うつろうの日々

死者の園とはよく言ったものだと思う。静寂が支配し、永遠がそこに横たわっているかのように感じた。

「凄くいい場所にありますね…」
「ああ。むかしっからこの辺の奴らはここと決まってるんだ。」

雨が降ったせいかお墓はしっとりと濡れていて、ごしごしと洗えば綺麗に汚れが落ちていく。お水を汲み直して簡素ではあるが花を生ける場所があったので、そこに花を生けようと水をそそぐ。昨日重そうに頭をもたげていたユリの花が今日は花弁をうっすらと広げようとしている。茎を切り直していければ先ほどとは比べ物にならないほど明るい雰囲気を醸し出し始めた。目の前の墓石に刻まれた見知らぬ苗字に少しだけよそよそしさを感じつつも、彼に手渡された線香の束を手に取りお供えすれば新鮮な心地がした。棚田のように作られた墓苑のちょうど真ん中あたり基さんのお母さんはいた。海が覗けるこの美しい場所に安寧の地を築こうとしたのはこの島の人々の信仰と死者に対する尊敬なのかもしれない。出なければこんな美しい場所に苦労して作ろうだなんて、きっと思わないはずだろうから。

「お母さん、喜んでるねきっと。」
「…逆だろう。こんなよっぽど挨拶にも来ねえ出来の悪い息子なんか、」
「そんなことないよ、ほら、バッタ。」

墓石の影からひょっこりと顔を出したバッタを指させばそれまで少しだけ緊張したように手を合わせていた基さんが少しだけ頬を緩ませた気がした。しょうりょうばった(精霊バッタ)。お盆の時に死者の魂を運んできてくれる虫。少しだけ学生時代に齧った日本民俗学を思い起こして思わず本当なんだなあ、と感心してしまった。きっとお母さんが挨拶に来たんだわ。そう言えば彼は少し照れくさそうに鼻を啜って、それから再度手を合わせた。そして曲げていた膝をすっくと伸ばすと、少し緊張したように視線を足元に落して、それから息を吐いた。

「…で、彼女のお墓はどこ?」
「………」

私がそう言えば彼は遠くを見るように視線を凝らして、それから何も言わずにとぼとぼ歩きだした。片手に花束を抱え、もう片方の手にはライターを持って。私も黙ったまま彼の後に続いた。歩けば歩くほど足が重くなるようで、だんだんこのまま帰りたいとさえ思えてきたが、もうここまでくれば帰ることなどできないと言わんばかりに頭上でカモメが鳴いている。ざざーんと聞こえてくる波音が私のだんだんと大きくなってくる鼓動と反響して重なっていくような気がした。気を付けようと息を吸いこんだ刹那、ちらりと海の方を見遣ればまるで見たことがあるかのような景色が脳裏に浮かんだ。白と黒、そして聞こえてくる海の音と潮風の冷たさ、振り向くことなくわたしに背を向けるその背中、私を頬を伝う生温かな感触も、そのまんまだと思った。

「…、」
「どうした。」
「…何でもない。」
「………」
「ここ?」
「ああ。」

彼は目で私に教えると、私と同じく暫く突っ立ったまま、ぼんやりとそれを見詰めていた。潮風にやられて微かに削られている他の石と同様に若干くすんで、そして日に当たると鈍く光って見えた。誰かが置いて行ったのか、既に花が生けられている。お供えされたらしい食べものはこの辺のカモメやカラスが食べてしまうのか、お皿の中は既に空だった。彼が黙ったままそこに突っ立っているので私も最初何を言えばいいのか分からずぼんやり一緒に眺めていたが、一息吐くとそのまま持っていたお線香を彼に手渡した。そうすれば何ともいえない顔を提げた基さんはちらりと私に視線を寄越して、それから止まっていた時が動き出したかのような目をして漸く持っていた花束を目の前に生け始めた。

「親族の人が来てたのかな?結構綺麗だね。」
「…ああ」
「ライター貸して。」
「…おれがやる。危ないしな。」

そう言って彼は私の手からお線香を取ると、そのまま直接お線香に火を点けた。なかなかつかなくて何度か火に晒したのちに漸く灯がともるのを確認すると、不愛想にその束をそのまま彼は彼女に上げた。

「…私、先に車にもどろうかな」
「…いてくれないか。」
「でも、積もる話もあるだろうし、」
「いい。いてほしい。」
「基さん…」
「頼む。」

珍しく頑なに自分の意見を通そうとする基さんにちょっと驚きつつも、私は私で一刻も早くこの場所から逃げ出したかった。でないと私は「大人」であることを保つことが困難になりそうだった。自分から行こうと提案した手前、彼の気持ちも察するに値するが、私は私で死んでしまった元カノと否が応でも比べられてしまうこの状況に正直心が押し潰されそうだった。まざまざと目の前で彼の中で彼女を超えることは恐らく彼女のようにこの世から去らない限り無理であると、一見冷静に考えればアホらしくて全然理論的では無い考えや無駄な憶測が頭の中を支配するのだ。今生きて一緒にいる私よりも結局、故人を彼は思っているのでは無いか。蔑ろにされているのではないか。そう言った独り善がりであまりにも幼稚な考えが浮かんでは消え、またその不安を増して現れてくる。そんな気持ちなどもちろん彼に見せたことはないし、そんなことをすればきっと彼を失望させてしまうだろうからと絶対に避けたかった。

「…基さん、」
「もしこいつが生きてたら、もうとっくに結婚して子供も居たかもしれんな。」
「………」
「お前みたいに仕事もしてたかもしれないし、この島を出ていたかもしれない」
「………」

もう少しで気持ちの波に飲まれそうになる私など露知らず、基さんはしゃがみこむと花を1束てにとって目の前の墓石を見つめたままなにかを思い起こすように静かに口を開く。私はその後ろで耳を塞ぎたいような気持ちでその背中を見つめていた。早く走り出したいのに、足がそこに吸い付いているみたいに微動だにしない。嫌に自分のどんどん上がっていく息遣いが耳の裏で大きく聞こえた。それは私に対して何の意味があるのか、何が言いたいのか、深読みをしたくないのにしてしまって喉の奥がどんどんと乾いてく。

「お前よりも歳上だから、子供は何人か…」
「…もう、よして下さい」
「…は」
「聴きたくないんです。」
「、」
「故人の前でこんなこと言いたくなかったですけど…」

今彼と面と向かって話すのがこの世の中で一番難しいことに思えた。彼はいまどんな表情をしているだろうか。きっと何を言いだしてんだとあきれているんだろう。それとも、失望しているだろうか。でも、元来嘘なんかつける性格でもないし、彼のようにじっと我慢できるほど「大人」ではない。持っていた新聞紙をぎゅっと握りしめて一息吸い込めば肺に湿っぽい潮風が微かに鼻を抜けて行く。

「私よりも彼女のことを愛していたのはあなたの話や顔を見ていればよくわかります。でも、思っていたとしてもそれを目の前で話されるのは…辛いんです。あの夜、あの話を聞かされる前から何となく、何となくですけど薄々感じていました。基さんの中で私の知らない『誰か』がいるのではないか、と。…ふとした瞬間…ちょっとした言葉の端々…そんなちょっとしたことで、でも確かに感じていたんです。」
「…、」
「だからあの夜あの話を聞いたときに合点がいきました。これからあなたと一緒に生きて行くならばこのままではどちらも行けない…。そう思ったから佐渡に、ここに行こうって…、苦しくてもこの目でしっかり見て乗り越えなきゃ、そう思ったんです。」
「………」
「…分かってます、基さんの中で彼女が一番なのは。死んでしまった人に勝とうだなんて思わないです。…でも、『ふり』でもいいから、嘘でもいいから、目の前にいて側で一緒に生きようとしている私を一番愛しているって、たった一言でもいいから、そう言って欲しいんです。」
「名前、」
「そうすれば、私はもうそれだけで十分報われます。もう泣かないし子供みたいに喚いたりしない、迷惑だってかけない、」
「名前、落ち着け。」
「…せっかく一緒になれたのに…もう、置いてけぼりになるのは、十分なんです。」
「、」

私がそういえばその刹那、辺りが不思議と静まり返った様に感じた。視線を上げる勇気はなくて、しばらく黙ったまま視線を下にすれば突然がっと背中に暖かくてがっしりとした物が回されたかと思えば、前の方に引っ張られて、それから息をつく暇も無くぎゅっと抱きしめられているのだと理解するのにはさほど時間はかからなかった。驚いて視線を上げようとしたがそれもままならない程、ぎゅう、と抱きしめられて身動きさえできない。何かを言おうとしたが、それが容易に出来ない雰囲気に今度は飲まれて何も言えずに黙ったまま腕ひとつ動かせずにいた。

「…すまん」
「え…」
「そこまでお前が考えていたとは知らなかった…いや、もう少し配慮するべきだったな。」
「………」
「お前のおかげで此処に来れた、本当に感謝している。だが…、誤解されては困る。」
「、」
「誰も彼女が一番だなんて言ってないし、お前は二番目だなんて言ってない。」
「…そうだけど、」
「俺は『ふり』で女性と一緒にいようだなんて思わないし、そこまで器用な男じゃない。だが…そうだな、お前にそう思われる態度を俺は取っていたんだな、」
「はい」
「………。」

はあ、と深いため息をついて基さんは再度ぎゅう、と抱きしめてきたので私も握っていた新聞紙など構わずに手を彼の背中に回して抱き締めた。

「お前が一番だ、嘘でもふりでもない。俺はお前が必要だ。」
「…、」
「彼女は確かに俺の中では特別だ。それは嘘はつけない。だが、だからと言ってお前が特別じゃないわけにはならない。俺だってもうこの年になったし、生きている。これから先もそうだ、だから一緒にいてほしいとあの夜言ったんだ。」
「基さん、」
「だが…彼女のことを忘れることは正直そうしろと言われてもできない。女々しいのは十分理解している。さっきここにいてくれと言ったのは、別にお前に何かを見せつけてやろうとか、そういう意味じゃなかった。」

基さんはようやくきつく回した腕をゆるりと解くと、するりと滑らせるようにその大きくてガサガサの手を私の頬に寄せた。大事なものに触れるように、包み込むように私の頬に触れる。ツンと冷たく当たる薬指のそれが、雲間から顔を出した夕日に照らされて眩いそれに思わず目を細める。ようやくそこで久しく彼と視線を合わせることができて、彼はじっと私を見て視線をそらすことなくゆっくりと口を開いた。

「自分の中で整理をしたかったんだ。彼女の墓の目の前にいて、考えていたのはお前のことだ。あのどうしようもなかった悪童が、いい嫁さんをもらって胸をはってここに戻れた、そう言いたかったんだ。」
「………」
「ここに来る前、お前がここに行こうと言ってくれたあの日から、そう伝えようとずっと考えていた。本当にただそれだけだ。」
「………」
「今のたとえ話は懐かしくなって少し感傷的になって話してみただけなんだ。他意はない。…だが、おまえが傷つくならもうこの話は二度としないし、ここには二度と来ない。もともとほとんど来てなかったしな。」
「ちが、そこまで望んでないです。ただ…基さんに取って私の存在意義を考えてしまって…」
「………」
「失望したでしょう、死んだ人にヤキモチなんて…」
「いいや。失望されるのは俺のほうだ。お前にここまで連れてきてもらったのに、感謝どころか泣かせた。怒ってくれ。」
「はい、怒ってます。」
「…本当にすまなかった。」
「………やだ。」
「………」

思わず笑いながら泣いて視線を上げればいつもの面倒臭さそうな顔をした基さんのお顔が見えて再びふふっと笑った。

「いつもそう言う風に言ってくれればこんなに心配しなくて済んだんですもの。何にも言わない基さん、嫌い。」
「男ってのは言わねえと分からないんだよ」
「だからこの世には男と女の喧嘩が耐えないのね。」
「そうだな。おれは何でも言ってくれるお前が好きだよ。…たまには歯に衣着せろとは思うがな。」
「でもそんなところも含めてちゃんと好きでしょ?」
「ああ。困ったことにその通りだ。」

視線を再び上げれば苦笑いをして私を見下ろす基さんの瞳に私が小さく写っている。お墓のど真ん中で男女が抱きしめあっているなんてすごいシチュエーションだなと冷静に考えたが、今はもう周りなどどうでも良いし気にも留めなかった。故人の前ですごく不謹慎かもしれないけれど、言葉では言い表せないほどの幸福を感じていた。それは彼女に対する優越感でもなければ、映画を見て涙を流す時の一過性の感動でもなかった。とても不思議なことだが、今ようやくこの地に戻ってこれたと、初めて来たはずなのにそんな感覚が胸に去来した。そしてあれだけ追いかけたかったのに追いつけなかったそれが、ようやく手を伸ばせば届く範囲に、傍に居てくれた、そう思って思わず鼻の奥がツンとした。ようやく私は報われたと、素直にそう思えた。


2018.9.16.

まえ つぎ


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -