なまあたたかい

「すっ…………ごく素敵な人だった。やばかった。」
「へーえ、そんなに良かったの。」
「うん、大人の色気って感じ」

砂肝をコリコリと噛み砕いてビールで流し込む。駅の高架下の居酒屋さんは今日も今日とて賑わいを見せていた。近頃テレビで特集が組まれたせいか、こんな小汚いお店でも私のようなOL風情の若い女性客が増えたと、店の大将は大喜びだ。

牛スジをかきこむので忙しい白石さんを尻目に、ビールの次に頼んだレモンサワーを飲み込む。鶏モモと皮の塩味を追加注文して一息つけば、もう21時を回っていた。

花金。隣では最初しおらしくしていた数名の男女も、主婦らしい中年の女性たちも、一時間前よりも話し声が大きくなり、人によっては赤ら顔を下げてきた。白石さんもいつものように日本酒を煽っていたせいか、だんだんと目がとろんとしてきたようだ。

スマホの通知音が聞こえてきたので見てみれば、遅れてこちらに向かっていた杉元くんからだった。ようやく駅に着いたよと言う文言と共に、涙マークがつけられていた。今日は残業じゃなかったはずなのに、ちょっとしたトラブルがあったそうだ。かわいそうに。

「もうちょっとで杉元くん来るって」
「つうか、消防士って大概暇な奴しかいないのに、なんで杉元のやつはいつも忙しそうなんだよ」
「本当に忙しいんでしょ、白石さんと一緒にしちゃ悪いよ。」
「ちょ、俺の立場!」
「白石さん、だいたい朝からせんべろに居るんだもん。」

あははと笑えば白石さんはひどいひどいと喚き始めた。まだ杉元くんが来ていないと言うのに随分出来上がってしまったな、どうしようと思っていれば、お店の入り口の方から名前を呼ばれて反射的に視線を其方に向けた。

「げ、白石もう酔っ払ってんのかよ」
「お疲れ様、うん、面倒臭い感じになってる」
「お疲れさん。あ、大将生中一個!」

杉元くんはやれやれと言う風に私の横に来ると私がカバンで確保していた席に腰を下ろした。生中が運ばれると飲みかけだったレモンサワーで杉元くんと乾杯し、その後に少しだけ体勢を立て直した白石さんが空中に向かってお疲れーと言いながら一人乾杯していた。白石さんが入ってきたときは全く見向きもしていなかった店内の女性たちも、杉元くんが来ると僅かに彼を見ていた。

彼のお顔の傷もきっとそうなのだが、単純に顔がいいからだろう。彼は昔から女性にもてた。大学時代もそうだったけれど、以外に硬派で乙女なところがあるから、浮気性でもなければ軟派でもない。そこがとてもいいところだと思う(白石さんは正直彼とは真逆に思える。とはいえ、それもある意味彼の個性であり、いいところなのかもしれない。気さくだし、話はうまいし)。

「冬場はやっぱり消防署は忙しいのね。」
「火事じゃなかったんだけれどね。事務作業がちょっとあってさ。」
「ふーん」
「なまえちゃんは忙しかった?」
「全然、いつも通り。定時ぴったしに上がってこっちに来たらすぐに白石さんも来てずっとのんびりしてた。」
「そっかー。大将、牛スジと皮とモモと砂肝。あ、タレで。あと白米中盛りね。」

杉元くんはそれだけ言ってビールを煽るとふう、と一息吐いた。すぐに牛スジが運ばれて、お腹が空いていたらしい彼は先ほどの白石さんのように牛スジを食べ始めた。白石さんのためにお冷やを頼んでやれば眠そうな白石さんは目をこすりながらそれを大人しくごくごく飲み込んでいた。

店の中の暖房はかなり強めだが、入り口は開きっぱなしで絶えず風が入るので店内は生暖かかった。カウンターの内側にある石油ストーブの上にはやかんが置いてあるが、時折シューシュー言っては大将がやかんをとって洗い物の食器にそれをかけて湯気が上がった。ここは店の一番奥の特等席だったせいか、暖かくて、時折ほっぺたが焼けるようだ。

席に置いてあるブランケットを膝に置いていて足元も寒くはない。鏡を見ていないのでわからないけど、きっと今の私はりんご病のように頬が赤くなっているに違いない。外を見れば微かにチリチリと小さな雪が舞っていて、通りを歩く人々の肩に積もった。そろそろお店を変えようかなとぼんやり思いながらiphoneを弄る。溜まっていたラインを返していれば、じっとこっちを見ていた杉元くんと目があった。

「何かいいことあった?」
「え、なんで?」
「顔に書いてあるから。」
「お、杉元鋭いねえ!」

突然左から声が聞こえてきたと思えば、先ほどまで大人しかったはずの白石さんが復活したらしい。お冷やで濡れた口元を荒々しく拭って、いつもの得意げなドヤ顔を見せた。

「なまえちゃんってば、知らない間に好きな男ができたんだぜ…」
「まじで?」
「え、あ、いや、好きって言うか、素敵だなって言う人がいたってだけで!」
「やだ!んもうっ!早く教えてよ!」

ガタイのいい大の男がきゃっきゃとしている姿は異様以外の何者でもないが、彼らは時として乙女よりも乙女だ。はあ、とため息を吐いて次のお店で話すよ、と言えば二人とも大人しくなった。そして慌てて残っていた牛スジやビールを流し込んでいた(そんなに聞きたいのだろうか)。

彼らが食べている隙を見て大将におまけしてもらって会計を済ませると、とりあえず火照った顔を冷やそうと先に出た。しんしんと音もなく降ってくる白いそれに手を伸ばせば、一瞬にして掌で形を失い、溶けて水滴に変わる。

魔法みたい。

洋画のワンダーウーマンでパラダイスにいたダイアナが初めて雪を見てそう言っていたが、本当にまるで魔法のようだと思う。神様はどうしてこんなにも美しいものをお造りになったんだろうか。

「ごめん、なまえちゃん払っといてくれたの?いくら??」
「いいよ、全然。その代わり次のお店お願いしてもいい?」
「うん、ご馳走さま。ほら、白石いくぞ。」
「ま、おしっこ行きたい」
「ばか、ここですんな。店の借りろよ。」

杉元くんはそう言いながら自分のマフラーを私にかけて、もたもたする白石さんを置いてズカズカと前へ進んでいく。私もそれについていく。足元は先に降っていた雨でぐちゃぐちゃだったせいか、まだ積もる気配はない。でも郵便ポストや家の塀には少しだけ積もっていた。どれほど積もるだろうか。吐いた息は真っ白で、暗い背景によく見えた。

通りを歩く人は足早に通り過ぎていく。こんな日なのに塾帰りなのか、女子高生の集団は生肌をむき出しにきゃっきゃと走り去っていった。私も昔はこんな無防備に肌を露出していたのだと思うと俄かに信じられなかった。本当に、すごいことだと思う。何とは無しにあたりを見回してみたが、やはり都合よくあの人がいる訳が無くて、ちょっと力なく笑えば横を歩いていた杉元くんと目があった。決まり悪くて目を泳がせれば、杉元くんはふっと笑って、それから口を開いた。

「好きな人って、会社の人?」
「ええ?まさか。このあたりの人なの。」
「へえー」
「たまたまね。熱帯魚屋さんで知り合って。でも、きちんと名前を知ったのはつい最近。」
「どんな人?」
「すごく紳士な人なの。なんて言ったらいいのかな。品があると言うか。男らしいんだけど、女の私が羨ましくなるくらい綺麗なの。」
「なんか、難しいな…。俺今宝塚みたいな人しか思い浮かばないんけど…」
「あ、でも、当たらずとも遠からずって感じかも。」

まさか、と言いながら杉元くんがヘックシュン、とくしゃみをした。慌てて借りていたマフラーを返そうとすれば、未だにくしゃみを繰り返しながらもいい、いい、と片手を振った。

ものの数分で二軒目に着くとそこも大分賑わっていた。けれど、ちょうど新年会をして終わったらしいグループが抜けるところだった。おかげでテーブル席を確保できた。慌ててトイレに向かっていった白石さんを放っておいて先に席に着くと、とりあえずハイボールを3つを頼んでメニューを開いた。

「いい人なんだ」
「うん。いい人なんだと思う。それほど話してないから。」
「ふうん。」
「あ、梅ちゃん治った?」
「うん!おかげさまで。全快したらおいでよってさ。」
「あはは。新婚さんのお部屋にお邪魔はしにくいな。」
「気にしないさ。なまえちゃんの好きな人の話聞かせてやってよ。」
「つまんないよ」
「つまんなくないでしょ。帰ったら明日子さんにも教えてあげなきゃ。」
「そんなおおごとにして」

口を尖らせれば杉元くんはクスクス笑いながら運ばれてきたハイボールのグラスに口につけた。

「でー?なまえちゃんの好きな男ってのはどんなやつなんだっけ??」
「もうその話は終わったんだよ」
「まあまあもう一回聞かせてよ」

トイレを済ませてご機嫌な白石さんが戻ってくると話題を変える暇も無くそのような質問をしてきた。杉元くんの時と同じように説明をしてみたが、白石さんはそれを良しとしなかった。根掘り葉掘り聞きたいようで、それこそ、女子高生のようにあれやこれやと質問してくるのだ。

最近、というかここ数年こんな浮いた話はあまり無かった。結婚前の梅ちゃんや虎次くんがいた頃はよく話したけれど、仕事をするようになってからは皆、随分御無沙汰だったのだ。だから二人が浮き足立つのも無理もない。面倒ではあったが運ばれてきたあんこう鍋の様子を見ながら(店主から今日上がってきたからと勧められた)、二人の質問に答えることにした。

「不動産屋の社長なら相当金もってんじゃねえかよ。たーまのこしー!」
「いや、いきなり結婚引き合いに出さないでよ。まだ付き合ってもないし」
「大きい会社なのかい?」
「ううん。いくつか支店があるみたいだけど…有名じゃないよ。なんだったっけな、会社の名前も忘れちゃった」
「なあんだ。エイブルじゃないのォ?」
「そんなわけ、」

グツグツ言うあんこう鍋のアクを取りつつ適当に流せばふうんと男二人が頷く。あと少し、そういえば白石さんはうん、と頷いて、それからイカ刺しを口に含んだ。ハイボールを飲み終えると、杉元くんが熱燗でも頼もうかと言ったので飲める気はあまりしなかったがそんな気分になって一緒に頼んだ。

お店のBGMはいつも有線の80年代の邦楽でこれは完全に店主の趣味なのだそうだ。ここのお店は食べログでも4.0以上を誇る有名店で、地元の人は足蹴く通うほどの名店だ。有名になってからはタイミングによってはなかなか入れない。そう大きくはないがカウンター席は詰めれば10席、テーブル席は3席、奥の掘りごたつは2席ある。

今日は運が良くその2席にありつけたが、そのせいで久々に白石さんの足の匂いを嗅ぐことにもなった(もう私たちは慣れているので何も言わなくなった。明日子ちゃんは毎回怒って白石さんの頭をポカスカ殴る)。テーブルに置かれた小さな木彫りの置物も、可愛らしいお魚の箸置きも、壁に飾られたタペストリーや掛け軸も、全部店主の趣味だ。いい趣味だと思う。

カウンターには丸々とした招き猫と狸の置物と並んで仙台出身の店主が持ってきたらしい仙台太郎が置いてある(聞けばこれを飾るとお客さんの入りが良くなるのだという。招き猫の人バージョンというところだろうか)。どのお店にも多かれ少なかれ、そのお店の趣味が垣間見れるものだなとしみじみ思って、それからふと、あの喫茶店のことを思い出した。

「あ、あのさ」
「なんだい?」
「商店街の一本道入ったとこにある喫茶店知らない?外側はちょっと年季が入った感じなんだけど、中はすごく綺麗で広くてさ。お花屋さんみたいに温室があるのよ。」
「喫茶店…?」

唐突な質問に二人は顔を見合わせ暫し考えている様子だった。ああ、と先に声をあげたのはやはりこの辺をよく放浪している白石さんだった。さすがだと思う。

「あそこな!ガラス張りの温室持ってるところだろ?すぐそこに裏山が見える。結構いい趣味してるし、良いコーヒー出してくれる店だよな。」
「さすが白石さん。」
「ふっ、まあな。あそこの店主には何度かつけてるからな!」
「全然誇れないよ…」
「良い趣味してるから、女の子を誘うのにぴったりなんだよ。」
「確かに。女子が喜びそう。」
「そうそう。」
「へえー。そんなお店あったんだ。」

杉元くんはそう言いながらどの辺にあるんだ、といってスマホを取り出した。私が名前を伝えてあげればすぐに見つけ出したようで、ああ、ここか!と声をあげた。よく見える場所にあるのに、位置的になかなか行かない場所にあるのだ。地元にいる人でも、よほど昔からこの辺りに住んでいない限りはきっとあまり馴染みがないのも頷ける。

「教会側なんだよね。」
「そうそう。…俺も一時、通ってたなあ。」
「え?通ってたの?」
「うん。ま、話すと長い、甘酸っぱい思い出さ…。」
「じゃあ聞かない。」
「うん、なまえちゃんそこはフリでも良いから聞いておこうか。…とはいえ、あそこはたまーにおっかねえのが来るからなあ…」
「ん?おっかないの?」
「ん?いやあ、何でもない何でもない。あ!もうそろそろ良いんじゃないのォ?」

へへへっと言いながら白石さんは誤魔化すように笑うと、もうすっかり良い塩梅になったあんこう鍋を我先にと突き始めた。杉元くんと顔を見合わせてちょっとだけ気になりはしたものの、白石さんに全部食べられぬうちにと自分たちも箸を手に取り鍋を突き始めた。

柔らかい湯気が部屋を包み、生暖かい空気でむせ返りそうになる。窓の外は温度差のせいか、窓にはうっすらと玉ねぎの薄皮のように水滴が覆い、しんしんと振り続ける雪が静かに冬の空を支配していた。











駅地下の本屋さんに足を止める。暫く迷って結局自動ドアを抜けて、そのまま店内の奥へと入って行った。午後六時を過ぎた駅は帰省ラッシュの社会人や学生たちでごった返していた。今流行の漫画の新刊が出ているのを確認し、いつも買っている写真雑誌を手に取り、小脇に抱えながら、ふと、思い出したかのように足を止めた。

「…あの、すみません。」
「はい。何でしょう。」

傍の、ハードカバーの新刊本を棚に綺麗に並べていた学生アルバイト風の男性に声を掛ける。茶髪で髪の毛は若干いたんでいるのかちりちりで、申し訳ないがあまりその彼が並べている純文学の本とは縁遠そうな雰囲気を持った今どきの青年だった。彼は私を見るなり動かしていた手を休め、体を上げた。私はそれを見て彼と目を合わせると、少しだけ気恥ずかしくなってあのう、と控えめな口調で話し始めた。

「…熱帯魚についての本って、あったりします?」

私がそう言って苦笑いすれば、彼は首を傾げてぽりぽりと頬を掻いた。







「(今日こそ…でも、迷惑かな)」

ペラペラと先ほど買ったばかりの書籍をめくる。18時を過ぎた喫茶店内はガヤガヤとしていて、ここで軽く夕食を済ませる人もいるようだった。利用客の多くがこの地域の住人で、のんびりしにきたお爺ちゃんや、奥の方ではこの辺りに住んでいるらしいマダムたちがいた。

マダム達は先客で、温室の席を取っていた。なので今日は潔く諦めて、1人客専用らしいカウンター席を陣取ることとした。土曜日の夜のせいか、カウンター席には学生も散見した。夜になると店内はより一層暖かな橙色の光を強める。温室も間接照明がつくと草花の色が色濃く浮かび上がって、ガラスの向こうの真っ暗闇と合間って幻想的に感じる。

学生の頃、台湾旅行で夜市を見に行ったが、あの鮮やかで極彩色のあの光のようだ。この光はどこか、あの熱帯魚屋さんの水槽を想起させる。美しいものはいつだって光と影の間に存在するのだ。

今一度iphoneを手に取る。数少ない連絡先の中でも一番最初に出てくる「長谷川さん」と表示された字に少しだけため息を吐いた。暫く画面の電話番号を見つめて、それからやっぱりやめようと閉じようとした刹那、誤って本当に着信ボタンを押してしまい、慌てて閉じた。

ビクッと肩を揺らしてしまったので見られてなかったかと後ろを振り向いてみたが、世界は私のおっちょこちょいなどに興味はないらしく、先ほどと同じよう穏やかな賑々しさを保ったまま。時間は流れていた。少しだけほっとしたような、寂しいような心待ちで視線をカウンターの方に移した。

初めて来た時に見た木彫りの置き物たちをよく見ることができた。これもこの店のオーナーの趣味らしく、かなりの旅行好きとみえた。イタリアミラノのドゥオモの大聖堂を象った置物や、フランスのかの有名なモン・サン・ミシェル、ブダペストの国会議事堂などのマグネットも壁につけられていた。フィンランドの可愛らしい羊を模した木彫りのシンプルな置き物や、アラビア語で書かれたよく分からない石版も置かれていた。多分、エジプト土産だと思う。

壁には摩訶不思議な生き物、ガーゴイルも取り付けてある。ガーゴイルは本来雨樋の役割があったが、水を口から放つ際にゴポゴポというらしい。ガーゴイルとは、ゴポゴポと言う音を表現したラテン語に当たると、その昔世界史の先生が言っていた。果たしてそれは本当なのだろうか。ぼんやり思いながら暫くその恐ろしい姿をしたガーゴイルについて考えた。

鼻は豚で般若のように角が生え、耳はエルフのように長く、そしてその外見に似合わず美しい羽を持っている。天使のように繊細な羽を持ち、今にも羽ばたきそうな勢いで広げられている。ガーゴイルは魔除けの役割もあったから、実際、ドゥオモの聖堂にも無数に掘られている。

「(この手のお話、長谷川さんはお好きかしら。凄く奥ゆかしくて知的な感じだから、きっと知ってらっしゃるんだろうな。彼はここがお好きのようだけど、遠くに旅もするのかな。海外にも行かれるって言ってたな。)」

彼とここでお茶をしてからかれこれ3週間経った。あと2週間ほどでエンゼルフィッシュを迎えることになったが、正直きちんと水槽も迎えられる状態かさえわからない。夏太郎さんの言う通りにしてはいるのだが、自分でもきちんと調べようとようやく本を買ってみたのだ。もしかしたら、彼と会った時に少しくらい、以前よりも熱帯魚の話題を話せるかもしれないと期待もしていた。

熱帯魚の本と一緒に、気まぐれで買った書籍も取り出す。『水槽の中の現実』と書かれたその書籍は、最初熱帯魚に関する本かなあと安易に買ってしまった。でも後になって全然違うものだと言うことに気が付いてちょっと「げ、」と思った。随分小難しそうな哲学の本だったからだ。

不幸中の幸い、大学の頃に選択授業で哲学を選択したことがあったので、全くもってわからないと言う訳ではなかったが、どちらかと言うと東洋哲学の方が自分は好きだった。正直理解できるだろかと心配に思いつつも、読み進めていくうちに気がつけばその本に集中していた。

今見ている現実は、実は水槽の中の脳が見ているだけの仮想、バーチャルリアリティに過ぎないのでは無いか、と言う実に奇抜で突飛な考えだ。だが、かと言ってそう簡単に否定もできない。確かに、この世はそんなものなのかもしれないし、そこまで単純じゃ無いのかもしれない。

村上春樹のようなことを少ない頭で考えながらもああでも無いこうでも無いとウンウン一人唸っていれば、カウンター席に誰かが来たようで、少しだけ横にずれればすみません、と声をかけられた。

「すみません、隣いいですか?」
「、どうぞ、空いてます、ので…」

言葉を発しながら声のした斜め上を見上げた。逆光に見覚えのある顔が見えて、思わず言葉尻がすぼんでしまったが、反対に両目を大きく見開いた。

「は、せがわさん…?」

と声を絞れば、逆光のその顔はいつものように目を細めて、それから薄い唇の端がわずかに上がった。


2019.2.10.
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