サザンクロスまであと少し

「止みそうにないですね。」
「…ええ、」
「暫く待っているのですが、止む気配がないのです。どうせ待つなら、どうでしょう。」
「?」
「良かったら、直ぐそこに行きつけの喫茶店がある。」

ご一緒にどうですか。隣に佇んでいた男性はそう声をかけると人の良さそうにその瞳を細めた。あ、と声を漏らして、それからどう返事をしようか一瞬迷った。もう一度店の庇の向こう側に広がる淀んだ空を見てみる。しとしとと一定のリズムを保って振り続ける二月の冷たい雨だ。すでに足先や私の指先をじわじわと冷やして感覚を失わせていくには十分だった。予報では夕方頃に雪が降ると言っていたので、お昼頃なら大丈夫だろうと、そう思って外に出たのが最後、店から出る頃にはこの通りだった。

視線を再び横に向ければ、背の高い紳士が大きな袋を持ったまま、私と同じくぼうっと空を眺めている。しっとりとしたその目にはやはりどこか、エンゼルフィッシュのような優雅さを感じずにはいられない。尾鰭や背鰭の、あのきりっとした角度や透き通った感じは、この紳士の纏った雰囲気にどこかとても似ている。時折そこはかとなく感じる、黒くて冷たくて寂しい視線もどこか、似ている。

「…あの、」
「ん?」
「コーヒー、あまり得意ではないのですが、それでも宜しければ。」

たっぷり時間をかけてから私がそう切り出せば、隣の紳士は少しだけ目を見開いて、それからゆっくりと口角を上げた。











紳士を見かけるようになったのは、師走もあと数日で終わると言う頃だった。寒空の下、年末の準備に追われて足早に通り過ぎていく人の群れを掻き分けていく。人の波を掻き分けて、商店街を歩き続けてたどり着いたのはこの一軒の金魚屋さんだった(正確には熱帯魚屋さんだろうか)。

急遽、金魚を飼うことになった。
或いは、『飼うことになってしまった』と言った方が正しいかもしれない。

善は急げと慌てて水槽や必要なものの準備をしなければならなかった。当時の私にとっては年末の大掃除よりも、録画したバラエティー番組を見ることよりも、おせちの準備をすることよりも、何よりも大事で優先すべきことだった。

金魚を飼うのは正直初めてだった。昔実家で猫を飼っていたが、いつも外に放し飼いをしていたので帰って来ないことの方が多かった。一応「トラ」と名付けていたが、近所のおばあちゃんには「もち」と呼ばれていたり(お餅に見えたのだろうか)、近くに住んでいた同級生の男の子には「太っちょ」と呼ばれているのを何度か目撃した。

なので名前もあまり意味を持っていなかった(実際、帰ってくる度にどこかから餌を食べてくるのか、どんどん肥えてしまって「太っちょ」になっていた)。近所からも愛されていたそんな太っちょも、私が中学に上がる前にひっそりと姿をくらまし、そのまま帰ってくることはなかった。

とにかく、まともに生き物の世話などしたこともなかった(小学校中学校では生き物係になった事もなかった。課題のミニトマトや朝顔は夏休みの最後によく枯らしていた)。こうしてこの年になって生き物を飼うことになるとは、数週間前の私でさえも予想できなかった。ましてや、こうして甲斐甲斐しく慣れない買い物までしてきちんと面倒を見ようというのだから、きっと両親が聞いたら驚くだろう。別段、私が飼いたくて飼ったわけでもないのだけれど。

たまたま、会社の同僚が今の恋人と暮らすといって引っ越す事になったので、飼っていた熱帯魚の置き場に困っていると相談してきたのだ。正直面倒臭くも感じていたが、猫や犬と違い、魚であれば手を焼かないだろうし、自分の殺風景でパッとしない1Kに水槽があるだけで雰囲気が変わるのではいか、とか、写真の撮りがいのある被写体があるのは良いことなんじゃないかなど、本当にその場の気まぐれで引き受けることにしたのだ。今ではちょっと後悔しているけれど。

「あの、金魚を飼うことになって。水槽とか、色々全部、最初から揃えたいんですけど、詳しくないので教えてもらえますか?」
「ええ。なんて言う名前の子ですか?」
「え、名前?…すみません、決めてなかったです。」
「あ、すみません、魚の種類です。種類。すみません、言い方分かり難かったっすね。」
「いいえ、ごめんなさい。私本当に詳しくなくて、たまたま貰った魚たちなんですよ。一応、どういう感じの魚かはこの目で見たんですが…」
「そうですか。うちの水槽の中で似たような子いますかね?」

長髪を一つに結ったお兄さんは私に壁にずらりと並んだ水槽を指差しながらそう言うと頬をかいた。見てくれは今時の若者風だが、このお店で働いていると言うことは彼もまた熱帯魚が好きなのだろう。ネームプレートを見れば、手書きの文字で「夏太郎」と書かれている。ネームプレートの殴り書きの文字や、「なんて言う名前の子ですか」と言う言葉の節々にも、熱帯魚に対する彼の姿勢が垣間みえる。胸がほっと温かくなる一方で、それと同時に無知な自分を恥じた。「すみません、探してみます。」と申し訳なさそうにそう言えば、青年は「全然、わかったら声かけてもらえますか?」と言って、他のお客さんに呼ばれてレジの方へと消えていった。
私が首から下げていた、NIKONのD850をちらと見て。

壁一面に埋め込まれた水槽を目の前にして、私はしばらく立ち竦んでしまった。まるで荒野に一人取り残されたような面持ちですっと振り向いて、再び無数の水槽を見つめる。小雨でやや濡れてしまったブーツの足先をぼんやり眺めて、それからまた視線を目の前の水槽に戻す。水草の緑と魚たちの美しい尾鰭や背鰭のゆらゆらとしたのを見ていると、まるで別世界にいるかのような感覚を覚えた。

いくつもの水槽の中で生きる彼らのコミュニティは、いくつかの絶対的な約束によってその美しさを保っているように思われた。彼らのこの揺かごは人間の手によって整えられ、約束された温度や酸素濃度の中で生きている。時には人間の、神経をすり減らすほどの努力によって、最適な環境が提供されている。

美しく生きる彼らは人間の手によっていとも簡単にその世界を破壊されたり、生かされたりもする。人間の介入に気がつくものもいれば、最初から最後まで気づかずに死んでいくものもいるかもしれない。それはどう言う気分なのだろうか。水槽の中で生きるのと、大海の中で生きるのと、どっちが幸せなのだろうか。

昔、ピクサーの映画で人間に捕まってしまった熱帯魚たちが、海に戻ろうと奮闘する映画を見たことがあった。果たして魚たちは本当に皆それを望んでいるのだろうか。海が絶対的にいいとは限らないんじゃ無いか。海の中だっていい時もあれば悪い時もある。それは水槽の中でも同じだろうか。人間のように同じ仲間同士でも喧嘩をし、いがみ合う時もあれば、時には譲り合い慈しむ合うこともあるのだろうか。魚も私たちと同じように不機嫌な日や、ご機嫌な日があるのだろうか。昔読んだ本でどっかの偉人が言っていた一節が浮かんで来た。

『人は海のようなものである。あるときは穏やかで友好的。あるときはしけて、悪意に満ちている。ここで知っておかなければならないのは、人間もほとんどが水で構成されているということだ。』

人間は60パーセント、魚は75パーセントの水分で出来ている。それはある意味自分自身が海だということだという。いったい何処の、なんていう本だったっけ。と、そこまで考えて、それからふと、私たち人間もまた似たようなものではないか、と思えてきて一人珍しく無い頭を使って疲れてしまった。まだ許可を得ていないので自前のカメラで撮ることは許されないけれど、何となく両の手の親指と人差し指でフレームを作って、心の中でシャッターを切った。緩やかに動き続ける魚たちが、四角い枠の中に治って静止する。その姿を想像して、それから何となく気恥ずかしくなってポケットの中に手を突っ込んだ。

「すみません、水槽を新しく増やしてね。結構大きいので数日置いたままそれきりなんだが、整えてくれそうないい子はいないかな?」
「あ、店長に聞いてみますね。」

声がしてふと隣を見やれば、目がさめるほど美しい紳士が私の真横で水槽を眺めていた。いつの間にいらしたのか分からないが、彼は私のことなど気にとめる事は無く、ただしっかりと魚たちを見つめて何かを思案している様子だった。先ほど耳に入ってきた店員との会話でいつも通っている常連であることと、熱帯魚を飼うことには幾分慣れている事が伺えた。

上質そうなカシミヤのロングコートの下には黒の詰襟のセーターが見え、下はスラックスを履きこなしている。十分に磨かれた革靴はさほど新しくは無いようだが、使い込んでいるらしくいい色合いを出していた。雨に濡れた様子もなく、飄々として余裕があり、道ですれ違ったら多分ふと反射的に振り向いてしまうだろう。

彼が思案して顎や口髭を触ったり撫でたりする度に、チラと見える銀色の時計は一体どれほどの価値があるのだろうか。銀色の尾鰭に負けぬほどの輝きに少しだけ息をするのも忘れそうになった。店員が戻ってくるとその後ろには店長さんらしき年配の男性が付いてきていて、紳士は年配の男性の誘導によって右端の水槽に案内された。

先日スマホで検索して知ったのだが、プロのアクアリストになると色々魚の種類によって役割があり、それらを目的によって使い分けるそうだ。きっとあの紳士もそのようにして魚を飼っているのだろう。ヘチマやミニトマトを枯らす私とはえらい違いだと感心しながらも、ようやく自分がもらう予定の金魚、もとい熱帯魚を見つけたのでほっとした。

「見つかりました?」
「あ、はい。この黒い子をもらう予定なんです。3ひき。」
「ブラックエンゼルか。初心者にしてはちょっとハードル高いっすね。」
「え、そうなんですか…?」
「あ、でも順序を踏めば大丈夫ですよ。ちなみに、いつ頃迎えますか?」
「来年の春くらいです。友人が引っ越すタイミングでもらう予定で。」
「じゃあ全然間に合いますね、よかった。まずは面倒だけど、お迎えする水槽を整えなきゃなんですよ。その友人の方から水槽はもらいますか?」
「できれば最初っから自分でやりたくて。やったことないけど、今後飼うなら覚えなきゃと思ったので。」
「確かにその方が良いでしょうね。水のお裾分けしてもらうのも一つの手ですけど、時間があるし。とりあえず、必要な器具は今日揃えてもらって、水草や整えてくれる魚は後でにしましょう。うちが出してる初心者向けのパンフレットあるんで、それ見てもらって、まずは家で組み立てる練習をしてみてください。」

はい、と返事を返しつつ一連の流れを頭で追いながら、やることが多いのだなと頭の裏で少し面食らっていた。お兄さんに促されて壁の水槽を後にしようとした刹那、右端の方を見やれば先ほどの紳士が店長とにこやかに談笑しているのが視界の端に見えた。私と目が合うと少しだけ会釈をしてくださったので、私も反射的に会釈を返せば彼はにこりと口角をあげた。なんだか気恥ずかしくて緩む口元をマフラーで抑えながら、未だ説明をしてくれるお兄さんの言葉を右から左に聞き流していた。









チチチチチと鳴る自転車の音が新年の商店街に響く。薄橙と紅色を混ぜたような夕方の空気は澄んでいて、息を吸い込めば肺がその冷たさにキュッとなる。雲一つない空はまるで海のようだ。乾燥ですっかりかさかさになった唇にマフラーの繊維が引っ掛かってもどかしい。正月くらい帰ってきたらどうだ、という両親の連絡で年越しと年明けは実家の埼玉で過ごした。3が日が過ぎたらすぐに帰ってきてしまったが。地元の友達と会い飲んでいたら、あっという間に私の年明けは終わった。東京に戻ってくると人がいないせいか空気が澄んでいて、頭上を見上げれば高層ビルの間に数匹の烏がかあかあ鳴きながらくるくる旋回していた。

朝から年末にサボっていた大掃除を済ませ、買ってきた水槽とポンプ等を組み立てて居たらもう空は暗くなり始めていた。お店のお兄さん(夏太郎さん)の話では、入れる前から水を入れて置いておく必要があるらしい。それを彼らは「立ち上げ」と呼んでいた。立ち上げると言うと、まるで会社か何かを起こすようにも感じる。新しい年を迎えるにあたって、それはどこか景気が良いというか、とても相応しいというか、神聖な気持ちになった。

お兄さんに言われて必要なフィルター(ろ過装置)などは揃えてあるが、一番重要なのは機械で揃えられる物ではないらしかった。ひとまず失敗しても良いからプレで水を張ってみたのだが、透明な水を見つめただけでは素人の私には一体何が正解で間違いなのかさえ、全くもって解らなかった。

「明けましておめでとう。」
「おめでとう。白石さん、太った?」
「なまえちゃん、俺だって傷つくんだよ?」
「白石はずーっと炬燵に入って寝て食ってばっかだったんだ、正月太りだろ。」

あははと杉元くんが笑えば白石くんは眉間にしわを寄せて、ふっくら気味な頬っぺたをさらに膨らませた。笑っていた杉元くんが痺れを切らした明日子ちゃんに引っ張られて行ったので、私たちもそれについていく。三が日を過ぎているのだが、都内の神社でさえも人の足が絶えないらしい。社に向かうにつれて人が増えているようだった。同じ大学だった彼らとは今でも腐れ縁なのか近所だからなのか、何かとイベントごとには誰とも言わず連絡を取ってはいた。

皆もうやっていることは違うけど、あまり仕事の話はしない。大学時代のあの頃のように美味しいものを食べて、好きな漫画や映画、最近読んだ本の話をしたり、ご飯を食べたりする仲だ。それが今の私たちにとってこれほど心地の良い関係はなかった。社会人になって唯一、すり減っていく神経や衰えていく心の弾力を取り戻して人間に戻してくれる、そういった東京の家族のような、ほっこりとした関係だ。

「なまえの今年のお願い事はなんだ?」
「んー、そうだな、無病息災、家内安全…千客万来??」
「む?難しいな。」

明日子ちゃんが首をひねるその横で杉元くんははあ…とため息を吐くと、私をジト目で見ながら口を開いた。

「最後のあんま関係なくない?それより、今年こそ『写真集出す』、じゃないの?」
「写真は趣味だから…」
「でも、去年は賞だって取ったんだし、絶対できるよ。」
「私もそう思う。なまえの写真はどれも綺麗だ。」
「ね。明日子さんもそう思うよね!」
「賞って言ったって、街の写真コンクールじゃない。」
「でも、この辺の写真展覧会は都内でも有数のコンクールだって聞くよ。」
「うーん…。で、明日子ちゃんの目標は?明日子ちゃんの去年のお願い事は『蛇を克服する』、だったよね。」
「うん。でも去年は蛇がなかなか居なくて、克服できなかったんだ…。だから今年も蛇を克服する事、家庭科の授業の成績が5になるようにお願いする。」

そう言って彼女はふんと得意げな笑顔を見せた。本当にかわいいなあと思う。私が慌てて話題をそらすのを杉元くんは少し不服そうにしながらも、話の流れを折ることはなかった。念のために白石さんの目標を聞いてみたら、宝くじが当たるようにだった。確か去年も同じだったと思う。

「杉元くんは?」
「そうだなあ、梅ちゃんの体が良くなりますように、かな」
「また具合悪いの?」
「うーん、目が治ったかと思ったら今度は風邪こじらせててさ。寅次がついてるから良いけど…。」

相変わらず体弱いんだよ。心配そうにそう口を尖らせて帽子をかぶり直すと杉元くんは社の方に視線を送った。そっか。そう言ってそれに倣って私も視線を前に向ける。普段着で来てしまったが、良く見ると晴れ着を着ている人々もいてとても華やかだ。それらを眺めていると、あの熱帯魚屋さんの壁一面の水槽を思い出す。

屋台の良い香りが香ってくる度に皆一様に終わったら何か食べようね、と幾度となく言い合った。ようやく社が目前に迫ってきた頃にはもうすっかり辺りは真っ暗になっていた。神社の雪洞と燃え上がる松明のおかげでとても神秘的な雰囲気を醸し出している。参道の右手には裏山があり、このまま人の群れから逸れて裏山に向かって歩いていけば、異世界にでも迷い込んでしまえるかのような気がした。

この裏山の入り口には小さな石の鳥居があって、現実と異世界、つまり神様の世界の線引きを担っている。春になると狸などの生き物が現れる自然豊かな獣の山だが、今はひっそり春が来るのを待っているようだ(もし本当に異世界があるのなら、ぜひ写真に収めてみたいものだと思う。暖かい季節にはよくこの辺の小動物たちを私もよく撮りに来たりしていた)。

商店街の真ん中に位置するこの神社は歴史が古く、商店街は元は参道の一部だったそうだ。古い神社なので裏山を挟んだ反対側には昔はお寺がくっついていて、その名残でこの地域のお墓がある。お寺は明治の神仏分離命令で寺の方が取り壊されてしまい、代わりに明治時代にキリスト教会が建てられていた。

普段は無人だが日曜日になるとたまに鐘が鳴ったり、結婚式をしたり、クリスマスには人が集まったりしているので、きちんと運営はされているらしかった。ぼんやりしながら視線を屋台のある方に向けて一通り眺める。やはりこの季節だからか、流石に金魚屋さんは見当たらなかった。

「金魚飼い始めたんだって?」
「え、ああ。そうそう。でもまだお迎えする準備してるところなの。」
「ふーん。金魚鉢で育てるんじゃないんだね?」
「金魚鉢で育てられる感じのお魚じゃないんだ。なんか結構本格的な熱帯魚なんだよ。」
「熱帯魚難しいって聞くけど、大丈夫なの?」
「多分…。くれる人も色々教えてくれたし、商店街にある熱帯魚屋さんで、親切なお店を見つけたし。なんとかやってみようと思う。良い写真、撮れるかもしれないしね。」

私がそう言って見上げれば杉元くんは口角をにっと上げてそっか、と呟いた。

「じゃあ、なまえちゃんが熱帯魚をちゃんと育てられるように、お願いしとくよ。」
「ありがとう。私も梅ちゃんの体が良くなるように祈るね。」

そう言って笑えば杉元くんも嬉しそうに目を細めた。前を歩く白石さんと明日子ちゃんが何やらわあきゃあ騒ぎ始めたので急いで前へと進んでいく。お財布の中から小銭を集めて握りしめた。白石さんはポッケの中に手をつっこんでジャラジャラさせながら小銭を取り出し、明日子ちゃんは杉元くんから小銭をもらって嬉しそうにはにかんでいた。十分にご縁がありますようにということで、このメンバーでは毎年15円と相場は決まっている。

これが終われば神社が無料で配っている甘酒を飲んで、それから屋台でじゃがバターや鶏皮を食べて、帰りに焼きそばを買っていけばお家で皆でのんびりできる。もう目の前の二、三人くらいで順番が回ってくるというところで、ふと、前にいる集団に目を凝らした。夜のせいかとても見え辛かったが、暗闇の中でも何となくわかるようなその出立ちに少し見覚えがあった。

「あ」

声を小さく漏らせばまるでそれがこの人混みの中でも聞こえたかのようにふと視線がこちらに向いた気がして、心臓がぎゅっと締め付けられるような気がした。ガヤガヤと有象無象が蠢く人の波の中で、それは一種の奇跡であった。目があったと同時に薄く綺麗な口角がわずかに上がった気がして、思わず再び息を吐いた。そしてそれと同時に彼とはいつどこで会ったのだろうかと思い起こそうとした。頭の裏で懸命に思い起こそうとしたが、不思議となかなか思い出せない。一生懸命思い出そうとすると、まるで記憶の底から靄がかかって不思議と思い出せないのだ。

代わりに頭の裏で浮かんだのは、いつかの同僚との会話だった。それはついひと月ほど前のことであった。金魚を貰ってほしいと言われて、一先ず彼女の家に熱帯魚を見に行った時のことだ。彼女のお家はややメルヘンチックな1DKのアパートだった。少しだけ掃除がなされて片付いた薄暗がりの部屋の中にその透明な箱はあった。そこだけまるで日が差しているかのように木漏れ日のような柔らかな光が浮かび上がり、水槽を照らしていた。水槽の中で静かにじっと、時折ひらりと舞うように揺らめいて、光へと向かって泳いでいくそれらはまるで祈っているようにも感じた。

じっと見つめるとまるでこちらを見ているかのように感じたし、はにかんだようにするりと尾鰭を揺らしてみせてくれた。『女王様』と讃えられるほどに気高く、そして人々を魅了するその形はまるで暗闇の中で静かに輝く南十字星のようだ。シャッターを切れば美しい姿はたちまち絵画のように見えた。

「綺麗、」

その時の自分の心境は決して誇張でも大袈裟でも無かった。口にするのも憚られるような、それほどまでに綺麗で、そして儚いそれはまるで視線の先の彼の人のようだと思う。





「誰かいたの?」
「…え」
「さっき、あ、て言ってたから」

ううん。とっさにそう言えば彼はそうと別段気にも留めずにお賽銭を投げた。そうこう色々思案しているうちに自分たちの番になってしまっていたようだ。慌てて握りしめていた15円を投げ入れて、お正月特番でやっていた神社の正しい参拝方法というものに乗っ取ってお願いをした。

「行こうか、」

杉元くんはそう言って私と明日子ちゃんの腕を引いて参道から逸れた。すでに屋台の方に走ってしまった白石さんを慌てて追いかけつつ、一瞬振り向いてみたが、もうそこにはあの人の姿はなかった。


2019.2.9.(加筆修正2019.10.21)
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