に長谷川さんは何事もなかったかのように話を続けた。

「今日は実はそのことをずっと伝えようと思っていたんだよ。もし、これでうまくいけばきっと君はプロ写真家の仲間入りを果たせるだろう。」
「…すみません、ちょっと、頭の処理が追いつかなくて。」
「ふふ。突然ですまなかったね。でも、私は信じているよ。貴女のファン第一号だからね。」
「ファ、ファン!?」
「ええ。私は貴女の才能を信じています。あの写真展での写真を一目見た時から、まさに稲妻が背筋を走るようでした。」
「い、イナズマ…??」

あまりに大胆な発言に思わず口に含んだウーロンハイを吹いてしまいそうになったがなんとか持ちこたえて長谷川さんを見遣った。彼は冗談など一個も言っていないというようにニコニコと微笑まれて私を見つめている。なぜそこまで私に肩入れしてくれるのかやっとわかったような、わからないような、自分でも訳の分からぬ感情が頭を支配して何をどう喋ればいいのか、正直分からなかった。

「君の言う、“チャンス”だ。もちろん、最終的に君が決めることだからね。掴むか否かは君が決めることだ。すぐにとは言わないよ。でも、友人には面白い子がいるよって、宣伝はしちゃってるんだ。」
「(しちゃったんだ)そ、それにしても、写真展で見たって、本当ですか?あの、お家であの写真を見たのが初めてかと思ってたので…」
「ああ、驚かせてしまってすまない。実は、あの写真を見るのは貴女のご自宅で見るのがもう二度目でね。一番最初に見たのは貴女が出展したあの写真展だったんです。実はあの個展、町おこしの一環で自治体や商店街で開催しているんですが、去年初めて審査員を任されてしまってね。」
「え、あ、そうだったんですか?」
「ええ。商店街にお店を出しているし、一応商店街からすればまだ“若手”だから、今年はやってくれないかと頼まれてしまったんだよ。まあ、会場に看板も立てられるし、いい宣伝になるかなと引き受けたけれど。そうそう。授賞式の時はちょうど代理の者を立てていたのでお会いできなかったんですが、一応、貴女に投票していたんです。」
「すごい偶然…」
「ね。だから貴女のお部屋であの写真を見たとき、これは運命だと、そう思いました。あまりに驚いたので、その場では言えなかったけれどね。」
「(運命?)そうだったんですか…。でも、それで合点が行きました。お家であんまり熱心にみてらっしゃるから、何かあったのかと思ってしまいました。」
「ええ。すみませんでした。変でしたよね。」
「いいえ。でもあれだけ熱心に見てくださった方は初めてだったので、嬉しかったですよ。」

私がそう言って照れたように笑えば、長谷川さんもにこりと笑って、それからゆっくりと烏龍茶を飲み下した。

「私はあの写真展で初めてみょうじさんの写真を見た瞬間、衝撃を受けて、思わず涙が出てしまったんだよ。」
「…えっ」

ピクリと肩を震わせて久しくきちんと体を長谷川さんの方に向ければ、彼はカウンターのメニューに目を向けて目を細めていた。そして私と横目で視線を合わせると、何事も無かったかのように柔和に口角を上げた。その瞬間、何だか酷く時間がゆっくり流れているように感じた。


2019.3.9.
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