パリの五月のように

「ああ、どうしてあんな約束…はあ、」

掃除機を片手にもうかれこれ小一時間は掃除しているということに気が付いてため息を吐いた。駅から徒歩10分圏内にある我が家。単身者用のマンションにしては比較的広い方ではあると思うが(1K8畳にロフトが付いていれば万々歳だろう)、人を招くほどの様相は呈していない。

それどころか、白石さんや杉元くん、果ては小学生の明日子ちゃんにさえもとても女性の一人暮らしには見えないと評されるほど殺風景で、そしてほとんどものがない。大学時代に影響されたミニマリストの本に出会ってからというもの、本当に必要なもの以外は捨てるなり実家に送るなりしてしまって、最低限の家具しかないのだ。

おかげで招く友人達には「ザ・無印良品」だの、「寂しいイケア」などのあだ名を頂戴する、かわいそうな部屋になってしまった。

よく女子の部屋にあるような、可愛いうさぎや熊さんの可愛いぬいぐるみも(ベッドに一つテッドのぬいぐるみはある。白石さんが何時ぞやにゲームセンターで取ってくれたが多分あまり女の子の部屋にはそぐわないだろう)、可愛らしい色のベッドシーツも(全部グレーで統一した。寝る時明るいと眩しくて眠れないので)、素敵な置物も(いらない雑貨は全て捨てた)、何にもない。

かろうじて今使っているカーテンはニトリで買った光沢のある割にエレガントなバラの刺繍のカーテンだが、これも黒やグレー、白の家具に生えるように買ったものだ。掃除のできない友人には羨ましがられる部屋だが、私からすれば可愛げのない部屋も正直どうかとも思う。特筆すべきものといえば、シンプルな棚に置いてあるカメラたちだろう。

撮った写真は基本データで持っているので飾ってはいないが、賞をもらった時の写真とその時の証書は何となく飾ってはいる(いつも埃を被っているけれど)。

「とりあえず、花瓶に花もいっぱい活けてもらったし、多分大丈夫っしょ。」

暫く空になって久しかったガラスの花瓶に大きなダリアやガーベラ、百合など女性らしい花を活けてみた。お店の女の人のセンスに任せてお願いして選んでもらったが、なかなか気に入っている。少しは部屋が華やいでましになっていると良いのだが。いつも以上に奮発して買ったイソップのルームフレグランスをそこらじゅうに掛けておき、少し寒いけど窓も開けておく。洗面台も全部物をしまって、歯ブラシに至っても棚に収納した。イソップのハンドソープとハンドクリームのみをそこにおいておいて、トイレや洗面台のマットも全部洗濯して綺麗にしておいた。キッチンも妥協することなくピカピカにし(うちの廊下の途中にあるタイプではないのであまり見られないだろうが)、スイッチが入って排水溝のぬめりまでもきちんと磨き切った(流石に彼もそこまで見ないだろうけれど)。

大掃除を先日したばかりで然程汚れてはいなかったのだが、終わった頃には非常に心地の良い達成感に満たされていた。あとは身支度を整えるだけだ。シャワーを済ませ、化粧をし、お気に入りの服に身を包む。彼にお出しするために近場のディーンアンドデルーカでKUSUMIティーもブルーベリーのチーズケーキも買ってある。勿論、組み立ててもらう予定の水槽もその土台もきちんと部屋の真ん中に置いてある。準備は万端だ。

「(それにしても、どうして長谷川さんはこんなに私を気にかけてくれるのかな…)」

湯気が立ち上る浴室で一人湯船に浸かるとふとその思考が襲ってくる。昨日の夜も、そのまた夜も、目が覚めてしまって二度寝をした一昨日の明け方も、それを考えてしまった。でも考えれば考えるほど、どうしても答えば導き出せぬまま、今日を迎えてしまった。だんだん思考は良からぬ方向に動き出して、まさか彼は私を襲う気だろうかとか(もしそうだとしても彼の容姿を考えればもっとモデル級に美しい娘に手を出したろうという思考がすぐさま浮かんだので、その線は却下となった)、パパ活でもしたいのだろうかとか(それも先ほどと似たような理由により却下)、ただ単に若い一人暮らしの娘が熱帯魚に興味があるのが物珍しくて世話を焼きたいのだろうとか(実はこれが一番しっくりきている)、色々浮かんでは消えて、そしてまた突拍子もない想像が私の頭の中を支配した。しかし、どれも全部私の妄想にすぎず、本当の理由を知るのは彼より他、誰もこの世には居ないのだった。

とはいえどんな理由であろうと異性を、しかもとびきり美丈夫で紳士で、素性の知れない(名刺は持っているけれど本物だという確信はない)男性を招くのは大変にリスキーな事であることは一人暮らし3年目の一人暮しビギナーの私でさえもそれくらいは承知していた。一応今日は私の想い人が家に来ることは白石さんや杉元くんたちには話してある(何もなければ邪魔なので絶対に来ないでとも言ってあるけど)。髪を乾かし化粧を済ませればあっという間に13時を回るところだった。約束の時間だ。慌てて服を着替えてボンと脱いだパジャマだのなんだのを洗濯機に納めていればインターフォンが鳴り大げさに「わ!」、という声が出てしまった(オートロックで助かった)。

オートロックに向かってどなたですかと問いかければ、画面の向こう側の紳士はにこりと口角をあげて、「長谷川です、こんにちは。」と落ち着いた様子で挨拶をした。努めて冷静を保ちながら「どうぞ」、と言いながら解除ボタンを押す。あと数分でここにくる。そう思っただけで腹の底がふわふわして、小躍りしたくなるような、まだ来て欲しくなくて胃がキリキリするような、そんな微妙な心地のままあっという間に今度は扉のインターホンが鳴った。慌ててバタバタと玄関に向かって息を吐くとゆっくりと扉を開ければ隙間から香ったことのあるいい香りが入り込んできて鼻腔をくすぐった。

「長谷川さん、ようこそ。こんな侘しいところで恐縮ですが…」
「ふふ。お邪魔します。綺麗なお部屋だね。なまえさん、しっかりしてらっしゃるからきっと綺麗なんだろうと思っていました。」
「狭いし1Kだし。ごめんなさい、こんな小さなお部屋で。」
「そんなことはない。よく手入れされた可愛らしいお部屋です。私もあなたくらいの頃にはこういうお部屋に住んでいましたよ。同じです。」
「えっ!信じられない、長谷川さん、こういうお部屋は似合わないもの。」
「ふふ、でもここまで綺麗にはしてただろうか怪しいけれどね。本や書類がどんどん積み重なって汚かっただろうから、若い頃の自分に見せてやりたいくらいだ。」

卸したてのスリッパを勧めて彼を部屋に案内すると2人掛けのソファに腰をかけるよう勧めた。コートとマフラーを頂戴しハンガーに掛けて、鞄をベッドに置いた。恭しく一生懸命もてなそうと自分なりに気を遣う。物は置かない主義なので確かにこの部屋は幾らか広く感じるが、流石に二人だとその狭さを体感する。お茶を用意しようとすれば、ああそうだ、と言って長谷川さんが持っていた紙袋を差し出された。

「よかったら召し上がってください。パンがお好きだと聞いたので、」
「の、のがみの生食パンだっ」
「ふふ、ご存知でしたか。流石ですね。」
「こんな素敵なもの、頂いて良いのですか?」
「もちろんです。気に入られたなら営業さんと知り合いですから、予約がきちんと取れるように手配しますよ。」
「ありがとうございます、大事に頂きます…!」

予約がなかなか取れない伝説の生食パンと誉れ高いのがみの生食パンにも勿論驚いたが、一等驚いたのは彼が私の何気ない一言を覚えていらっしゃったという事だった。本当によく気がつかれる方なんだなあと感心しつつ嬉しさのあまり再び小躍りしたい心持ちでキッチンに赴くと、急いでお茶の準備をした。それにしても今更だがKUSUMIティーで良かったのか不安になってきた(私自身は好きなんだけれど)。ケーキも綺麗に切り分けて、北青山の通り沿いにあるACTUSで購入したお皿とティーカップ淹れる。お茶とお菓子をお盆に乗せて戻れば、アクアリウムではなく別の物に気を取られていた長谷川さんの姿が視界に写った。

「すごいな。どれも高いカメラばかりだ。」
「いいえ。同年代の女子とお金をかけているものが全然違うんですよ。他の子がフェンディやグッチのカバンにかけるように、私はカメラにお金を吸い取られちゃってて。」
「素敵ではありませんか。趣味を全力で楽しもうとする人を私は信頼しているんです。前にも言ったかもしれませんが、私も実は少しだけカメラに憧れていた時代があってね。」
「ええ。覚えています。」
「貴女の足元にも及ばないので申し上げるのが少しはばかられました。」
「まさか、全然ですよ。今も写真は撮りますか?」
「いいえ。最近は全くです。その代わり、熱帯魚ばかりに気を取られています。」

触ってもいいですか、と問われて快く勿論ですと言えば長谷川さんは大事そうに一眼レフやレンズを手に取った。この家に呼ぶと他の人も必ずと言っていいほど、このカメラの置かれた棚に興味を示す。どれも高価な物なので分かる人には分かるし、そうでない人でも物珍しくてよく眺めていくのだ。なのでこういう反応には幾らか慣れていた。長谷川さんは時折レンズを外に翳してシャッターを切るようなそぶりを見せたり、近頃はこれが流行っているのですか、などと質問したので、丁寧に答えた。きちんと答えればとても嬉しそうに頷いた。そして一通り満足するとカメラを棚に戻し、そして今度はその傍の一枚の写真に目を細めた。壁にかけられた大きな額縁にその写真は静かに収まっている。

「…これが賞を取ったという写真ですか。」
「あ、ええ。記念に大きく焼いて額縁に入れてくださったのでそのまま飾っているんです。素敵な風景でもないけれど、時折ふと思い出してこの写真を見ると、なんだか不思議な心地がするんです。」
「なんとなく、分かる気がします。美しい一枚ですね。」

長谷川さんは暫くその写真の目の前に立ったまま、静かにそれを眺めていた。何かを考えているのか何時ぞやのように顎に手を当てて、目を細めたり、まあるくしたり色々思考を巡らせている様子にも見えた。そして暫くぼんやりと一言も発することなく見つめていたが、そのうちに漸く時間の流れを思い出したかのように頭を振って、それから一人静かに口角を上げてそのままソファに腰をかけた。その一連の動作を静かに眺めていたが、彼はそれ以上写真に関する感想等は述べる事はなく、いただきますと一言断ると私が入れた紅茶を飲まれた。

「ちなみに、設置するのはどちらの壁がいいかな?」
「あ。できれば、そこの窓際の方がいいのですが、どうでしょう?」
「ふむ。確かにあのスペースにすっぽり収まると綺麗だね。」

そう言いながら何処からともなく長谷川さんはメジャーを取り出すと(持ってきてくださったらしい)、採寸し始めたので慌ててカップをテーブルに載せると私も隣に座って見た。もうすっかり組み立てモードに入ったらしく、彼は真剣な眼差しで場所を測って何やらブツブツ言いながら場所を確認すると、置かれた水槽を見て再度メジャーでそこを当てた。

「ギリギリかな。でも行けなくもない。コンセントも近くにあるし、いいポジションだな。」
「良かった…」
「それにしても、本当に大きいね。」
「部屋が狭いから、余計にそう思えるのかもです。」
「でも、きっと素敵な水槽になるはずだ。とりあず、土台を先に組み立てよう。みょうじさんは残りのフィルターを組み立ててもらっていいかな?私は土台を片付けておこう。」
「分かりました。」

そう言うと早速長谷川さんはもう一つの土台の箱を器用に開封し、組み立て式の土台を取り出した。さほど難しくはないのだが、これが素人の女性がやるとなると結構な重労働だ。長谷川さんはその見てくれから日曜大工的なことはあまり似合わない気もしていたが、割に手際がいい。きっと慣れているのだろう。テキパキと工具を手に取ると意外にも迷いなく組み立て始めた。

「あの、」
「うん?」
「長谷川さんは、いつから熱帯魚を買われ始めたんですか?」
「君と同じくらいだよ。部屋が殺風景に感じてね。絵を嗜むわけでもないし、マンション引っ越しして間も無くだったかなあ…。賃貸だからピアノも持ち込めないし、楽器も演奏できなかったから。でも毎日仕事ばかりだと花がないので、何をしようかと悩んでいた矢先、あの店にふらっと立ち寄ったんだ。すぐに魅了されたよ。」
「へえ…(私と同じくらいの時、か。ピアノも弾かれるんだ、私と一緒)。あのお店、素敵ですもんね。」
「ああ。ぼったくらないしね。親身で良心的だから、ずっと通っているよ。」
「ふふ。それにしても、昔からあるんですね。」
「ええ。私がここに戻ってきてからだから、もう20年くらいになるのかな?」
「へえ。」
「色々あってね。せっかく故郷にいたのに、暫く実家には戻れなくてね。…いや、実家に戻りたくなかったのかな。そんな時に借りたひとりぼっちのマンションの一室に小さな水槽を置いてみたんだ。そうするとなんだか不思議でね。家に帰ればあの水槽があるんだと思うだけで少しだけ、心が和らいだんだよ。」
「そうですか…」
「ふふ。変な話をしてしまってかな?」
「いいえ。一人だと、色々、ありますよね。」

私がそう言えば彼は横目で視線をこちらに向けて小さく口角を上げると黙々と作業した。長谷川さんは鞄の中から機材を取り出すと(わざわざ用意してくれたのかと思うと重いのに申し訳ない)それで黙々と釘を打っていく。15分も経たぬうちに綺麗な木の土台が完成し、中にフックの金具を取り付け、扉を二つ蝶番でつければ棚のような様相となった。長谷川さんはそう言うと今度はその棚を私が置きたいと言った場所に設置し今度は私の方に来て作業の手伝いをして下さった。私が淹れた紅茶も冷めぬうちにと口にし、ブルーベリーケーキにとても喜んでくださった。

「水草はもう買われましたか。」
「昨日お店で買い足してきました。いっぱいあった方が魚たちも楽しいし安心かなって。後は流木も、石も。」
「それは良かった。全部買ってきたものだよね?自然で採集したものだとちょっと事情が変わってくるんだ。まず殺菌をしなければならなくなってしまうからね。あ、ソイルは白なんだね。うん、この砂も良いものを買ったね。」
「黒いお魚だから、白がいいかなって。砂は細かすぎると舞ってしまって、素人で管理するのは難しいからって、少し粗めのものを勧められました。」
「正解だな。水質改良剤はもう買ってあるかな?」
「あ…すみません、どう言うものでしょうか?」
「良かった。新しいものを持ってきたから、あげますよ。」
「いえ、支払います。」
「家にたくさんあって困っていたんです。水槽が大きいからってまとめ買いしてしまってね。これにも消費期限があるから、むしろ貰ってくれるとありがたい。」
「そうなんですね。では、お言葉に甘えて頂きます。ありがとうございます。」

名前もよくわからないフィルター周辺の機械を長谷川さんはどんどん説明書も見ずに組み立てていく。よくわからないプラグや、よくわからない管、よくわからないスイッチに関しても今一度、事細かに説明してくれて(夏太郎さんに教えてもらったはずなのにほぼ覚えていなかった)、一つ一つ使い方まで丁寧に教えてくださった。フィルターも準備ができると水槽を棚の上に置いて、フィルターを棚の中に納めていった。そうこうしているうちに時計はすでに15時過ぎを示していて、休憩しようか、と言う長谷川さんの一声で休憩を挟んだ。

おかわりのお茶を用意している間、ふと、そういえば自分は今素敵な男性と一つ屋根の下、密室で過ごしているんだと言うことを思い出して今更緊張感がぶり返した。先ほどまで作業に夢中であまり深く考える暇はなかったが(或いは気が付かないふりをしていたのか)、本当にこれは現実だった。どうしよう、何を話そう、と思いつつもお茶が出来上がってしまったので再びお盆に乗せて持っていく。部屋に戻るとソファで大人しく座っていたはずの長谷川さんがいつの間にやらベランダにいて、一人で外の様子を眺めていらっしゃった。

暖房が効きすぎていただろうかと心配になりつつベランダに向かうと、長谷川さんがいつもの微笑を浮かべて夕日を眺めているのだと知った。この季節の太陽は本当に傾くのが早い。マンションの7階から眺める景色はそれなりに面白いものがある。高層ビルに比べればその迫力にはかけるだろうが、7階でもそれなりに新宿方面の遠くの夜景は綺麗に見えるし、下を向けば足が竦む。

「綺麗だと思ってね」
「本当ですね。写真映えする瞬間ですね。冬は太陽がすぐ沈んでしまうけれど、夕方が長くて好きです。」
「そうだね。夕日が沈む、この瞬間が一番美しいと思っているんだ。」
「本当だ。ちょうど黄昏時ですね。」
「窓からみょうじさんの部屋に差し込む光が美しいなと、眺めていて思ってね。光が入り込んで照らされる白い床、壁、シーツ。花瓶の花々も夕日に照らされて、ガラスの花瓶に乱反射した光がさらにその床を照らす。この時間帯になると、全ての物が芸術作品のようになる。我々人間もその一部に過ぎない。」

遠くの方で烏が数羽旋回し、天使の梯子の様にたなびいた雲に反射して光が散っていく。夕日が彼の石膏のような頬や鼻などの凹凸を照らし、黒いその瞳がうっすらと茶色を帯びてくる。ひんやりとした風は彼の前髪を撫で、火照る私の頬をも撫でるように冷やした。芸術作品と言うならば、それは強ち間違っていないのかも知れない。彼の言葉はまるで叙事詩の様に優雅で、そして語り部の様に淀みなく語られて迷いがない。こんな言葉を白石さんが言ったらもうギャグにしかならないと言うのに、本当にこの人は凄いなと心底思う。

「なんだか、とても詩的ですね。」
「キザだったかな。でも、私は朝日よりもこの夕日が好きなんだよ。嫌なこともいいことも、全部この夕日が最後に照らして夜を運んできてくれる気がしているんだ。」

尊いと思わないか、長谷川さんがそう言って視線を横に合わせてきたのでこくんと頷く。薄々気が付いていたが、彼に見つめられてそうだろう?と問いかけられると、不思議と肯定せずにはいられなくなる。それはまるで自然の摂理のようで、神様の意志のようで、そうあるべきだと最もらしくそう思うと同時に、どこか胸がぎゅっと切なくて痛くなる瞬間でもある。どうしてそうなるのか、稚拙な私では到底、解らないのだ。いつもの癖で両の手でフレームを作りその小さなフレームの中に彼の綺麗な横顔を収めた。

「綺麗、」

神様みたい。夕日を一緒に眺めながらそう言えば、長谷川さんは思いの外驚いたように目を丸くさせ、そして私を覗き込んだ。慌てて手を引っ込めれば、今度は彼は目を細めた。

「あ、その、なんて言うのかな、すごく素敵なことを言ってくださるから。いや、雰囲気もそんな感じがして。むしろ尊いのは貴方なんじゃないかなって。長谷川さん、西洋の絵画に出てきそうな顔してるし」
「純日本人なんだけどね。」
「そ、そうですよね…」
「でもそんなことを言われたのは初めてだよ。ありがとう。」
「いいえ、変なこと言ってごめんなさい…」
「いや、変なんかじゃないよ。君こそ、天使みたいな子だ。」
「は?え?」
「ふふ、そんな面白い顔もするんだね。」
「あっ」

変な顔してたんだと慌てて手で顔を抑えればさらに頭上からくつくつと喉の鳴る音がした。白石さんや杉元くんと一緒にいるときのテンションでやってしまったと後悔しつつ恐る恐る視線を上げれば、とても満足そうに喉を鳴らす紳士と目があった。

「エンゼルを見捨てず、こんなにお金がかかっても助けようとしてるんだ。エンゼルたちにとっては君だって神様かも知れないよ。可愛い神様で、さぞ嬉しかろう。私からすれば可愛い小さな天使に見えるけれどね。」
「長谷川さんは本当に誰にでも優しいのね」
「誰にでもと言うわけではない。流石にそこまで博愛主義的な人間でもないさ。視界の内に映る人々と交流するので手一杯だよ。」
「でも、そうは見えないですよ。」
「そう見えるだけさ。神様だなんて、そんな大それたことは私にはできない。それどころか、あらゆることに対して穿った考えをしているし、どちらかといば私は反抗的な人間だからね。」
「そうなんですか?」
「健康優良不良少年だったんだよ。」
「ふふ。どっかで聞いたセリフですね。それにしても、天使だなんて初めて真顔で言われました。」
「ハハ、これこそキザだったかな?いや、半分は冗談だったんだがな。でも、あのハブでのことを思い出してね、私を守ってくれる守護天使、いいじゃないか。強ち間違いじゃないと思うよ。実際、私は君にあってから毎日とても気分がいいんだ。」
「本当?」
「ああ。ようやくツキが回ってきたと言うかね。しばらくどん詰まりだったんだよ。でも、そうじゃなくなった。なんだか忘れていた大事なことを思い出すような、そんな気がしたんだ。出会ってまだ日は浅いが、でもそれは余り重要なことではないんだ。本当に、みょうじさんには感謝しているんだよ。」

ありがとう、と唐突に言われて思わずこちらこそ、と食い気味にそういえば彼は再びクスリと笑って、そろそろ冷えるから入ろう、と促した。言われるがまま中に入ると、あっという間に夜の帳がおりて、あたりは暗くなってきた。そうこうしているうちにまた作業が再開されて、長谷川さんの指示でソイルを先に水で研いでおいたり、バケツいっぱいに水を入れてそれにカルキ抜きの液体を入れて置いたり、やることは多くてそれなりに忙しかった。

一旦吸盤が必要だと言う彼のアドバイスで近くの百円ショップに一緒に行ったりもした(100円ショップでは長谷川さんはものすごく浮いていた)。吸盤とネジを手に入れるとそのまま戻るかと思いきや、すぐそばのたい焼き屋さんでたい焼きを買って一緒に食べながら帰った。端から見たら親子に見えただろうか。なんだか不思議な気持ちがした。

吸盤は流木の底にネジをつけて、水底に動かぬように取り付けられた。さすが、経験者は違うなと感心して油断していれば次の指示が飛んでくる。研いだソイルを指示通りに水槽の底に満遍なくいれて押し並べて行く。白と、粗い小石状のソイルを綺麗に二層系を保つように並べてあげて、ろ過砂利を入れてあげれば随分様になってきた。鶴見さんと一緒に流木の周辺に綺麗に石を並べていく作業もなかなか面白かった。なんだか小学校の図工を思い出しますね、と言えば彼は可笑しそうに笑った。ここまでくるといよいよ水槽らしくなってきた。何だか達成感を感じてぐるりと眺めて入れば後ろから小さな笑い声が聞こえた。

「水草を見せてもらって良いかな。」
「はい。」
「わあ、本当にいっぱい買ったんだね。でも水槽が大きいからちょうど良いな。大きくなっていくだろうから、きっと見応えのある水槽になるはずだよ。」
「本当ですか?これは、ソイルに直接植えるんですか?」
「もちろんそう言うやり方もある。だが、マッチリングで束ねて入れる方が簡単かもしれないね。やり方を見せよう」

そう言って長谷川さんは水草を取り出すといくつか手に取りそのリングで束ね始めた。私もそれに習い一緒に束ねていく。コロコロした石のようなショートグラスはポンとソイルの上に置いて少しだけ埋め込む。マッチリングで束ねてできた水草達を流木の後ろに手際よく、バランスよく置いていくとだいぶ世界が彩りを見せ始めた。流木も買いすぎたかなと思っていたのだがそんなことはなく、私がこう言う感じにしたい、と一言言えば長谷川さんはそのように寸分違わず綺麗に配置していき、まるで流木がだんだん岩や崖のように見えてきた。地球の原始の姿、まるで恐竜がいた時代のような様相を呈し、長谷川さんの機転で残りのショートグラスを苔のように流木に載せて固定させると本当に博物館にあるような水槽になってきた。

「すごい!」
「赤と緑のコントラストが美しいね。」
「結構その人のセンスが関わってきますね…」
「レゴやジオラマが好きな人は向いてるだろうな。」
「シルバニアファミリーは好きだったんですが…」
「じゃあ、心配はいらないだろう。」
「えへへ、」
「あとは、パイプ類を入れなければならないし、過装置とも接続する必要がある。湧き水のパイプのつなぎ方を教えるね。良いものを買ったから、きっと安定しやすいだろう。」

そう言いながら最後の仕上げの雰囲気を見せつつ長谷川さんはようやく一番難しいところを私に実践しながら教えてくださった。当初、私はお店で見たような湧き水のようにソイルから湧き出てくる感じにしたかったのだが、ろ過装置の強さが尋常ではなく、ソイル(砂)が舞い上がってしまうようなので、彼の提案で上部に設置することとなった。私以上に私の水槽に真剣に向き合ってくださる長谷川さんに改めて感心した(雑に見えないように綺麗に配線も見えないようにしてくださった)。エアーレーションに関しても、取り付けとお手入れの仕方まで一から教えてくださった。

それをきちんと設置し終えると今度は世界を浮かび上がらせる照明を取り付けることになる。照明も良いものをと壊れにくく耐久性に優れ、魚達に余り影響を及ぼしにくいLED照明を取り付けた。照明は結構大事らしく、光は魚達だけではなくここで生きる水草たちにも多大なる影響を及ぼす。この光によって光合成をして、水草は育っていくのだそうだ。なんだか、本当に小さな熱帯雨林がこの殺風景な部屋に出現したようで、彼の言う通り、とても不思議な心地になった。

「まさに、天地創造ですね。」
「奥が深いだろう?ツウになると、魚もそうだが、この水草や流木、石の配置にもこだわるアクアリストもたくさんいるんだ。」
「へー。」
「水草もまた、立派な生き物だからね。…さて、今日はここまでかな。このままろ過装置と照明は切らずに動かしておいてね。」
「わ、わかりました。」
「もう18時か。すみません、もっと早く終わらせるはずだったのに…」
「いいえ、全然!むしろ、お時間大丈夫でしたか?」
「大丈夫だよ。何しろ私の都合に合わせてもらってしまったしね。」
「いいえ。」
「じゃあ、そろそろお暇しようかな。」
「あ、はい。すみません、遅くまで…」
「気にしないでください。私も久々に楽しい思いができました。次の作業まで時間があるから、自分でも気になったり変えたくなったら変えても良いんだよ。」
「わかりました。本当にありがとうございます。」

彼のコートをハンガーからとり、どうぞと手を通すようにすればありがとうと言って手を通した。外は真っ暗で近くの街灯がチカチカと点滅を繰り返している。窓の外から見えたそれに長谷川さんはあれもそろそろ替え時だね、とぼんやりと呟くようにそう言って、それからマフラーを首に巻かれた。

「じゃあ、また今度。」
「はい、ありがとうございました。お気をつけて」

エレベーターまで送ろうとすれば、彼は寒いから良いと丁寧に断ってそのまま背を向けた。それでも何だか名残惜しくてそのまま玄関前でエレベーター前の彼を見送った。彼はスマホを取り出し何か操作をしている様子だったが、エレベーターに乗る前に今一度私の方を見ると、ひらひらと手を振ったので私も手を振った。

彼を玄関で見送ったのち、今度はベランダに行って入り口の方を見やれば、いつの間にやらエントランスに見慣れぬ黒い車が止まっていた。見覚えのある黒光りする車は、チカチカする街灯に照らされていた。

そして間も無くエントランスから抜けてきた一人の紳士を後部座席に載せると、流れるようにそのまま道の先へと消えてしまった。遠くで犬のわんわんと言う声と、街灯のチカチカがシンクロしているかのように感じて、暫く彼が乗った車が走り去って行った方向をぼんやり見つめていた。何だか今日一日が目まぐるしく過ぎていたのでなんだか現実味がなかった。色々あれこれ考えて余韻に浸って痛かったけれど、クシュン、とくしゃみをして身震いをすると、そのままそっと部屋に戻った。


2019.2.11.
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