いつかの夢を見る

自分のくしゃみで起きるのはもう何回目だろうか。んん、低く唸ってゆっくりと起き上がる。あ、と思って 伸びをして、しばらく経ってからベッドからおりると、ベッドサイドの飲みかけのいろはすを口にしてふうと息を吐く。

「………、」

朝の事がなんだか夢のようで確信が持てなかったが、多分あれは現実であったと思う。目をこすって立ち上がる。カーテンを開ければ後もう少しで日が暮れると言う頃合いで、慌てて水槽の電気をつけた。日照時間が多かったせいか苔が多くなってしまった。前回夏太郎さんの教えてもらった通り見よう見まねで余分な葉っぱや苔を手でむしって、日照時間を減らしてヤマトヌマエビを投入してみたら意外にに良い働きをしてくれたようだ。明日、アカヒレを入れてあげて1週間ほど様子を見たら、いよいよエンゼルフィッシュを投入する手はずだ。

寝起きでボサボサの髪を結ってセーターを羽織る。水槽が大きいせいか、それだけでもう電気をつけなくとも割に薄暗ければ生活できることに気づいてしまった。なので、最近は本当に夜が更けて来ない限りは天井の照明をつけなくなってしまった。水槽がとても美しいので、それをずっと眺めていたくて、最近はわざと部屋の電気をつけなくなっていた。

寝起きの空腹のせいか、何か炭酸をお腹に入れたくて冷蔵庫を開けて見ればジュースは無く、代わりにビールしかなかったのでそれを手にして水槽の方に向かった。本当に冷蔵庫に至ってもそうだが、見れば見るほど、男のような部屋だと思う。

長谷川さんを迎えた時に活けていたお花はもう殆どのダメになった。今は辛うじてつぼみだった百合だけが満開となって数本活けてある。夕日が新宿方面のビル群の影に顔を隠してしまうと、この街にも街灯がちらほらとつき始める。冷えたビールで喉を潤しながら、視線をベランダから水槽に移した。

水槽の中の小さなエビたちは全部で4匹いて、とても良い仕事をしてくれているのだが、今は広い水槽のどこにいるのか探してみても全く見えない。たった数匹だというのにここ数日で大量に繁殖してしまった藻をほぼ全部食べてくれたので、ほんの2、3日で水槽は以前のように綺麗になった。

長谷川さんが好きなように弄ってもいいと言っていたが、結局その後は石を増やしただけで何もしなかった。アクアリウムを始めるとハマる人はとことんハマるのだと夏太郎さんが得意げにそう言っていたが、本当にその通りだと思う。こうして一人、小さな部屋にある大きな水槽を眺めていると、キャンプファイアーの火を眺めている時と同じような感覚を覚える。落ち着くと言うか、安心すると言うか、癒されるというか、心がとても慰められる気がした。

ここにさらに美しい熱帯魚が住むのだと思うと、えも言われぬ嬉しさを感じた。自分の部屋を整えるのとはまた違う嬉しい感覚だ。天地創造。まさにそうだ。神様なんて大それたものにはなれないけれど、彼の言う通り、美しい環境を作り出し、そこに住むものを守る守護天使になった気にはなる。ビールを缶のまま口につけてごくごくそれを飲みながら、暫くぼんやり眺めていたが、ある些細なことに気が付いて思わず缶を持ち上げた手を止めた。

「(あれ…)」

カーテンは開けっ放しなので街灯の光が下から入り込んでくる。水槽に負けないほどの眩しい光が入り込んでふと視線を再びベランダに視線を戻す。スーパードライを持ったままガラガラと戸を開ける。冷たい冷気が一気に部屋に入り込んでブルリと肩が震えたが、何も羽織らずに出てみる。下を向けばついこの間までカチカチと明滅を繰り返していた目の前の街灯がすっかり治っていた。東京の行政と言うのは仕事が早いなとぼんやり思い、それを眺めながらビールを飲み込んでいく。

ぼんやりと新宿の夜景を眺めて、それから下を向く。商店街から離れた場所に位置するここも平日は賑やかに人の行き来があるが、土曜日の夕方はそれも少し落ち着く。買い物を終えた主婦や犬の散歩のおじいさん、ニケツをした高校生などを眺めて、暫くそうしながら寝起きの頭を冷やそうとすれば、奥からブーブーと音がして慌てて室内に戻った。

「あ、もしもし?」
「こんばんは、みょうじさん。」
「は、長谷川さん!こんばんは。」
「今お話しても大丈夫かな?」
「ええ、もちろんです、どうされました?」
「急で本当に申し訳ないが、もしこの後予定がなければ、ぜひ夕飯を一緒にどうかなと思って。」
「えっ」
「勿論、無理はしないでくれ。」
「いいえ、全然、行きます、でも全然支度してなくて。1時間ほど待っていただけませんか」
「それ以上でも構わない、急な誘いに答えてくれて嬉しいよ。じゃあ、その頃合いに下で待っています。」
「わかりました。」

プツンと電話が切れると暫く呆然として、それから空になったクリアアサヒを持っていた手にぎゅっと力を込める。やばい、今何か非現実的なことが起きたぞ。頭の中で整理して、ひとまず空き缶をゴミ箱に捨てると、寝起きの顔を洗いに洗面所へと向かった。すっかり酔いなど冷めて、背筋がひんやりして反対に頬が熱くなってきた。端的に言えば、多分自分は唐突に長谷川さんにディナーに誘われたと言うことになるが、本当に唐突すぎて意味がわからなかった。

水槽を組み立ててくださったあの日から数日経つが、別にそれ以上に何かがあったと言うわけではなかった。相手は年上の男性な訳だし、ラインを交換したわけでもないので別段頻繁に連絡をしていたわけではない。恐れ多いのでこちらから連絡をしたわけでもない。本当に、彼が連絡しなければ何もないこの関係性に疑問が無いわけでは無いのだが、それ以上に私と長谷川さんは今後どう言う関係になれるのかさえもよくわかっていなかった。

熱帯魚友達か、それとも珈琲友達か、それともご飯友達か。それ以上の関係になれるのか。現時点では一向に自分の中でそれを見出したり発展させたりしている未来のヴィジョンが思い浮かばないのだ。しかし、不思議と彼とは会いたいって思うし、ふとした瞬間に思い出してしまう。

「(ああ、そっか。そうだよな。私は彼に恋をしてるんだから。)」

至極当たり前のことに今更改めて気づいて、それからいつもよりやや濃くアイラインを引くとふ、と不思議と笑みがこぼれた。慌てた割にはきちんとお化粧を済ませ、服も買ったばかりのワンピースに身を包むと寒いけれど30デニールのタイツを履いた。

下着は何となく水槽を組み立てた日に身につけていたちょっと際どいのは避けて(あの日は色々有事に備えてセミオーダーのお気に入りの下着を着けていた。結果的に意味はなかったけど)、ルミネの下着屋さんで買った普通の黒い下着にした。久々に髪をコテで巻いて、香水をつけてスマホを見ればちょうど一時間経とうという頃合いであった。

コートとマフラーをクローゼットから引っ手繰るように掴み、慌ててイヤリングをつけ一瞬止まる。数秒間悩んだ末に一番小さなデジカメを手に取り、丁寧にカバンの中に入れて、そこからはまるで鉄砲玉が飛び出すかのように部屋を後にした。

エレベーターの中で反射で映る自分の顔を再度確認し、タイツは伝線していないかも確認する。電話をしようかなと思っているうちにエントランスに着きその場で着信ボタンを押したが、ふと視線を上げれば見たことのある黒い車が見えて思わず「あ、」と声が漏れた。

「こんばんは。」
「長谷川さん、お待たせしてすみません。」
「いいえ。ちょうど今ついたところでした。こちらこそ急かしてしまってすまない。寒いのでどうぞ。」

車の前で待って下さっていたらしい長谷川さんが私を見つけると白い歯を見せ、助手席の扉を開けてくださった。寒いのに、と言う台詞はむしろこちらの台詞では無いかと心配になりつつも、別段気にする様子はなく長谷川さんは運転席に腰を下ろすと、そのまま滞りなく滑らかに車を走らせた。

座席は革張りでいかにも高級車らしい雰囲気を醸し出している。確かこのシリーズの車は座席にもこだわりを見せる人が多いためか座席のシートは選べるようになっているが、この車も彼自身でこの材質と色をあわせたのだろう、実に品がある。普段の彼のその装いからセンスのある方だということは最初から知るところだったが、会うたび会うたびにそれを再確認する。

本日の彼は先日と同様カジュアルな装いであった。今日も寒いせいかグレーチェックのジャケットの上にキャメルのかっちりとしたコートを羽織り、下は歩きやすそうなチノパンだ。シャツは白だがジャケットの中にはコートと同系色(コートとセットだろうか)のボタンベストを合わせている。ジャケットに柄物を取り入れてはいるがベースの色がとても落ち着いているのでとてもスッキリしたカジュアルを見せている。私の父が着たらこうも格好良く着こなせないだろう(父さんごめんね)。

「みょうじさんは特に苦手な物はありましたっけ?」
「いいえ。私は何でも、長谷川さんは?」
「それは良かった。私もお酒以外でしたら何でも食べます。」
「ふふ、そうでしたね。」
「色々先ほどまでずっと考えていたんですよ。急だけど美味しくて出来るだけみょうじさんの好きなものを召し上がってもらえるお店はどこか、と。」
「あの、どこでも私は構いませんよ」
「いいえ、そうもいきませんよ。貴重なお時間を頂いているのですから。ちょっとここから少し出ても良いかな?勿論、帰りは送りますので。」
「構いません。」

私がそう言えば長谷川さんは横目で私を見て目を細め、そのまま大通りへと車を走らせた。土曜日だと言うのに道は結構混んでいて、この時間は家族づれで車に乗る人が多いらしかった。商店街の入り口付近は特に混雑する。車ですれ違う車はファミリー向けのバンや軽ばかりだった。

長谷川さんとこうしてご飯に行くのは今日で2回目だが、先日とはえらい違いだと自分でも驚く。長谷川さんはどうして私を誘ってくれたんだろうと頭の裏で幾度となくその疑問を反芻させて、そして気づかれぬように彼の綺麗な横顔を盗み見ては、左側の窓に顔を寄せてため息を我慢した。

「少し夜景を眺めながら行こうと思います。」
「わあ、素敵。」
「もしお手洗いや何かあれば遠慮せず仰ってくださいね。」
「お気遣いありがとうございます。」

先日駅前でお見かけした時、彼は後部座席に位置していたが運転ができないわけでは無いようだ。むしろ多分運転はよくされる方のように見える(ペーパーな私はどんな人でも上手く見えるのだが)。首都高速4号に乗るとそのまま車の波に乗っていく。

何処へ行くかはあえて聞かないし彼も別段言う様子はない。他の人であれば不安になって何処に行くんですか問いかける必要があるし、彼とはまだ知り合ってさほど立たぬ間柄なのだから心配になって当然なのだが、私は不思議とそのような感情は浮かんでこなかった。

耳に入ってくる東京FMをBGMに見る夜景はまさに東京都心といった感じだ。上京したての頃をふと思い出して、柄にもなく感傷的になった。新宿駅南口を通過して、当時まだ建設中だったバスタを目の前にぐるりとその場で一周してみれば、その暴力的な色彩、絶え間ない喧騒、刺激的なフィラメント、鼻をつんざくような排気、どれだけ手を伸ばしても届きそうもない摩天楼のようなビルにただただ押しつぶされそうな、飲み込まれそうな気がして、泣きたいような、嬉しいような不思議な心地で一人暮らしを始めたあの頃。

今ではなんとも思わないし、きっとあのような感情は一生に一度しか味わえなかったのかもしれない。あの時は不思議と、東京という途方もない、あてどない、正解のない、終わるのかも分からない大きな大きな水槽に放り込まれて、突き放されたような気がした。私は憧れ、そして絶望した数多の金魚のそのうちの一匹だったのかもしれない。きっと今もそうだ。

「長谷川さんは若い頃から会社を経営されていたんですか?」
「いや。若い頃はサラリーマンをしていた時代もあって、その頃は別の場所で一人暮らしはしていましたよ。暫く海外に行っていた時もありました。」
「へえ、」
「色々仕事の都合があって、地元に戻ってきましたけれどね。」
「でも確かに、実家が都内なら引っ越す理由って、あまりないですよね。」
「そうだな。でも、それでは自立しないからね。前にも言ったかもしれないけれど、私はあまり若い頃は良い子ではなかった。反発してたんだよ。」
「全然見えない。」
「若い頃は元気だったし、今でも本家の人間や街のご老体とはあまり反りが合わないが、昔はもっと酷くてね。流石にこの歳になって落ち着いたが…」
「私、この間からやんちゃな長谷川さんを想像してみたんですけれど、どうしても想像できなくて。想像しようとするととても優等生なかっこいい好青年しか出てこないの。キリスト系の私立の学校に通っている、とっても素敵な男の子。」
「ふふ。素敵かはわからないがキリスト系なのは当たっているよ。本家が神道なのに不思議だろう?亡くなった母親が元々キリスト教徒でね。幼児洗礼で、生まれた頃からそうだったんだよ。あべこべな家庭環境だったんだ。」
「そうですか…」

土曜日の夜なので渋滞を覚悟していたが、思っていたよりもそうでもなかった。東京FMの流れるラジオを聴いたり、時折適度に会話を交えていれば見覚えのある景色が広がってきた。アサヒビールのあの金色のオブジェを通り越した辺りで頭の中で自然とユーミンが流れてきた。

「みょうじさんの方こそ感受性の高い可愛い子だったんじゃないか?」
「どうでしょう。可愛かったかな。感受性はよくわかりません。どちらかというと暗くて神経質な子供だったと思います。外でドッヂボールするよりも図書館で図鑑とかみてる方が私は好きでした。」
「私と一緒だね。読書や昔のレコードを聞く方が好きだったんだ。ピアノも少し好きだったかな。」
「そうなんだ。でも、長谷川さんはでも友達多かったでしょう。」
「それなりだよ。作ろうと思って作ったわけではないんだが、男子校だったからね。皆仲が良かったんだよ。」
「私は逆。親友は一人だけ。普通の共学で優雅さのかけらもありませんでした。」
「みょうじさんは物事を深く考えるのが得意なんじゃないか。」
「基本一人だったから、確かに色々空想するのは得意だったかも。」
「素敵なことだね。思慮深い女性は私は好きだな。」
「………」

ふと左を向けばいつの間にか首都高を降りていて、数分そのまま走っていれば目の前に見覚えのあるタワーが聳え立っている。時刻は20時。それでも地下の駐車場には沢山の車が止まっていて、車高の高い車を足立ナンバーと大宮ナンバーの軽の間に綺麗に収めると、長谷川さんはふう、と小さく一息ついた。そして私を見てにこりと笑うとお待たせしました、と一言宣った。

「あ、高いところは平気だよね。」
「はい。」
「7階のとはいえ、ベランダから身を乗り出して下を見つめていても平気そうだったから、大丈夫かなとは思っていたのだが。よかったよ。」
「あんまり高いと困るけれど、遊園地は好きです(あの時見てたんだ…)。」
「それはよかった。」
「今度ご一緒に行きませんか」
「喜んで。私はあまり何度も乗るのは得意ではないけれど、それでよければ。」
「ふふ、じゃあ花やしきくらいにしておきますか?」
「助かるよ。」

するりとベルトを外して扉を開ける。上着を羽織ろうか羽織るまいか一瞬考えたが、長谷川さんがコートを持たなかったので同じくそのまま出ることにした。駐車場ですれ違う人々は大凡家族連れで、この時間帯には皆ご飯を食べ終わって帰ってしまうようだった。

スカイツリーに登るのは学生時代ぶりだったと思う。家の窓から天気が良ければ顔を覗かせてくれるスカイツリーを何度も写真に収めているが、実際に赴くのは本当に片っぽの手で収まるくらいだった。長谷川さんのエスコートでエレベーターに乗り込みソラマチまで赴けば流石に人が多く21時くらいにしまってしまうにも関わらず観光客などで溢れていた。

長谷川さんも久々に訪れたらしく、その人の多さに感嘆し、それと同時にはぐれないように触れるか否かの距離で私の腕を引いてくださったりした。

「人が多いですね。」
「ああ。思っていたよりもそうだな。流石に数年たてば落ち着くと思っていたが、そうでもないね。」
「長谷川さんはプラネタリウムに行かれましたか?」
「ああ。コニカミノルタだろう?プラネタリウムは大好きなんだが、如何せん暗いと眠くなってしまってね。」

えへ、と若い娘のように戯けるおじさまに思わずきゅんとしてしまったが、ブンブンと頭を振るとエスカレーターのその先に視線を移した。このまま上階のレストランに行くのかと思えば、エレベーターを降りた瞬間、長谷川さんが何かを思案するようにぼうっと立ち竦まれた。私が声をかければ彼はパッと顔を明るくし、そして肩に優しく手を置いておもむろに向こうの方を指差した。

「ディナーの前にぜひ寄りたいところがあるんだ。きっと気にいるはずだよ。いいかな?」
「え、何処ですか?」
「こっちなんだ、行ったことあるかもしれないけれど。」

そう言って長谷川さんは私の腕を優しく引くと指を指した方向へと歩いて行った。近づいて行けば見たことのあるロゴとその案内にふと「ああ、」と思って、思わず鞄の中の物を持って来てよかったなと心底思った。閉園まであと一時間ほどだが、人が多くこの時間は特にカップルが多い。きっとはたから見れば私も彼もカップルのように見えているのだろうか。それともパパ活にしか見えないだろうか。それとも、とそこまで考えて思考を止めた。

家族連れもそれなりにいてエスカレーターで前にいた何処ぞの奥様は長谷川さんと私とを交互に見て少しだけ驚いたような顔をした後、目の前にいた覇気のない旦那さんに耳打ちをしていた。恐らく今流行りのパパ活だのどうのこうのと言っているのだろうと推測できた。長谷川さんはそんなこと全く気にしていない様子だったけれど。

「水族館、そういえばありましたね。」
「アクアリウムの水族館だから勉強になるかもしれないよ。」
「そっか…。一度行ったんですけど、最初は理解できなかったんですよ。何でこんな葉っぱもいっぱいだし、正直つまらないなって思ってしまったんです。アクアリウムに特化した水族館だったんですね。」
「そうそう。写真も撮れるし撮るといいよ。君ならきっと素敵な写真を撮れるかもしれない。ね?」

そう言われてはい、としか言いようがなくて苦笑いした。長谷川さんは嬉しそうにニコニコしながら私の肩に両の手を添えた。チケットを買ってくださると嬉々として階段を登って行く。目の前に写真のように美しい水槽が見えてくると二人しておお、と小さく声を上げてしまった。早速デジカメを取り出して撮影を試みれば、隣の長谷川さんもiphoneXを取り出して水槽を撮っていた。薄暗がりの中でジャングルのような、それでいて美しい造形を保った水草の中をスイスイと小さな魚たちが泳いでいる。私の家の水槽もなかなかの大きさではあるが、ここの水槽はやはり別格だ。

美しい熱帯魚や水槽の水草や石の配置、砂の色まで計算され尽くされているのだと思うと、本当に素晴らしい美術品のように思える。昔来た時は水族館といえばマンボウやイルカなど、分かりやすい生き物がいると思っていたので、このような繊細な美を感じることはできなかった。先ほど長谷川さんが思慮深い子だと褒めてくれたが、本当にそんなことはない。私の思考などその程度だと思うと、少しだけ残念なのと悲しいのやらでため息を吐きたくなった。水槽を前にした長谷川さんをチラと見れば写真撮影をすでに終えていて、静かに魚たちや水草を眺めていた。

「長谷川さんのお家の水槽も大きいんですよね。」
「ああ。家にはいくつか水槽があってね。最近作ったものは2メートルは越すんだ。」
「すご…。もう水族館じゃないですか。」
「実はここの水族館をのアクアフォレストを参考にしていてね。製作の際にはここのレイアウト製作をした方に色々相談していたんだよ。」
「本当に本格的なんですね。」
「魚たちの楽園を作ってあげたかったんだ。彼らが住みやすい美しい箱庭にしてあげたかったんだよ。」

長谷川さんはそう言って和かに微笑むと、そろそろ行こうかとさり気なく私の手を引くと移動した。

「大きな水槽だから遠近法を意識して組み立てられているそうだよ。崩れないように、細部に至るまで気を張り詰めて作っているそうだ。水草の植栽に関しては、この監修された人自身が一つ一つ丁寧に植えてね。メンテナンスもとても気を遣うらしい。」
「途方もない作業ですね…」
「だが終わらないわけじゃない。だからこうして私たちが見れている。さっき見た石は山水石と苔石と言ってね。下のワークショップでも売っているんですよと言われて、言われたまま買ってしまった思い出がある。」
「ふふ、商売上手な方なんですか?」
「いや、私が商売に引っかかりやすい性質なだけだよ。」

久々に巡るここの水族館は少し大人になった私にとってはとても意義のあるものになっていた。水族館としてではなく、「水槽館」として見ることの方がここの正しい楽しみ方だろう。長谷川さんは幾度となく通っているらしく、もはや案内を見なくとも全部何がどこにあるかわかるようだった。案内のバイトの方よりも詳しいのでは無いかとさえ思った。

デジカメで写真を撮りつつ、何となくその距離感を意識して、ぶつかるか否かの距離を保ちながらこの薄暗い水族館を歩いていく。もう21時を回ろうとすると館内放送が鳴り、係員の方が慌ただしく館内を回り始めたが、長谷川さんはそんな人たちの喧騒を物ともせず、どこ吹く風と言わんばかりにじっくりと水槽を眺めていた。私が心配そうに彼を見上げれば彼は視線を合わせて口角を上げた。

「心配しなくても大丈夫だよ。ここの館長とは仲がいいから、少し人よりも遅れたって何も言われないんだ。」
「やっぱり、長谷川さんはお友達が多いんですね。」
「いつも一人で来て眺めているんだよ。人がいない方がじっくりと水槽を眺められるだろう。狡いことは重々承知しているんだが、どうしてもこれだけは譲れなくてね。私の唯一の楽しみなんだよ。」
「意外ですね。」

私がそう言えば長谷川さんは少しだけ目を細めて「だろう?」と宣った。視線を戻し、私も彼と同様目の前の大きな水木の水槽を眺める。彼の言う通り、館内の人も私と長谷川さんには目もくれず、すれ違いざまには小さく会釈をして声もかけない。本当に彼は何度もここに足を運んでは一人で水槽を眺めているらしかった。ここの水槽は確かに美しいし、魚たちもとても生き生きとしているが、そこまでして眺めたいと言うのは何故だろうか。静かにそう考えて、先を行く広い背中をぼんやり見つめては色々思案した。

周りはもうあっという間に人がいなくなって、段々と人のいない場所は照明が落とされていく。まるで映画のナイトミュージアムを見ているような妙な気持ちになって、嬉しいようなワクワクするような、人がいなくて心細いような、感じたことのない不思議な心地がした。遠くで後片付けをする音が聞こえてくるが、それ以外は何も聞こえず、係員さんの足音さえも大げさに聞こえてきた。しかしそれも次第に遠のいていって、時折、全く自分達の足音以外には聞こえなくなる場面が幾度となく訪れた。

「面白いだろう。お客さんのいない水族館。」
「まるで映画の世界に迷い込んでしまったみたい。」
「ああ。」
「何だろう。夢を見ているようですね。」
「ええ。…実は小さい頃から見る夢があってね。」
「夢?」
「誰もいない水族館をひたすら一人で回る夢なんだよ。でも不思議と怖くはないんだ。美しい魚たちを見ると心が救われるような気がしてね。大人になってからはあまり見なくなったけれど。妙な子供だろう。」
「長谷川さんの方こそ感受性が豊かだったのではないですか?」
「逆かもしれないよ。情緒不安定だったのかもしれない。」
「でも、夢はそもそも不思議ですし。でも、正夢ですね。大人になって、実際そうなったんですから。」
「ふふ、そうだね。みょうじさんはどう言う夢をよく見るんだい?」
「そうですね…。海の底にいる夢、ですかね。」
「海の底?」
「はい。海の底の砂の上に横たわっていて、遥か上にある水面を眺めているんです。月明かりなのかすごく明るくて白くて。手をかざすと血管が見えそうなくらい、白いの。浮上しようとしても動けないから、諦めて砂の上に寝そべっているんです。そのうちに目の前を大きな魚や小さな魚、たこやウミガメが通過していくんです。動けないけど、眺めるだけですごく楽しいんですよ。」
「不思議な夢だね。」
「ええ。ちょうどあのチンアナゴみたいな感じ。」

わっと手を翳せば一斉に顔を隠す。チンアナゴに申し訳ないなと思いつつも笑えば横にいる長谷川さんもくつくつと喉を鳴らした。

「でも凄く寂しくなる瞬間があるの。海底で一人きりって、とても悲しいの。誰か一緒にいて欲しいと思う。何も言わなくていい。ただ、この手を握ってくれるだけで、それでいいのにって。…ふと夢の中でそう思うんです。それで、起きた時には決まって少しだけ、泣いているのよ。」
「…そうか。」
「すみません、変な話でしたね。」

私が笑えば鶴見さんは首を横に振った。海のアクアリウムはとても手入れが大変で、素人ではとてもじゃないけれど出来ないのだと長谷川さんは教えてくれた。海と言うものは人間の手ではなかなか作りすることのできない生命の揺り籠と言える。夢の中の自分はその揺り籠の中でただじっとして動けず世界を静かに眺めているだけだった。このチンアナゴたちもそんな心持ちなのだろうか。そう思って静かにシャッターを切った。夢の中の光は月の光だったのか、それとも太陽の光だったのか。思い出そうとしても、どうしても思い出せないのだ。

「実は、私小さい頃に海で溺れたことがあるんですよ。」
「それは大変だったな…。」
「ええ。でも、あんまり小さかったから覚えてないんです。一瞬、海底に引きずり込まれるようにして溺れたらしいんです。もしかしたら、この夢はその時の映像が断片的に映し出されているんじゃないかって、思うことがあります。この夢は、大人になった今でもよく見るので。」

音を立てず、魚達が驚いてしまわないように光もつけずに写真を撮っていく。些細なことでも魚たちには大きなストレスになることがあると言うから、細心の注意を払う。長谷川さんは私のその行動の一部始終静かに眺めて、それから感心したようにふむ、と顎に手を添えた。

「私も大人になってからよく見る夢があるよ。」
「どんな夢ですか?」
「写真の夢だよ。」
「写真?」
「ああ。壁一面に飾られた沢山の写真を見つめているんだ。例のごとく、私以外はその場に誰もないなくて、でも私は一心に写真を眺めているんだ。言葉に言い表せないような、見たこともないような写真ばかりなんだよ。理屈では説明できないような、そんな写真ばかりなんだ。…そうだな、サルバドール・ダリの『記憶の固執』のように不思議な写真ばかりなんだよ。」
「随分不思議な夢ですね。」
「ああ。でも、一枚だけすごく印象的な写真があるんだよ。それ以外は全部まるで落書きのような、抽象的な、わけのわからない写真ばかりなのに、その写真だけは何かはっきりとしたものが写っていることに気が付いて、熱心に眺めるんだ。人が写っていて、夢の中ではとても鮮明に見ることができたのに、目がさめると全く覚えていないんだ。必死に思い出そうとしてもどうしても思い出せない。」
「誰か知っている人が写っているの?」
「それさえも思い出せないんだよ。とても悔しいような、悲しいような、懐かしいような心地がするんだ。だからその夢を見た朝は、とても疲れるんだよ。」
「本当に変わった夢ですね。でも、もしかしたらそれも正夢になるかもしれませんよ。」

長谷川さん、直感鋭いし。なんとなしにそう言って冗談っぽく笑えば、長谷川さんも私に視線を合わせて「そうかもしれないね」と、小さくそう言った。シャッターを切れば傍にいた長谷川さんが興味を持った眼差しを下げて私を見つめきたのでデジカメを翳した。

「いい写真は撮れましたか?」
「はい。もし私ので宜しければ、差し上げますよ。データでも、写真でも。」
「ぜひ写真でいただけませんか。貴女の撮ったもの家に飾りたい。」
「飾るもほどのものではないかもしれませんが…。焼いたら差し上げますね。」
「ありがとう、すごく嬉しいよ。」

にこりと笑われる長谷川さんに向かってシャッターを切る。彼は別段驚く様子も怒る様子もなく、むしろ楽ししそうに柔らかく目を細めた。

「またひとつ、いい思い出が残る。」

2019.2.18.
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