夢と現と

「君と初めて会った日もこうしとしとと雨の降る日だったね。」
「私、雨女かもしれません。」
「いや、私が雨男なのかもしれないよ。…こっちへ。風邪を引いてしまう。」

さあ。そう言って彼はすっと手を差し伸べた。

「…君の手は、相変わらず赤ん坊のように暖かいね。」

きっと、この手を握り返してしまえば、私は本当に後戻りが出来なくなる。









しとしとと再び降り始めた雨は私の前髪と頸を滑るように濡らした。毛先から落ちるそれをふわふわと毛足の長いいい匂いのタオルで拭き終わると、鶴見さんは何か温かいものを作ろうとキッチンへと行ってしまった。窓の外からは今は真っ暗で、暗闇に反射してリビングのソファに腰掛ける自分とキッチンに立つ彼の姿がよく見えた。

窓はやや開けられているのか雨の匂いがする。月島さんはもう居ないのかこの家は驚くほどにひっそりとしていて、私と彼以外には何も気配を感じなかった。まるで音がない。外から聞こえてくる雨音だけが、かろうじて私がまだこの世にいるのだと教えてくれているようだった。

「ミルクティーを飲むといい。とても温まるよ。」
「ありがとうございます。あの、」
「何だい?」
「……いいえ、何でもありません」
「…ふふ、そうか」

鶴見さんはミルクティーを私に手渡し、ソファの上に置かれたブランケットを肩にかけてくださった。そして寒くないようにと少しだけ暖房をつけると暖房器具を私の足元に置いてくださった。彼は私とは向かい側のソファに腰をかけて紅茶を飲まれているようだった。最近ようやく上着を手放せるような時期になったかと思っていたが、雨が降るとやはり肌寒い。ましてや雨に打たれれば体温が徒に奪われる。鶴見さんは雨に濡れてしまった私に最大限の配慮を示してくださった。彼はそうだ、と思い出したかのように腰を上げると、再びキッチンへと戻っていった。そして間も無く何かを手にして持ってくると、テーブルの上に置いてそれを私に差し出した。

「先日は本当に申し訳なかったね。急用とはいえ、居なくなってしまって。実はその後、少々海外にいっていてね。お土産です。」
「いいんですか?」
「ええ。」

彼はそう言うと萎縮する私に気を遣ってかその封を解いてくださった。中には色鮮やかな宝石のような柄の包みに入ったチョコレートが詰まっていた。甘党の彼らしいなと思う。彼はそれを一つ手に取ると器用に包みを開けて口に含んだ。美味しい、という一言を言うと私を見てにこりと笑った。私はそれに答えるように口角を上げると、ミルクティーを一口飲んで再び沈黙してしまった。

「元気だったかい?」
「ええ。おかげさまで。鶴見さんもお元気そうで良かったです。」

あれだけ口にするのが躊躇われていた言葉であるのに、するりとごく自然に発することができたことに一種の感動を覚えたが、別段鶴見さん本人はもうあっけらかんとしていて、気にすることもなかった。本当に何事もなかったかのようにニコニコと微笑まれているだけで、それがかえって不思議と切なく思えた。きっと先に来ていたであろう月島さんからも聞いていたのだろうか。

「家が近いのに、忙しいとなかなか会えないね。…あの日途中で帰ってしまって申し訳なかった。」
「いいえ…お仕事ですものね。」
「ああ。」
「あの…」
「ん」
「そのお仕事は、不動産屋さんのお仕事ですか、それとも、その…」
「…君はどっちであってほしいと思っているんだ。」
「………」
「………」
「ごめんなさい。本当はどっちだっていいんです、こんなこと。そんなことより、貴方と一緒に観覧車に乗れなかったことの方が問題なんです。」
「ふふ、そんなにあの観覧車が好きだったか?」
「いいえ。むしろ高いところは苦手です。でも、鶴見さんとならきっととても満たされた気持ちで乗れるんだろうと思っていたんです。」

私がそう言えば彼は綺麗な姿勢で組んでいた足を組み替えた。そしてふん、と息を吐くと肘掛に肘を乗せてまるで絵画のように顎に手を添えて私を見た。押しかけてきて言いたいこともまとまらず、それでも発言をやめない私をきっと彼は滑稽に思っていることだろう。それでも彼はじっと黙ったまま、私を見つめて私の言葉を待っていた。

「…今朝、パイロットフィッシュが死にました。」
「アカヒレか?」
「いいえ、ブラックモーリーです。」
「そうか…残念だったね。」
「はい。すごく辛かったです。ベッドから起き上がったとき、水面に黒い小さな体がお腹を向けて浮かんでいるのを発見しました。もう、どうにもならないだと悟って、しばらく、動けなかったです。今日は初めて会社を遅刻しました。悲しかったのは悲しかったけど、それだけじゃないんです。」
「………」
「水面に浮かぶ黒い亡骸を見ながら、鶴見さんの事をずっと、考えていました。」
「………」
「鶴見さん、私、やっと撮りたい物が分かったんです。今日はそれを言いに夜分に失礼とは分かっていながらもお伺いしました。」
「それは良かった。」
「でも、そう簡単には撮らせてもらえないようなんです。」
「何か難しい事情でもあるのか?」
「ええ、きっとそなんだと思います。それにたどり着く前に、色々整理しなければいけないんです。事を急いだり、乱暴にしてはいけないんです。何にもない透明の箱に、草や木を入れて世界を作ってあげるように、とても丁寧に、丁寧にしなければならないんです。」
「…そうか」
「今まで色々なところに連れてってもらったのに、私、鶴見さんの事をよく知らないなって思って。鶴見さん、お話を聞くのがとても上手だから、私、必死になって聞いてもらおうと思ってお話していました。でも本当はね、私ずっと鶴見さんのお話を聞きたかったんです。鶴見さんの事、聞いてもいいですか?」
「………」
「…ダメですか?」
「いいや。構わないよ。そのために来てくれたんだよね。雨の中、こんな苦しい思いまでして。」

彼はぼんやりとした視線で私の膝の上を見た。そこにはカバーに入ったままの一眼レフが乗っている。あの教会を撮った、一眼レフだ。

「でも決して楽しい話じゃないかもしれない。君にとってはとても辛い話になってしまうかもしれないよ。」
「構いません。受け止められるだなんて、最初から思っていませんから…。ごめんなさい…」
「いいや。いいんだ。」
「…」
「今一度思い出したよ。なぜ私は君をとても…気に入っているのかって。」

鶴見さんはそう言って手を伸ばすと、するりとその冷たくて滑らかな手で私の頬を撫でた。











「あの子は本当に素晴らしい写真を撮るね。君はあの賞を受賞した写真を見たかい?」
「ええ、まあ…」

目の前の顔に大きな傷を作った青年は気まずそうにそう言ってパンケーキを一口含んだ。彼女の居なくなったテーブルは実に殺伐とした雰囲気を醸し出していた。それも無理はないだろう。お互いにお互いを信用していないのだから仕方がないだろう。にこりと笑えば笑うほど、彼は不信感を募らせて眉を顰めた。

「まあ、そう構えないでくれ。取って食べたりしないよ。」
「………」
「少なくとも彼女が悲しむことはしない」
「あんた、なまえちゃんをどうする気だ」
「どうもしないさ。私はただ単に彼女のファンなんだ。本当だよ。彼女をどうこうしようだなんて、今の自分では烏滸がましいことだと思っている。」
「…少なくとも、あの子はアンタを気に入っている」
「ヤキモチかい?」
「あんまり余計なこと言ったら俺はあの子の前でも普通にアンタを殴るからな」
「ははは、結構結構。若いっていいね。」

ふん、と口を尖らせると青年は乱暴に目の前のパンケーキを引きちぎると大きな口を開けて咀嚼した。いつもの癖で「あまり慌てるとまた頬に着いてしまうぞ、ああ、また彼女に拭ってもらえるから構わないか」と言う皮肉を言ってしまいそうになったが、それを今言ってしまえばきっと彼はこのお店のテーブルをひっくり返してしまう可能性も否めない。こほんと咳払いを一つするとカップを口につけた。

「あの子の写真を見たならきっと知っているはずだね。」
「なんすか」
「あの教会の隣にある木造の建物を知っているかい?」
「…は?」

問いかければぎらりとした目つきをした青年は眉間に皺を寄せた。元よりいい顔立ちをしているというにのに、この顔では台無しだと思い口角を上げたが逆効果だったようだ。彼は今度は落ち着いた様子でフォークでケーキをさして不服そうに口の中に放り込んでは視線をこちらに向けた。クリームが口の端に付いている。先ほど隣に座っていたあの子がまるでお母さんのように「杉元くん、付いてるよ」と笑ってティッシュで拭っていた光景がフラッシュバックした。まるで、『長谷川さんはそんな子供っぽいことしないんだから』と言われているようにも感じた。年相応の男女のこの一幕は他人であれば恋仲であるのだろうと思うに十分だったろう。あの子は確かにこのような若々しくて真っ直ぐで、感情をストレートに表現できて、可愛げのある青年の方が似合っていた。

「その木造の建物はその昔、家だったんだよ。その教会の神父さんのための家だったんだが、もう使わないというので私が住んでいた頃があるんだ。」
「なんの話すか。」
「まあ、聞いてくれ。じきにわかる。」

私がそう言って珈琲を口にすれば彼もまた同じようにそうした。

「私は昔陰気な息子でね。家業を継がせるために父親はなんだってやらせたが、当の本人は一向に組をつぐ様子がないのでもう諦めていだんだよ。病をして床に臥せっている父親を心配したが、父親は俺に随分愛想をつかせていたので一言も口をきかなかった。」
「………」
「知らない間に従兄弟か又従兄弟か知らんが、組を継ぐに相応わしい青年が家に出入りするようになっていた。君のような若くて顔と体格のいい男だったよ。もう、数年前に刺し殺されたけれどね。新宿のキャバクラで。彼は私が戻ってきたくらいに組から抜けていてしまった。色々いざこざがあったみたいで、勝手に暖簾分けして新宿の方に行ってしまったよ。闇金業をその頃からしていたらしいから、きっと相当色々な人間に恨まれていたんだろうよ。」
「なんだそれ、」
「話が前後してすまなかった。私はそれでも良かったんだ。人に指図されたりすることが苦手だったんだよ。不思議と、人を使うことやその人の才を見出して使ってあげることには長けているんだけどね。」
「なるほど、それで今は立派なヤクザの親玉ってわけか。」
「図らずも、だけどね。まあ、きっとそういう業なんだろう。本は読む方かね?」
「…漫画は読むけど(少女漫画)」
「そうか、ならお勧めしたい作家がいる。岡本かの子だ。彼女の家霊という作品に親子三代で同じような運命を辿る女性が出てくるが、まさにそれだ。『家霊』だよ。結局私はこの宿命に逃げおうせることはできなかった。とはいえ、なにはともあれ、昔の私はそうじゃなかった。人に指図を受けるのが苦手だったから、別の人生を歩みたかったんだ。」

ぐるりとはちみつを残りのパンケーキに塗りたくる。ひたひたになったそれは蜂蜜を吸ってその質量を増していた。丁寧にナイフとフォークで切り取って、それを口に運べば案の定じゅわあと蜂蜜が口内に侵入して、そして喉を降っていった。

「妻と娘が居たんだ。生きていれば、君達とそう変わらん年齢だったろう。」
「………」
「サラリーマンをしていた時代もあったが、脱サラして一時的に旅をしていた。語学留学をしようと思ってね。昔は今のようなワーホリもないから、気ままな旅だったよ。趣味で写真をしていたんだが、それが良かった。滞在先の国で出逢ったのが妻だった。国際結婚だね。」
「どこの国の人だったんだ。」
「ロシアだよ。杉元君は行ったことがあるかい?」

私がそう問いかければ目の前の青年は首を横に振った。

「自分でも正直驚きだったよ。でもロシアの女性は純朴で堅実でね。ぜひ縁があれば行ってみてほしい。彼女は貧しい農村の娘でね。貧しいが聡明で、本をよく読んだ。日本人のことなど第二次世界大戦の時の野蛮なイメージしか持って居ない人々が多かった当時の僻地の農村のロシアでは珍しい女性だったよ。暫くその村の外れの小屋で世話になったが、よく寄り付いてくれたのは彼女だった。」
「………」
「短い間ではあったが彼女とのロシアでの日々は大変に美しく、そして幸せだった。私が日本に帰ると伝えれば彼女は自分からついていくと言ってくれてね。こんな所に居てもどうにもならないと悟っていたんだろう。もちろん答えは決まっていた。」
「………」
「帰国してからも貧しくはあったよ。双方後ろ盾は恵まれてはいなかったが、子供には恵まれた。私に身に余るような幸せをくれたのは、妻と子だったよ。」
「そのことをあの子は知っているのか…」
「詳しくは、知らないだろうね。」
「あんた、」
「そんなことを言ったら、きっと彼女は自分を責めてしまうだろうからね。」
「責める?」

眉を顰めて彼はそう言うと私をじっと見えたまま言葉を待っていた。一つでも言葉を誤れば噛み付いてしまうようなそんな目だ。こんな仕事をしているとこう言った類の目をした男には数え切れないほど遭遇する。彼は今、消防士だとそう自己紹介をしていたが、きっと一歩間違えれば自分のような人間になっていたかもしれない危うさを感じる。いや、きっと彼もそう感じているに違いない。そして自分と似たような危さを私が持っていることにも気づいている。

いつだって落とし穴と言うのは自分の窺い知れないところに沢山あって、人は何度もその淵を行ったり来たりする。そう言った人間をごまんと見てきたし、手篭めにするためになら甘言や諫言を吐いてでも自分の方に身を寄せるように注力した。彼はきっとその淵目にするたびに自分の意思で避けてきた人間だ。その一点の曇りのない光のある瞳が物語っている。

「教会の話に戻そう。教会の隣にある半壊した家屋をご存知だね。」
「ああ。あのお化け屋敷みたいな家だろう。なまえちゃんはあそこで写真を撮ったって。」
「あそこは、元々写真館だったんだ。昔はよく教会で結婚式をよくやっていたから、写真が儲かったんだ。今は面影が跡形もないけれど、結構流行っていたんだよ。…火事が起きて妻と娘が亡くなる、その日まで。」
「…アンタ、戻ったのか。なんで…」
「さあ、なんでだろうなあ。今まで苦労と期待を裏切ってきた父の最後に自分の娘を見せたくなった、とでも言おうか。ある意味それは父にとっての幸せであり、それと同時に呪いであったと思う。すぐ傍にいるのに自分とは違う人生を歩む私を見せつけたかったのかもしれない。でも、それが仇となってしまった。」
「………」
「私が思っている以上に、私が戻ってくることを快く思っていない者が居たんだ。私はきっぱりと嗣気はないと、言ったんだけどね。きっと私を殺そうとしたんだろうが、アテが外れたようだね。その時たまたま私は教会にいて、助かったのは私だけだった。雨がしとしとと降っている夜だったのに、不思議と火の手が治らないんだ。ただ呆然としたまま、暫く眺めることしかできなかったよ。ぞっとするほど冷たい雨だった事を覚えている。」
「………」
「ハッとして動いたときにはもう黒煙で室内がいっぱいなんだ。誰かが消防車を呼んでくれたらしく、途中からわらわらと消化活動がなされた。…二人は寝室にいたよ。眠っていたんだ。そしてそのまま娘も妻も二度と目を開けることはなかった。医者は一酸化中毒だと言っていたけれど、そもそもそれ以前とそれ以降の記憶が曖昧でね。一体自分はどうやって病院に行きどうやって帰ってきたのか、いまだに思い出せないんだ。火元は1階の写真室だった。煙草の不始末で火災が起きたらしいが、私は煙草を吸わない。写真をやっている者であるならば皆知っているはずだ。昔のフィルムがどれほど燃えやすいものかをね。」
「…犯人は捕まらなかったんだな。」
「警察というのはヤクザが絡むと途端に慎重になるんだ。こちら側に味方をする人間も少なくはない。知らない人は、本当に泣き寝入りをするしかないんだよ。」
「…組の人間がアンタを殺そうとした上、家族も殺されたってのに何でわざわざ自分が入ろうと思ったんだ。復讐のつもりか?」
「復讐なんぞつまらん。犯人を殺せばそれで終わってしまうだろう。だが、確かに妻と子を殺されたときに思ったんだ。『全て一から変える必要がある』と、そう思った。誰かを幸せにしてやろうなんぞという生温い感情なんかではどうにもならん。そんな心持ちではすぐ悪意を持った他者に踏み潰されるのだと辛くも知ることができた。…皮肉にもこの出来事が私をむしろこっちの世界に引き入れたと言ってもいいだろう。もう誰が私を殺そうとしたなんぞ構わなかった。重要なのはそこではないんだ。」

珈琲のお代わりをウェイターが運んできたので彼にも進めたが彼は頭を降って断った。

「あの場所は元々アンタん所の土地だってあの子が言っていた。何で取り壊さずに残したんだ。…あんな場所を。そうでなければあの子は、あんな場所、写真に撮らずに済んだんだ…」
「それが私の贖罪だと思っていたんだ。あの小屋を見るたびに思い出すんだよ。こんなところで立ち止まる時間はないのだと。私はもう一人ではなく大きな流れの中にいて降りることもできなければ、それどころか退路は自分で潰してきたつもりだ。多くの他者と自己を犠牲にしてきた。金で解決できることの方がよほどマシだと思う。俺はもうここまで来たのなら、そのままこの命を他者に犯されるその日まで歩き続けなければなるまい。その実現を私よりも望んでいる者が私の側には沢山いてね。…担がれた神輿に途中突然降りる神などいないだろう?」
「…神様にでもなったつもりだったのか?」
「はは、言葉の綾だよ。私はそんな大層な者ではない。ただ、この街が、私の目に届く周りの者が再び濁らないようにすることで精一杯なんだ。そう思っていたらあっという間にこんな歳になっていたよ。人生って不思議だね。忙しくしていればすぐに忘れた。…近頃あの場所に近づいてはいなかったから、彼女の写真を見たとき、心臓が跳ねたよ。」
「あの写真を推したのはアンタだな」
「私一人の票では受賞はできない。安心したまえ、彼女の才能は本物だ。本物だからこそ、私は彼女の虜になった。だが残念だが彼女はその才能に気づいていない。だから誰かが土俵にあげてあげる必要がある。シンデレラだって、魔法使いの手助けが必要だっただろう?」

パチン、とウィンクをして笑ったが、彼は沈んだ視線を崩さなかった。周りのざわめきのおかげで自分たちは目立ちはしないが、きっと馴染みもしないのだろうと思った。彼も自分もやや似ていると形容したが、それはやはり間違ってはいなかった。そうだ。彼も私も場に溶け込むことはできても馴染む事は出来ない。人に気を許すとの出来ない類の人間は皆そうだ。浮きもしないが、馴染みもしない。その違和感に気が付いて離れる類の人間は沢山いる。その違和感に薄々気づいていながらも受け入れ、慈しみ、尊重する。そう言った彼女のような人間も、稀にいる。

「白石を捕まえるのか。」
「ふふ、心配いらないよ。さっきも言ったが、私は彼女の悲しむような事はしない。それに、君には悪いがもう彼のいる場所くらい最初からわかっていたさ。分かっていて始発で逃してやったんだよ。」
「…いけ好かねえな。」
「いいんだ。彼は君たちが思うように黒ではない。まあ、白かと言われればそうでもないが…。なんならもう戻ってきてもいいくらいに思っているんだがね。まあ、本人は相当怖がっているようだが。」
「お前らが脅かしたんだろう。あいつ意外と繊細なんだぞ。」
「ああ。今回の件に関しては悪かったと思っているよ。我々はこういう種の人間だからね。色々堅気とはやり方が違うんだよ。とはいえ、前回の件があったから、我々も少々疑ぐり深くなったのは致し方がないとも思うんだがね。」
「前回の件?」
「ふふ、それは今回の件とはまた少々事情が異なる。まあ、本人に聞くといい。」

そう言えば彼は苦虫を噛んだように口をへの字にして、どうせ白石ならろくな事じゃねえんだろ。きっと下らない話だと決め付けたように微妙な表情となった。彼は私と違って以外にも表情を出す男なのだと思うと少しホッとした。彼女にはこう言った類の男が本来相応しいのだ。私のような男のそばでは彼女はきっと壊れてしまう。かわいそうだが、きっとそうなのだと思う。優しい女はいつでもそうだ。人一倍幸せになってほしいとこちらが願ってやまないのに、人一倍苦労し傷つき、そして未渦からいばらの道へと進んでいく。その小さく美しい素足を晒したまま往き、ひっそりと私を置き去りにしていくのだ。

「で、なんでそんなことを俺に話したんだよ。聞きたくなかったんだけど。」
「ちょうどいい機会だと思ってね。君にお願いできればと思ったんだ。」
「なんだよ。」
「どうかあの子を離さないでくれ。あの子には君が必要だ。君もあの子のことを愛しているんだろう。君があの子を見る目を見ていればわかる。あの目を私も知っている。もう随分と昔に見たんだ。」
「………」
「ここで頭を下げるのは少々オーバーだからしないが、心情的にはそれさえ厭わぬくらいに思っているよ。どうか、何があってもそばにいてくれ。」
「…鶴見さん、勘違いするのは勝手だが、俺はあんたが思うような“金魚”にはならないぜ。」
「………」
「確かに俺はあの子を愛しているよ。でもそれは女としてじゃないんだ。人としてだ。まあ、ちょっと女の子として好きだった時期がないと言えば嘘になるかもしれない。要は、それくらい魅力のある子だって言いたい。アンタにいちいちクドクド言われなくたってそんな事は分かっている。」
「そうか…」
「そりゃあアンタとあの子がくっつくのは腑が煮え繰り返るくらいムカつくさ。面白くねえ。なんであんな可愛くて泣き虫で、傷つくやすい子がわざわざヤクザなんかとくっつかなきゃならねんだ。あんなにいい子なのに。今まで散々人を傷つけてきたお前らにやりたくなんかねえよ。汚い手で触るのも堪忍ならない。」
「ははは、酷い言われようだな。」
「でも、それを決めるのは俺じゃない。アンタでもない。…他ならないあの子なんだ。あの子の人生だから、誰かがそうしろとか、そうして見なさいとか、そんなんで決められるもんじゃねえんだ。アンタがアンタの意思で生きて来たように、彼女もそうなんだ。…俺だって。」
「…」
「だから俺はアンタの言う通り、金輪際ずっとやめろと言い続けるさ。でも、決めるのはあの子だ。ムカつくし今この瞬間もアンタのその綺麗な顔をいっその事ぶん殴ってやりたいけどな。でもあの子が考えた末に出す答えがアンタなら、俺はもう何も言えない。そんな資格、ないから。」

ブルブルと今にも振りかざすかのように握られた拳は辛うじて彼のその屈強そうな膝の上に止まっていた。若いとは本当に真っ直ぐで美しく、そしてエネルギーに満ちているのだなと本当に驚かされる。そして同時に愉快で心地よく思えた。果たして自分はこのように真っ直ぐな青年時代であっただろうかと自分を省みたくなるほどだった。後悔はしていないが、自分は彼のように生きることもできたのだろうかと思うと、正直自信がなかった。それほど自分は無垢な男でもないと自負している。

「私も君が言うように自分が綺麗だなんて思ったことは一度もない。君をむしろ尊敬しているんだ。目の前で苦しむ人人を助けることを仕事にする君には想像もできないだろう。我々を前にすると人は苦しみ悶え、そして命乞いをする。汚れた手だよ。言い逃れもしないさ。今更もうどうでもいいことなんだ。」
「…」
「彼女が私を愛してくれている事は分かっている。あの目だ。久しく感じたことのないあの眼差しを向けてくれた。一瞬でも私は救われた気がしたよ。あの目が私に向けられている。それだけでもう嬉しくてね。こんな私を『綺麗』だと、あの子は言ってくれた。」
「…、」
「もう随分忘れていた感覚だ。愛とは、素晴らしいものだね。ふふ、滑稽だろう、私が愛を語るなど。まだ、こんなセリフを吐ける。だが嘘じゃない。ほんの一瞬でも幸福を呉れた彼女には幸せになてほしい。私のような“死神”が側にいてはダメなんだ。だけど、遠くからなら、彼女を守ってあげられる。私の視界にいる範囲内なら。…心配しなくても、私は彼女の気持ちには答えられないよ。」
「なんだよそれ、」
「君が止めるのも自由、彼女が私を好くのも自由、そして私は好いた女の気持ちを受け取らぬのもまた自由だ。君の論理を借りるなら、そう言うことだよね。」
「…やっぱり俺はアンタが心底嫌いだ。気に入らねえ。」
「光栄だね。無関心より、大分マシだ。君と話せてよかったよ。ありがとう。…さあ、そろそろ彼女がくる。そんな怖い顔はやめて、素敵な“杉元佐一”くんに戻っておくれ。」
「言われなくてもそうするさ。…だいたい、俺は教会よりも神社派なんでね。」
「ふふ、そうかい。」

そう言いながら彼は獣のような視線を向けたまま、乱暴にお冷のグラスを手に取るとぐいっと飲み干した。

「…最後に一つ、聞きたいことがある。」
「何だい」
「あんたの奥さんとお子さんは今何処にいるんだ」
「…あの写真館の下で眠っているよ。事件が起きてから間も無く彼女の家に訃報を届けたが、返答が帰ってきたのは1月後だった。『骨はそちら(日本)で埋めてやって欲しい』と、たった一言そう返事が帰ってきたよ。」
「………」
「遺体の輸送代と埋葬代が惜しかったのだろうね。言われなくとも私が全部言われた通りにしたんだがな…」












「あの娘が来ますよ。」
「…そうか」

目の前の男はそう言って口をキュッと結んだまま、静かに頷いた。彼が戻ってくるのを見計らったように再び降ってきた雨は冷気を孕んでいた。こんな冷たい雨の中を彼女が本当にくるのだろうか。そう思いながら開け放たれた窓の外の様子をぼんやり眺めて濡れた髪をタオルで拭った。いや、本当はもっと前からそんな気がしていたはずだ。自分の直感の良さには自分自身が一番良く分かっていたのだから。未だ湯気が立ち上る自分の肌にタオルを押し付けて、そしてソファに腰を掛けた。座るように進めれば目の前の男はすぐに出るからと言って言うことを聞かなかった。

「駅前で彼女と会ったんです。」
「ほお」
「例の喫茶店で少しだけ話しました。」
「ふうん。何て言っていたんだ。」
「社長に会いたいそうです」
「ふふ、可愛いね。」
「そんなもんじゃありません。彼女はきっと殺される覚悟できますよ。」
「………随分物騒な話だな。」
「言葉の綾です。兎に角、きっと来ると思います。念のためにお伝えします。」
「そうか…では早めに着替えないとな。」
「…鶴見さん」
「何だ月島。」
「…いいえ。なんでもありません。」
「いい。言いなさい。」
「あの子は、本気であなたを愛していますよ。」
「…そうか。そうだったな。お前もかつて人を愛した事があったんだったな。」
「………」

自分がそう言えば目の前の男は少しだけ俯いて、それから息を吐いた。

「自分はもう今日のところは出直します。」
「わかった。ご苦労だったな、月島。」
「いえ。」

男は律儀に一礼するとそのまま足早にリビングを後にした。足音が少しずつ遠ざかっていくにつれて、それとは相対して自分の運命が刻一刻と迫ってくるようだった。ノックもせず無遠慮に来る運命とやらに、今まで自分はどれほど翻弄されてきたことか。自分の窺い知れないところで起きる事件や出来事に対しての対処法は他の誰よりも上手だと自負している。修羅場だって今の今まで超えてきた。その分だけ自分たちは変わってきたとも思う。でもどうだろうか。一人の女性の人生が今目前に迫っていると言うだけで胸がかき乱されるような心地がした。こんな気持ち、最後に感じたのは一体いつだろうか。そう思って思わずふ、と笑ってしまった。いつも追いかけていたそれが、今度は自分を追いかけてきている。こんなパターンは初めてだ。さて、どうすればいいだろうか。今回も果たして自分は上手くやるのだろうか。自分のことなのにまるで他人の事のように思えてとても滑稽に感じると同時に、あの美しく優しい眼差しにまた包まれてみたいと思うのもまた事実だった。

「さてと、準備をしようかな。」

誰もいない一人取り残されたリビングでそう独り言ちて腰を上げた。












「おかわりはいるかい?」
「いえ、あ、あの…自分で淹れます。」
「そうか」
「………」
「大丈夫か。私が言うのもなんだが。」
「…いえ、大丈夫じゃないと思います」
「…ごめんね」
「いいえ、鶴見さんのせいじゃないです、私…」

酷く焦燥しているのが分かった。呼吸をするのも多分やっとで、自分で淹れると言ったのにもかかわらず立ち上がることすらある意味困難に思えた。しばらく黙ったまま彼をぼんやりと眺めた。彼もまた私をじっと見つめたまま、静かに呼吸を繰り返していた。雨は降り止む様子はなくて、ぼんやりと滲んでいた視界は瞬いた瞬間に少しだけクリアになった。

「鶴見さん、私、鶴見さんが好きです。愛しています。ダメですか?」
「ダメじゃないよ、」

静かにそう言って彼は静かに笑うと、膝の上でカメラに添えて震えていた私の手を取った。そのままぎゅう、と握られるととてもひんやりしていて、私の体温で温めて上げたい気持ちになる。息を吸い込めば彼の石鹸のいい香りがして、くらりとする。瞼を閉じれば彼が頬に流れた涙をそっと拭ってくれた。それを合図に顎に手を添えられると、そのままむちゅ、と柔らかくて薄いそれが自分の熱くなった唇に押し当てられた。わずかに、紅茶のいい香りがする。今瞼を開けてしまったら魔法が溶けてしまうような気さえする、短い時間。もう一回、もう一回と口づけをする度に不思議と目の奥が熱くて仕方がなかった。

「辛いか。」
「思っていたよりも辛いけれど、でも、今は少しだけ平気です。強がりじゃない、本当です。」
「私も君といると胸が苦しくなる瞬間があるよ。こんな歳にもなってまさかこんな気持ちになるとは思いもよらなかったよ。不思議だね。」
「鶴見さんもそんな風に思うことがあるんですね。」
「もちろん。」
「そっか…」
「君をどうにかしようと思うと躊躇われる。君をどうにか幸せにしたいけれど、今の私ではどうやら力不足なんだ。」
「そんなことないです、一緒にいてください。私、それだけで十分何です。」
「ふふ。そうはいかないさ。君は普通の女の子じゃないか。私はただの人殺しだよ。それだけでも十分理由になる時がある。」
「…綺麗事を言うつもりはないです。正直今握ってくださるこの手が人を殺めたことがあると思うとゾッとします。でも、こんなに冷たい手をそのまま振り払う気にもなれません。出来ることなら私の体温さえ奪っても構わないから、温めてあげたいくらい、」

最後まで言いかけて、そのまま口を噤んだ。視線を久しく上げれば瞬きさえしない真っ暗な視線が私を見下ろしていた。生気のない陶器のような、彫刻のような美しいお顔がそこにある。それだけなのに酷く息切れがした。雨音が少しだけ小さくなった気がした。

「天国に行く気なんか、最初からありません。…ただ、」
「ただ?」
「色んな人から蔑まれても、仲間外れにされてもいい。楽園から追い出されたって構いません。私はずっと、地獄の底でもこの手をずっと離さず一緒に居てくれる人を、探していたんだと思います。」
「………」
「独りぼっちになるより、地獄の方が余程マシです。」
「…なまえ」
「鶴見さん、一つだけお願いがあるんです。」
「何だ?」
「鶴見さんの水槽が見たいんです。一番大きな水槽。誰も入れない場所に、あるって。…ダメですか?」

私がそう言って覗き込めばその瞳が小さく細められた。お願いをするのはこれが初めてだったと思う。いつも彼にお任せしてばかりで自分の意思を通すことなどなかった。彼にとってはきっと優柔不断でどうしようもない女に見えただろう。彼は少し沈黙したのち、両の手で私の手を握ったまま口を開いた。その目はとても柔らかくて、暖かくて、不思議とほんのりと心が熱くなるような、そんな眼差しだった。

「おいで。」











「…邪魔じゃないか?」
「全然、むしろ居て欲しいんです。」

シャッターを切れば彼は逆光の彼は少しだけ眉を八の字にして困ったように笑った。彼の前にある水槽は圧巻と言う表現がふさわしいほど素晴らしいものだった。すみだ水族館で見たあの水槽を本当に彷彿とさせるような、ある意味それ以上の世界が形成されて居た。私の家の水槽など目ではなかった。夏太郎さんが見たらきっと喜ぶだろうな。

そう思って思わずカメラ越しに笑えば鶴見さんはとこちらを覗き込んだ。広く薄暗い寝室で男女二人。かしゃかしゃとシャッター音と水槽のバルブの音だけが響き渡る景色は一見異常にも感じたが、不思議と嫌ではなかった。彼は私のいう通りに水槽を前に美しい姿勢を保ったまま、ぼんやりと水槽を眺めて立って居た。

「人を入れたのは初めてですよね。」
「ああ。君が初めてだよ。」
「ふふ。嬉しい。まさに『秘密の場所』ですね。私、鶴見さんの初めてになれたんだ。」
「ああ、そうだね。まさか、本当にこの場所に自分以外の人が足を踏み入れるだなんて、ほんの数時間前まで想像さえして居なかったよ。」
「人生って、何が起きるかわかりませんね。」

私がそう言えば彼はどこかで聞いたセリフだな、と笑った。壁に埋め込まれた水槽には実にたくさんの小魚たちと、そして飼育が難しいと言われるアマゾンの大きな熱帯魚も居た。恐竜みたい。思わずそう口にすれば彼はとても穏やかな口調で「見た目によらずおっとりして居て心優しいんだ」と自分の子供のようにそう言った。シャッターを切る度に彼とカメラ越しで目があうのはとても官能的な瞬間であった。セックスで繋がるよりもそれ以上に艶やかに感じるのだ。

彼は何を考えているかわからないが、その目は大変穏やかで表情も何処か柔和に感じた。撮影を終えてカメラを下ろすと鶴見さんはこちらにゆっくりと歩みを進めた。そして私の手を取るとそのまま水槽の前まで連れて行ってくださった。私を前にして自分は後ろにたつと、いつぞやの水族館の時のように耳元で呟いた。

「ご覧、あそこの小さな岩陰に隠れているのがエンゼルフィッシュだよ。なまえのお家にもいるだろう?」
「ええ。でも、きっとあの子たちよりもこの子の方が幸せかもしれない。こんなに大きな水槽に居られるのなら…」
「ふふ。そんなことないよ。前にも言ったけれど、なまえのエンゼルは君に感謝しているさ。」
「そうかな」

少しだけ振り向けば彼の首筋が見えた。首筋から香る香りと自分の匂いが重なって心臓が跳ねた。鶴見さんは再び視線を合わせた。彼と視線が交わるとまるでアイスクリームのように溶けそうな気持ちになる。

「私にはわかるよ。」
「私はむしろ鶴見さんのエンゼルになりたかった。」
「もうなっているさ。私にとっては身に余るくらいだよ。」

水槽の世界は一から鶴見さんが創造したまさに楽園だった。こんなに美しい世界を生み出すのだ。彼は死神だなんて言われているらしいが、きっとこの箱庭の住人からすればきっと素敵な神様だ。彼らは少なくともそう思っているはずだ。神様でなくとも、誰かの犠牲を払わずとも、自分の善意のみで何かを“与える”ことのできる人だと。私がそうであるように。

「どうした」
「ううん、ごめんなさい、よく分からないけど…。本当にごめんなさい。」
「謝らなくていいんだよ。きっと私が不甲斐ないから君を泣かせたんだね。」
「違う、」
「いいや、そうなんだ。」

そうなんだよ。そう言って鶴見さんは耳元で笑うと再び頬を拭ってくださった。

「もう遅い。少し休んだ方がいい。」
「…はい、」
「ふふ、緊張してる?」
「ち、ちが、」
「ううん。覚悟を決めてくれたんだよね。月島から聞いて居たけれど、そんなことを知らなくたってわかったよ。」
「………」
「でも今夜は、なまえとただ静かに眠りたいんだ」
「鶴見さん…」
「ダメかな?」
「ううん、ダメじゃないですよ。鶴見さんのお願いを断れるはずがないわ。」

笑ってそう言えば彼はふふと小さく笑って、それから優しく瞼にキスを落とした。体を振り向かせて背の高い彼の方へと視線を上げる。静かに、そして再びゆっくりと瞼を閉じればはらりと落ちた前髪を撫で付けた。自然と両の手を彼の首筋に回せば、鶴見さんは私の肩を抱いて自分の方に引き寄せてくれた。

「…ん、」

ざらりとした感触が心地よくて酸素を求める魚のように息継ぎも忘れてさらに絡めて求めていく。熱に浮かされてそのまま彼の舌に融かされてしまいそうになる。瞼を閉じているのにうっすらとピンク色の膜が見えるとまるで海底にいるようだった。

「懐かしい夢を思い出しました、あの海の底の、あの夢」

夢と少し違うのは、それまで見えなかったはずの光が、手を伸ばせば届くほどの距離にもうあるという事だった。時折、コポコポと水音が聞こえると本当に魚のようになってしまった気がした。一層の事そうであった方が手放しに幸せになれたのかもしれない。だけど、今私は間違いなくこの瞬間、幸せだった。

「君に月並みの幸せはあげられないだろう。」
「構いません、だからこの手を離さないで。そうすればきっと私は幸せのままで居られるから。」

ゆっくりと瞼を開けばそこには会いたかったその顔が目前にあった。私の頬を撫でる大きくて冷たい手に自分の手を重ねれば彼はぎゅっと私の小さな指を挟んだ。涙が流れる度に鶴見さんはそれをやさしく拭う。鶴見さんは最初、世界のはしっこで泣いている、寂しい人たちが生きやすい世界をただ与えたかっただけなのかもしれない。或いは、そんな生半可な気持ちではないのかもしれない。或いは、もう戻れないところまできてしまってあとは走り続けるだけなのかもしれない。

彼の気持ちを聞いたわけでは無いから定かでは無いけれど、どんな理由があったとしてももうそんな事は重要では無いのだ。パイロットフィッシュは自分を犠牲にしてでも、それでも止まる事は出来ずに水槽の中を泳ぎ続ける。

一人、水面に浮かぶ、その日まで。

私はひっそりとその日を一人で寂しく迎えようとする彼を、今度は絶対に見逃したくは無い。傷ついたって、血を流したって、この手を離さず一人行こうとする彼を引き止めたい。どんなに苦しくてもいい。ただ、この手は離さないで欲しい。

「鶴見さんは、パイロットフィッシュだったのね」

私がそう言えば彼は少しだけ寂しそうな顔をして、それからぎゅう、と抱きしめた。




2019.06.30.
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