夜空の奥地

三度紳士と遭遇したのはお正月ムードがすっかり消え失せ、世間が日常を取り戻していた一月の最後の週だった。天気予報では午後から雨だと言っていて、折り畳み傘を持って行ったのだが結局会社を出て家から最寄りの駅に到着するまで、雨は降らなかった。グズグズした天気のまま、夜を迎えてなんだかなあ、と思う。そんな気持ちを引きずったまま、帰りに夕飯と明日のお弁当の買い出しにスーパーに寄った帰り道の事だった。

買い物袋と仕事鞄を下げて重い足取りで駅前の交差点を横切ろうとした矢先、タクシープールの近くでハザードを点滅させる、黒光りした車にふと視線を奪われた。都内に来て高級外車には見慣れていたが、都内でもローカルなこの駅に高級外車なんて珍しいな、なんて思った。

そのまま何の気なしに通り過ぎようと思ったのだが、うっすらと窓の奥から見覚えのある顔が見えたきがして思わず視線を止めた。気が抜ければそのまま横断歩道を渡る足を止めただろう。慌てて何とか足を動かして横断歩道を渡りきった。

「(あの人…)」

口と顎に整った髭を蓄えて、髪の毛は綺麗なオールバックの男性が後部座席に乗っているのが見えたのだ。向こうはもちろん私に気づく事などは無く、携帯を耳に宛てて何やら話し込んでいる様子だった。運転席には運転手の若い男性が控えていて、後ろの席に座る紳士は見るからにvipのような出で立ちであった。

彼のその姿を捉えた瞬間、熱帯魚屋さんの時に受けた印象を思い起こし、すとんと自分の中で合点がいった。きっと会社のご代表か大手企業の偉い方なのかもしれない。或いは、私が知らないだけで政治家なのかもしれないし、銀行の頭取かもしれないし、もしかしたら財閥の方なのかもしれない。

よくは分からないが、自分の中でああでもないこうでもないとまるで夢のように視線の先の紳士に関して妄想を膨らませ、緩む頬をなんとかマフラーで隠してその場は足早に去ってしまった。正直、お正月の際にあの神社で見つけたのは彼だったのか自信がなかったのだが、今回は間違いないと確信できた。彼とはどうやら生活の行動範囲がかぶるようだ。地元なんだろうか。

また熱帯魚屋さんかどこかで会えたらいいな。なんて本当に年甲斐もなく少女漫画のような淡い期待をして、軽い足取りで家路に着いた。
雨は、家に着いてからしとしとと静かに降り始めた。










水槽を組み立てて数日経った折、そこからどうすればいいか再びお店のお兄さんに聞きに行こうと思い立った。休日にまた例の商店街の熱帯魚屋さんに足を踏み入れたのだが、足を踏み入れた瞬間、思わず後ずさりしそうになってしまった。

「あ、」と小さく声を漏らせば、視線の先の店奥の水槽前にいた紳士が私に視線を寄越した。そして自然と会釈をしたので、反射的に私も会釈をすれば彼はにこりと笑って再び視線を水槽に戻した。あの人だ、と脳裏で思って、それから驚いて暫く足が動かなかった。

魚や爬虫類のために薄暗がりで間接照明を無数につけた店内の中で彼は一等眩しく照らされているように見えた。無数の暗がりの中で光に反射して輝く魚を背景に、彼の黒い背を見ていると不思議な心地がした。まるで昔見た白黒の恋愛映画のような、そんな感じだ。

確かに、もう一度会えればいいなとは思っていたけれど、まさかこうもいとも簡単にそう日を空けることなく会えるとは夢にも思わなかった。ぼんやりとしたまま紳士の後頭部を眺めていれば、レジにいたお兄さん(夏太郎さん)がひょっこり顔を出したのでようやく視線を別の場所に移すことに成功した。

「組み立てたんなら色々仕込んでもいいかもしれないですね。」
「仕込む?」
「はい。砂と水草を入れた次の段階で、本命の熱帯魚を入れる前に先に水槽に入れて置く魚がいるんですよ。」
「へー」
「アクアリウムが好きな人たちは『パイロットフィッシュ』って呼んだりするんですけどね」
「パイロットフィッシュ、」
「そうそう。水槽を一番いい環境にして整えてくれる、大事な役割を持った子なんですよ」

そう言いながら夏太郎さんはほら、と壁にずらりと並んだ水槽の右を指差した。右側の水槽には赤いラインの入った、小魚たちがスイスイと音を立てずに泳いでいる。こんな子供のように小さくてとても可愛らしい彼らが大きな水槽の環境を整えてくれる大役を担ってくれるとはあまり思えなかった。

「何匹くらい入れれば良いですか?」
「お姉さんが飼った水槽なら10匹くらいかな。あ。でも、まだ今日は買わないほうが良いかも。」
「なぜですか?」
「実は1週間くらい前に入荷したばっかなんですよ。入荷仕立てだとまだ環境に慣れてなかったり、弱っている個体もあるかもしれないから、せめてあと1週間はこっちで面倒見てあげたいんですよね。別にどうしてもっていうなら勿論構いませんけど…。お姉さん初心者だって言ってたから。」
「そうなんだ。じゃあ、今日はやめておこうかな。魚を引き取るの、まだ先だし。」

そう言ってしゃがみ込んだままぼうっと水槽を眺める。右下の説明書には「アカヒレ」と書かれている。水槽に貼り付けられた説明書には、この魚は中国大陸産で、パイロットフィッシュにふさわしい旨が書かれていたが、それ以上のことは書かれていない。

ここの店員さんは全員気さくなので聞けば教えてくれるからだろう。いそいそとコートのポケットからiphoneを取り出して検索しようとすれば、突然左に人の気配を感じて見上げた。そこには黒いコートを羽織った先ほどの紳士がいて思わず目を見開いてしまった。

「小さいけどコイの仲間なんですよ。非常に丈夫な魚でね。水質の悪化やかなりのpH変化にも耐えることができる。性格も穏やかで、後から入れる熱帯魚たちにも危害を加える事はほとんどないんです。いい子達なんですよ。まるで模範生のようなね。」
「へえ…初めて知りました。」
「ええ。そうだと思いました。」
「え?」
「お気を悪くされたら申し訳ないのですが、先日お店でお見かけした時にそんなお話を耳に挟んだので。それで、水槽は完成しましたか?」
「ええ。でもまだ水を入れてろ過装置をつけてるだけなんですよ。あとは、このアカヒレを数匹入れて放置しなきゃいけないらしいんですが、まだ入荷したばかりでもう1週間待ったほうがいいって、お兄さんが。」

努めて平然を装いながら私が一息りそう言えば、彼は少しだけ目を見開いて、それから何やら思案するように顎に手を添えた。その姿はまさに憂慮し思考する『考える人』の姿に重なった。上野の西洋美術館の前にある、地獄の門の上に座している考える人は、地獄に堕とされ苦しむ人々に関して憂慮している。あの彫刻のように、隣の紳士の一挙手一投足は実に絵になるのだ。本当に羨ましいくらいに。

「それは申し訳ないことをしてしまったな。」
「はい?」
「実は、ここのアカヒレを最近買い占めたのは私なんだよ。」
「あ、そうだったんですか。でも、こんなに沢山の子を買い占めるなんて、とても大きな水槽なんですね。」
「ああ。最近壁に埋め込むタイプの大きな水槽を新調してね。だいぶ大きくなってしまったから、沢山のパイロットフィッシュが必要だったんだ。でも、そのせいで貴女の分がすぐに準備できなくなってしまいました。申し訳ない。」
「いいえ、全然です。私はまだ時間がありますし。お気になさらないで下さい。」

慌てて否定すれば紳士は目を細めた。彼はすっと立ち上がっても視線は水槽に移したまま、少しだけ乱れたご自身の前髪を撫でつけると、今度はアカヒレの横の黒い小さな魚を見遣った。アカヒレと同様に小さく、そして黒いこの魚たちは水槽の中で悠々と自由に泳いでいた。小さいものはすばしっこく、大きいものはややゆったりとしたスピードで泳ぎ、尾鰭をひらひらとプリーツスカートのように瞬かせながら泳いでいた。

ブラックエンゼルは天鵞絨のような光沢を放つが、この魚はそれとはまた違う、マットで繊細な黒い鱗である。まるであのお正月の神社で見た山のように黒く、闇のようだ。そんな漆黒の姿に相反し、その動きはとても俊敏で、水槽の底に沈む藍藻を摘む姿はとても可愛らしい。

「この子もパイロットフィッシュになり得る魚です。」
「へえ。」
「ブラックモーリーと言います。」

紳士はすっとしゃがみ込むとブラックモーリーを見つめた。ブラックモーリー達はそんなことなど御構い無しに好き勝手に水槽を泳ぎ続けている。もし私がブラックモーリーなら、恥ずかしくって水草の裏に隠れてしまうだろうに。現に今でさえも横に並ぶ彼の香りに、少しだけたちくらみに似た感覚を覚えていた。

「見事な黒ですよね。体調はさほど大きくはなりませんが、大きな水槽でもこの光沢の少ない黒は目立つ。」
「ええ。」

彼はそう言って手をかざすとしばらくブラックモーリーを眺めていた。

「パイロットフィッシュは何もアカヒレだけでは無いんですよ。ネオンテトラや、ヤマトヌマエビなどもパイロットフィッシュに成りうる。入れたい熱帯魚や目的によって変えるアクアリストもいるんですよ。」
「そうなんですか…。私の入れたいのはブラックエンゼルという魚なんです。どんな子がいいでしょうか。」
「エンゼルフィッシュか。美しい子を飼われるんですね。であれば、このブラックモーリーもきっとあなたにとって役立つパイロットフィッシュになるはずですよ。」

彼はそう言ってにこりと小さく笑うと、再びすっと立ち上がった。そして側に居た夏太郎さんにいくつかこのブラックモーリーを頼んでレジへと向かっていってしまった。水槽の前で一人取り残され、しばらくぼうっと眺めていれば、ふと思い出したかのようにカメラを鞄から取り出した。

今日は雨を危惧して一眼レフでは無く昔使っていたデジカメを持っていた。直ぐ側で荷下ろしをしていた亀蔵と書かれたネームプレートの店員さんに撮っても良いかと聞けば、「ライトをつけないのと、SNSに上げないのを約束してくれるなら良いですよ、」と言われ、ほっとした。

薄暗いのでイマイチではあったが、撮り続ければ数枚は良いものが撮れたような気がした。その後も暫くアカヒレやブラックモーリーを眺めていたが、気が済むとお兄さんに言われた底砂と水草をいくつか買って、今日のところはお店を後にした。

念の為に店を見回したが紳士はもうおらず帰ったらしかった。もう少しお話できれば嬉しかったのだけれど。ほんの少しそう思いながらお店を出た刹那、右手に人影が見えて思わず再びハッと息を飲んだ。

息を飲んだ瞬間、先ほどと同じようなデジャブが起こり、二つの鋭くどこか冷たい双眼が私を捉えた。しとしとと耳に雨の音が聞こえてきて、なぜ彼がブラックモーリーの入った袋を持ったままここに立ちすくんでいるのか瞬時に理解した。彼は私と目が合った瞬間、あの穏やかな微笑みを讃えて、それから静かに口を開いた。

「この分だと止みそうにないですね。」










二度あることは三度あるとよく言われるが、三度よりその先がある事は、なんと言葉で形容すればいいのだろうか。

「少し走れますか?」
「ええ、フラットな靴ですから大丈夫です。」
「それは都合がよかった。本当にすぐ先なんですが、如何せん、この雨ですからね。」

そう言って紳士は肩を竦ませると徐にコートを脱いだ。寒いのに何をする気だろうと首をひねっていれば、彼は突然失敬、と一言断ってから私の方に歩み寄ると、そのコートを傘にして私の頭を覆った。

慌てて見上げれば至近距離に紳士がいて思わず目を見開く。わずかに鼻腔を掠めていたあの心地の良い香りが今はこんなに至近距離で嗅ぐことができて、思わず立ちくらみがしそうになった。彼はパチンと目を瞬かせると視線を先にして口を開いた。

「少し走りましょう。道なりに1分もないくらいです。濡れないように気を付けて下さい。」
「でも、これではコートも貴方も濡れてしまいますから。」
「いいえ、構いませんよ。少しくらい濡れた方が洗い甲斐があるでしょう。女性が体を冷やしてしまうことの方が問題だ。」
「…では、せめてこの袋を持たせてください。」
「ありがとうございます。助かります。斜めにしなければ漏れませんので。」

彼はそういうとするりと私の腕を引いて促した。そしてしとしと降り続く雨の中、二人同時に飛び出した。彼に誘導されて足早についていく。雨は彼の左肩とコート、そして私のブーツを瞬く間に濡らしていき、じんわりと温度を奪っていく。不思議と、彼に引かれた左手はじんわりと暖かい。紳士の言う通り、1分も経たぬうちに彼の言うオススメの喫茶店はあった。

どこかノスタルジックなお店は、スタバやブルーボトルコーヒーとは一線を画していた。その渋い商店街の老舗の珈琲店は、むしろ若い人には新しい印象さえ与えるかもしれない。開く度にちりりんと鳴る扉を紳士は開けると、先に入るように促した。

ここに着くまでに彼のコートはあっという間に沢山の雨の染みを作り、その質量も増しているように思えた。扉が開かれた瞬間、長年染み込んで空間に漂っている珈琲の香りが私たちを包み込んだ。とても品がいい調度品は古いけれどきちんと磨かれ小綺麗で、ソファやテーブルに至っても年季が入っているがきちんと手入れされており、革も数年に一度きちんと張り替えているようだった。

「奥の温室の席に行こうか」
「、ええ」

紳士に促されて奥の席に足を進めれば、そこはどこかの温室のように暖かく、異国のサロンのように草花のプラントが沢山置いてあった。いつだったか、旅番組で見たのだが、イギリスのどこかにある草木生い茂る花屋さんのような喫茶店を見たことがあった。まるでそれを連想させるような佇まいのお店でとても心躍った。

最近流行りの多肉植物をはじめ、蔦のような植物、足元には石焼のプランターにいくつもの草花が生えていた。胡蝶蘭もあれば、季節柄あまり花が咲いてはいないが、ガーベラなどのスタンダードなお花も元気に咲いている様子だ。

学校の美術室にあるような石膏も置いてあって、まるでギリシャの神殿のようにも感じる。天井を見やればこの温室の部分だけ天窓のようになっていて、曇天としとしとち降る雨によってぼやけたような世界が映し出されていた。すぐ脇には神社の裏山に通ずる細い道がある。こちら側は先日参拝した神社とは真逆の、教会寄りに位置しているらしい(とはいえそのまままっすぐ進めば先日の神社に辿り着く)。

まるでここは森の中の喫茶店のようだ。商店街の一本入った場所ではあるが、人目につくし、実際この雨でも中には数人常連のような人々がいた。この街に引っ越して3年ほど経つが、ここの喫茶店にはまだ足を運んだことがなかった。正直、駅前のスターバックスやタリーズコーヒーで過ごすことが多く、まさかこんな素敵な造りだったなんて、本当に知らなかったのだ。

「オーナーの趣味だそうだよ。旅と植物が好きなオーナーでね。」
「素敵な趣味ですね。」
「ああ。だから私も好きでね。ここはいつも温かくて湿度もちょうどいいから、呼吸がしやすい。寒いと魚達にも草木にも良くないからね。」
「ええ」
「もう雨脚も弱まり始めましたし、止むまで少しだけ休憩しましょう。長居はこの子達がいるのでどうせできない。」

そう言って彼は席に着くとコートを隣の椅子にかけた。私も同じく席に着くと空いている隣の席に荷物を置き、彼のブラックモーリー達を倒れぬように机に置いた。雨に濡れてしまったコートに対する謝罪を再度すれば紳士はにこりと笑ってかぶりを振った。

「珈琲が苦手のようでしたね。」
「いいえ。飲めるには飲めるんですが、あまり苦いと飲み込めなくて。」
「それならアフォガートはどうですか。ここのは特別美味しいんですよ。私も甘党なので好きでよく食べています。」

にこりと笑って目の前の紳士はメニューの中のアフォガートを指差した。そんな紳士に少々面食らいつつもそうですか、とかろうじて返事を返す。この見てくれで甘党なんて何というギャップなんだろうか。ふふ、と思わず僅かに笑ってしまった。

こうして口を交わすのも今日が初めてだというのに、不思議と嫌な気はしなかった。図らずも何度か顔を合わせているからだろうか。そう思案しながら、彼のオススメのアフォガートとホットのセイロンティーを頼めば彼も同じ物を頼まれた。

お茶が運ばれるまで手持ち無沙汰で、お互いすぐ横の綺麗な花々を見つめていた。よく見ると大きなプランターだと思っていた一つの鉢には水が入っており、金魚鉢となっていた。そこには無数のメダカのような小さな魚達がうごめいていて、水底には水草が生い茂ってジャングルのようだった。ぼうっとそれを眺めていればカラン、と氷の甲高い音が聞こえて紳士の方に視線を写した。紳士は一口水を飲み込むとそれを綺麗にコースターに戻し、口を開いた。

「そういえば、お正月にお逢いしましたかな。」
「あ、やっぱり。あの神社にいたのは貴方だったんですね。」
「ええ。彼氏さんといらっしゃったのをお見かけしました。」
「彼氏…?え、いや、あれはただの友達です!4人できてたんですよ。」
「そうでしたか。とても楽しそうでしたね。」
「はい。大学からの友人でしたので。小学生の女の子は友達の親戚の子なんですけど。」
「素敵なグループですね。」

紅茶が運ばれてくるとどちらともなくそれに口をつけて、後からきたアフォガートを黙々と食べ始めた。本当は駅前でもお見かけしていたのだが、と言いかけて、流石に不審者だと思われるだろうと思い口を噤んだ。

「あの熱帯魚屋さんにはよく来られるんですか?」
「ええ。もうずっと通っています。あそこの熱帯魚屋さんのオーナーと知り合いでね。この辺は私の地元だから、皆顔馴染みなんです。」
「へえ、そうなんですね。」
「貴方の地元はここでは無いようですね。」
「はい。実家は埼玉の方ですので。就職してからこっちに来ました。ここの商店街が居心地よくて、都内はここにしか住んだことがありません。」
「そうでしたか。確かに、ここは古い人が多いから、都心に比べたら少し特異に感じるでしょう。」
「古いものと新しいものが丁度いいバランスであって、私はすごく、好きなんですけどね。」
「それは良かった。」

男性はにこりと笑うと口の端についたアイスをペロリと舐め取った。そして視線を横にすると先ほど自分が購入したブラックモーリーたちを眺めていた。

「少し気にかかっていたんですよ。」
「え?」
「若い女性で熱帯魚に興味がある方をあまり見かけないので。」
「確かに、私くらいの女性で熱帯魚が趣味って人、周りにあまりいないですよね。」
「ええ。それで記憶に残っていましてね。」

窓の外はすっかり明るさを取り戻していて、雨脚もミストのように弱まり始めている。後半刻もしないうちに止むように思われた。窓の外では時折車が通ると地面にできた水たまりに波紋が広がって大きな水しぶきを作り出していた。

「熱帯魚のご趣味は長いんですか?」
「だいたい20年はやっていますね。」
「長いんですね。」
「いいえ、そうでもないですよ。ずっと熱帯魚の面倒を見ていたという訳でもないですしね。海外に行っていた期間もあるし、忙しくて見れなかった期間もあります。」
「そうですか。…あの神社にはよく行かれるんですか?」
「そう多くはないんだけどね。私はこの辺りで不動産をしていてね。あの神社は代々うちの家系が守ってきたんですよ。」
「へー!神主のお家だったんですね。」
「正確にいえば、本家の人間が、だけどね。私は一切あの神社の切り盛りには関わっていなけれど、でも、何かがあればいちいち呼び出されるし、町内会や商店街の会議には必ず呼ばれる。この辺も少子高齢化で、私の年齢でさえも若手だと見られるから、困ったものだよ。」
「じゃあ、もうこの辺は貴方の庭みたいなものなのね。」
「ふふ。若い頃はここに縛られるのはどうかと思ったが、歳をとるにつれて自分の役割がだんだんわかってきてね。」
「じゃあ、あの小さな教会は?」
「元々はあそこもお寺だったんです。でも明治時代に壊されてしまって教会となったんです。今はもう本家の管轄では無く、キリスト教会のものなんです。でも、町内会や商店街でのイベントにも積極的に参加してくれるし、協力的ですよ。宗教も、地域の手助けが無くしては広められませんからね。共存です。」

そう言いながら彼はアフォガートの最後の一口を綺麗に食べ終わるとハンカチで口を拭った。美味しかったろう?そう言われたので素直に頷けば彼は満足そうに微笑んだ。

「そういえば、お名前をお伝えしていませんでしたね。私は長谷川と申します。」
「あ、私はみょうじと申します。すみません、私、お伝えもせずに。」
「いいえ。今日は本当に嬉しい有意義な日になりました。可愛らしいお嬢さんのお話も聞けたし。」
「そんな、」
「町内会に出てもおじさんばかりだから、本当は君のような健康な精神をお持ちの若い子に意見を聞くべきなのに、なかなか上手くいかないんだ。」
「私なんて、貴方に比べればただの余所者だし。」
「いや、決してそんなことはない。君は立派にここに住んでいる住人だよ。そうだ、水槽を想像してごらん。水槽の中では先住も後から来たものも関係ないんだ。だが一つだけ約束があるとすれば、先住していた魚の方にこの水槽を美しくしていく義務はある。」
「義務、」
「そう。先に住んでいた者は後から来るたくさんの魚たちを迎え入れる環境を整えてやる。過ごしやすく快適でここにずっと居たいなと、そう思わせるような場所にしないといけないんだよ。いじめたり、除け者にしたりなんかしてはいけない。私のような古くから住む人間が、新しく来る人々を心地よく迎えられるように、生きやすいように、整えてあげる必要があるんだ。ここに住んでいる皆にその義務がある。」
「なんだか、すごい大役ですね。」
「はは、ちょっと大袈裟すぎたかな?」
「いいえ、全然。おっしゃる通りだと思います。でも、私からすればここは十分美しい街に思えるけれど。」
「………」

私がそう言えば彼は音もなく口角を上げて、それから窓の方をちらと見た。その隙にスプーンでアフォガートの最後の一口を掬ってそのまま口に含ンダ。舌で転がせば一瞬で溶けてなくなってしまう。ほろ苦くて甘いそれはまるで雪のようだと思う。

「…さて、そろそろお暇しようかな。」
「あ、あの、ここは私にご馳走させてください。」
「いや、気にしないでくれ。私に付き合ってくれただろう。」
「でも、コートも濡れてしまったし。」

立ち上がったと同時に伝票を手に取った長谷川さんに声をかければ先ほどのように言われてしまってどうしようかと思案した。お金をこの場で渡すのはスマートではないし、かと言ってここまでされてしまっては申し訳ないし立場が無い。どうしようどうしようとない頭で思案したのち、出た結論がこれだった。

「じゃあ、今度は私がご馳走します。いえ、ご馳走させてください。」

会計を済ませた長谷川さんにそう言えば、彼は少し驚かれたように目を僅かに見開いた。そして次の瞬間にはいつものように柔和に目を細めた。

「ありがとう。いつもなら丁重にお断りしたいところだが、貴方とお話しするのはとても心地が良かった。ぜひまた機会があればお話ししたい。」
「、」
「お名刺をお渡ししてもいいですか?裏に私のプライベートの電話番号が乗っています。お時間空いた時にお電話下さい。とても楽しみにしています。」

そう言って紳士はポケットから名刺を一枚取り出すと私に手渡した。反射的にそれを受け取り名刺を改めれば、そこには彼の言う通り不動産屋さんらしい会社名と彼の名前、そして会社と携帯の電話番号が書かれている。ひっくり返せば裏に手書きでプライベートの電話番号も書かれていた。会長。やっぱり会社の偉い方だったんだと驚いておれば、コートを小脇に抱えブラックモーリーの袋を持ち、いつの間にやら支度を整えた長谷川さんが私を見下ろしていた。

「すみません、この後約束がありましたので、今日はこちらで失礼します。貴女は好きなだけここにいてください。なんなら、もう一杯頂いても構いませんよ。ここのオーナーとはもう40年来の付き合いですから。つけて頂いて結構ですので。」
「いえ、そんな、」
「いや、お気になさらず。今度、ご馳走してくれるんでしょう?」
「え…ええ、」
「ふふ。今度はぜひあなたのお話を聞かせてください。その、素敵なカメラのことも。」
「(…見てたんだ)」

パチンと先ほどのようにウィンクをひとつすると彼は「失礼、」と言って出口へと向かっていった。慌てて頭を下げ、そして彼の背中を目で負った。店を後にした直後、窓から再度彼がこちらに手を振られたので反射的に私も手をひらひらさせれば、彼はそのままタクシーを拾ってあっという間に道の奥へと消えていった。


2019.2.10.
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -