祈り繰りかえし

「杉元さんは普段何をされているんですか。」
「俺は消防士です。」
「消防士か。それは素晴らしい。通りで体つきがいいなと思ったよ。」

長谷川さん(鶴見さん)はそう言うとバックミラーを見ながらにこりと笑われた。バックミラーに映る青年は口元は笑っているが、目が笑っておらず運転席の長谷川さん(鶴見さん)を見る目はやや冷たい。だが長谷川さん(鶴見さん)はそんなことなど露知らず、突然の来訪者にも関わらず私の友人だと知るや否やよかったら一緒にどうかと誘い、私だけでなく杉元くんをも驚かせた。恐らく長谷川さん(鶴見さん)は本当にたまたま杉元くんが私に会いに現れたと思っていることだろう。

「長谷川さんは不動産会社を営まれているんですよね。なまえちゃんから聞きました。」
「ええ。小さい会社ですけれどね。」
「謙遜ですか?あの駅前の公園の大きなおうちも長谷川さんのお家だって聞きました。相当成功されてるじゃないですか。」
「あれは元々曽祖父の時代からの土地でしたから。」
「そうですか。不動産は今景気はいいですか?」
「そこそこですね。オリンピック前までとはもっと好景気だと思っていましたが、今はスルガ銀行だのがやってくれたおかげで少し微妙になってきました。」
「ふうん」
「僕なんかよりも消防士の方が忙しいんじゃないですか。最近消防署が防災活動の啓蒙を頑張ってくれいているおかげで、火災件数も減ってきたと町内会議でも話題だったよ。」
「いや、俺は言われたことをやってるまでですよ。」

当たり障りのないような、あるような会話を車内でする男性二人に耳を傾けながら、私はどこか会話に参加する気には到底なれなくて、助手席で窓の外を眺めていた。人の多い休日の新宿バスタ前を通りすぎ、ビル街を抜けていく。彼の言うケーキ屋さんは港区の方にあるらしい。

ラジオからはSuchmosのMireeが流れている。ドライブをするには確かにSuchmosは心地いい。そのうちに彼らの会話も途切れ、車内には不思議な空気が流れ始めた。スマホからはラインのメッセージがいくつか着信されていたが、今は見るきにもなれない。きっと後ろにいる彼からの怒りのラインだろうから。

「どうでした?」
「え」
「水槽ですよ。」
「ああ。ええ、ようやくお迎えができました。今のところ喧嘩をする様子もなかったし、何とか収まってるみたいです。友人宅の水槽よりも広いから、前よりも気持ちよく過ごしてくれるといいんですが。」
「それはよかった。あとは暫く様子を見る必要がありますね。知らぬ間にストレスを溜めてしまって寿命を短くしてしまう恐れがあるからね。」
「はい。」

私が返事を返せば長谷川さん(鶴見さん)は久しく私の方に視線を向けてにこりと笑った。反対に後ろの杉元くんはどこか訝しげな目でそのやりとりを見ていたが、結局特に何も言わずに視線を外に向けた。

「杉元さんは甘いものは得意何ですか?」
「‥ええ、まあ。人並みには食べます。」
「杉元くんは従姉妹と一緒に住んでいるから、パンケーキもケーキも大好きですよ」
「それはよかった。従姉妹と言うのは珍しいですね。」
「とっても可愛い子だから、杉元くん過保護になっちゃってるんです。」

ふふっと笑えば傍の長谷川さんも笑われて、反対にバックミラー越しで目のあった杉元くんには「ちょっとぉ…」、と言う目で見られた。先ほどからむすっとしていたのでちょっと仕返ししたつもりだったのだが、全部本当だからしょうがない。車を走らせているうちに最初の警戒は薄れてきた様子だったが、いつでも何かあれば動けるように杉元くんはベルトもせず車内を何度も何度も見渡していたが特に不審なものを見つけることはできなかったようだ。

それもそのはずである。私も何回かこの車に乗っているが、変な違和感など感じたことがなかった。仄かに香る邪魔にならない程度の芳香剤を吸い込み、それから静かに吐き出す。瞼を閉じても日差しは瞼の薄皮から感じるほどに眩しい。光の中で瞼を閉じると血管のようなものが薄っすら見える。掌を太陽に翳すと少し透かして血管が見えるのと少し似ていると思う。静かに呼吸を繰り返しながら、横で口を噤んだまま運転をする彼のことを考えた。

1週間ぶりの長谷川さんは以前よりもどこかまた疲れているように見えた。どんなに忙しかろうときちんと食事は取られているのだろうか。詰襟の黒のセーターを身に纏い少しラフなジャケットは春の訪れを感ずるような装いだ。自分の家の水槽の中でいまだに少し慣れないであろうブラックエンゼル たちのことが不意に脳裏に浮かんで、それから“鶴見さん”と重なる。美しいものを見ると人間は言葉を失いただ見入ってしまう。この感覚に、一体名前はあるのだろうか。今にでもこのブラックエンゼル達のことを伝えたいのだが、後ろで私のことを思って怒りや悲しみをあらわにする友人の前では到底、無神経にそのような真似はできなかった。

「もうそろそろで着くよ。近くに駐車場がないものだから、一番近くても少し歩くかもしれない。いいですか?」
「ええ。私は構いません。」
「俺も全然平気です。寧ろありがとうございます。」

杉元くんがそう言うと長谷川さん基鶴見さんはにこりと口角を上げて、それからちらと横の私を見た。私がなにも言わずに瞬きだけをすれば、彼はそのまま何も言わずに視線を前に移して意識を運転に集中させた。










「美味しい!」
「でしょう、ここのパンケーキはカナダ産と日本産の小麦粉をブレンドして一番美味しい配合で作っているそうだよ。蜂蜜は日本産で日本蜜蜂の蜂蜜を使っている。」
「上品な甘さですね。甘いけど、でもどんどん食べても飽きない。」
「確かに、美味いね。」

私の声に反応するように側に座って杉元君は素直にそう言った。そうすれば目の前の長谷川さん(鶴見さん)は満足気ににこりと笑って、それからパンケーキを口に運んだ。お昼過ぎのこの時間帯は大変に混んでいて、休日だからか学生風の女の子が多かった。右も左も若い女子ばかりで、男性がいるのはこのテーブルくらいだろうか。入店した際に店内の視線を一番に集めたのは鶴見さん(もう面倒なので鶴見さんで統一しようと思う)と杉元くんだった。

若い女性ばかりだったから目立つのは当然なのだが、イケメン二人が突如このような場所に現れたのだから仕方がなかろう。素敵な紳士に片やちょっと危ない雰囲気のする、顔のいい傷のある男なのだからそりゃあ目立つ。席につけば真っ先にショートケーキを頼もうとしたが、残念ながら売り切れだったらしい。ならばと鶴見さんがオススメしてくれたのがこのお店のパンケーキだった。ちょうど隣の席のカップルが食べていて、とても美味しそうだったので皆同じものを注文して今に至る。

「この蜂蜜、すごく美味しいですね。しつこくなくてさらっとしているのに上品で。飽きないし。」
「天然だから、体にもいいしね。」
「私以前、日本蜜蜂の写真も撮ったことがあるんですけど、たまに、足に可愛いお団子をくっつけている子がいるんですよ。すごく可愛くて。」
「花粉団子かな?」
「花粉団子?」
「ああ。」
「彼らの保存食になるんですよ。」
「長谷川さん、虫に関してもお詳しいのね。」
「なに、子供の頃に読んだ図鑑の受け売りですよ」
「素敵。そんな昔のことを覚えてらっしゃるのね。」
「………」

わあ、と感嘆していれば横からズズズ、とわざと音を立ててアイスティーを啜る顔のいい男と目があった。ジロリとした視線で私をどこか牽制しようとしているようだ。こほん、乾いた咳払いを一つすると、再びナイフとフォークを動かし始めた。黙ってしまった私を暫くパンケーキを食べながらも見つめていた杉元くんだったが、なんとなくバツが悪くなったのか、ポツリポツリと先ほどの車内同様に鶴見さんに自分から話しかけ始めた。

「…そう言えば、日本蜜蜂って、世界でも一番小さい蜂なんでしたっけ。」
「確かにそうです。そのように聞いています。」
「近頃は外来種の蜂が増えたから、肩身が狭くてかわいそうですよね。たまにあるんですよ。家にアシナガバチやスズメバチの蜂の巣ができちゃって、気が動転した人が消防署に連絡してくることが。」
「ほお、それは困りましたねえ、」
「はい。俺たちではどうすることもできないんで、プロに頼むよう依頼するしかないんですけどね。」

苦笑してそう言うと杉元くんは私に視線を合わせた。へえ、と声を上げればうん、といつもの顔でそう言ったので少し安心した。先ほどまでは目に見えてピリピリしていた彼も、ちょっとお腹が膨れて気が安らかになったのかも知れない。

「スズメバチに巣が奪われてしまうこともあるとテレビでやっていました。やっぱ、でかいやつらには勝てないんですかね。俺も蜂と言うよりも虫全般があまり得意じゃないんで。」
「ふふ。さあ、どうでしょうね。でも、必ずしもそうとは限らないんじゃないでしょうか。」
「そうなんですか?」
「ええ。体の小さい日本蜜蜂ですが、スズメバチやアシナガバチにはない特異で唯一の習性があるんですよ。」
「へえ。どんな習性なんですか。」
「蜂の球と書いて蜂球(ほうきゅう)と言うことを日本蜜蜂はするそうです。今度、ネットで調べてみてください。読んで字の如く、蜜蜂たちが束になって侵入者をぐるりと囲んで団子の中に閉じ込めるのです。」
「不思議っすね。それからどうするんですか?」
「ええ。そのまま窒息死させるか、或いは熱殺するそうです。蜂球の中心温度は48〜50度にもなるそうで、スズメバチなら45度程度で死ぬと言うから、そうして強大な相手と戦っていくそうです。」
「なにそれ…蜂めっちゃ健気…」

ジーンと感動してしまった杉元くんと同様に私もそんな蜂の習性など知らず驚き思わず握っていたナイフとフォークを止めて真面目に話を聞いてしまった。

「知りませんでした。蜜蜂たちは熱とか大丈夫なのですか?」
「彼らはスズメバチよりも若干熱には強いようですが、50度を超えることもあるので、そうすると犠牲になってしまう子もいるようだね。」
「…そうなんだ。」

自分よりも大きく、そして強い敵を前にした時自分は一体どうやって戦うのだろうか。もし自分の大事なものや守りたいものを脅かされた時、私は果たしてこの蜜蜂たちのように身を削ってまで戦えるのだろうか。私のような一介のOLごときが考えるには余りにも壮大で想像もつかない。鶴見さんのようなたくさんの人の上を行く人や、或いは杉元くんのような、たくさんの人の命を救う人なら、きっとふとした瞬間やその場その場で感じるのかも知れない。私では、到底考えられない。途方も無いような気がしてきて、色々ああでも無いこうでも無いといつもの癖で考えてみたが、やはり身に余る話だったので途中で考えるのを放棄してしんみりしながら残りのパンケーキを平らげることに専念した。

「蜂って結構やるんですね。知りませんでした。」
「生き物を飼っているとね、不思議とこう言うことも頭に残るんですよ。昔よりもBBCやナショナルジオグラフィックとか見るようになるしね。…ああ、これはただ単に歳をとったからかも知れないけれど。」
「今度俺もBBCみてみますね。ネットフリックスとかにあるはずだよな。今度明日子ちゃんと皆で見ようよ。ねえ、なまえちゃん」
「うん、そうだね。」

他愛もない話を続けていれば、この後どうするんだろうとふと思う。鶴見さんと二人っきりであればそのままお散歩したり、別の場所でデートの続きができるのだが、今は何しろとっても大きな“番犬”が付いているので、なかなか自由には動けまい。そう思うと何だか気分が沈んでしまう。私を心配してくれることは十分に嬉しいが、私がどうしたいかは正直私自身で決めてもいいのではないかと思う。

確かに、ぼうっとしているし危なっかしいかも知れないけれど、もう少し私を信じてくれてもいいのではないかとさえ思えてきてしまって、その瞬間そんな身勝手な考えで私を本当に心配してくれて、尚且つ終われる白石くんをかばっている心の優しい杉元くんに申し訳なくなった。本当になんて私は愚かで非力なんだろうと。

「…あの、お手洗いにいってもいいですか?」
「ええ。入り口左手ですよ。」

ありがとうございます、と会釈をすると早々にその場を離れた。正直今この状況で杉元くんと鶴見さんを二人きりにさせるのは余り得策ではないだろうが、そうでもしないと気持ちが悪くていてもたってもいられなかった。静かな場所で深呼吸がしたい、そう思った。まずは取り敢えず杉元くんに自分は大丈夫だからと言うことを伝えなければとそう思って、トイレの扉の前で深呼吸をしてスマホの入ったポケットに手を伸ばした。










「どうかしたの?」
「…いや、」

お手洗いに戻ってからはそう時間は経っていなかったはずだ。少しだけ気分を落ち着かせるためにいつも以上に長く離席はしていたが、それもほんの許容範囲であったと思う。明らかに先ほどとは打って変わって空気が変わっている気がした。とはいえ、別段何かまずいことが起きてしまったと言う感じはなく、ただ鶴見さんを目の前にして堂々としていたはずの杉元くんが、どこかしょんぼりしたように視線を足元に落としていた。

ちらりと視線を横にすれば、食後の珈琲を嗜むいつもの鶴見さんがいらっしゃって、私に対して珈琲のおかわりを勧めてきた。丁重に断りグラスの中の水を飲み干して、一体何があったのか頭の中で考えてみたが、検討もつかない。あとで詳細は杉元くんに聞かねばと心の中で焦りつつも平常心を保った。

「これからどうしましょうか。混んでいますし、一先ずお店を出ましょう。」
「あ、お会計は、」
「ご心配いりません、もう済ませましたよ」
「えっあ、お支払いします」
「いいえ、結構です。」
「そんな…ごちそうさまです、あとで何かご馳走させて下さい」
「気にしないでくれ。それに、私だけではないよ」
「あ、杉元くん、ご馳走さま」

私が慌ててそう言えば杉元くんはああ、と言って帽子を被り、そして立ち上がった。やはりいつもと違う雰囲気で首を少し捻ったが、彼らが先に歩き始めたのでその背中に黙ってついていく。外に出ると夏の陽気のように日差しが暖かかく、そして若干風が吹いていて心地がいい。少し雲が出てきたように感じたが、それもまた春らしくていい陽気であった。

ふと視線を横に向ければ何処からともなく春を知らせるようにモンシロチョウが一匹ひらひらと宙を舞っていて、ずっと眺めていられるように感じた。シートベルトを締めればすぐに先ほどと同じようにエンジンが鳴り、その瞬間に前から涼しい風が吹いてくる。バックミラー越しに見た後ろの杉元くんは、先ほどとは打って変わって黙ったまま外を眺めていた。

「いい天気ですね。」
「ええ。でも風が吹いていて心地が良い。どうです、お腹も満たされたことだし、散歩にでも。」
「素敵ですね。」
「杉元さんと先ほど実はお話したんですが、お台場の方にでも足を運びませんか。あの辺なら駐車場もあるし、散歩したらきっと気持ちがいいはずですよ。」
「いいですね」
「何か素敵な物が撮れるかもしれないし。」

鶴見さんはそう言うといつものようにスムーズに車を移動させ始めた。先ほどから黙ったままの杉元くんには最初こそ不審に思っていたが、鶴見さんとの会話に意識を持ってかれて別段気にならなくなった。高速道路を飛ばして行けばお台場へは30分もかからない。昔読んだ漫画の中でデートにお台場に行くシーンがあって、実は密かに憧れていたのだ。昔付き合っていた彼とは結局行かずじまいだったが、鶴見さんと行けるのならばこんなチャンスは願っても無い。お目付役兼御守りの杉元くん付きではあるけれど。

時刻は17時を過ぎたところだったので、夕方過ぎにはきっと夜景が見れるだろう。あの辺は開発している場所が多いせいか、夜は意外にもひっそりしている。もう少し行けば倉庫街で、夜も深まると女性一人では歩けない寂しい場所もあるが、フジテレビの近くはいつも人でいっぱいだ。頑張って足を伸ばせば観覧車もあるし、海の潮風を感じながらお散歩もできる。色々なCMで良く夜景のシーンで使われる場所も行ったことがあるから、記憶を頼れば行けるはずだ。

「長谷川さんはお台場に良く行かれるんですか?」
「あまり行かないなあ…。でも豊洲もあるし、きっとこれからもっと賑やかになるでしょうね。」
「ええ。あ、観覧車ありますよね、観覧車。お台場かな?もっと有明よりかしら。」
「ああ、ありましたね。あそこにも行きましょうか。以前、みょうじさんが遊園地がお好きだと行っていましたよね。」
「そんなこと覚えてくださっていたの?」
「ええ。ジェットコースターはないかもしれないけれど、よければ。」
「ぜひ、」

長谷川さんと行けるのならと言う言葉を寸での所ので飲み込んで、チラとバックミラーを再び見れば、後ろの杉元くんは眠ってしまったらしく帽子を目深にかぶったままスウスウと寝息を立てていた。束の間の二人きりの空間のようで嬉しくて窓の方を向けば、あっという間にレインボーブリッジに到達したらしくオレンジ色に光る有明の様子がまじまじと見れた。

「綺麗」と小さく呟けば隣で静かに運転をする彼も「本当だね」と答えた。ごく自然と鞄の中からデジカメを取り出しシャッターを押していれば、わざわざ私が良く見れるようにか左側で速度ギリギリのところまでスピードを落として鶴見さんが運転してくださった。左側と、右側の窓から見れる景色を撮っていく間、気づかれないように数枚だけ鶴見さんをメインに写した。もちろんそんな事など知らない彼は眩しい橙色の西日に目を細めながら、それでも慎重に運転を続けていた。

たった数秒、シャッターを切るほどの短くか細い時間がまるでスローモーションのように長く感じられて、橙色に染まった彼の白い頬に触れたい衝動にかられた。きっとその美しい頬は、私の子供のような体温の手よりも冷たくて、そして滑らかなんだろうと思う。今朝我が家に迎え入れたばかりのブラックエンゼル たちの尾鰭がベランダからの日差しに当たって透けていたのを思い出して、それから胸の奥がきゅうう、と締め付けられるような気がした。

あのパンケーキ屋さんで女の子たちは確かに二人を見ていたけれど、きっと本気で付き合うなら誰と問われれば大半が杉元くんを選ぶんだろうと思う。若くて、優しくて、かっこよくて。お日様みたいに優しい彼を嫌う人などいるのだろうか。私のことを心配して自分の危険も顧みずに助けに来てくれる彼を、誰が嫌うのだろうか。でも、残念な私はこの若くて優しい青年よりも、この傍で日差しに目を細めて前を見つめるこの男性を愛してしまっているのだ。

一目惚れと言うならばまだ可愛らしいのだろう。そんな簡単なものではないと思うし、そう信じたいとも思う。私は確かにそこまで単純な女でも、かと言ってややこしく難しい女でもなかったはずだ。それがどうしてこの男性を前にすると親友を差し置いてまで一緒にいようと思えるほど大胆になれるのだろうか。恋のなせる技だとでも言うのだろうか。恋の病とは良く言うが、まさにこの状態を指すのだろうか。それとも、本当にただの心の病を患っているだけなのだろうか。

「…分からない」
「ん?」
「いえ、すみません、撮りやすくしてくださってありがとうございます。」

気を遣って頂いたことに私が「すみません」、と謝れば何て事もないように「この辺は白バイがいるから、かえってスピードを落とした方がいいんだよ」と笑われた。鶴見さんの運転をする車は滑らかに滞りなく進んでいった。高速道路を降りれば新しい豊洲の入り組んだ道路へと入り込む。休日のせいかそれなりに混んでいて、高速道路とはやはり打って変わっていた。

湾岸沿いを走るマリオカートの車たちに手を振り写真を構えれば、彼らも笑顔で応えてくれた。観覧車沿いの駐車場に車を停めると、一息吐いてお待たせしましたと少し笑った。カメラを置いて窓の外を見遣ればちらほらと人がいて、工事をしている有明コロシアムや向こう側には風力発電ののっぽの風車がわずかにくるくる回っているのが見える。潮風が思いの外冷たそうで、轟々とわずかに吹いては水面を揺らして居た。

杉元くんを起こそうと後ろを向けば彼はもう起きて居たのか大きな欠伸を一つして、それからもう着いたんですか、と暢気な声をあげた。帰りがあるからとコートを置いて行こうとしたが、風があるから寒いかもしれないよという鶴見さんのご忠告で着ていくことにする。バン、と勢いよく車の扉を閉めていざいかんと歩き出せば、パレットタウンへは割と距離があった。

「ここから数分歩きます。」
「ビックサイトから近いんですね」
「ええ。ゆりかもめもすぐそこですよ。仲良く並んでいるんです。」
「高速道路の音がします。」
「すぐ後ろにあるんですよ。大きな橋があってね。そこから見下ろせるんです。大きな川を見ているようで面白いでんすよ。」
「へえ」

寝ぼけている杉元くんを引っ張って車を降りる。思いの外休日だからか観覧車はもちろんのこと周辺の施設も混んでいて、すぐに向かうのは至難の技だった。そうこうしているうちにどんどん日が暮れてきて、橙色は群青色へと変わっていった。パレットタウンもものすごい賑わいで、若い子から家族連れも多かった。

何だか私たち三人組が凸凹でちぐはぐな感じがして、少し不思議な心地がする。人が多いのではぐれないようにお互い注意しながらも、上を見上げればすぐそこにはカラフルな大観覧車が見えた。高校生の時、友達と一緒にパレットタウンに行って一人迷子になったことがあると言えば杉元くんにも鶴見さんにも笑われてしまった。

「流石に今日ははぐれないでね、なまえちゃん」
「大丈夫…多分。」
「迷子になったら放送かけるよ。」
「ヤメて。」

展望デッキへと上がる頃にはもうすっかり空が暗くなってしまった。ここまで来ると流石にもうこの時間帯のせいか夜景を眺めようとカップルの姿がちらほら見えた。杉元くんには悪いけど、やはりこれは鶴見さんと私とで行きたかったな、とちょっと残念に思う(とは言え皆おおよそ若い子ばかりだったけれど)。鶴見さんを見遣ればぼんやりと上を向いたまま静かに口をキュッと結んでいた。彼を見つめた刹那、ひゅうう、と冷たい潮風が吹いて彼の乱れた数本の髪を揺らした。

こんなにキラキラとして眩しいものを見上げているのにその目がとても寂しそうで胸がちくりとして、訳も分からず目の奥が熱くなる。本当に美しい方だと思う。今日は午前中とても天気が良かったのだが、流石に海風が当たって少しばかり肌寒い。

スラックスと薄手のシャツを着ただけの彼は大丈夫なのかと思う。でも鶴見さんのいう通り、コートを持ってきて正解だった。杉元くんがブルリと大袈裟に震えたかと思えば、お手洗いに言っても良いかと言ったのでこくんと頷けばそのまま足早に再び施設の方へと走って行った。残された二人でぼんやり遥か上の観覧車に視線を向けていれば、杉元くんのがすっかり移ってしまったのかブルリと小さく震えた後にくしゃみが一つ出た。

「寒いだろう。マフラーをかそうか。」
「いいえ、大丈夫です。」
「良いんだ。つけてくれ。」
「でも、これでは長谷川さんが風邪を引いてしまいますよ?」
「私は元々寒いのは平気なんだよ。それより、女性はただでさえ冷え性の人が多いからね。貸してあげよう。」

そう言って鶴見さんは私のコートをしっかりとつけて下さると自分が巻いていた薄手のストールを私に掛けてくださった。拒否をすることもできず思わず固まってそれを受け入れていれば、あっという間に彼はストールを播き終えて、すっかり満足したようににこりと微笑んだ。

「長谷川さん、本当に寒くないんですか?」
「ああ。大丈夫だ。ありがとう。」
「そうですか…あとちょっとみたいですね。」

私がそう言えばああ、と小さくそう答えて、それから再び空を仰がれる。ストールが取れて露わになった彼の首筋の美しさに目を奪われる。彼のお顔そのものがまるで芸術作品のようだと思う。さっきの車の中みたいに写真が取れないのがとても悔やまれた。

「長谷川さんはドライブがお好きそうですね」
「ああ。若い頃からね。」
「私は見てる方が好きなの。」
「ふふ。あまり運転は得意じゃなかったんだっけ。」
「そうなんです。ゲームも、演奏も、お話も、見たり聞いている方が好きなの。」
「へえ。」
「車もね、助手席に座っているのも好きだけど、ぼうっと歩道橋やビルの屋上で大きな道路を行くたくさんの車を見ているのも好き。」
「じゃあ、あの東京テレポートの歩道橋は気にいると思うよ。後ろから前から、本当に絶え間なく車が行き来するんだ。一体みんな、どこへ行ってしまうんだろうと、ワクワクするような、置いていかれるような寂しい気持ちがするんだ。」
「ええ。でも、私、寂しい気持ちも全部好きなんです。観覧車は、だから大好きなんです。上に到達して全てを見渡せるのはあっという間でしょう?だから良いの。ほんの一瞬だから良いの。いつも見えていたら、きっとそんなに有難いと思わないし、尊いなとも、思えないでしょう。」
「………」
「長谷川さんが何が好きですか?」
「…そうだね。私も見るのは好きだよ。草木や、絵画や、熱帯魚や…。そうだね、あと、写真を見るのが好きだよ。」
「ふふ。でも、あなたはどれも自分でやるのも全部上手そうですね。」
「ある程度ね。昔から変に要領がいいんだ。だからこそ、これぞ、というものがなかなか見つからない。」
「羨ましい。」
「私はみょうじさんが羨ましいよ。あんなに尊く美しい写真を撮れるんだから。」

僕にはできなかった。呟くようにそう言うと、彼は小さく笑って、それから再び観覧車の方を見た。チラチラと彼を見て喜々とする女性達にも目もくれず、彼は惜しみなくその美しいかんばせを上の方へと向けるのだった。

「唯一、私にできることはこれしかないんです。初めて自分でやってみようと思えたのが、写真だったの。それ以外は、何にもできない。パスタは茹ですぎるし、朝顔は枯らすし、熱帯魚も、きっと…かわいそうだけど、」
「大丈夫だよ。寂しい気持ちや尊い気持ちの分かる子は、絶対に大丈夫。あの子達もきっと応えてくれるさ。」

そう言われて思わず目を見開いて彼を見遣れば、鶴見さんはにこりと笑ってそれから潮風で乱れてしまった私の前髪を耳に掛けた。なんだか気恥ずかしてくえへへ、とはにかめば余計に恥ずかしくなって、視線を下に向ければ目の前に並ぶファミリーの小さな子供の可愛らしい無垢な後頭部が見えた。そしてふと、鶴見さんも私に向ける眼差しはこんな類のものなんだろうかと思うとなんだか切なくて、びゅうびゅう吹き荒ぶ潮風に隠れて小さく息を吐いた。

「…秘密の場所、あと少しで掴めそうな気がするんです。」
「そうか、それは良い傾向だね。」
「ええ。でも、あと少しなのに、足りないの。」
「足りない?」
「何かが圧倒的に足りないの。あと少しで完全になる気がすると言うか、しっくりくるはずなのに
、まるで何か隠されていて、知りたいのに教えてくれないような、私自身も知りたくないような、そんな感じがするの。…ごめんなさい、私、変なこと言ってますね。」
「いや、分かる気がするよ。」

ほうっと再び息を吸って吐けば鶴見さんのとても良い匂いがして胸の奥にぽっと明るく火が灯るような感覚がすると同時に、明るい観覧車の光に目を細める彼のその顔を見ていると何だか胸騒ぎがした。思わず本能的に彼の服の袖を引っ張って見れば、彼は心底驚いたように目を見開いて、それからどうしたんだ、といつもの優しい声色でそう仰った。

「…鶴見さん、」
「………」

そう言って思わず自分で自分の言葉にひどく驚いた。自分ではいつものように彼の名前を呼んでいたつもりだったからだ。それ以上の言葉が続かず、じっとお互い目を見つめたまま、ひたすら静かに呼吸を繰り返していればまるでこのガヤガヤした人々の声が間遠に聞こえて、だんだんと視界に映る情景も観覧車の乱暴とも言えるこの光の乱反射以外、全て無音でモノクロの世界のように思えた。刹那、あの日あの時恐る恐るシャッターを切ったあの寂しくて悲しい写真館の情景が不思議と浮かんでくるようで、胸が詰まった。

「ごめん、ごめん、お手洗い混んでたわ。」

その声が聞こえた瞬間、それまで止まっていた時間が戻っていくのを確かに感じた。ふと隣を向けばいつもの優しい顔をした杉元くんがにこやかに、どこか気恥ずかしそうに立っていて、私と鶴見さんの事など構わずにその間にずいと入り込むと、先ほどと同じように寒いね、と笑った。そして私が有無を言わぬその間、袖を力なく掴んでいた私の手を優しく振りほどいたのは、冷たくて大きくて、杉元くんとは明らかに違う質感の大人の手だった。

「そうだね。何か温かいものを買ってこよう。杉元くん、みょうじさんと一緒にいて下さい。」
「え?」
「何か飲もうかと話していたんです。無くしたらいけないから、チケット持って貰って良いですか?」
「あ、はい。」

杉元くんはそう言うと鶴見さんから人数分の観覧車のチケットを取り、私の腕を少し引いて自分の前に私を立たせた。鶴見さんは何が飲みたいか聞くと、近くのカフェに行くと行ってそのまま杉元くんと入れ違うように歩かれて、あっと言う間に人混みの中へと消えて行ってしまった。それはまるで夥しい数のミツバチの群衆の中へと進んでいくように見えた。

余りに自然に、有無を言わさずに行ってしまったので、自分が行くと言う声をかけることさえ出来なかった。暫くは呆然としていたが、すぐに隣の杉元くんがお手洗いが混んでいたことや、パレットタウンは思っていたよりも広いので私が以前迷子になったのも頷けると言う話を始めたのですぐに気を取られた。その内に残された杉元くんと暫くぼんやり観覧車を下から見上げたりスマホで写真を撮っていくうちに、ふと先ほどのことを思い出した。

「何かあったの?」
「ううん、何でもない。私よりも、杉元くん、さっき鶴見さんと何を話したの?私がお手洗いから戻ってきたとき、ちょと変だったよ?」
「いや、何でもないよ。」

被っていた帽子を目深に被り、杉元くん足元を見た。本当に彼は嘘が下手な人だと思う。

「…鶴見さんとは全然、違うね。」
「え?」
「ううん、何でもないよ。」
「あ。それより、あともう少しできちゃうけど、間に合うかな。」
「あ、本当だ。」

存外あっという間に順番が回ってきてしまって、飲み物を取りに行ってしまったあの人を呼び戻そうと反射的に慌ててスマホを取り出そうとすれば、つい今しがた着信が入って居たようだった。色々杉元くんと話していたので気がつかなかったようだ。ショートメールもその直後届いていて、それを展開すれば思わず「あ、」と言う声が漏れた。

「どうしたの?」
「鶴見さん、帰るって…」
「は?観覧車は?」
「分からない…でも、急用だって。仕事で呼ばれたって言ってる…」

すっと目の前の杉元くんに画面を見せれば、彼も目を見開いて、それから彼は何かを言おうとした様子だったが、ちょうど観覧車のスタッフさんから籠に乗って下さいと声がかかるタイミングが重なった。私自身もどうしようかと取り乱すかと思いきや、意外にもすんなりと至って心の中は平常心で、普通の顔をしていたと思う。直感的に、不思議とそうなるような予感がしていた。

真っ青になって私の様子を伺う杉元くんとは裏腹に、鶴見さんに先ほど巻いてもらったストールが風で飛ばされないようぎゅっと手で抑え、もう片方の手で杉元くんの腕をとると、何事もなかったかのように静かに観覧車の籠へと足を進めた。


2019.05.17.
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