月が雨に濡れて

「もう土台はすっかり出来てきてるのね。」
「…うん」
「オリンピック、遠いなあって思ってたのに、意外ともうすぐなんだね。」
「…そうだね」

コロシアムブリッジの下から見える首都高湾岸線はとても美しいものだった。観覧車から見える湾岸や首都の夜光は言葉にできないほど綺麗だったけど、「美しい」のとはちょっと違う気がした。無数の赤や白、橙色や緑色をした光が高速で目の前を通り過ぎていく。大きなトラックや小さな乗用車まで大小様々な形をした車があっという間に通り過ぎて、それからあっという間に見えなくなっていく。ごおおおおと言う轟音を生み出しながら。

観覧車の中での杉元くんはどこかとても申し訳なさそうな顔で窓の外を見ていたので、何だか居た堪れなかった。私が彼の肩をツンツンとつついて、東京タワーやレインボーブリッジを指差せば少しだけ笑った。よりによって64台中4台しかないシースルータイプのゴンドラで、二人とも口には出さなかったが怖くて身を寄せながら東京の夜景を眺めていた。こう言う時、杉元くんは可愛いなと思う。杉元くんは何を考えているかわからない表情でぼんやり外を眺めていたけれど、きっと私も同じ顔をしていただろう。優しい彼のことだから、それ以上は何も問わず、私に気遣ってのことだ。何だかそれが歯がゆいような切ないような複雑な気持ちになった。

観覧車から降りた後、「帰ろうか」、と言う杉元くんの優しい言葉に頷いた。その直後、「少し歩いてからでもいいかな」と申し出たのは私だった。観覧車からわずかに見えたテニスの森の有明コロシアムが見えたからだ。有明コロシアムは改修中で、映えある2020年のその日を迎えるために急ピッチで新しいコロシアムに生まれ変わるための工事がなされている。その未完成の姿を直接間近で見てみたいと、観覧車に乗って見下ろして見てそう思った。

「面白いね。」
「うん」
「今度、アシリパさんと白石とも一緒に来ようよ。」
「白石さん、きっと透明なのびっくりするだろうね。」
「うん。もうちょっとしたら…」

そこまで言って杉元くんは静かに口をつぐんだ。杉元くんは背が高いからきっと私よりもこの眼下の景色がよく見えていることだろう。背の低い私はほんのちょっとしか見れない。こうしてフェンスに身を預けながら下を眺めている間にも沢山の人が通り過ぎていく。この辺に住んでいる人は有明コロシアムの目の前にある高級タワーマンションの人だろうか。それとも、湾岸沿いにある沢山の工場で働いている人々なのだろうか。

通り過ぎていく人たちにとってみれば、私たちは側から見ればカップルのように見えただろう。凄まじい轟音と一緒に車の風なのか、それとも潮風なのか、よくわからない風が頬や額を撫でて前髪を弄んだ。海の匂いと混じってガソリンと工場特有の鉄のような香りがする。フェンスに触れればきっと排気ガスに当てられてついた煤が手にべったりとくっつくだろう。

お目当の有明コロシアムは案の定建築中で、むき出しの骨組みや木の幹よりも太い鉄骨が見えると何だかとても人間が作り出したものとは思えず不思議だった。夜は流石に工事はやっていなかったのでとても静かで、それが帰って非現実的に思えた。ところどころライトアップされたテニスコートには休日でも沢山の人が練習しているのかとん、とん、とボールが当たる音がしていた。

この巨大な建造物の中に一体どれほどの人が入ることができるんだろうか。大きな口を開けた怪物のようにも見えたし、ノアの方舟のようにも見えたし、巨大な宇宙船のようにも感じられた。人間は想像したものを実現できる生き物だとか何かのCMで昔やっていたけれど、本当にそうなのだなと素直に思った。でも、多くの人の力と犠牲がなければこうはならないのも事実だろう。

目の前にいたはずの、たった一人を繋ぎ止めたりすることだけでさえも、こんなに難しいことはないというのに。

「杉元くん、ありがとう」
「どうして?」
「心配してくれて」
「いや、お節介だったよな」
「ううん」
「………」
「…いや、ちょっとお節介だったかな?」
「ちょっとお…」
「ふふ、うそうそ、むしろ嬉しかったよ。心配してくれてありがとう。」
「…白石のこともあったから。」
「“鶴見さん”はどう言う人だった?」
「…そうだな。思ってた以上にやばいやつだったよ。俺はやっぱりなまえちゃんには手に負えない人だと思う。」
「そう…」
「それに、君には正直相応しい男だとも思わない。俺が言うのもなんだけどさ、」
「………」
「でも、」
「でも?」
「…ううん、なんでもない。」

杉元くんはそう言ってふっと横を向いて笑うと静かに「帰ろう」と今日2回目の言葉を口にして、それからゆっくりと歩き始めたので私もようやく足を動かした。









長谷川さんと連絡を取らなくなって数日が経とうとしている。別段、もう連絡を取らないでとも、彼から着信拒否を受けている風でもなかった。ただなんとなく、そうしていた。そうせざるを得ないような気がして、酷くもどかしくて、やるせなくて、苦しかった。その代わり白石さんとは頻繁に連絡が来るようになり、彼も彼なりに何とか生きているらしかった。

私が鶴見さんと連絡を絶ったと聞いてホッとしているようだったし、匿われている田舎での暮らしはそう悪くないようで時たま仕事中に送られてくる田んぼや謎の山や森、巨大な蜘蛛の巣の写真や、間の抜けたような見切れた自分の顔など送ってくるあたり、十分元気そうだった。

元気なのは彼だけではなくて、先日ようやく迎え入れたブラックエンゼルも何とか新しい住まいに慣れたらしかった。美しい尾鰭は我が家でも健在で嬉しい限りではあったが、代わりに日に日に弱くなってきているのは一番最初から我が家に住んでいた一匹のパイロットフィッシュの方だった。エンゼルフィッシュよりも小さいけれど、同じ黒く美しい小さな魚は見ていて私に癒しを与えていた。

最初はアカヒレというとてもメジャーな魚達だけを入れていたのだが、ブラックエンゼルを入れると言った日に長谷川さんが「ブラックモーリー」というパイロットフィッシュも入れたほうがいいだろうと助言してくださったのをふと思い出したのだ。それで、試しに入れていた一匹であった。ブラックモーリーはまさにスイミーのごとく一人で悠々と広い水槽を泳ぎ、そして時折アカヒレの群れの中に紛れるとまるで物語のように巨大な魚の“目”となった。

そんな彼が日に日に元気をなくしていくのがわかったのは、毎日献身的に眺めて世話をしていた私にとってはごく自然のことだった。突然身体中に白い小さな斑点ができてしまい、あれだけ丈夫だと聞いていたパイロットフィッシュがどんどん動きが鈍くなっていき、弱っていく姿を見ているといてもたってもいられなかった。未だ気まずい鶴見さんと対峙するかもしれないリスクを承知であの熱帯魚屋さんに駆け込んだ。

「ああー、なるほどね。」

一連の話をいつものように夏太郎さんにすれば、目の前の夏太郎さんは顎に手を添えてなるほど、と言った風に眉を顰めた。

「何が原因何でしょう?立ち上げに失敗しちゃったのかな…水換えも差し支えない程度に定期的にしてたのに。」
「俺もちゃんと見てましたし、長谷川さんも立ち会ってもらってるから、不手際があったとは考えずらいし。考えられることは…。多分、もらってきたその友達の水槽に病気かなんかあったりしたのかもなあ。」
「なるほど…」
「ブラックモーリーって、むしろ敏感な魚なんですよ。」
「敏感?パイロットフィッシュって、確か変化に強い子じゃないんですか?」
「パイロットフィッシュにも種類があるんですよ。アカヒレやネオンテトラとかは強いし水槽にいい影響を及ぼす細菌を繁殖させてくれる役割があります。ブラックモーリーはどんなパイロットフィッシュかというと…」
「はい、」
「水質の変化に敏感な種の魚なんすよ。つまり、ブラックモーリーに異変があれば水質に問題があるということだから、彼らの状態を見て水質を変える必要があると判断が出来るんです。」
「じゃあ、つまりブラックモーリーを“犠牲”にして変化を見るってことですか?」
「まあ、残酷な言い方をすればね。リトマス試験紙みたいな感じですね。でも、そんな深刻に捉えることはないですよ。比較的初期だし、スマホの動画を見た限り、思い当たる然るべき処置はありますから。」

夏太郎さんはにこりと笑うと安心させるように説明し、いくつかの方法と思い当たる適切な薬品を私に教えてくれた。

「…ブラックモーリーってそんな可哀想だなんて知りませんでした。」
「まあ、そこは人それぞれですよね。でも長谷川さんのご判断は正しいですよ。みょうじさんが初心者だから判りやすくするために言ったんだと思います。気落ちせずに頑張って見てください。それに、まだ生きてるからマシですよ。」
「そうですかねえ…」
「ええ。世の中には用済みになったパイロットフィッシュをそのまま殺したり遺棄したりする輩もいるんですから。」
「え、そうなんですか?」
「うん。遺棄しちゃうと生態系は狂うし最悪ですよ。だからと言って〆るのもねえ。飼育者の責任だからって自分の手で〆る奴いますけど、俺は正直反対っすね。そういう奴らって結局、秋刀魚かマグロを捌くのとあんま変わらない意識でやってるんだろうなって、時々思います。」
「………」
「まあ、秋刀魚とマグロに失礼な言い方かもしれないけど。」

あはは、と苦笑いする夏太郎さんを前にぼんやりと彼の肩越しに見える水槽たちを眺める。水槽に放たれた無数の黒い小さなブラックモーリーは皆、自分がどんな風に利用されているのか露知らず、静かに、優雅に水槽を駆け回っていた。パイロット(試験的)フィッシュ。彼らは身を呈してその水槽の世界の実情を見せようとしている。ぼんやり眺めているうちにふと思い出した。あの日、初めて彼、鶴見さんと出会った日。彼がじっと眺めていた魚は確か、このブラックモーリーだった。











生きていると様々な出会いと別れがあるが、それはいつも唐突に訪れる。もう大丈夫だというほどの万全を喫しても、それが運命ならばどうしようもないのかもしれない。

朝起きた時、最初に視界に映ったのは広く美しい水槽の水面にポツンと映る黒い小さな塊であった。黒い小さなそれは微動だにせず、水面に揺られて真ん中の方へと追いやられていた。その下で美しく大きな体をしたブラックエンゼルが、何事もなかったかのように悠々と泳いでいるのが見えた。

カーテンの隙間から差し込んでくる日差しに照らされて、光沢のない小さな体は微動だにせずそこにあった。朝日が段々と上の方に伸びていくというのに、私は未だパジャマを着たまま彼と同じように身動きが取れず、この1Kの狭い部屋の中、孤独に呼吸を繰り返すだけだった。もう何度目かのアラームが間遠に聞こえて、不思議とろ過装置と水の中のぶくぶくという音だけがよく聞こえた。

(さよなら、パイロットフィッシュ。)

小さくそう呟けば、頬に一筋生暖かな水滴が伝った。













雨が降っていることに気が付いたのは新宿を過ぎて高円寺に差し掛かった辺りからだった。人がどんどん乗り降りしていく中でふと窓を向けば突然雨筋が窓にしっかりと刻まれているのを確認した。入ってくる人も若干濡れていて、中には傘を持っていた人も居たようだがポタポタと地面に小さな水たまりを作っていた。それほど強くはなく、空もさほど黒くはない。予報では通り雨があるかもしれないと出ていたが、当たったらしい。折り畳み傘ならあるから心配はいらないが、買い出しをするほどの余力はあるだろうか。

道すがらそう思いつつ西荻窪の改札を抜けると、突然視界に見たことのある顔が見えて思わず足を止めた。花屋さんのある柱の前で静かにぼんやりと空を見上げる彼はため息を吐いているのかはあ、と息を吐くと懐から箱を取り出して一本タバコを咥えた。ここは禁煙のはずだが、はずれにあって見えないし誰も迷惑がかからないからだろう。誰かを待っている風でも、暇を持て余してスマホを弄るでもなく、ただただ、通り雨が過ぎ去るのを待っているように見えた。

「あの、」
「…あ」

私が声をかけると坊主頭の少々背の低い、強面の男性は驚いたように目を見開いて、それから火をつけようとした手を止めた。頭上には薄いゆで卵の膜のような雲に覆われたぼんやり光る朧月からまるでシャワーのように雨が降り注いでいた。









「…ブラックコーヒーを」
「私はカフェオレで。あ、黒糖を入れて欲しいです。」

私がそういえばいつものアルバイトのウェイターさんは「はい」、とにこりと笑ってメニューを下げた。窓の外はいつぞやのように雨粒が張り付いていて、思わずシェイプオブウォーターのエライザのように指でなぞりたくなった。目の前の男性が黙ったまま手持ち無沙汰そうにしていたので灰皿を目の前に差し出せば、驚いたように僅かに目を見開いた。そして、少しだけ居心地悪そうな視線を見せて「どうも」、と低い声でそう一言言うと煙草を取り出した。間も無くして、嗅いだ事のある香りがして、今度はこちらが目をまあるくする番であった。

「あの、この煙草って」
「ん。」
「月島さんがよく吸われるんですか。」
「ああ。」
「通りで。嗅いだことがあると思いました。」
「?」
「煙草もお酒も呑まれないって聞いたから、時々煙草の匂いがすると、何で煙草の匂いがするんだろうって、ずっと不思議だったんです。」
「………」

私がそう言えば彼は少しだけぼんやりと遠くを見るような目で私を見つめて、それからふう、と私にかからないように煙を吐かれた。吐かれた煙からはやはり嗅いだ事のある香りがして、何だか当たっても居ないのに目の奥が染みるように熱くなってきた気がした。周りを見渡せば週末特有の浮かれたような、ゆったりと余裕のある気配が喫茶室を包み込んでいて、温室には開店40周年の記念と言う事でそこここに蘭の鉢の花が置かれていた。店の前にも雨に濡れぬよう庇の内側にたくさんのお祝いのお花が並んでいたが、店内にも所狭しと並べられていて、お店はどこか蘭の美しい香りに満ちていた。

「月島さんもここにはよく来られますか」
「まあ、時々ですね。」
「そうですか」

ウェイターが持ってきたホットのブラックコーヒーに砂糖やミルクも入れず、月島さんは口をつけるとゆっくりと一口飲み下した。よく見ると確かに優秀な秘書であるようにも見えるが、言われてみれば堅気にも見えない感じがした。一人や二人、平気でやっていそうな気もするし、彼の言う事なら何でも卒なくこなし、そして仕事だけを全うするような冷たい人間にも見えた。ただ、少なくとも彼とこうして対峙するのは2回目で、ほとんど知らない事の方が多いのでそう思うのかもしれないとも思った。

「ここ、最近よく来るんです。何だかおしゃれ過ぎないのにおしゃれで、でもお家みたいに居心地が良くて。ここの温室がとても気に入っているんです。ここの裏道を行くと教会に繋がってて。」
「…そうですね。」
「夜だからちょっと怖いけれど、昼間は明るいからお散歩にいいし、あの霊園の手前にあるお庭が素敵だから最近よく行くんです。」

西洋の紳士風な空気を纏う彼と違って、目の前の「月島」さんと言う男はザ・日本男児と言う感じを受けた。無駄に笑わないし、隙を見せない。背はちょっと小さいけれど、ピンとした背筋は曲がる事を許されていないかのように伸びているし、鍛えられているのかうっすらとスーツから浮かび上がる腕の筋肉や肩の筋肉はどこか骨がむき出しの古代魚のように強固に見えた。

正直、第一印象は怖い人だな、と言うような印象だったが、話すと不器用だけど時折彼なりの配慮が見えて、少しだけ安心した。一定の配慮をしつつも距離を保ち警戒を怠らない、そう言う「大人の男」なんだろうなとぼんやりと思った。甘い黒糖のカフェオレを啜り、息を吐く。目の前の月島さんは少しだけ視線を下にしてマグカップを握ると再び口をつけた。

「月島さんは甘いの苦手ですか」
「………何が目的なんだ」
「…」
「話をしすぎると、かえって言い辛くなることもある。」

視線を私に合わせて彼ははっきりとそう言うと口をキュッと結んだ。私の様子を探るように、或いはどこか気の毒そうに眺めるように目を細めた。私はその瞳を暫くぼんやりと眺めた。彼のこの表情を見るのは初めてではなかった。あの日、まるで生活感のない箱庭のような邸の中で唯一見せた彼の柔らかい表情であったからだ。「水槽を見せて欲しい」。そう言った私に少しだけ困ったような顔をしたけれど、結局、彼の言うことだからと言ってしぶしぶ許可をくれた、あの時の一瞬見せたその表情。

「月島さん、優しいってよく言われませんか」
「…な、」
「ううん、きっとそう。でなければ私にホイホイと付いて来てくれないはずだもの。」
「………」
「もう、雨だって、すっかり止んでいるのに。」

そう言って窓の方に視線を移せば、すっかり止んで雨に濡れたアスファルトがフィラメントに反射して光る様子が見えた。往来の人は皆びしょびしょの傘を畳んで家路へと急ぐのかどんどん足を止め流事なく去っていく。うっすらと雲間から見えた月からは雨の粒子に反射しているからか周りにうっすらと虹のようなまあるい円が見えた。月明かりが眩しいほどに空を照らすせいか、星が一個も見えなかった。

「…“鶴見”さんはお元気ですか?」

私がその名を口にすれば彼はピクリと僅かにマグカップを握る手を震わせたが、すぐに何事も無かったかのように珈琲を飲み下すと一言、「ああ」と宣った。そして行儀よくソーサーに戻すと静かに息を吸った。

「私、鶴見さんのことが好きです。」
「……ああいう人だ、好意的に捉える女性は多い。」
「愛しています。」
「………」

私がそう言えばいよいよ困ったように視線をあげて、それから彼はふう、と再び息を吐いた。その顔はまるで「聞きたく無かった」とでも言うような顔で、それから彼は視線を私から逸らすと面倒臭そうにぽりぽりと頬をかいた。

「あの人のその名を知っているならば、話は早いと思ったんだがな。」
「嘘です。その名前を知っていても尚のこと貴方と話したいとなったんです。貴方も私が遊びでも嘘でもないことくらい、すぐに察したはずです。」
「………」
「鶴見さんが好きです。今すぐにも会いたいくらい。」
「では、自分で連絡したらどうだ。俺に一々お膳立てを頼むことじゃないだろう。」
「違います。月島さんをお茶に誘ったのはお膳立てをお願いするわけでも仲をとりもって欲しいと言うわけでもありません。ヤクザ に気軽に話しかけるほど、本当は私、度胸なんてある人間じゃないですし。」
「…そのようだな。」

そう言って月島さんは私の膝の方に視線を移した。膝の上で頑なに結ばれた左手にはボールペンが握られている。彼からすれば実に滑稽な姿に映っただろう。優しいと称したはずの目の前の女性が、言葉とは裏腹に自分に臆していざとなった時を想定して握っているのだから。怒るかと思えば彼はふ、と小さく笑って、それから続けた。

「ボールペンじゃ、俺どころか痴漢にも勝てるかどうか分からんな」
「……」
「だが、結構な心構えだと思う。女性はそれくらい警戒心がある方がいいだろう。だが、女性に危害を加えるような真似は今まで一度もしたことはないし、これからもない。」
「……」
「それに、そんなことをしたら俺は鶴見さんに何をされるか分からん。…頼むからそのボールペンをしまってくれ。店の奴に誤解される前に。」
「……はい、」

そう言って言われるがまま、ボールペンを鞄にそっとしまうと、彼はやれやれと言う風にこめかみを抑えた。

「…あの、幻滅しました?」
「いや、慣れてる。」
「ごめんなさい…」
「もういい。」
「でも、優しいと言うのは嘘じゃないです。見込みがないなら、最初からこんなことしません。貴方に話しかけたのは、別に知りたいことがあったからです。」
「なんだ」

月島さんはそういうと私を真っ直ぐ見据えた。よく見ると美しい深い緑色の瞳だ。鶴見さんの目も美しいが、彼の瞳もまた美しいと思う。ふう、と息を吐いて下げていた視線を再び目の前の男性に合わせると震える唇を懸命に動かした。

「鶴見篤四郎という男は一体何者なのか、教えて下さい。」


2019.06.09.
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