止まらない

『金曜日の夜はセックスだとすれば、祝日の朝は愛である。』

そんなことを誰かが言っていたような、誰も言っていなかったような気もする。祝日の早朝というのはとても新鮮だ。卸したての真っ白なシーツや、封を開けたばかりのプレゼントのように感じる。長谷川さんは夕日が好きだと仰っていた。私も夕日が大好きだ。でも、夜明けの朝日というのはもっと大好きで、とても偉大に感じるのだ。

パイロットフィッシュが家にやって来てもう数日経とうとしていた。始めは相当心配していたが、思いの外彼らはこの大きすぎる水槽を気に入ってくれた様子だった。パイロットフィッシュたちは時折示し合わせたかの様に一斉に泳いだり、あるいは静止してみたりしながら、静かにこの水槽の住人としての職務を全うしようとしてくれている様だった。

アカヒレと言う名の通り美しい赤い筋を持ったこの小さな魚たちは皆大きな大役を背負った指導者(パイロット)だ。性格も穏やかで攻撃的でもないし、ある確固たる規律の上で生活をしている様にも見えた。時折きちんと並んで餌を食む姿なんてとても健気に見えたし、時折ふと水槽の方に視線をやるとまるで私と目が合っているかの様にさえ感じた。気まぐれに買ってみた布袋草にも文句一つあげることなく、悠々と水の中で生活を送ってくれていることに一安心した。あと数日水槽を寝かせれば、あの黒く美しいサザンクロスを迎えに行けるだろう。

「後もう少しだな。」

テーブルの上のカレンダーに丸をつけて、日数を記録する。夏太郎さんの話では、1週間は最低見ておいたほうがいいと言っていた。譲ってくれる友人にもきちんと日数を伝えて、お迎えの日もようやく定まった。全てが順調に進んでいる。自分でもあのルーチンワークだったこの地味な一人暮らし生活に少しだけ変化が起きていると実感できた。少しずつだけど、前進している。それが酷く不思議で、そして嬉しかった。カレンダーに丸を加え終わると一息ついて、やや冷めてしまったレモングラスのお茶を飲む。カレンダーの眺めた後、ふとベランダの方に視線を写せば雨上がりの靄の中でぼんやり光る街灯の光が見えた。あの夜以来、長谷川さんからは連絡はない。

水槽が完成して暫くは何もする事がなく、大人しく待機をしていたせいか最近カメラにまともに触っていないことに気がついた。あの日、長谷川さんが我が家に足を踏み入れた時に見てくださった写真を思い出して、何とは無しに予定も特になかったことをいいことに愛用しているニコンを片手に早起きをして散歩に出かけることにした。正直、低血圧の私からすれば朝の早起きというのは拷問に近い。それでも気分が久々に乗ってきたので特別に行くことにした。

午前6時。早朝の商店街はひっそりとしていて、駅前周辺以外は人の気配はあまりなかった。忙しそうなのはお豆腐屋さんやパン屋さんくらいで、あとはまだまだ眠りに付いているのか空気もひんやりと冷たい。チチチチと鳴る自転車のタイヤの音が大げさに聞こえるくらいには静穏で、学生時代に少しだけやっていた運動部の部活動の朝を思い起こさせた。ハンドルを握る悴んだ手の指先がほんのり赤くなって、冬の早朝のだんだんと空が白んでいく感じがとても神聖に感じる。

行き先は正直決めていなかった。赤信号で止まって、ぼんやりと自転車カゴの中のニコンを見ていればふと、あの教会の事が浮かんできた。久々に歩くのも悪くないかもしれない。そうして少し時間を潰して、朝にあの喫茶店でモーニングをするのも悪くないだろう。そう思った矢先に信号が青になっ他ので、それを合図に教会へと向かうペダルを漕ぐ足に力を込めた。空を見上げれば、うっすらと遠い空に白い月がぼんやり見えた。

「(教会のステンドグラス、綺麗だろうな)」

朝日が差し込んできて教会のてっぺんにそびえ立つ簡素な十字を照らしている。教会の頭が見えて来るとふとあの小さなステンドグラスを思い出した。ここの教会は休日以外にあまり人がいるところを見たことが無かった。うっすらと苔が生えて沢山の蔦が壁にびっしりと伝っているこの石造りの教会は昔からの伝統に沿って造られているらしかった。

ここのステンドグラスは別段物珍しいものでは無かった。寧ろどこにでもありそうな凡庸さがあったが、それがかえって良かった。赤や青の美しいステンドグラスが朝日に照らされて教会の中に光を与えるその姿をたった一人で静かに眺める。一度シャッターを切ればきっとその音は静寂が支配した講堂内に響くのだろう。一番奥の祭壇には十字と一緒にマリア像か飾られていて、人はあまりいないのだがその御前に飾られる花は不思議といつも新鮮で絶えることはなかった。ここに一人暮らしを始めてから何度か散歩に訪れているが、一度として花が耐えたところを見た事が無かった。きっと熱心な信者の人々が面倒を見ているのだろう。信じる力とは、そう言った細やかな心遣いなのだと、こんな愚かな私でさえも思う。

ザクザクと霜焼けと枯れ葉の敷き詰められた絨毯のような、小さな散歩道をブーツの底で踏みしめながら歩んでいく。道の横に見える大きな切り株の上には誰かが重ねたのだろうか、平べったい石がいくつか積み重なっていて、その横にはドングリや松ぼっくりが置かれていた。朝靄がうっすらとかかるこの裏山を一人で歩いていると妙な心地になる。薄らと張られた蜘蛛の巣の朝露がついたのや、時折するりと葉っぱから落ちてくる朝露にニコンが濡れないように気をつけながら進んでいく。耳を澄ませば間遠に囀る雀の声や、カサカサと揺れる木々の声が聞こえてきた。

前からくる大きな秋田犬の散歩の人とすれ違いざまに会釈をして間も無く進んでいけば、見慣れた石造りの建物が見えてきた。いつも鍵の掛かっていない半開きの戸に手を掛けた刹那、ふとその横の建物に違和感を感じてその手を止めた。そのまま回ってすぐ傍の建物の方へと移動した。ぐるりと回ることのできるその建物には今は規制線が貼られていて、ラミネートされた簡素な注意書きには『崩落の危険あり・立ち入り禁止』と書かれていた。ここは何を隠そう、私があの例の写真をとった住居兼写真館の、燃えて半壊した跡地である。

あの日以来、私はここに足を踏み入れる事はなかったが、以前よりも随分寂れてしまったようにも見えた。火災あとの老朽化が進んだ木造で雨風に野晒しにされた半壊の状態ではこうして今の今まで現存しているだけでも奇跡のように思える。誰も住んでいなければ家はどんどん荒んでくるのだ。蔦が絡み、隙間ができ、狐狸が入り込んで、やがて腐っていく。

ふと、喫茶店のマスターの話を思い起こした。最近若い子たちが肝試しと評してここに夜な夜な足を踏み入れてはSNSやユーチューブにあげるのが問題になっていると。ここで亡くなった人がいるとかいないとか、教会とその併設された墓苑がすぐ隣であるという事がそう言った子たちの好奇心を擽るのだろう。今はこうしてもう誰も入る事は許されなくなってしまっている。もしや、私があの時展覧会で発表してしまったから。こうして人々に知らしめてしまったからだろうかと瞬時に心の中に罪悪感が募るのと同時に、私の写真にこんな影響力などあるのだろうかという疑問も浮かぶ。

複雑な気持ちを引き摺ったままその建物を無言でぐるりと回っていたが、やがて視界の先に何かが見えて思わず足を止めた。

「(…誰だろう)」

足元のそれをまじまじと見ようとしゃがみこむ。色とりどりの花が添えられたそれは花束であった。しかも、そう昔から置かれていたわけではなく、新鮮で新しいものに見えた。まだ開かれていない百合や、美しい大輪のガーベラ、薔薇なども見受けられる。大小様々な花が束ねられたそれは、写真館の入り口に細心の注意を払われて何者かの手によって慎重に、そして繊細に人為的に置かれているようだった。

墓苑はもう少し歩いたその先であるし、教会に手向ける為の花であればわざわざここに置くだろうか。そうそう誰かが落としたわけでもないように見えた。すっと起き上がって少しだけ開け放たれた写真館の入り口を伺ってみたが、朝日が隙間から差し込んでいる様子が見えるだけで、それ以上は誰もいない。あの日と同じ様子を保って、時間が止まったかのようにただ其処にあった。

カシャ。

その瞬間、気がつけば実に自然に私の手や目は動き始めていて、まるで思考と体が切り離されて別の意識下のもと動いているようだった。写真家にとって、このような瞬間はそう訪れる事はないかもしれない。そしてシャッターを切った刹那、私はあの日、この写真館の中でこのニコンを翳した時のことをぼんやりと思い起こしていた。








「……白石さん?」
「うっわ、あ、なまえちゃん!」

見覚えのある頭に思わず声をかければ、それは大げさに肩を震わせて此方を振り向いた。私だと気がつくなり安心した様にホッとため息を吐くと、次の瞬間にはグイグイと私の腕を引っ張って裏道の方になぜか誘い込んだ。何だか怪しく感じたものの、仕方がないといそいそとその背についていった。夕方。本屋さんに寄った帰り道、近頃はあの長谷川さんとの例の喫茶店で本を一人で読みながら過ごすことが多くなり、店のマスターにも世間話をするくらいには顔と名前を覚えてもらえる様になった。夕方からはやる事もないので好きな小説家の新刊を読みながら一人喫茶店で優雅に時間も気にせず過ごそうとしたのだが、その道中、なぜだか自販機の影に身を潜める怪しげな坊主を視界に捉えてしまったのだ。本当に運の尽きで合ったと思う。

「で、何で大の大人が自販機の後ろに隠れてたんですか。警察にでも追われてるんですか?」
「警察の方がどれほどマシだったか…」
「え?」
「とりあえず話したいんだけど、ここだと何だから…。そうだ、なまえチャン家に行こう!」
「京都に行こうのノリで言わないでくれる?私、あの喫茶店に行きたかったんだけど…」
「ダメだよあんなところ!蜂の巣に自ら向かう様なもんなんだから!」
「ええ?」
「とりあえず、人助けするもんだと思って、ね?」

いつもと様子の違う坊主頭に少し違和感を覚えつつも、何かまたトラブルにでも巻き込まれているのだろうと何となく察して掛けていたマフラーを坊主頭に掛けてやると仕方がないと言わんばかりに踵を返して自分の家を目指し歩き始めた。とりあえず昨日買い置きはしておいたから食べ物や飲み物には困らないが、いったいこの人は今度は何をしでかしたのだろうと不安になり、杉元君も呼ぼうかと気を遣って言えば、全力で拒否された(結局、杉元君は今日当直で何れにせよ来れなかったのだけれど)。一先ず家に上がらせると案の定お腹が空いたと喚き始めたので、昨日の残りのシチューとパンを与えれば大人しくなった。テレビを見ながら楽しそうに食べている白石さんを尻目にパイロットフィッシュたちに餌をやる。水槽はいつも通り無色透明を保ち、小さな生命達は大きな水槽の中でそのパラダイスをきちんと今日も今日とて育んでいる様だ。

「これがもらってきた魚なの?随分小さいんだね。」
「ううん。これは“パイロットフィッシュ”って言う役割を持った魚達なの。この子達が魚が生きていく上で一番いい環境に持っていってくれるんだって。貰ってくる魚たちを受け入れる前にこの子達を入れて水槽をより良い環境にするんだって。」
「ふうん。結構面倒なんだね。」
「まあね。で、白石さんはあんな寒いところで何してたの?」
「ん?ああ…話せば長いんだけどさあ…」
「高利貸しにでも追われてるの?」
「まあなんて言うかその…あ、おかわりいいかな?」

核心に迫りたいのに本当にこの男はいつでもマイペースだなとある意味感心しつつ(もういい加減このペースに慣れてしまっている自分がいて納得いかないのだが)、男の言う通り残りのシチューをよそってやれば、満足そうにありがとうと言われた。とりあえずこのままでは埒が明かない。のらりくらりと交わされても面白くないので(こう言う時杉元君が入れば話が早いのだが)、まずはきちんと全てを整えてからにしようと決めて、食事を終えた白石さんに否応無しに(体が汗で薄ら臭ったので)シャワーに入り体を清めてもらっているうちに服を洗ってやった。

彼が背負っていたリュックの中には恐らく彼の着替えが入っていると踏んでリュックを浴室に持っていってやる(因みにこれくらいはもう大学在学中から慣れているのであまり驚かない)。お金の無心をしないだけマシであると前向きに考える様になったのはすでに情が移ってしまったからだろうか。

「(仕事中を抜け出してきたのかな、)」

煙草臭かったので一刻も早く洗ってやろうと思ってあまりよく考えてはいなかったが、ぐるぐる回り始めた黒服とヨレヨレの薄ら汚いシャツに思わず首をかしげた。先ほどはダウンコートを着ていたから気がつかなかったが、この人まさか仕事中を抜け出してきたのだろうか。“飛んだ”から気まずくて逃げてきたんだろうか。だとしても自販機の裏に隠れる様なトンチンカンなことするだろうか。

色々な謎が飛び交う中でもとりあえずは本人から聞かない限り答えは謎のままだろうと一度自分の中の推理をやめると部屋に戻って珈琲を作り始めた。間も無くお風呂に入って気持ち良さげに出てきた彼は案の定きちんとスウェットを持ってきていたらしく、スウェットに身を包んだ姿で洋室に再び現れた。テレビを消して(リモコンを隠し)、珈琲を出してやると白石さんはようやく話してくれるのかソファに座って私を見やった。久々にシリアスな顔を見たので逆に吹きそうになった。

「お金でも盗んだんですか?」
「待って、なまえちゃん俺をなんだと思ってるの?一応これでも働いてんだけど…。まあ、強ち遠からず、だけどね。」
「え、お店のお金盗んだんですか?」
「違うってば!少なくとも俺じゃない!」

白石さんはことのあらましを淹れたて珈琲を飲みながらようやく説明し始めた。彼の話を要約すれば、こうである。店で一番仲良くしていた同い年くらいの男の子が店のお金に手をつけてしまい、そのまま“飛んだ”と言う。実はこのお店は元締めがこの辺りでずっと幅を聞かせてきた「や」のつく人たちで、普段はそこまで表舞台には出ないが余程恐ろしいヤクザで有名だと言う。何もしなければおとなしいこのご時世に順応した穏便な輩らしいのだが、流石にこういったケースでは示しをつけなければならず、直ぐにその飛んでしまった男の子の追っ手が店に来て事情を聞かれたと言う。

「で、何で白石さんそこで逃げたんですか?別にあなたが悪い事してたわけじゃないんでしょう?」
「ま、まあそうなんだけどさ。俺、詳しくはあんまいえないんだけど、前にそのヤクザと一悶着あってさ。その件は結局解決したからいいんだけど。もちろん金を盗んだのは俺じゃねえんだけど、飛んだその男と結構仲良くやってたし、そいつここ数ヶ月急に羽振りがよくてさあ…。よく一緒にキャバクラだのガールズバーだの、クラブだの、飲みにいっておごってもらってからさあ。連んでたんじゃねえかって、疑われちゃって…。」
「なるほど。通りで最近白石さん誘っても来ないと思ってた。」
「あはは…。一回こっちに来いって若い奴らに連れてかれそうになって車に乗ったんだけど、そこから何とか脱走したんだよ。」
「ええ?逃げちゃったの?」
「だって!俺まじで知らねえんだもん!」

半泣き気味でそう主張する白石さんには確かに同情の余地はあるだろう。誰しも疑われるのは気分が良くないし、ましてや相手は法を守らない輩だ。一体何をされるか、たまったものではない 。正直ヤクザには全くもって詳しくはないが(アウトレイジや極道のおんな、闇金ウシジマくんなどの大まかで勝手なイメージしか持ち合わせていない)、穏便に話の通じる相手ではなさそうであることくらいは何と無く“堅気”の私でも察しはつく。彼の話のどこまでが本当でどこまでが盛っているのかは現時点では定かではないが、気の毒なのは確かだ。逃げてしまえば自分はクロであると相手にいってしまっているようなものではあるが、相手がヤクザなら話は別だろう。警察とはわけが違うのだから。話を聞く限り、彼らも強引だったし、どっちもどっち、と言うのが正直な見解だ。

「で?これからどうするつもりなんですか」
「…とりあえず、このままなまえちゃん家にいても迷惑かけるだろうから、いったんはこの町から離れるよ…」
「でも、そのヤクザから本当に逃げられるんですか?」
「まっ、俺は脱獄王だからね。」
「そうは言っても相手は執念深そうだし…お金っていくら持って行っちゃったんですかね、彼は。」
「どうだろうな、あいつらの話を盗み聞いた感じでは、ざっと一千万はくだらねえだろうな」
「そんなお金、逆にどうやって盗んだの…」
「さあな。でも恐らくハッキングしたんじゃねえかなって俺は睨んでるぜ。」
「ハッキング?」
「ああ。今時はヤクザでもネット化が進んでてね。うちの店、仮装通貨での決済もやってたんだけどよ、そこを突いたんだと思うぜ。ちょろっと聞いてたんだよ。あの男、前は六本木でITドカタだの何だのやってたってな。」
「へえ…、なんか、時代を感じるね。」
「現金じゃ直ぐにバレるからな。だが、仮想通貨なら会社だの何だのによれば銀行ほどセキュリティの強いもんでもないらしいしな。ほら、たまにテレビで流れるだろ?仮想通貨流失だの何だの。あれと似たようなもんだよ。」
「なるほど。盗んだ仮想通貨を現金に変えていたってわけね。」
「詳しいやり方は俺パソコン詳しくねえからわからねえけどよ」
「知りたくもないけどね。あんまりリスクが高すぎて…」

恐らく普通のお店なら被害届を出して弁護士を出して、真っ当なやり方で犯人を追い詰めるのだろうが、相手がヤクザならきっとそうはしないだろう。彼らは恐らく「メンツ」と言うやつを重んじるだろうから。それにしても最近のヤクザは存外普通に商売に手を出すのだなと言うことにも感心した。近頃は反社会的勢力を排除する動きが進みヤクザの肩身も狭いのでシノギをするにも上手くいかず、意外と正攻法な商売の仕方をするより他ないのだと言う。末端の半グレのような子達は皆お金がないし、私の父親くらいのヤクザが足を洗おうとして社会復帰を試みるも結局馴染めず犯罪を起こし捕まる、と言う悪循環も問題になっていると言うのをこの間テレビでも見た。どうやらヤクザも世知辛いらしい。

「先にヤクザに捕まるか、仮想通貨で動いている警察に捕まるか…どっちかだろうが、警察に捕まっちまえば数年は娑婆に戻れねえから、その前にアイツらは“ケリ”を付けてえはずだ。」
「なるほど…、最近昔ほどヤーさんのニュース流れないと思ったら、ヤクザもネットの時代なのね。」
「ああ。インターネットのおかげで衰退しちまったもんもあれば、普及しちまったもんもある。」
「お薬?」
「そうそう。今のヤクザはインターネットを駆使して勧誘も商売も、何でもするからな」
「そういえばこの間はLINEスタンプで稼ぐヤクザが問題になってたね。」
「あんなもんは氷山の一角だぜ。もっとえぐい事やってる若いヤクザもいるだろうし。まあ、そんな事は今はどうでもいいんだけどな。」

はあ、といって白石さんはコーヒーを飲むと床にゴロンと寝そべってあくびに似たため息をついた。そんな彼の様子を見て、視線を水槽に向ける。パイロットフィッシュたちは皆彼のことなど知らん顔であげた餌を啄んではするりと海草の間を泳いでいく。

「警察に相談してみれば?」
「あいつら俺が死なない限り絶対動かねえよ。だいたい、警察もある意味ヤクザみてえなもんだと俺は思ってるぜ。国家公認のヤクザ。」
「まあ、言われてみればそうかもね。よくわからないけど。」
「一回仮眠してもいいかな?夜中の3、4時くらいには出るよ」
「えっ、本当に行っちゃうんですか?」
「俺の話聞いてた?相手がヤクザなんだから、長いは無用だぜ?」
「でも…杉元君にも相談したらどうですか?夜勤明けの朝一でこっち来るって言ってますよ?」
「その頃には俺もなまえちゃんも捕まってるかもな」
「まさか」

そういって笑った直後、突然ピンポーンというインターホンの音がして一瞬笑い声が止まる。目の前の白石さんが既にベランダに向かおうとしたのでそれを慌てて静止すると、一先ず落ち着こうと互いに顔を合わせて深呼吸をする。有事の際にと白石さんに何故か布団叩きを持たせて一先ずロフトの上に隠れるように言うと(ロフトに人一人なら抜けれそうな小窓があるため)、立ち上がって恐る恐るインターホンを覗きこんだ。そこには恐ろしい強面のヤクザの顔がい並んでいた、と言うわけでもなく、見たことのある顔が画面に写っていて思わずほっとため息を吐いた。

「長谷川さん、」









「急にすまない、ちょうど通りかかったのでね。」
「いいえ、それよりも、散らかった部屋ですみません」

そう言いながら長谷川さんを家に招き入れれば、彼はニコニコしながら部屋へと入っていく。白石さんの靴の臭さを気にして部屋を開けっ放しにしていたせいか何処と無く部屋がひんやりしているのが少し気になったが長谷川さんはそんなことなどつゆ知らず。手土産の入った高島屋の紙袋を私に丁寧に手渡すと何時ぞやのように部屋のソファに腰を下ろした。紅茶を用意しつつ白石さんと自分の食べた分のお皿を隠す。何となくではあるが彼にはあまり見られたいものではない。テレビをつけたのでその音が部屋に流れっぱなしになっている。ロフトにいる白石さんのことが大変に気がかりだが、長谷川さんは別に今回のことには全く関係のない人だし、問題はない。ただ、変な誤解をされると今度は私が困るので、兎に角静かにしてくれとは言っておいた。

「あの後なかなかご連絡できず申し訳なかったね。」
「いいえ。きっとお忙しいんだと思ってました。」
「ええ。少し仕事で色々たてこんでましてね。」
「そう言う時ってありますよね。色々なことが重なったり…」
「本当に。仕方がないことですけどね。」

長谷川さんは入れたての紅茶のカップを手に取ると早々に口につけて苦笑された。久々に見た長谷川さんは確かに何処と無く疲れていらっしゃる感じも受けた。隣に腰を下ろしテレビを見れば撮り溜めしてながしっぱ無いsだったバラエティ番組をやっている。変えようとすれば以外にも長谷川さんが目を細めて微かに笑っていらっしゃったのでリモコンに伸ばした手を止めた。意外に彼はお笑いに興味があるのだろうか。そう思って同じようにテレビに視線を向けた。

「パイロットフィッシュだね。」
「えっ」
「もうすぐ主役を迎え入れるんですね」
「ああ、そうなんです。日曜日にもらいに行きます。」
「そうですか。美しい水槽だ。」

長谷川さんはそう言ってうっとりとしたように水槽を眺められた。長谷川さんに本当は色々お聞きしたかったのだけれど、忙しそうだし、あまり聞いては気が引ける気がして期日も迫っていたので結局は自分でパイロットフィッシュを迎え入れることになった。ふと長谷川さんのあの水槽たちを思い出してあ、と声を漏らせば紅茶をソーサーにおいた長谷川さんと目があった。

「そういえば、長谷川さんのお家の水槽、見ました。まるで墨田区のアクアリウムみたいでびっくりしました。」
「月島から聞いております。でも短い時間だったと聞いていますから、次回はぜひもっとゆっくり見に来ていらしてください。次回は是非私が紹介しましょう。」

そう言われて脳裏にあの2メートル越えの水槽のお話が瞬時に浮かび上がった。結局その水槽は長谷川さんの寝室にあるので見れなかったが、もし彼の恋人になって褥を共にするような、そう言った親密な仲になれば果たして見れるのだろうか。そんなことが頭に浮かんで、その拍子に思わず息をひゅっと飲み込んで噎せそうになる。誤魔化すように咳払いを一つして紅茶のカップに再び口をつければ、にこりと口角を上げた長谷川さんと再び目があった。

「そういえば、あの後お返事を聞いていませんでしたね。どうでしょうか」
「あ…そうでしたね。ちょっと前向きには考えてはいるんですけど、なかなか。テーマがテーマでしたので。」
「それもそうですね。まだ、時間はたっぷりあるからね。」
「ええ。そのことなんですけど、長谷川さんだったらどう思います?」
「ん?」
「“秘密の場所”」
「そうだな…。人にあまり知られたくは無いけど、でもちょっと知って欲しいような、そんな場所なんか撮りたいね。」
「例えば?」

私が首を傾げて問いかければ再びやんわりと目を細めて、それから少し考え込むように視線を水槽からテレビに写した。テレビの中では男性タレントがニッカリと八重歯を見せて芸人が思わぬ展開に巻き込まれていくのを笑っている。最近よくテレビで見るどこぞの雑誌のモデルだったっけかなとぼんやり思い出そうとして横目で長谷川さんを見やったが、やはりあのタレントさんよりも余程美しいし整っているし、品格があると思う。笑い方一つ取っても別格だ。ソファに腰掛ける様も本当に西洋貴族の自画像のようだ。私がじっと彼を見つめていれば再び視線が交わって、僅かに目を見開いた。

「人それぞれかも知れないんだが、私ならあの神社の横の教会を撮りたいかな。」
「教会?神社ではなくて?」
「ああ。神社も勿論本家のものだから馴染み深いんだが、秘密というほどでもない。あの教会はいつもミサの日以外はひっそりとしていて寂しい空気が漂っているが、子供の頃はよくあの辺は庭のようにして遊んでいたし、隣が実家だからね。何も誇ることのない、よくある小さな教会ではあるんだが。」
「でも、私もあの教会の周辺が好きです。静かですし、お散歩すると道脇や教会の周りに意外にお花がたくさん植えられているから、春や夏は楽しいし。今日も教会のあたりをお散歩してきたんですよ。」
「そうだったのか、よく行くのか?」
「いいえ、たまたま。今日は奇跡的に早起きできたので。寒くて起きちゃったんですよ。」
「ふふ、そうだったのか…。あそこは朝に行くと気持ちがいいよね。清々しい空気が漂っていて。」
「はい。冬の朝は特に。空気が澄んでいて気持ちがいいです。」
「私も時折あの辺を散歩するよ。あの教会はお世辞にも豪華絢爛では無いが、趣があって好きでね。愛着があるんだよ。…恥ずかしい話ですが、実はあそこで結婚式を上げていたんだよ。思い出深くてね。ささやかな結婚式だった上に、結局うまくいかなかったので恥ずかしい話なんだが。古くから何かしらの縁と、思い出があるんだ。」
「そ、そうだったんですか。」
「だから私に個人に限って言えば、あの教会を写すかな。まあ、一度あの辺は火事にあって、改修しているから、当時の面影はあまり残っていないけれど。」
「………、」

長谷川さんのお話を耳にしながらも頭の中は色々な想像や憶測、感情が飛び交っていた。壁にかけられた自分の写真に思わず視線を向ける。以前の展覧会で撮った写真の現場のすぐ横にある写真館が火元となり教会にも火が燃え移ったのはもうここに引っ越してきてから聞いていた。それは長谷川さんが結婚後の話だろうが、長谷川さんはきっと複雑な感情を持ってこの写真に向き合っていたのかも知れない。思い出深い教会の写真を展覧会で発表するのはあまりに無神経であったのではないか。そう思うとなんだか遣る瀬無い気持ちになる。無論、わざとではないとは言え。

ふと、今朝のあの花束が脳裏に掠って、私の中に生じた罪悪感を加速させた。目の前の長谷川さんだけでは無い。こうして自分の作品で複雑な思いを抱く人がいたのではないか。そんな人が目の前に現れるだなんて、夢にも思わなかった。こんな事は人生で初めての出来事かも知れない。以前彼が私の撮った写真を見て「泣いてしまった」のは、このせいではないか。悪戯に彼の心に傷をつけてしまったのでは無いか。そう思って思わず喉の奥が熱くなって、それ以上は何も言えず、膝に置いて自分の手の甲を向いたまま俯く事したしかできなかった。

「でも、もうみょうじさんが撮ってくれたから、あまり参考にならなかったね。すまない。」
「…いいえ。そんなこととは知らなくて。本当にすみませんでした。私、すごく無神経な写真を撮って展覧会に発表していたなんて。」
「まさか!誤解ですよ、無神経だなんて。前にも言いましたが、私は感動したのです。私の思い出の地を写真に撮ってくれる素晴らしい方がいる、それだけでも私は本当に嬉しかった。勿論、その写真の出来に関してもね。」
「………」
「だからぜひ君には参加してほしいな。君をもっと世間の人に知ってほしい。私だけが知っているのでは勿体無い。悔しいのですよ。みょうじさんはこんなに素敵な写真家なのに、このまま趣味でその才能を終わらせてしまうのが。」
「………長谷川さんは、優しすぎます。」

私がそう言えば彼は少し驚いたように目を見開いて、それから手に取ろうとした紅茶のカップを口もつけずにソーサーに戻された。彼の顔を伺うように下げていた視線をあげると、じっと私を見つめる双眼が見えて思わず自分の言ったことに少しだけ後悔した。

「なぜ、そこまでしてこんな私に、」
「それは前にも言った通り、君のファンで、才能を確信しているからだ。」
「…………本当に、それだけなんですね。」
「…すまない、何か嫌なことでもしてしまったかな。しつこすぎたか?」
「いいえ!むしろこうして気遣って話しかけてくれたり、会いに来てくださるのは凄く嬉しいんです。長谷川さんと一緒にいられるだけで、凄く光栄というか、ありがたいというか…」
「…………」
「でも、やっぱり、その、なんていうか、私、貴方のように賢くないし、バカだし、可愛くないし、美しくもないし、卑屈だし、空回りするし、都合いいように解釈しちゃうし、」
「何を言っているんだ、君は賢い子だよ。それにとても可愛いよ。」
「そ、そんな」
「ううん、可愛いし素敵だよ。それに、私なんかよりもまっすぐで可能性に満ちていて、まるでお日様みたいな子だなと思う」

ニッコリと笑ってそう言うと彼はカップに口をつけた。反対に私は何だか訳が分からなくなっていてもたってもいられないような、頭を今すぐにでも掻き毟ってしまいたくなるような、叫び声をあげたくなるような、悶絶したくなるような、ごちゃごちゃな感情が入り乱れて、呼吸さえも荒々しくなって、いっそのこと人目も気にせず大いに泣いてしまいたいくらいだった。

視線を水槽に向ければ相変わらずパイロットフィッシュが悠々と泳いでいて、布袋草がぷかぷか浮かんでまるで簡単なイラストで書かれたような南の島がぽっかりと太平洋に浮かんでいるような感じがする。なんだかチグハグなこの部屋の空気と合間って、これ以上長谷川さんと話していたら感情が爆発していつ変なことを口走ってもおかしくはないとそう感じて、紅茶のおかわりを持ってくるふりをして立ち上がった。

「(優しくされるたびに、どうしてか、彼が遠のいていく気がする)」

お茶っぱをポッドに移しながらぼんやりとそう思って、なんだか目頭が熱くなる。この歳になってこんなに人を想って涙をすることになるとは、夢にも思わなかった。上に白石さんがいると言うのに、なんで私はあんなことを口走ってしまったんだろうと後悔したが、もうなんかどうでもいいとさえも思う。先ほど長谷川さんにお土産でもらった紙袋をガサゴソと開ければ中にはフルーツタルトが入っていたのでそれを持って行ってあげようかと取り出した。

テレビからは人気コーナーなのか、女性観覧者の黄色い歓声が聞こえて着た。ふとそちらに視線を送れば、画面には人気の男性芸人が数人の男女と同居生活を営むと言う企画が始まった。長谷川さんもくすくすと笑ってらっしゃったので、先ほどの私の情緒不安定な行動はあまり気にされていないようで少し安心した。

「あっ。そう言えば、ふと思い出したのですが、先日駅前の焼肉屋さんで貴方を見かけた気がしたんですが、行きましたか?」
「えっ、ど、どこでですか?」
「あの駅前の焼肉屋さんの窓際にいるのを見つけてね。あの辺に会社があるので車からたまたまだったんだが。彼は恋人ですか?」
「違います、断じて」
「そうなのか?あーんとしていたから、てっきりそうなのかと…」
「ち、違います!あれは杉元くんと行って大学時代からの友達でして、あの辺に住んでいるんですが、ただの友達で、絶対絶対、100%彼でもなければ恋人でもないので誤解しないでください!長谷川さんが目撃したのは多分ふざけてただけです絶対。」
「そうですか。でもよかったです。恋人がいたのなら誤解を与えるような行動は控えるべきかなと想ってしまって。」
「ちがっ、」
「失礼ながら、君が快く食事に付き合ってくれるので、てっきり恋人がいないのだと想っていたので今までこのように色々付き合わせてしまったが、もしいるのなら、」
「全然、大丈夫です、むしろどんどんお誘いいただければ光栄ですッ!」

全力で否定すれば彼はそんな私の姿に一瞬気圧されていたようだが、すぐにいつものようにふふ、と笑われて、それから差し出したケーキを嬉しそうに召し上がり始めた。千疋屋のフルーツタルトは実家でもよほどのお祝い事やお中元でしか口にしないのだが、久々にお目にかかったなと思いながら私も彼に倣って口に運んでいく。甘すぎず、かと行って酸っぱすぎず。さすが果物のプロが選別したタルトだ。最高の状態の果物しか使わずに作られた皆が知るこの味。変わらぬ安心感とこの安定感あるこのタルトは出来ることならば事あるごとに口にしたい(もちろん、そんな頻繁に口にするなど価格的に難しいのだけれど)。美味しいです、これ大好きなんです、そう口にすれば長谷川さんも嬉しそうにはにかんだ。

「ケーキもお好きなんですか?」
「ええ。大好きです。甘いものには目がなくて。チョコレート、ケーキ、和菓子、なんでも食べます。」
「そうですか。私も甘いものには目がなくてね。…そうだ、恋人がいないのであれば、私も気兼ねなくみょうじさんをデートにお誘いしてもいいと言うことかな?」
「…はい?」
「美味しい手作りケーキ屋さんがあるんですよ。よかったら今週の日曜日、無事エンゼルフィッシュを迎え入れたら、お祝いにケーキをご馳走させていただけませんか。とても美味しいので、ぜひご紹介したいのです。」


2019.03.16.
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -