詩など綴れないまま

「美しいだろう。」
「………」
「エンゼルフィッシュという熱帯魚だ。」

目の前の男はそう言って自分と肩を並べると暫く目の前をぼんやりと眺めたまま顎に手を添えた。何かを思案する時にこのような癖がこの男に出ることを知ったのは、もうとうに昔のことだ。言い換えれば、そう思うくらいにはこの男と行動を共にしていると言うことだろう。傍の男の体温をあまり感じない白い頬には水槽の照明が当たって白色や緑色の光が映った。男はちらりとこちらに視線を移すと横目で自分をじっとみて、それから再び口を開いた。

「魚を育てたことがあるか?」
「いいえ。そのような余裕のある家庭環境でしたら良かったのですが。」
「…すまない。そうだったな。」
「いえ…」

すまなそうにそう言ってその綺麗に揃えられた眉を八の字にすると目の前の男はゆっくりと足を動かして長椅子に腰をかけた。男は洋画のようにゆっくりとした所作で足を組むと、手で目の前の椅子に座るように指示したのでそれに応じた。腰を沈めれば程よく沈むソファはぎしりと軋んだ。外からは子供達の楽しそうな声が聞こえてくる。昼下がりの眩い日差しが窓から差し込んで目の前の男の頭部とテーブルの上の新聞を照らした。新聞には一面に昨日の東京オリンピック開催決定に関してが謳われていた。今朝もテレビ、ラジオ、ネットニュースも全てその話で持ちきりで、誰もがこの嬉しいニュースに持ちきりだった。今朝駅前のタバコ屋に寄った際にも、タバコ屋のお婆さんが話題にしてきたくらいだ。

実際、喜ばしいことなのだと思う。だが目の前の男はそんな世間の事など露知らずと言わんばかりにその薄暗い視線をこちらに向けて、そして僅かに口角を上げていた。時折、この目の前の男が同じ人間なのか自信がなくなることがあったが、この瞬間がまさにそう思った。この人は何処か浮世離れしているというか、それに近しいものに感じることがあった。

まるで温度を感じないのに、他者に対してこのように慈愛に満ちた視線を向けて、そしてそのように振る舞う。生まれ持った天性の才とでも言おうか。この男は人を懐柔することに実に素晴らしい才能を持っていた。それはこうしてこの男と過ごせば過ごすほど、色濃く感じてくる。

「水槽というのは面白い。人間の世界の縮図を見ているようだ。」
「それはどういうことですか。」
「手をかけてやればかけてやるほど、素晴らしいものになる。材料を揃え、下拵えをし、綿密に計算をして世界の土台を作ってやる。時期が来れば然るべき数多の種を迎え入れて、そして住み心地の良いものにしてやる。天地創造だな。」
「…随分小さな“箱庭”ですね。」
「ふふ。絶妙なバランスで規律の保たれた、完璧な計算で作られた楽園、いや、お前のいうところの“箱庭”だな。」
「人間の世界よりも美しいように見えますが。」
「見てくれはな。人間の世界と同様、去る者もいれば、犠牲となるものもいる。世界は必ず誰かの手で整えなければならない。あえて犠牲になる者が必要なのだ。そうだろう?」
「…どうでしょう」
「そうでなければならない。でなければ我々が必要なものか。」

男はもうすっかり冷めてしまったであろう紅茶を啜るとにこりと微笑んで、もう片方の手に持っていたソーサーにそのカップを納めた。彼の背後には先ほど見た美しい色とりどりの熱帯魚達の楽園が見えた。箱庭、と自分で形容したが、楽園と彼が言うならばそうなのだろう。彼の腕は実際、素人の自分が見ても素晴らしいものに思えたからだ。趣味にも仕事にも随分まめだなと関心すらした。自分にはそのような趣味というほどの趣味など持ち合わせていなかった。

煙草も酒も人並みに嗜むがそれは趣味とは言い難かったし、定期的に通っているスポーツジムも別段趣味というよりもある意味、この“仕事”をする上で必要な義務に近かった。映画も読書もゴルフもすることもあるが、だからと言って趣味と言えるほど読んでも見てもいなかった。この男の側につくようになってからは暇だと思うことも正直あまりなかったのも理由だが、作ろうとも思わない自分自身にも些か問題があるように思えた。瞬時にそこまで思案して、ふと視線を男の肩越しに見える水槽からようやく目の前の男に移し、口を開いた。

「鶴見さん、そろそろご用件をお話いただけますか。」
「ふふ、まあそう焦るな。用件を話すためには順序立てて話さねばならんことがある。」
「はあ。」
「月島、私の下に来てくれて何年になる?」
「およそ二十年です。」
「そうか…。お互い歳をとったはずだ。」
「…そうですね」
「ふふ。ギラギラした目で私を見ていたあの可愛らしい少年がもうすっかり右腕だ。随分努力したな、月島。」
「…いえ」
「一つ、思い出話をしないか。」
「思い出、ですか」
「ああ。とても重要な事だ。」

ここまで来るとだいたい大凡、目の前の上司の言わんとすることは解るつもりだったが、今回は少々難解であった。彼の真意を考えようと眉間に皺を寄せれば目の前の男は「まあ、そう怖い顔をするな」と言って再び美しいその口元に笑みを浮かべた。そして自分の目の前に灰皿を差し出すと好きに吸うように言った。

「お前と俺が初めて出会った日を、覚えているか?」









「隣いいかな。」
「………誰だ、あんた」

声の方向を向けば随分顔の綺麗な男が立っていた。歳は自分よりも離れていることは間違いなかった。男は自分と目を合わせると慈悲深いマリア様のように目を細め、そしてその柔和そうな眉を少しだけ気の毒そうに八の字にした。公園に設置された誘蛾灯からは幾度となく無数の蠅や羽をもつ奇怪な姿をした虫たちがブンブンと誘われては吸い込まれるように散っていった。

ばちりと音がするたびにその命が失われて、そして花火のように消えていくのを感じる。飛んで火にいる夏の虫、というのはこう言うことだろうかとぼんやりそう思って、それから視線を再び目の前の男に移した。男は自分の警戒心を解くように必死に、そして細心の注意を払いながらある一定の距離を保ちつつ近づくと、隣のベンチに腰を下ろした。

男の手には何かが入ったビニール袋が握られていて、男はその中からラムネを取り出すと一本自分の方に差し出し、もう一本をぷしゅりと開けて自分で飲み始めた。商店街のある駅前ではとても賑やかな音がこの公園からも聞こえてきた。祭囃子や人々の楽しそうな雑踏、笑い声、その他景気のいい太鼓の音や、嗅いでいるだけでお腹の虫がなりそうな空気まで感じることができた。

時折通り過ぎる人々も、この公園を抜けて近道をして駅前に行くようだった。皆家族づれや友人を連れた老若男女で、ベンチにポツンと座る自分の事など見えないように足早に通り過ぎていくのだった。隣の男からは僅かにソースの香りが漂ってきていて、この男もまた駅前から来たのだろうかと憶測できた。差し出されたラムネに手を出す事もなく目の前の林から出てきてジャングルジムの手前で集会を開いている猫たちをぼんやり眺めていれば、再び隣に座っていた男が口を開いた。

「君はお祭りに行かないのかい?」
「構うな」
「まあ、そう言わずに。僕も一人でね。何処に行っても人がいて疲れてしまったから、ここに来てみたんだ。人生のほんの数分だけのことだよ。少しだけここにいさせてくれないか。」
「……別に俺の場所でもない。」
「そうかい。」

男はそう言うとふふ、と笑って、それからラムネの瓶に口をつけた。ちらりと見遣れば男はごそごそとまたビニール袋から何かを取り出しすとそれを膝に置いた。着流していた浴衣からは男の白い頸や足が見えた。同じ男でも解るが、きっとこの男は女にモテるのだろうと思った。クラスメイトの女子たちの顔さえもまともに覚えていないが、ミーハーで頭の悪そうなあの女子たちならば、きっとこの男を見た瞬間黄色い声をあげるのだろう。

もしかすると、あの娘も同じような反応を返しただろうか。そう一瞬思って、それから静かに俯いた。目を閉じればあの美しい海と、触れれば水草のように絡みつく髪の毛を思い起こして思わず目の奥が熱を持ち、鼻の奥がツンとした気がした。かと思えば突然、ぐうう、と腹の底から蝉の声にも負けぬほどに大きな声を持った虫がなり始めたので思わずガバッと顔を上げてしまった。案の定、横を向けば少し驚いたように目を見開いた。

「君も食べないか。たこ焼き、うまいぞ。」
「…いらん。」
「まあ、そう言わずに。綺麗なお箸もあるよ。」

ほら、とそう言うと男はガサゴソと割り箸を差し出した後、残りのたこ焼きを差し出した。夏休みになったからか、いつもより一層、腹を空かせているのは事実だった。病気で母親が死に、選りに選って、あの男に引き取られて親戚の金の無心を死に東京に来たはいいが案の定、新潟にいる頃よりももっと事態は悪化したように思えた。学校に行けば最低限給食を口にすることはできたが、夏休みに入ればまともな食事になどありつけなかった。

見知らぬ土地でどうする事もできず、気まぐれにくれる父親の小遣いの1000円では数日ももたなかった。家にいれば夜になると父親が帰ってくる。酔っ払った父親は決まって血の繋がった息子に対して虐待をした。まるで世間に対する憎悪を俺に打つけるように、執拗に、そして残虐に、必要以上に拳や足に力を入れて殴るのだ。そんな父親に怯えて外を徘徊し、食べられるものがあればバレないように人の家の物でも不法侵入までして口にした。要するに、まともな食事など、全然口にしていなかったので、もうこの目の前のたこ焼きがご馳走に見えて仕方がなかった。この男は何者かなんてもうどうでもいいくらいに。

「屋台で買ってきたものだし、私が口にしていた。毒なんて入ってないよ」
「………」
「悪いことをしようと思っていたなら、多分、もう君を攫っているよ。」
「………」
「まあ、かと言っていいことをしようとも、思っていないんだけどね。」
「…は」
「きちんとした大人ならば、きっともう警察に通報しているだろうからね。未成年が、こんな時間に一人で歩いているなんて、普通に考えたら危険だからね。まあ、そんなこと今はどうでもいい。さあ、食べなさい。」

そう言って男はずいとたこ焼きを差し出すとにこりと笑った。暫しの沈黙の後、お箸を手に取ると出来るだけゆっくりとした手つきで勤めてゆっくり食べた。この男の前で齧り付くのは実に癪だったからだ。正直身なりも汚いし、風呂だってまともに入れていないのだから孤児のような汚いガキにしか見えていないだろうが、それでもこれくらいの抵抗は見せつけてやるべきであると、そう思ったからだ。男は口角をあげると焼きそばとりんご飴も隣に置いた。

自分は綿あめをついばみながら、遠くで集会を開いている猫を見て「猫ちゃんがいっぱいいるね」とよく分からないが嬉しそうにそう言った。全てを食べ終わるのにはそう時間はかからなかった。綺麗に平らげて綺麗にゴミを重ねると、そちらを向かずに「ごちそうさま」とだけ言った。そうすれば男は何故か嬉しそうに視線をこちらに向けて、それからまだ開けられていなかった差し出したラムネの封を切って差し出した。

「喉乾いたろう。ほら。」
「………」

正直、開け方が分からずそのままにしておいたのだが、こうして差し出されては困った。受け取るのもかと言って知らぬふりをするのもどっちにしてももう自分はこの男の思う壺なのではとさえ思ったが、結局、生理的な喉の渇きには抗えず、ラムネを受け取ると静かに口につけた。渇き切った喉に炭酸が刺激を与えて思わずむせそうになる。ゴクゴクと飲み込めばそれは人生で一番美味しいもののような気がして、それと同時に惨めでやるせない気持ちになった。

家にいる父親を思い出したからだ。家にいるときの父親は薬で意識が朦朧としているか、酒で気性が荒くなるか、或いは死んだかと思うほど眠りについて動かなくなるか、のどれかだった。酒を飲む父親の背中を思い出したのだ。酒を飲む時が一番最悪だ。父親は安いビールと焼酎を好んで飲んだが、ビールが特に好きだった。炭酸が喉を通る時の爽快感がたまらないと、うわごとのようにそう言っては、隅で小さくなる自分に目もくれなかった。

「どうしたんだい」
「何でもない…」
「何かあるんだろう。私に話してくれないか。」
「は、知らない奴に何を話せって言うんだよ。」

半ば苛々したようにそう言えば彼は表情を崩さずに先ほどと同じように目を細めた。

「いいじゃないか。減るもんでもない。少しくらい君のことを聞かせてくれ。そうしたら私のことも話そう。ここで出会ったのも何かのご縁だ。そう思わないか?」
「…そう言うのはよく分からない。」
「焼きそばとラムネを奢ったんだから、頼むよ」
「ずるいおっさんだな。」
「はは、大人は多少ずるいくらいがちょうどいいんだ。」
「…訂正する、最悪だなおっさん」
「褒め言葉だね。ずるくて意地悪なおっさんになるのが私の子供の頃からの夢でね」
「………」

東京に来たのは半ば故郷から村八分のようなことをされ、父親も、そしてその子供の自分も居場所がなかったからだ。母親が病気で死んでからは尚のこと。東京には遠い親戚がいて、その親戚が持つ古いアパートに厄介になることになった。雨風を凌げる場所ではあったが、新天地は決して天国ではなかった。むしろ故郷にいる頃よりも悪化の一途を辿っているような気がした。出稼ぎに来たと言うのに父親はまともに仕事などせず、駅前のパチンコ屋でクサクサしているのをよく見た。あれが父親だなんて口が裂けても言えないが、この大都会の無関心によってそこは救われていた。

中学校では皆俺を避けた。俺も皆を避けていたからだ。何処にも属さず、そして誰とも関わらなかった。先生も生徒も、皆自分がどのような仕打ちを受けているか、薄々感じていたようだが、誰もそれを救おうとはしなかった。それはある意味村八分よりも苦しい事のように感じた。自分はいないものとされていると、嫌という程感じた。それでも学校に通ったのは彼女との約束だったからだ。

だが、一年も経つ頃には頻繁に来ていた手紙も来なくなり、音沙汰がなくなった。寂しいと言う感情よりも、虚しさが心を巣喰った。それと比例するように父親の素行はひどくなっていた。何度も暴行事件を起こし捕まるような父親だったが、それがどんどんエスカレートしているように思えた。薬をし出してからは尚のことだった。最近では頻繁に見知らぬ黒い服を来た取立屋がやってきたり、堅気とは思えぬ人間が周囲をうろつくようになった。

薬をすると興奮した父親が怯えたり暴れたりするのを必死で抑えた。別に救いたいからではなかった。近所迷惑だと言われたからだ。近所からは白い目で見られ、アパートの住人からは嫌がらせを受けた。どうやら父親はヤクザと連んでいるらしかった。中学に入って二年目の夏の始まりに父親がまた小競り合いを起こして警察の世話になり、引き取り手に自分が呼ばれたがもう行かなかった。父親は拘置所から帰ってきてはいるだろうが、殆ど帰らなくなったので分からない。父親のなけなしの金もそこを尽いた。

「親戚には助けを求めないのかい?」
「最初にしたけど、面倒だからって追い返された。」
「そうか…でも、もうそんな生活続けるのは無理だろう。」
「それでも、生きていくしかないだろう。」
「それは君の言う通りだ。」
「誰も助けてくれない。無関心だ」
「それは違う。君が無知なだけなんじゃないか」
「…どう言う意味だ」
「生きるにも、うまく生きていく方法がある。そうじゃないと、こんなご時世でものたれ死ぬこともあると言うことだ。」
「児童養護施設にでも行けっとことか」
「まあ、それも一つの手ではあるね。だが、それではきっと君は父親と同じ道を辿ることになる。」
「………」
「君はもっと賢く生きる必要がある」

目の前の男はそう言うと食べ物の匂いに誘われてきたのか、足元の子猫を抱き上げると膝に置いて撫でた。母親が見当たらないが一体何処に行ってしまったのだろうか。子猫はにゃあにゃあと鳴いては男の膝に必死にしがみ付いていた。

「お母さんはいるのかい?」
「死んだ」
「そうかい。」
「ああ」
「じゃあ、私と一緒だね」
「…は」
「母さんと行っても、自分の母親ではないんだけどね。」
「………」
「妻と子供が一人、私にも居たんだ。生きていたならば、君と同い年くらいになる娘が居たんだよ。いや、もう少し年下かな?」

男はそう言って大事そうに子猫を撫でた。誘蛾灯の光が男の頬に当たって青白く見えた。視線がカチリとあって、男は俺をしっかりと見据える。その瞬間、あれだけみんみんと夏の通り雨のように泣き腫らしていた蝉たちの声が一瞬遠のいて、それからむわんとした生暖かい風が男と自分の間を通り過ぎていく気がして身震いをした。暑いのに、その瞬間だけ背中に一筋冷や汗が伝ったような、そんな気がした。

「…もう、十年以上も前のことだ」








「“会長”の代になってから、生きやすくなったと言う奴と、そうじゃねえと言う奴がいる。」
「………」
「月島さん、アンタはどう思う?」
「さあな」

俺がそう言えば目の前の男は前髪を片手でなでつけるとニヤリといつものように口元に嫌らしく弧を描くと煙草を咥えた。どこ産かも分からない気障な煙草を吸うのはこの男の習慣だった。最近任された“仕事”で負ったらしい顎の傷が痛々しいが、そんなことなど気にもせず、男はいつも通り飄々と表の仕事をそつなくこなしているらしかった。カチカチとそこここで事務作業らしくキーボードの音が響く事務所にはこの時間帯ではもうこの男と自分しか残っておらず、定時で帰った事務員の女子が差し入れにくれたコーヒーはすっかり冷めていた。時計はあと少しで21時を回ろうとしている。つけられたテレビからは野球中継が映っていて、隣で煙草を吸ったままぼんやりと眺める男がそのチャンネルを設定したらしかった。

「こう忙しく昼間の仕事ばっかりやってると、本当に普通のサラリーマンなんじゃないかって錯覚してきませんか。」
「サラリーマンだ。残業代だってつく。」
「賞与も年2回だし、成績がよけりゃあ追加で報酬がつきますしね。さすが、ホワイト企業役員の言うことは違いますな。」
「おしゃべりをする暇があるようなら手伝ってくれないか。」
「ご冗談を。俺もまだまだ自分の仕事が終わる気がしませんよ。」

そう言うと男ははは、と何がおかしいのか笑って吸い殻を灰皿に押し付けた。月末処理でこの男とおしゃべりをするのも勿体無いくらいに思っていたが、今期はこの男の成績が案外いいのであまり余計なことも言えなかった。表の仕事も裏の仕事も、この男は腹立たしいことに卒なくこなす事ができるのだ。

「あの人に文句があるわけじゃねえが、人誑しのあの人に不信感を抱かない訳じゃあないんですよ。」
「………」
「時折俺は思うんですよ、月島さん。俺はあの人のただの“水槽の中の金魚”みたいなもんじゃねえかとね。」
「…余計な話はするな。」
「少しは思うでしょう、アンタも。月島さんだってあの人に“拾われた”んだろう。」

男はそう言うとニヤリと笑ってまた横目で視線を合わせた。香水を変えたのか、はたまた女からの贈り物なのか、よく分からない香水の香りが鼻腔に伝わるたびに先ほどの煙草の香りと混ざってむせかるような気がした。香水はあまりするなと言ったのにこの男は自分の言うことを真面目に効いた試しがなかった。仕事のできるやつではあるが、ころっと寝返るような、そんな危うさを秘めている。そんな男をあえて側に置くことにしたのもまたあの男の判断であるならば、それは従う必要がある。どれほど気に入らない部下であったとしても、だ。

テレビがニュース中継に代わり、明日は晴れることを知らせた。明日は定休日だが、一件だけ自分に課された別の仕事があることに気が付いた。仕事といっても、西口のうちが面倒を見ている風俗店の方に集金をするくらいだった。確かに、この傍の男の言うとおり、平和だった。平和ボケしそうなほどに。最近のヤクザは暇なのだ。ヤクザといっても、薬は売らないし、余計なことはしなかった。もうほとんど、“ただそこにいる”と言うのが仕事のようなものだった。それはまるで、そこに居るだけでその場を正しく均衡の保たれた環境に整える、彼が言うところの、“パイロットフィッシュ”と言う奴にでもなったかのようだった。

昨今の反社会的勢力の廃絶の波に揉まれ、主要なヤクザたちは窮地に追いやられ、抗争なんぞももう何十年も前の話のように思えた。それでヤクザを辞めてもどこも受け皿がないと聞くし、テレビでもそう言った類のドキュメンタリー番組をぼんやり見たことがある。他人事のように眺めていたが、きっとその通りなんだろうとすんなりと自分の中で納得がいった。稼業のシノギというシノギはもう殆どなかった。西口にあるいくつかの風俗店と、キャバクラくらいで、それもこの店に比べればどっこいどっこいと言うくらいだった。

正直、競合店も台頭してきた頃合いだったので閉めたらどうだと助言したことも何度かあった。だがその度に彼は決まって「これで助かる女性もいる。必要とされている限りは閉める必要はない」と言って聞かなかった。確かに、この不景気で風俗店で働く女性が増えたのは事実だった。忌み嫌われるのはヤクザだけではなく風俗で働く女性もまたその一つだ。職業に貴賎などないと言うがそんなものは綺麗事だと言うことは子供の頃からよく、知っていた。

「“水槽の中の金魚”、か。」
「まあ、物の例えですよ。」
「………」
「あの人は自分が理想とする“箱庭”をこの街を使って作ろうとしている。お得意のアクアリウムみたいにね。沢山の金と、数多の人間を使ってね。」
「………」
「全く、金のある男の考えは、俺には分からん。」

もう何本目か分からない煙草を口に咥えると男はジッポで再び火をつけた。横の男は少しだけじっとこちらを見て、それから何も言わずにテレビを見た。またテレビ中継は野球に戻っていて、球場にはうっすらと小雨が降っているらしかった。

「俺たち水槽の中の住人はあの男のおおよそ思い通りに動く。」
「…そしてその金魚たちは鶴見と言う男に“救われている”。救われたのなら、それでいいんじゃないか。俺も救われたさ。ヤク中で死んだロクでもない父親に薬を売っていたヤクザはあの人だったとしても、だ。」
「………」
「気が違って身動きの取れない母親と共倒れ寸前だった少年も、今やこうして上等なスーツを着てここに居る。古いヤクザのシノギではもうこのご時世上手くいかないと踏んで、自分の私財を投げ打って立ち上げた会社に身を寄せて生きている人間がここにはいる。よろしいことじゃないか。」
「………」
「人並みに生きている。社会に見捨てられた俺たちがこうして人並みに生きている。まあ、人にはそう言えないことも多いがな。その“救い”が見せかけの、あの男がこさえた“脚本”だったとしても、別に構わん。どうでもいいんだ、そんなことは。」
「………」
「堅気の人間でも人に言えねえことの一つや二つ、あるだろう。何があろうと、どんな理由だろうと、結果的にはあの男に“形式上”でも救われている。“水槽の中の金魚”だろうと、だ。…俺はあの人が言う“水槽の中の金魚”の一匹としてその箱庭の完成を見てみたいだけだ。神経をすり減らすほどの嘘と茶番と、金と時間と、自己と他者の犠牲を払ってまで、あの男、“鶴見篤四郎”が夢見る理想郷とやらをこの目で拝んでやる、ただそれだけだ。」

そう言えば男は目を細めてふう、と煙草の煙を吐くと暫くじっと猫のようにこちらを見遣ったが、何が面白いのかふ、と再び小さく口角をあげると小さくなった煙草を再び灰皿に押し付けた。もうすっかり吸い殻の山を形勢した灰皿を少し自分の方に寄せると、胸ポケットから煙草を取り出して自分も同じように口に一本咥えた。ホームランの歓声がテレビから聞こえてちらりと見れば、小雨の中で美しい放物線を描きながら球場を舞う白い球が見えた。

「思ってた以上に、イッちゃってますね。」

頭が。そう言って目の前の男は猫のように目を細めて、それからくつくつ喉を鳴らした。

「お前の考えは否定はしない。どう考えて生きようと、お前の勝手だ。俺とお前がそうであるように、あの人にもあの人なりの考えがあって、恐らくその原点がある。」
「つまり、その原点を月島さんは知ってるんですよね」
「…知らん。」
「本当に嘘つくの下手だな。」

はは、とそう言って笑う部下に思わずイラっときたが、誤魔化すようにテーブルに置かれた目の前の男のジッポを引っ手繰ると半ば強引に火をつけた。

「…だいたい、そんなにこっちの仕事が嫌なら“シライシヨシタケ”が匿われている場所に行ってあの男の首根っこ引っ掴んで連れ帰ってこいよ。」
「嫌ですよ面倒臭い。」
「………」
「それに、連れ戻したってどうせ、何もせんのでしょう。飛んだ野郎の方は今頃、富士の樹海に還った頃合だし、もうこれ以上何もする事は無いと思うんですがね。」
「組のルールを乱した野郎には外部の人間だろうとケジメをつける必要がある。」
「そんなこと言ったって当の“会長”のやる気の方がもうないだろうに。…あの小娘が悲しむようなことはせんでしょう。月島さん、あんただって本当はわかってるはずだ。ケジメだの何だのいながら、あんたが一番あの人の側に置かれてるからな。…いや、側に居たいのはあんたの方だったか。」
「………」
「それにしても本当に社長は何であの小娘にそうご執心何でしょうね。まあ見てくれは悪くは無いが、取り立てて抜きん出いている逸材でも無い。ああ言う顔が好きなのか?…それとも余程の床上手かなんかですかね?」
「一旦黙れ。」
「おお、随分怖い顔しますね。」

ニヤリと笑うと横から煙が吐き出されて目の前が一瞬遮られた。その瞬間、どっとホームランを知らせる歓声と実況がテレビから聞こえてきた。

「でも平和ボケってのが一番危ないと思いませんか。俺たち腐ってもヤクザだぜ。」
「そんなにこの“シノギ”を辞めたいなら、駅前のタピオカ屋をやらせたっていいんだぞ。」
「はは、悪くないですね」

そう言われてふと横を向けばニンマリと笑う男と目があった。そして男は再び煙草の煙を吐くと、「タピオカも不動産も立派な経済活動ですからね」と宣った。うんざりして煙草の煙と共にため息を吐き出したが、良くなるどころか余計に気が滅入るような気がした。









「俺の口からは何も言えない。」
「………」
「それは君だって知っている情報だろう。」
「それは…」
「君は良い子だと思う。」
「なぜそう思うんですか?」
「ヤケを起こさずまず俺に相談をする辺りな。それに、あの人もそう言っていた。だからこそ、君には手を引いて欲しい。鶴見さんと俺は…俺たちは、普通じゃない。わかるだろう。君の気持ちは理解するが、喫茶店のウェイターと恋をするのとは全く訳が違うんだ。」
「それは…」

そう言いかけてそれも正論だなと思い思わず口を噤んでしまった。せっかく入れ立てだった珈琲は冷めてしまった。閉店の時間が近づくにつれて店内も一人、また一人と人が消えていく。忙しそうにしていたウェイターさんもお店のカウンターで流れるラジオに耳を傾けてとても静かな空間が出来上がってしまっていた。

目の前の月島さんは砂糖もミルクも入れずにブラックコーヒーを飲み込むと視線を少しだけ下に落として綺麗にソーサーのカップを上に乗せた。一つ一つの所作が時折まるでマナー講座のようにキビキビしているのでまるで軍人を前にしているような気がしてくる。この人もまたヤクザであると言う事は承知の事実であるが、こうして対峙すると本当に真面目な社会人の一般男性にしか見えない。

「君のような何も知らない若い女性が、何も好きで俺たちと関わる必要もあるまい。」
「………」
「そろそろ俺は戻る。君も帰りなさい。」
「…最後に一つだけ質問してもいいですか?」
「何だ。」
「月島さんは、熱帯魚を飼ったことがありますか?」

私がそう言えば彼は少しだけ目を見開いて暫し沈黙した。雨は既に止んでいたが、お店の雨水管から流れる雨水が勢いよく落ちていく音が、少しだけ空いていたらしい温室の窓から聞こえた。月島さんは何を考えているのかは勿論分からなかったけれど、目を細めて私をじっと見つめていた。ぽちゃん、と室内に置かれた鉢から僅かに聞こえてきてちらと向けばそこには小さなメダカたちが顔を覗かせていた。その瞬間、あの小さくて無機質で殺風景な我が家に置かれた小さな箱庭を思い起こした。黒く美しい小さな一匹の生き物が日に日に弱まっていく光景が浮かんだ。

「悪いが、生き物自体にあまり興味が無くてな。」
「…そうですか。」
「雨は止んだがタクシーを呼ぼう。もう遅い。」
「月島さん、ごめんなさい。」
「いや、気にするな。」
「鶴見さんのご自宅に戻られるんですか。」
「ああ」
「私も参ります。」
「……一応聞くが、話を聞いていたよな?」
「もちろんです。その上での行動です。」

私がそう言えば月島さんはすん、とした顔になった。言葉にはしていないが、面倒臭いと言わんばかりの顔である。

「もしお一人でお帰りになると言うならばそれで構いません。私は一人でもお伺いします。ちょうど忘れ物もあったので。」
「忘れ物?」
「ええ。カメラを持っていかなければ。」
「………」
「…ようやく、撮りたいものが今この瞬間、わかったんです。」


2019.06.29.
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -