不眠症のウサギ

「じゃあ、来週の日曜日の3時頃に前と同じ車でエントランス前にいますので。ついたらご連絡しますから、それまではお部屋で待っていてください。」
「はい。おやすみなさい。」
「おやすみ…良い夢を。」

長谷川さんの背中がエレベーターに消えていくのをしっかり確認すると一息つく。少しはにかんだ表情を提げたまま扉を閉めてそろそろ白石さんを解放してやろうと部屋に向かえばダダダっと言う慌てたような足音を耳にしてなんだと首を傾げれば、視界にはじっとりと嫌な脂汗を額ににじませた見慣れたタコ坊主がとんでもない剣幕で私を出迎えた。

「ちょ、今の、今のは!?!?!?」
「長谷川さんですよ、前にも話したでしょ。私が今とても好きな人です」
「ハセガワぁ!?違ぇよ!あいつはそんな名前の男じゃねえって!」
「白石さん彼のこと知ってるの?」
「知ってるも何も、あの男はハセガワじゃねえ。“ツルミ”だ。」
「はあ?人違いですよ。前にもらった名刺にも確かそう書いてありましたし…」
「名刺なんかいくらでも名前変えられるだろうが!」
「、そうかもしれないけれど、何で名前を偽る必要があるんですか?白石さんならまだしも、私、ただの一般人ですよ?」
「一般人だからこそ、偽名を使ってんだろう?都合が悪いからだよ!そうとしか考えられねえだろう。そうじゃなけりゃ、何で偽名なんか使う?」
「でも、私彼のお家にも行ったし、実際、長谷川さんの秘書にも会ったんですよ。秘書の方の名刺ももらったから、間違い無いです。普通のうまく行ってる不動産屋さんの社長さんですよ、きっと。」
「ああ、そうだろうよ。だだ…、あの男は普通の会社社長じゃねえんだよ。………なんだよっ!エイブルの社長だって聞いてかから俺もそう信じてたのに……!」
「いや、だから違うってあの時否定しましたけど」

白石さんが可笑しいのは今に始まったことでは無いが、こんなに焦っているのは初めて見るかもしれない。杉元くんを怒らせた時も、チンピラに絡まれた時も、女性問題で複数人の女の子に集団で詰められた時も、こんなに血相を変えて顔を青くする彼を見るのは初めてだった。明らかに嘘とは思えぬその様子に思わず私も脂汗が伝染したように額にじんわりとしたものが滲む。よくわからないが、これ以上先を白石さんから聞いてはいけない気がする。でも、そう言うわけにも行かないだろう。何が一体起こっているのか。階下にもう着いたであろう彼をベランダから見送ろうとしたのだが、その足がすっかり竦んでいる。寒さのせいでは、決して無い。心臓がどっどっどっと早まっていくのを感じる。根拠はないが、直感的に何かが今起きようとしていることが分かって、まるで拒否反応でも起こしているかの様な感覚だ。理屈でもないので説明しようのない、得体の知れない恐怖の様なものがつつ、と背筋を伝って、そしてひんやりと背中を撫でた。

「あの人は、誰なの……?」

恐る恐る白石さんを覗き込みながらそう言えば、彼はこれまでよりも少し落ち着いたような視線で私の目を見た。テレビからは人々の笑い声が他人事の様に部屋に流れているが、今は一つも内容が入ってこない。白石さんはどこか言い辛そうに、躊躇うように視線を足元に移したのち、たっぷりと時間をかけて沈黙し、ため息を吐くとようやっと口を開いた。


「あの男は…、“鶴見篤四郎”は、俺を追ってるヤクザの親玉だ」











「なまえ、大丈夫か?」

改札を抜けてぼんやりしたまま階段を下り切ったところで声をかけられてその方向を向けば心配そうに覗き込むその顔に少しだけ驚いて、それから反射的に口角を上げた。

「学校帰り?」
「ああ。前向いて歩かないと人にぶつかる。何かあったのか?」

目の前の可愛らしい少女にそう言われて思わず苦笑する。久々に見た彼女は相変わらず何処と無く大人っぽくて、それから無垢な瞳で私を覗いてくる。時刻は16時。今日は具合が悪そうだからと外回りからそのまま帰宅していいと上司から気を使われて早退したが、顔色こそ寝不足で悪いものの、そこまで重症というほどでもなかった。

「明日子さん、良かったらケーキ食べない?」
「いいのか?」
「うん。商店街のケーキ屋さん、行ってみようか。私も今日早く上がれたから。」

良かったら、と言おうと思った瞬間にはすでにアシリパさんに手を取られていて、そのまま商店街の方へとずんずか進んでいく。視界の端にちらりと見覚えのある不動産屋さんが見えて明かりがついているのを確認したが、次の瞬間には視線をそらして小さな目の前の背中に意識を集中させた。商店街の中ほどまで行くといつも明日子ちゃんが好んで買っている老舗ケーキ屋さんに行き着く。ビル丸々一棟この老舗菓子店の所有で、1階は販売店、2階は1階で買ったケーキや珈琲を食べることのできる喫茶室になっていて、3階より上は昼夜になるとフレンチレストランになる。有名なのはここのアップルパイで、佐一くんは事あるごとにアシリパちゃんのために時間を見つけては、このお店のケーキやアップルパイを買っている様だ。私もよく利用しているのだが、最近はあの喫茶店に行くことが多かったので、本当に久々の入店だった。小分けにされたアップルケーキとショートケーキを選び、明日子ちゃんはオレンジジュース、私は珈琲を手に取り喫茶室へと赴く。この時間帯はどうやら学生さんが多い様で、賑やかな中にもカリカリとシャーペンやボールペンの子気味良い音が聞こえて心地がよかった。

「杉元から小さい魚を入れたと聞いた。大きい魚はいつ来るんだ?」
「明後日だよ。あともう少し。」
「そうか。何色の魚が来るんだ?」
「黒だよ。真っ黒の綺麗な魚さんなの。来たら明日子ちゃんも見に来てよ。」
「ああ。写真を撮ってお婆に見せたいんだ。」
「きっと綺麗だから驚くよ。」

私がそう言えば明日子ちゃんはうん、と頷いて嬉しそうにオレンジジュースのストローを口に含んだ。久々に会った明日子ちゃんは少し前よりもまた背が伸びている気がしたし、どんどん可愛くなっていっている気がした。大人びているからランドセルを背負っていなければ中学生くらいに間違われてしまうだろう。杉元くんは確かに過保護ではあるが、この子にセコムの防犯ブザーの一つや二つつけてあげたい気持ちは分からなくもない。

「そう言えば最近白石を見ない、なまえは会ったのか?」
「うん。出稼ぎに行ってるみたい。数ヶ月くらいしたら戻るっていってるし、大丈夫だよ。」

ラインとか繋がっているし。そう言えば明日子さんは「そうか」、と言って私が差し出したアップルパイに手を出した。白石さんとはその後合流した杉元くんと話し合った結果、杉元くんの故郷に一時的身を寄せることとなった。私がこの二人と出会う前にも似た様な修羅場はいくつかあったらしく、杉元くんは最初こそ怒ったが、存外驚かずその後は淡々と自分の故郷に行く様に指示した(前にもその様にしてほとぼりが冷めるまで白石さんを匿っていたらしい。杉元くんの家は細々とした農家なのできっとそこを手伝わせるのだろう)。私も何か役に立てればと申し出れば、話が話なのであまり関わらない方が良いし、今後気をつけた方が良いと杉元くんには釘を刺された。それから、二度とあの男、長谷川さん改め鶴見さんとは会わない様にとも。

「最近杉元の元気がないんだ」
「そうなの?」
「ご飯もあまり美味しそうに食べないし、頭そんなによくないはずなのに何か考え事しているみたいなんだ。」
「あはは、なにそれ」
「なまえ、何か知ってるか?」

そう言ってまっすぐ私を見据えて問いかける少女を前に私は一瞬言葉を失う感覚を覚えた。罪悪感というものを久々に思い起こした気がする。

「お腹でも痛いんじゃないの?」
「胃薬をやったけどあんまり効果はなかったんだ。」
「そう。きっと仕事が忙しいから、疲れてるのかもね。杉並の消防署、今すごく頑張ってるって聞くよ?防災活動が功を奏して23区内でも火災の件数が減少してるんだってさ。きっと頑張ってるから、仕事に追われてるんだよ。」
「そうか、仕事ならしょうがないな…」
「良かったらお土産買っておこうか。アップルパイワンホール注文するから、お家に帰って杉元くんたちと食べな。」
「ああ!お婆も喜ぶ!」
「良かった。」

理由がなにであれ、真実を口にするのがためらわれる時、きっと人は嘘をつく。“鶴見さん”も、嘘をつくたびに今の私と似た様な気持ちを覚えるのだろうか。それとも、何も感じないのだろうか。本人に聞くより他ないし、もしかしたら聞いてもあまり意味は成さないのかもしれない。彼と言葉を交わす度にどことなく遠のいていくこの感覚は、これが理由なのだろうか。しみじみそう思って、もうすっかり冷めてしまった苦いコーヒーをゆっくり口に含んだ。







水いっぱいの袋の中にいるのはこの世のものとは思えぬほどの柔らかで、そしてとても繊細な生き物であった。目を合わせればスン、と澄まして違う方向に行ってしまう。とても誇り高い生き物の様にも思えた。袋を解いて一思いに箱庭の様な四方形の透明の箱の中に放てば、彼らはやや驚いた様に最初は動かなかったが、アカヒレの集団を尻目にようやくその尾びれや背びれを見事になびかせながら泳ぎ始めた。何だか感慨深くて、窓を開け放ち光を差し込む。まるで海底に太陽の光が差し込んできたかの様だ。

流しっぱなしのCDコンポのスピーカーからはまるで狙っていたかの様に「La Javanaise」が流れていた。『シェイプ・オブ・ウォーター』の中で半魚人の奇怪な生き物が音楽に合わせて踊るシーンがあるが、まさにそれを彷彿とさせる様だ。瞼を閉じれば、私もこの水槽の中にいて、底砂の方から美しい黒や赤の腹を見上げてうっとりする光景が浮かんでくる。フランス語は得意ではない。いや、というよりも大学の頃に講義をとったが、からっきし分からずに終えてしまったのが惜しいくらいだ。La Javanaiseを聞いていると、心底そう思った。

劇場で一人で見に行った時、私はこの美しいフランス語の歌に心を打たれた。もちろん映画にも感動したが、この映画の世界観を引き立てる愛すべき音楽たちにも深い感銘を受けた。そのあとは早い話がフランス語でも英語でも構わないとすぐにアマゾンでサウンドトラックCDを購入し今に至る。CDの美しい音楽たちを耳に水槽を離れると鼻歌交じりに顔を洗って、それから念入りに化粧水をつけていく。春の乾燥に晒された肌はガサガサで、ケアのし甲斐があった。

「(杉元くんに怒られてしまうな、)」

鏡に向き合いながら目の下のクマを隠すコンシーラーを丹念につけていてふとそう思ったが、今更もう如何しようも無い。昨日来た長谷川さん(鶴見さん)のショートメールにも明日はいけそうかという質問に「行けます」と返してしまった。心優しい彼なら諸事情で行けなくなったと言えばきっと彼は何の疑いもなく承諾して今回の逢瀬を中断してくれるだろう。ダメだと分かっていたのにどうして行けるなどと返事を返してしまったのか。それは自分でもよく分からなかったし、自分が一番よく分かっていなかった。怖くないと言えば、それは嘘になる。でもそれと同時にどうしようもなく彼に会いたいとも思う。問い詰める勇気も、質問をする勇気も何もない。それでも、会えば何かが変わるんではないかと、きっと私は淡い期待を抱いているのかもしれない。

きっと現実はそう甘くはないだろうけれど、会いたくて、その声が聞きたくて、苦しいほどに彼に会いたい。それだけではダメなんだろうか。ただの無謀なわがままであることは分かっている。刹那的な気の迷いだろうことも分かっている。彼が私を利用して、或いは揺すられて白石さんのいう通り、彼の居場所を教える様に仕向けてくることだってあるかもしれない。

もし運が悪ければ私はきっとどこかに連れ去られてしまう事もあるだろう。ところで、ここは杉並区だけど東京湾に沈められることはあるんだろうか。こんな時でもまだこんな馬鹿なことを考える気力はあるんだな。本当に愚かだ。なんて愚かなちっぽけな女なんだろう。二律背反した様な気持ちがぐるぐると心のうちで螺旋階段の様に巡って、そして終わりのない地下へと続いていく様だ。

それでも私はそれがどんなに信頼できる人だったとしても、人の言葉なんかよりも自分の目で、耳で、肌でこの人は「誰」なのか、知りたいと思う。

「行かなきゃ、」

「You’ll Never Know」が聞こえてきた頃合いで腕時計を見ればすでに15時を回ろうとしていた。慌てて開けていた窓を閉めてカーテンも閉じる。電気をつけないこの1Kはあっと今に静かな薄暗い部屋へと変わる。水槽の電気をつけて、それからいくつかの餌を落とせば黒と赤の美しい魚たちは水面に集まった。CDを消し、起動していたサンバに別れを告げ、トレンチコートを引っ手繰るとそのまま昨日新宿ルミネで買ったばかりのダイアナの蛇柄の流行りのパンプスに足を通した。

扉を開ければ眩しい光が差し込んできてぎゅっと虹彩が萎んだ気がした。もうふっくらとした桜の芽が母と数日で花を咲かせようとしている。エレベーターに一緒に乗り合わせたお母さんと2人兄弟の男の子と女の子は公園に行くのかお砂場セットと一緒に水筒と、おやつの入った手提げを下げていた。

本当にいい天気だと思う。今月に入って一番の暖かさになるとテレビのアナウンサーも豪語していた。今日は絶好のドライブデート日和と言えよう。エントランスを抜けていつものように入り口に出ると見慣れた車がそこにあった。そのまま駆け寄って手を上げようとすれば、それは横からの聞き慣れた男声によって遮られた。

「おはよう、なまえちゃん」
「す、杉元くん、」

ハッとして横を向けばニコニコとした笑顔を向けるイケメンがそこには居て、手には何やら紙袋を下げている。私が驚きのあまり動けずにいれば、青年は私の目の前までやってくると今度はむすっとした顔で私を見やった。そしてどこか悲しそうな小声でこう囁いた。

「…何で断らなかったんだよ、なまえちゃん。」


2019.4.6.
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