ひるんだ彼の防御

其処は見たことのない場所で、感じたことのない風が私の肌を滑らかに触れていった。おばあちゃんちにあるような鏡台の前で私はじっと自分を見つめていて、随分古風な柄の着物を着ている。幾分か若く、齢は16,7くらいだろうか。世界は灰色と白、黒でできていて、まるで昔の無声映画を見ているようだった。鏡の中の自分はじっと自分を見つめていて、畳の上で綺麗に正座をしていた。右足首を見ればそこには包帯の痕があって、私はそれをいとおしそうにするりと撫でてはうっとりと何かを思いだすかのように瞼をそっと閉じた。

瞼に浮かんでくるのは一つの光景だった。綺麗な形をした青年の頭と綺麗な項が見えて、彼からは潮風の匂いがした。右足をくじいたのだろうか、私は彼におぶさっていて、この高台まで来るところだった。酷く不愛想な雰囲気を持った青年だというのに、私を背負うこの腕はとても暖かく優しくて、思わず心音が伝わってしまうのではないかというくらい夢の中の私はドキドキしていた。右足には見慣れなちょっと薄汚い手拭いが巻かれていて、夢の中ではこれが自分のではないことを知っていた。

『痛むか』

そう言われてぶんぶん首を振れば彼は「ん」と一言だけ返した。たったそれだけのことだった。彼はそのまま私を家まで本当に連れて帰ると、何も言わずに駆けて行ってしまって、それを止めようと手を伸ばした……とそこまで思い起こして、今一度瞼をゆっくりと開いて、鏡の中の自分を改めた。

引き出しから柘植の櫛を取り出して、自慢の(良く分からないけれど夢の中で自分はこの綺麗で真っすぐな黒髪を一等大事に思っていた)髪に櫛を通していく。するすると、解かせば解かすほど輝かしくなるような気がした。そして一通り支度が済むと私は漸く立ちあがって、いそいそとどこかに行く様子だった。凄く嬉しくて速く行きたい、行かなきゃ、という気持ちが強くて、どこに行くかも正直分からなかったが、夢の中の自分は目的地を明確に決めている様子だった。

聞いたこともないような言葉を話して家の人に何かを告げるとそのまま家を後にして、からんからんと卸したての下駄を鳴らして歩いて行く。右手には海、左手には山。自分の家は高台にあって、眼下に広がる小さなみすぼらしい家々よりは立派だったと思う。

「っ、」

まだ本調子ではない足だったが、それでも気持ちが急いて小走りになっている。相変わらずモノクロの世界だったけれど、どこかひどく懐かしい景色に、潜在意識の中の自分はひどく感動していて涙が出そうになった。目的地は海の方で、そこに行くまでにはこの港町を通る必要がある。町の人がすれ違うたびに声を掛けてくるのでそれを適当にあしらったり、中には変な顔をして私を見る人もいたけれど、夢の中の自分は別段気にしている様子はなかった。

話しかけてくる言葉も、話す言葉も自分にはあまりなじみのない言葉だったと思う。目的地は切り立った崖のような場所で、荒波に削られてできた様な険しさを感じた。此処になら居るかもしれないと夢の中の自分は根拠のない自信を持っていて、でも気づかれるのが少しだけ怖い気がしているのか岩陰に隠れながら誰かを捜していた。きょろきょろしているうちに見慣れた頭を見つけて声を掛けようとした瞬間、その隣にまたもや見慣れた頭を見つけて思わず吸い込んだ息を静かにぎゅっと飲み込んだ。

波風に揺られて美しい自分の黒髪がなびいて、視線の先の彼女のいご草のようなぐるぐるした髪がふわりと撫でられてそのかんばせが見えた。ここからはどんな話をしているかなんてこの白黒の世界でなくても分からなかっただろう。けれども、夕日の眩しい光を背景に幸せそうに微笑んでいて、何を言わずとも何かを察したように私は怪我をした右足を引きずってそこを後にした。ほんの数分の出来ごとだったと思う。私はひどく胸が痛くて、頬に冷たい風が当たるたびに視界がどんどんぼやけていくのを感じた。

頬を撫でつける波風のせいではなく、自分が目から流すもののせいだということは夢の中でも認めるのが凄く嫌だった事だけは印象的だった。潜在意識の中の自分はあの髪の女の子は誰なのかは全く分からなかったけれど、そのとなりにいた仏頂面の男の子にひどく見覚えがあって、なんか良く分からないし夢の中だしと分かっていても、酷く悲しくて寂しくて、やりきれない思いがあふれてきて、思わずとぼとぼ一人右足を引きずって帰る、この小さな背中を抱きしめてあげたい気持ちでいっぱいだった。











「おめ東京にかたづくんだってな。」
「えっ…(ここは……)」

一体何が起きたか一瞬分からなかったというのが正直な感想だった。今しがた自分はとぼとぼ一人で帰りながら、涙を流さぬように袖でごしごしと顔を拭いて細い道の真ん中で立ち止まっていたはずだ。そして暫くして落ち着きを取り戻して漸く顔を上げた瞬間、そこはまたもや自分の知らない場所だった。先ほどまで夕方だったはずなのに、気が付けばそこは春の日差しのような温かい日中のような時間帯で、急に目のまえには先ほど遠くから見詰めていた青年が立っていた。

青年は先ほど岬で見た時よりもいくらか痩せていて、酷く疲れている様子だった。着物をまくり、脚は濡れている。何かを捜している、直観的に私はそれを知っていて、夢の中の私は彼を目の当たりにしたまま、酷く焦燥しきっていたように見えた。でもどう言葉を掛ければいいかも分からなくて、ただじっとその場に突っ立ったまま、右足の方をじっと見つめた。それに気が付いたらしい目の前の彼は小さく笑うと再び口を開いた。

「足もすっぱり治ったか。」
「うん…」
「そいのん。おめでとさん……達者でな。」
「…あの、つ…基さん。」

自慢だった私の長い黒い髪は綺麗に肩で切り添えられて、波風に揺れて彼の頬を微かに撫でた。すれ違う瞬間、彼の名前を呼べば彼は驚いた様に此方を見た。無理もなかろう、夢の中の私はこの名を呼ぶのは最初で、そして最後だったのだから。

「ありがとう。基さんも元気で。」

そう言って笑えば彼は再びわずかに口角を上げて、それから二度と、振り返ることは無かった。後ろから波の音がざざーんと聞こえて、その音に混ざって鴎の声がする。海も空も相変わらず灰色をしていて、酷く彼の背中と地面に刻まれていく足跡だけがぼんやりと滲んで見えた。ただ静かに着物の裾を握って動けないまま、波の音に紛れて小さく泣いた。

私は明日、一人で東京へと嫁ぎに行く。










「…何泣いてんだ。」
「…んん、」

起きたら頬が何故か冷たくて、目をぱしぱしと瞬かせれば最後の涙がぶわっと流れて、それからシーツに落ちた。隣ではシャワーを浴びたらしい我が基さんが頭をハンドタオルで拭きながら隣で腰を下ろしていた。なんだか不思議な夢を見たなとぼんやり思いながらもふうと一息吐くと、彼の無防備な太ももに頭を載せた。

「夢でも見たのか。」
「うん、そうっぽい。」
「何の夢だ。」
「何かあんまり覚えてないけど、凄くコワイ夢だった気がする。いや…悲しい夢かな?…でもちょっと懐かしいような…」
「随分複雑だな」

そう言いながら基さんはふん、と鼻を鳴らした。ふと横目を向けばそこには昨日から見ていた海の景色が広がっていて、水平線の向こう側には少しだけ曇天が広がっている。島の天気は変わりやすいしちょっと特別だ。聞いたところによると佐渡ではオーロラを見ることも稀にあるのだというから、本当に不思議だと思う。こんな夢を見たのも、この不思議な島の力なんだろうかとぼんやり思って、それから夢はどんな夢だったか思いだそうとして意識を集中させた。案の定思いだせないのだが、一つだけ確かなことは、何か良く分からないが思いだそうとすればするほど、月島基という男に非常にムカムカしてくるという事だけだった。なんとなくムカついてきてすっくと上半身を起こすとそのまま洗面台へとどすどす向かった。

「朝飯10時だろ?昨日遅かったし、まだ寝ててもいいぞ。」
「うん。ちょっと散歩してくる。」
「はあ?雨降るって言ってただろ。」
「いいよ、基さんはここに居て。私一人で行きたい気分なの。」
「…何でちょっと怒ってるんだよ…何か俺がしたか。」
「してない。たぶん。」
「多分ってなんだよ。」
「私多分夢の中で基さんにひどいことされた気がする」
「夢でされたことを現実で怒るなよ。」
「……そうだけど。」
「散歩行くなら傘持ってけよ」
「………」
「………」
「……昨夜の話、聞いたからかも。」
「………」

ぼそっとそう言ってじゃあああといつもはしないが水を大袈裟に出しっぱなしにしてしゃこしゃこと歯磨きをすれば、何となく基さんも異様な雰囲気を察したのか、とぼとぼと洗面台に来ると私の隣で歯磨きを始めた。鏡越しにちらちらとこちらを見ている。

「…まあ、俺もついでにコンビニ寄りたいから一緒に行かなくもないが…。」
「15分したら出ます」
「分かった。急だな。化粧とかいいのかよ。」

女子の方が時間かかるだろうに……とぶつくさそう文句を言いながらもいそいそと準備を始める基さんにちょっとだけぷっと笑った。それからは何となく先程からの態度は流石に可哀想な気がして(彼の言う通り確かに夢の話だし)、口をゆすいだ後に隙を見て歯磨きを続ける彼の頬にキスをしてえへっと笑った。そうすればようやくいつものめんどくさそうなお顔を覗かせたので、少しだけ安心して、次の瞬間には先ほどのつぶやきは聞こえただろうかと、ほんの少しだけ気になった。


2018.08.26.

まえ つぎ


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