楽園のとばり

長谷川さん、と驚いて私が名前を呼べば、やあ、と手短に挨拶を交わし、彼はとても自然に、さも当たり前かのように私の隣に腰かけた。

マスターにカフェオレを注文し、ふう、と一息吐いて前髪を撫でつける。コーヒーの香りに混じって先日香った彼の香りを感じて心臓が疼いた。

「あの、どうして」
「先ほど着信があったんだが、見慣れない番号だったので。直感的にみょうじさんかなって一度折り返したんだが、なかなか出なかったから。何と無くこっちに来てみたんですよ。ちょうど近くにいたんでね。」
「ごめんなさい…マナーモードでした。」
「いいや、気にしないでください。」

まさか本当にいるとは思わなかったけれど。そう言って長谷川さんはできたてのカフェオレのを口につけて笑った。口に付けた瞬間熱かったのか、眉を潜めてちろりと舌を出されたので慌ててお冷やを差し出せば、「ありがとう、大丈夫だよ」と言ってマグカップを置かれた。

「長谷川さん、もしかして私にGPSでもつけました?」
「ふふ、そんなものよりも私の直感の方が優れていますよ。」
「そうかもしれませんね。」
「幼い頃からそうなんですよ。何と無く明日は晴れるだろうなとか、地震が来る前もふとそんな気がして作業を中断したりとか。そういう時はありませんか?不意に直感が働くんだ。」
「どうでしょう…。でも、分からなくもないです。その辺を歩いていて、ここ、何と無くいやだなあ、と思ったらすぐそばに献花されてたりとか。」
「ふむ。やっぱり多かれ少なかれ、そういうことがあるんですよ。でも今日のは本当にすごいな。久々にいい運を引いたようだ。」

ふう、とマグカップのカフェオレをひと吹きして長谷川さんは再び口をつける。ちらりと見ればいつの間にやら喫茶店店内は人もまばらになっていた。温室側の席にいたマダムたちもお開きなのか、皆席を立ち始めていた。時計を見ればすでに21時になる頃合だ。

「ここは9時で閉まるんだ。」
「そうだったんですね。私随分、長居してしまったわ」
「そのようですね。外から君の背中が見えたけど、随分熱心に何かを読んでいるものだから、正直今日は声をかけようか迷ったんだよ。中に入って見てみたら随分珍しい本を読んでいたので、尚更。」
「え、そんな、全然声かけてください!(?)」
「ふふ、それは良かった。でも、もうそろそろここも出なきゃいけないようだ。」
「え、ええ。あの、良かったら、」
「ん?」
「良かったら、次のお店ご馳走させてください。何処がいいですか?」
「ああ、そういえばそう言っていたね。気にすることはないよ。でも、折角だから1件ご一緒願おうかな。」
「はい!」

彼がカフェオレを飲み終わる前に支度を整えるため、お手洗いに向かう。ついでにきちんと化粧を直そうとさり気なくポーチを手に取った。油断していたつもりは無かったのだが、まさか本当に彼に会えるなんて思わなかったのだ。以前は駅前の時同様、たまたま見かけることもあったが、この喫茶店でお茶をしてからはめっきり会えなくなっていた。世の中不思議なものだなあと思う。同じ地元でも会える時と、会えない時があるのだ。

誕生日プレゼントのイニシャル入りのエスティーローダーのグロスを付け直すと、暖房に当てられて乾燥気味だった唇に色が戻った。イプサのスティックを顔に塗りファンデーションを塗ると、念入りに香水もうなじにつけた。距離が近いから油断は禁物だ。

お手洗いから戻ると、視線の先の長谷川さんが何やらペラペラと捲られていたので思わず首を傾げた。彼は戻ってきた私に気がつくと、これは失礼、と言いながらもにこりと笑って、それから先ほどまで私が読んでいた小難しい本をパタンと閉じた。

「哲学がお好きのようだ。」
「あ、いえ。これはたまたまちょっと気になって。私本当に全然こういう手の本は読まないんですよ。」
「そうですか。いつもはどのような本を読まれるんですか。」
「写真集や、文庫本ですね。ベタだけど、村上春樹や吉本ばななさん。怖い話や幻想文学も好きで、恒川光太郎さんや、あとは、そうだな、唯川恵さんやサラバのあの人…」
「西加奈さんかな?私も好きだよ。『サラバ!』は気持ちがいい作品だよね。そのあとの『i』も好きだよ。彼女は直感的な作家だと私は勝手に思っているんだ。」

長谷川さんはそう言ってカフェオレを飲み干すとお待たせしました、と一言言ってからコートを羽織った。私も慌ててコートを着てお会計を済まそうとすれば、先ほどまであったはずの伝票が見つからなかった。あれ?と思ったのも束の間、間も無くまたもや彼にご馳走になってしまったのだと気が付いて、思わず頭を抱えてしまった。

「…すみません、」
「ふふ、そう気にしないでくれ。」


ああ、と頭を抱える私に彼は優しく肩に触れると、「次のお店は君に任せていいかな?」、と耳元で囁かれ、その後先に歩き出した。じんわりと熱を帯びる片耳を押さえたまま、鞄の中に熱帯魚と小難しい哲学本を押し入れる。マスターにご馳走様を伝えると足早に彼の背中目掛けて小走りした。

何時ぞやのように長谷川さんは扉を開けてくださると、私を先に通した。ちりりんと鳴る扉の向こう側は思っていたよりも寒くなくて、暖冬というのはあながち間違いではないのだな、と思わせるほどだった。

「さて、どこにしましょうか。」
「長谷川さん、お腹空いていますか?」
「いや、実のところあまり。みょうじさんは?」
「私もです。ここで夕飯は済ませてしまいましたから。駅前のバーとかにしますか?」
「そうですねえ…。でもそれでは、歩かせてしまいますから、すぐ近くにあるアイリッシュハブに行きませんか。そこにも顔なじみがいてね。ハブといってもあの有名なチェーン店のような雰囲気ではないんですよ。」
「へえ。この近くにあるんですか。」
「ええ。軽めだけど美味しいおつまみもあるし、店主のご主人がイギリス人だから本格的なビールも食べ物もある。お客さんも皆品の良い人が多いので居心地がいい。いかがでしょう?」
「ぜひ行ってみたいです。」

私がキラキラとした目でそう言えば彼はいつものように人の良さそうな笑みを浮かべてこっちです、と案内した。通りは土曜日ではあるが駅が近いので人通りも多く、この辺はスナックもたくさんあるので、サラリーマン風の男性たちが群れをなして歩いていた。若い女性と紳士は珍しいのか、それとも酒に当てられてボケているのか、ぼんやりと私たちを見詰めるおじさんもいたので慌てて長谷川さんの横に隠れた。

紳士な彼は何も言わずに私を自身の影に引き入れたが、酔っ払いなど全く気に留める様子はなく(まるで視界にさえ映っていないように)、今日は暖かいですね、とか、もうすぐ春ですねとか話していた。電線の間に収まっている都会の朧月を眺めながら、とても穏やかに、私を気遣いながらも、マイペースにそう話しかけるのだった。彼の綺麗な横顔を見ながら、なんだかいいな、なんて思う。

彼の言う通り、そのお店に着くのにはそう時間はかからず、ものの数分で着いてしまった。地下へと続く煉瓦造りの怪しげな看板を下げた建物にたどり着くと、足元気を付けてね、と優しく注意して先に長谷川さんが前に行き、手を引いてくださった。私の手をぎゅっと優しく握ってくださるその手は冷たくて、大きなその手を微かに握り返した。

「わあ、」
「思っていたよりも人が多いな。奥の席は空いてるだろうか。」

手を引かれて奥の方に進むと、ほのかに麦芽のいい香りがそこここに漂っていた。壁はレンガ調で、まるでいつか見たテレビゲームの世界のようだ。ケルト調のタペストリーがいくつも飾ってある。後で聞いたが、これは全部わざわざイギリス本国から取り寄せたものらしい。

運よく二つほど席が空いていたので、そこに座る。大きな樽に大きな板を打ち込んで作られたテーブルの上には、ややぶ厚めなメニューが置かれていた。彼のいう通り、沢山のビールが載っている。ソファ席しか空いていなかったためそこを通されたが、気を遣われて私は奥の方に通された(反対側には若い男性達が座っていたため)。

ほんの1センチくらいしか空いておらず、少し動いただけで肩も腿も当たってしまいそうな距離。薄暗さも合間って、本当にドキドキした。

「ビールはお好きかな?」
「ええ。よく飲みます。でも、何がいいのかさっぱり…。」
「店員さんに聞くといいですよ。どういう味が好きなのか、こういう気分だとか、それを言うだけで適切なビールを勧めてくれるはずです。」
「すごい。じゃあ、聞いてみようかな。」
「ええ。」

私がそう言えば彼はカウンターにいたウェイターの男性にアイコンタクトを送った。見知った同士らしく、若いアルバイト風の男性は長谷川さんにこんばんはと気さくに挨拶を交わすと、今度は私を見て会釈した。

「ビールで悩んでるらしいんだ。いいものを紹介してくれませんか。彼女、このお店が初めてなんですよ。」
「もちろん。軽めの方がいいですか?それとも、重め?」
「そうですね。どちらかと言うと、中間くらいがいいですが、今はちょっと軽めなのが欲しい気分です。飲みやすいやつはありますか?」
「じゃあ、これなんかどうすかね。イギリスのビールって結構麦芽が強めなビールが多くて後味残る感じなんですよ。初めてだって聞いたので、イギリスの庶民派を勧めますね。」

そういって彼が指差したのは「SPIT FIRE」と書かれたボトルのビールだった。英国国旗が載ったいかにもなビールで思わずふふ、と笑ってしまったが、確かに初手はこういった遊び心のあるビールがふさわしいだろう。お兄さんの善意を無下にするわけにもいかないのでそれを頼むことにした。

長谷川さんはビールではなく、聞きなれない飲み物を頼まれた。せっかくだからとお摘みに包み焼きパイとローストビーフを頼まれた。私も調子に乗って(どうせ自分が奢るのだし)フィッシュ&チップスを頼んだ。程なくして頼んだ飲み物が双方先に来て、乾杯、とお互いに瓶を鳴らしてグラスにそれを注いだ。

「長谷川さんのそれは?」
「実は、ノンアルコールのカクテルなんですよ」
「あ、そうなんですか。車でいらっしゃったの?」
「いいえ。お恥ずかしながら、お酒が苦手でね。」
「そうだったんですか!?ごめんなさい、私、そんなこと知らずに…」
「いやいや、全然。ここには私が誘ったのですから。ここはノンアルコールビールやカクテルが充実しているから助かるのです。むしろ、バーに行けなくて申し訳ないと思っていたところです。」
「全然気にしないでください!(い、意外だ)」

驚きつつもグラスに口をつけてキンキンに冷えたそれを飲み込む。先ほどの店員さんの言う通り、ベルギーの修道院ビールほどのパンチはないが、確かに後味が濃い。色も味の通り濃い鼈甲のような色をしていて、茶系の泡が立ち昇り、形もこんもりした入道雲のようなフォルムを保っている。美味しい、と呟いて口の端についた泡を舌で絡めとれば長谷川さんはにこりと微笑まれた。

「イギリスではとても有名なビールなんですよ。英国で最古のビール製造会社の看板商品でね。イギリスに行くと腐る程売っています。安価なのに美味しいので、日本でもたまにスーパーで見かける。」
「へえ、知りませんでした。普通に美味しいです、びっくりしました。」
「上のラベルに飛行機のシルエットがあるでしょう。これはその当時伝説の戦闘機と呼ばれたスピットファイア ーという戦闘機の名前なんです。」
「長谷川さん、お酒飲まないのに詳しい…」
「ふふ、全部ここの店主の受け売りですよ。」
「そうなんだ。」

ふふ、と笑えば彼も苦笑いをした。それにしても甘いものが好きだったり、お酒が飲めなかったりと、意外にお茶目な方なんだなあ、と熟感心してしまう。見た目や立ち居振る舞い、雰囲気が完璧すぎるので、ついつい気を張ってしまっていたが、存外親しみやすい方なのかもしれない。そう思い始めて少しだけ気が和らいだ。

間も無く頼んでいたローストビーフや焼きたてのパイが来た。然程お腹は空いていなかったのだが、周りの美味しそうな匂いと楽しい笑い声に押され、だんだん自分もお腹がすいてきた。燭台や蝋燭を無数に置いてある店内は薄暗い割にはとてもアットホームな雰囲気で、BGMも陽気なケルト音楽を流しているからか、彼の言う通り居心地が良い。

日本人ももちろん自分たちを含めたくさんいたが、外国の方も多かった。立ち飲み居酒屋のように中央のテーブルに立ってビールを片手に仲間とテレビを眺めたり(テレビはこの日欧州サッカーの中継をしていた)、一体何の議論か白熱したやりとりを交わしてはどんどん瓶を開けていくのだった。

「なんだか、ゲームの世界みたいですね。長谷川さんの飲まれているそのカクテルもポーションみたいな入れ物だったし。」
「遊び心があるだろう?」
「ええ。こう言うの好きです。」
「大人になってもこういうシャレのあることや遊ぶ心を忘れては行けないよね。でも、本物も知らなければならない。どうぞ、熱いうちに。このパイ、とても美味しいんです。」
「包み焼きパイ大好きです。パンとかパイとか、大好物なんですよ。」

差し出されたナイフとフォークを手に取り綺麗に半分に取り分ける。あまりよくメニューを見ていなかったがなんのパイだろうと思いつつも一口食べれば何かのお肉のパイであることが判明した。柔らかくて味の濃厚なパイだ。ビールのお摘みにとてもぴったりだし、パイもパリパリに焼けていてソースも絶妙だ。イギリスの料理は総じてあまりいい印象は持たないが、この家庭料理に関しては大当たりだろう(イギリス、行ったことないのに勝手な先入観で申し訳ないけど)。

「うん、美味しい!」
「よかった。私も好きなんだよ、このパイが。」
「何のお肉ですか?」
「うさぎだよ」
「う、うさたん…」
「分かる分かる、私も最初君みたいな反応したけど、でも、美味しいからいっかって。」
「そうですよね、確かに、あっちの方は(欧州)うさぎ良く食べますよね。イタリアでもうさぎのパスタ食べましたけど、一番美味しかった…」
「そうそう。うさぎさんに感謝だね。」

ニコニコとそう言いながら長谷川さんは綺麗にパイをお腹に納めていく。ローストビーフも美味しいし、最後に来たフィッシュ&チップスも抜群にビールに合うので、自ずとビールが進む。次に頼んだのはトラクエア ジャコバイトエール(Traquair Jacobite Ale)のビールだ。メニューの下に書かれていたフルーティーなエールビールという文言でこれに決めた。思っていたよりも色の濃い黒のビールで驚いたが、飲んでみれば文言通りりんごの香りとコリアンダーの香りもした。やや強めの苦み、カラメルの風味も感じる。飲み続けると重く、微かにシトラスの香りがした。

「スコットランドのビールのようですね。」
「はい。思ってたよりも重いけど、味わって飲むと美味しいです。時折紅茶のような風味も感じます。」

長谷川さんはボトルを手に取るとそのラベルを改めた。黒い瓶ビールにはよく分からないがとある人物と花が描かれている。先ほどのスピットファイア とままた違う絵柄だ。

「あざみの花はスコットランドの国花なんですよ。この中央に書かれているのはその名の通りジャコバイトが描かれている。」
「だから名前にジャコバイトが入るのね。どういう人物なんですか?」
「ジャコバイトとというのはスコットランド王家末裔ジェームス2世の守護者や支持者達を指しているんだ。ジェームズ2世は歴史上最後のカトリック信仰をした国王です、という風に描かれる事が多い。」
「ごめんなさい、世界史は得意なはずだったんですけど…」
「ふふ。そう覚えていられるものではないよね。私もたまたま先日読んだ新書でブリテンの歴史に触れたから覚えていたんだよ。要するに、スコットランド王家の歴史をたたえ造られたビールなんです。」
「なるほど…。あざみがスコットランドの国花だとも知りませんでした。」
「スコットランドのあざみ伝説を知っていますか?スコットランドにノルウェー軍が侵攻した時、あざみの棘がスコットランドを守ったという伝説があって、そこから国花になったと。」
「へえ。日本の神風みたいな感じですね」
「こう行った類の伝説は古今東西、どこにでもあるようだね。」
「そうですね。あざみと聞くと、どこか宗教的な印象を受けますね。
スコットランドか…行ってみたいな。」

きっと、撮りがいがあるんだろうな、そう小さく呟いてジャコバイトエールを煽った。長谷川さんは私ときちんと向き合ってお話しされる最中でも、視線を時折テレビに映してサッカーの戦況を把握されたり、店員さんと時折すれ違いざまに談笑したりした。お酒は飲めないけれど本当にここのお店の常連らしい。店主を私に紹介したいなと言ってお店の人に店主はいるかと質問されていたが、今日はお休みだと聞くととても残念そうに肩を落とされた。とても気さくな女性なので、ぜひ紹介したかったのだという。また今度来た時に紹介してくださいますかと私が言えば彼はもちろん、と頷かれた。

アルコールのせいか途中で一度退席し、お手洗いへと向かう。腕に巻いていた時計は22時を指していた。私は家から近いので大丈夫だが、長谷川さんは大丈夫だろうか。そう思いながら戻ってくると、長谷川さんは2杯目に頼んだノンアルコールカクテルを飲み終わった頃合いだった。私が戻ってくると彼はにこやかに私を出迎えて、応援していたサッカーチームが勝ちそうだと嬉しそうにそう宣った。

確かに、周りの雰囲気も盛り上がりを見せていて、既にこんな至近距離なのに、顔を近付けて耳打ちしなければ聞こえないくらいだった。お互いに3杯目の飲み物を注文し暫くテレビを眺める。ちらと此方を向いていた長谷川さんと目があって、反射的に何ですか、と問いかけた。耳元で問いかけた刹那、それこそキスをしてしまいそうな距離に気づいて慌てて顔を離したが、よく考えればすでにもう足は随分くっついてしまっているので(先ほどの男性陣の友人が途中から二人も増えて詰めるよりほかなかった)あまり意味をなしていない気もした。

それでも彼はいつものように飄々としてそんな些細なことなど気にされる様子はなく、むしろ狭くないですかと気を遣われたり、冷やしたら良く無いなどと言っては店員さんにブランケットまでお願いしてくれた。本当に、英国紳士の権化のような人だと思う(純日本人なんだけど)。

「そういえば、みょうじさんは写真がご趣味なんでしたっけ。」
「あ、ええ、まあ、本当にしょうもない写真しか撮りませんけど、あはは」
「それにしては随分立派なカメラをお持ちでしたよね。」
「ええ、機材には多少お金かけてて。私、これくらいしか趣味や誇れるものがなくて。昔からカメラは好きで撮ってて、でもプロとして食べて行く勇気はなくて。それでもやっぱり好きで、食べて行く勇気はなくても、時折街の写真コンクールや、雑誌の投稿には送ったりしてるんです。」
「昔からやられてるんですか?」
「高校生の頃からです。そこから大学のサークル、あと社会人の混ざった社会人向けサークルなんかにも入ってます。」
「ではもうプロ級の腕ですね。」
「いいえ全然、趣味の領域をなかなか出られなくて、それで私諦めちゃったんですよ、プロになるの。でも、趣味なら時間見つけて続けられるかなって。」

私がそういえば長谷川さんは目を細めた。口元は微笑を崩さない。

「何をよく撮るんですか?」
「なんでも撮ります。風景や動物。その辺の野良猫ちゃんや、旅行先の景色とか。人もたまに撮るかな。あまり得意ではないんですけど、でも好きですね。最近は廃墟とか、人の住んでいない建物とかもよく撮ります。」
「廃墟、ですか。」
「ええ。人のいなくなった場所や、忘れ去られてしまった場所、そう行ったところに入って撮ってくるんです。あ、でもちゃんとその土地の人や持ち主には私は確認して許可を得てから撮ってます。SNSとかにも載せないですし。」
「偉いですね。マナーを守られている。プロだ。」
「いいえ、私なんか、本当にアマチュアですよ。でも、中にはどうしても連絡がとれなくて止む無く、というパターンもありますけど…。」
「どうして廃墟を撮るようになったのですか?」
「そうですねえ。懐かしさを求めて、というとちょっと変に聞こえるかもしれませんが…。なんていうのかな。かつてはその場所や土地は賑やかで彩があっただろうに、年を経て行くうちにどんどん廃れて行って色あせて、そこだけまるで時間が止まったかのような空間に少し魅力を感じるようになったんです。多くの人から忘れ去られてしまったその場所を、今一度、写真でいろんな人に思い出させたいというか、何というか…。」
「そうか…」
「もちろん数十年前なんて私は生まれてもないし見たこともないけれど、でも不思議と何故だかその写真を見た瞬間、懐かしいような、切ないような、胸をえぐられるような、そんな気持ちになる。それって、私だけでじゃないんじゃないかって。いつしかそう強く思うようになったんです。」
「………」
「不思議な共感、というか。何なんでしょうね、あの感覚は。私、バカなのでその感覚の名前は知らないんですけど、でもきっと誰しもこの感覚を持っているのではないかって思って、そういった類の写真を撮りたいって思うようになったんです。」
「美しいだけの景色ではない写真を撮りたかったんだね。」
「はい。若い頃は、とにかく美しい景色を撮ることに夢中でした。オーロラやウユニ塩湖、グレートバリアリーフ、モニュメントバレー…。どれも本当に美しいし実際、行って素晴らしい写真を撮れました。でも、こう行った廃墟の写真って、意外に身近なのに美しかったりするんですよね。誰も知らないひっそりとした場所にあって、ほとんど誰も見向きもしない。知ってる人もいない、そういう場所こそ知ってほしいような、でもそっとしておきたいような、すごく、複雑なんです。」

と、そこまで語って思わずあ、と声を漏らした。こんなにオタク丸出しで話し込んでしまったが、長谷川さんは楽しかっただろうか。そう思ってパッと横を向けば楽しそうにニコニコしている長谷川さんがいて思わず逆にこちらが驚いてしまった。

「あの、すみません、とりとめもないつまらない話を長々と、」
「いいや、私が聞いたのだし、それに、詰まらなくなんかなかったよ。むしろ貴女の意見が聞けて面白かった。」
「そうですか?」
「ええ。私も昔、写真に憧れていた頃があったのでね。」
「へえ!長谷川さんはむしろ被写体の方が似合うと思うのですけれど」
「?そうかな?」
「え、ええ、何というか、長谷川さん素敵ですから。」

思わず口に出てしまった言葉に自分でも驚いたが、素直にそう吐露すれば長谷川さんは一瞬驚いた刹那、ふ、と小さく吹かれた。ああ、なんてことをと思わず頭を抱えたくなったが、私の気持ちとは裏腹に、長谷川さんは至極嬉しそうに笑うとノンアルコールカクテルに口をつけた。

「嬉しいな、若い子にそう言って貰えるとは。」
「お世辞じゃないですよ、本当です。」
「ふふ。そうだ、コンクールにも出されていると言っていましたね。」
「あ。ええ。気になったコンクールには一通り。実は、この街のコンクールにもここに引っ越してからずっと投稿してて」
「いいですね。貴女の腕なら賞も撮れたのでは?」
「実は、昨年初めて賞を貰って。」
「すごいじゃないか。」
「いや、たまたまですよ。それに…」
「それに?」

濁してそういえば目の前の紳士は細めていた目を開いて首を傾げた。私は伏し目がちに彼の目を見ながら言ってもいいのかダメなのかを思案した。初対面ではないとはいえ、出会って間もないこの人に言ってもいいのか、正直推し量りかねていた。

横では青年たちが一際声を上げ、隣にいる長谷川さんを小突かんばかりの勢いで盛り上がり始めたので話はそこで途切れた。一口ビールを飲み込んで一息つくと、長谷川さんと目線を合わせれば彼はニコリと笑って口を開いた。

「そう言えば、水槽はもう準備万端ですか?」
「あ…それが、」
「何か、分からないことでもありましたか。」
「これであってるかなって思ってたんですが、ちょっと違ってたみたいで…。夏太郎さんにもう一度一から聞いて、組み立ててみようと思ってたんです。今度はきちんと土台も作って、もうすぐエンゼルも来てしまうし、どうしようかなって。」
「しかし、女性一人で組み立てるとなると相当な力仕事ですよ。水槽の大きさ、どれくだいでしたかな。」
「それが、90センチ…」
「お一人暮らしで?」
「はい…これを機に色々かえたら嬉しいなって思って、思い切って大きいのを買ってみたんです。スリムタイプの水槽だから、奥行きはそんな無いんですけど、」
「では、大分フィルター使うでしょう。」
「はい。夏太郎さんに言われてうちで買うよりもアマゾンでこのメーカーを買う方が得ですよって言われて。まさか4基も必要だとは思いませんでした。他のものはあのお店で揃えたんですけど…。」
「ふふ、彼も本当にお人好しだな。とは言え、まさか彼を貴女の家に呼ぶわけにも行かないしなあ…。」
「はい。やっぱり、専門業者に頼むべきでしょうか。」
「お金がかかるのでは?」
「でも、素人で立ち上げて万が一エンゼルに何かがあったら…。何かいい方法無いですかね?」

熱帯魚を多く飼い慣らしている彼ならきっと知っているだろうという安易な気持ちで質問そしたのだが、長谷川さんはとても考え込むように俯いた。何時ぞやのように顎に手を添えた。本当にまるで彫刻のようだと思う。ここにいる沢山の男性の中で一等かっこよくて美しくて、そして尊い存在に思える(他の皆さんごめんなさい)。

テレビのサッカーは佳境を迎えたらしく、長谷川さんの応援しているチームがコーナーキックの権利を得ていた。一番主要な選手がイエローカードを貰ってしまったようだ(アウェーで審判がこのチームにとても厳しい判定を下していた。)あと1点差があるがもう一点欲しい、というところだ。

彼は暫く考えたのち、パッと顔をあげると私に向かって口を開いた。ちょうどそのタイミングでコーナーキックが始まり、多くの選手たちが、わらわらと蜘蛛の子の様に散りながら、ゴールに吸い寄せられていく。

「もしよろしければ、私が組み立てましょうか。勿論、報酬はいただきません。その代わり、またこうしてご飯をご一緒してくださると嬉しい。」
「え、あ、え?」

わあああああっといきなり周りから野太い歓声が上がったのであまり聞こえず聞き直せば、耳朶に温かな温度を感じて思わず体がピシリと固まってしまった。彼の吐息と唇が触れているのだと分かると、膝に置いていた掌をぎゅっと握りしめた。彼が私に耳打ちをしているのだと分かるには数秒かかった。

「私が組み立てよう、いいかな?」

息をすることさえ儘ならず、オズの魔法使いのブリキのおもちゃの様にぎこちなく彼の方を向いた。菩薩様や聖母様の様なアルカイックスマイルを讃える彼に向かって僅かに頷けば、彼はにこりと笑って「よかった」、と小さくそう宣った。

2019.2.11.
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