粘膜を張るこころ

それはほんの数日前に遡る話だった。

「基さん、佐渡には帰らないの?」
「ん…」

昼下り。情事後特有の微睡の中、何となしに声を掛ければ閉ざしていた瞼をゆっくり開いて、彼は私を見た。子猫のような寝ぼけ眼で私を見遣ったのち、徐々に意識を覚醒させて鈍い光を宿していく。瞳をじっと見つめれば、目の前のすっぽんぽんの男はより一層私を抱き寄せてんん、と子供のように唸った。

「…予定がない。」
「予定は自分で作るものです。」
「何しに行くんだよ。」
「お盆だもの。お墓参りよ、お墓参り。」
「………」

私がそう言えば彼は私を抱き寄せたまま暫く黙っていたが、何かを考えていたのか頭を掻いた。そしてぎゅっと閉じていた瞼を再び開けると、お互いの鼻先が掠めて触れるような距離で再び私を見た。先ほどとは違う、完全に覚醒した瞳を見詰めてぱちくりと私が瞼を瞬いて見せれば、彼は何処か面倒くさげに、しかしどこか寂しそうに視線を落として、それから自身の頭を撫でていた手を私の頬に添えた。冷房のせいか、指先の冷えたかさかさする大きな掌だった。

「墓参りったって……」
「大事なことだよ。」
「そりゃあ普通の奴はな。」
「好きな人の故郷をこの目で見たいのよ。」
「………」
「勿論、それほど嫌なら無理にとは言わないけど…」
「………」
「嫌というよりも、」
「?」
「気まずい。」
「気まずい?」
「全然行って無かったからな。」
「じゃあ、私を理由に行きましょ。基さんのお母さんにも挨拶に行かなきゃってずっと思ってたもの。」

嬉々としてそう言えば彼はじっと私を見たまま、頬を親指で撫でた。するすると触れるか触れないかの距離で触れられとこしょばゆい。自分にはない柔らかさと温かさを確かめるように耳朶やら頬を一頻り撫でた後、基さんは私を見て居ながら別のことを考えているように瞬きさえ一つせず、じっと私を見詰めていた。何かを思案しているような、何かを回想しているかのような、そんな顔だった。基さんの肩越しに見えた窓にはカーテン越しに太陽の光が差し込んでいた。カーテンを少しだけ閉めていたので、天使のはしごのようにその一本の光は差し込んで、私たちの一糸まとわぬその体を照らす。どこからともなく聞こえてくる飛行機の音に耳を澄まして、ゆっくりと瞼を閉じた。彼と私の匂いが入り混じって、少し開け放たれた窓の隙間からその香りが世界へと漏れ出ていくのを想像した。次は去年の夏のお盆休みを思い出した。去年は私に気を遣ってか、彼はわざわざ私の故郷に遊びに来てくれた。地元のお祭りに足を運んで、鼻緒が消れて人知れず彼の背に乗って家まで帰ったっけ。彼は随分疲れていたけれど、私はひどく機嫌が良かった。

今度はもっと深い記憶を思い起こすように瞼の裏側の明るさを感じながら、記憶の海に潜っていく想像をした。意識を静かに、下に下にへと深く沈ませて、一つの記憶を掘り起こすことに意識を集中させる。記憶の深海にはいくつもの小さな真珠のようなものが転がっていて、それら一つ一つは鈍く光を放っている。時折太陽の光がここまで届くと、転がっている真珠にスポットライトのように当たって、ふとした拍子に反射して光った。当たりを見回して目当てのものは無いかきょろきょろしていれば、一際暗く静かな場所で鈍く光るそれが見えた。ゆっくりと近づいてみれば、その光の球は静かにそこに鎮座していて、とても繊細そうにふかふかの海の砂の上にいた。

「…名前。」

ギシリとベッドが鳴る。それを合図に瞼を閉じたまま、空想の世界でそっとその真珠に両の手を伸ばせばそれはひと肌ほどの温度をしていて、触れれば少しだけざらつきを感じた。掌を滑らせれば滑らかで、自分の肌に吸い付いてとても心地が良く離れがたかった。するりと指を滑らせればジョリジョリとして髭が当たって返って気持ちがいい。お母さんが小さいころに亡くなって、お父さんもとも縁が薄く、小さいころから一際苦労して天涯孤独のような幼少期を過ごしていたと聞いたのは、実は昨夜のことだった。彼とこういう風にお付き合いをしてもう二年ほどたった頃合いだった。記念日だからと言ってわざわざ予約を取って大層な贈り物まで用意してくれた横浜のホテルのバーで、どうせ部屋はとってあるんだからと二人して大仰な気持ちで飲んでいれば、いつの間にかそういう話になっていた。出身は新潟の方、とだけ聞かされていたので、酒の勢いを借りて根掘り葉掘り聞けば、彼もまた酒の勢いを借りて根掘り葉掘り教えてくれた。故郷の事、記憶のないお母さんの事、いつも自分を殴ってばかりいたお父さんの事、故郷のいじめっ子たちや好きだった娘の事、そしてその娘が死んだとある夏の日のことを教えてくれた。

「基さん、」
「ん」
「…連れてって。」

伸ばした両の手で彼の頬を再び包み込んでその温度を確かめる。先ほどまで枕に横たわっていた彼の立派な身体は其処にはなく、覆いかぶさるように私の体を組み強いていた。瞼を開ければ両の眼がじっと私を見据えていて、あともう少しで唇が触れそうな距離だった。基さんは片腕を私の頭の上につき、ぎしりとホテルの心地よいベッドのスプリングが軋んで、彼が動いた拍子にぼとりと床にタオルケットが落ちた。瞼も閉じずに彼は額にまず一つキスを落とすと、今度は私の唇を食んで、それから下唇を柔らかく噛んだ。

「…2、3日くらいなら。」
「うん」

ぎゅっと彼の首っ玉に腕を回して抱き着けば、耳元でふ、と笑みが聞こえて、それからもう何度目か分からない情事の再開に互いの舌を絡めながら自分と彼の興奮した匂いを感じて、少しだけくらりと眩暈がした。











ホテルに着いたのはちょうどお昼ごろだった。お腹は空いていたしチェックインを早々に済ませると荷物をボーイさんに任せて自分たちはまた外に出た。この辺は観光地だし今はお盆のシーズンなので結構町は活気づいていて、ちょっと回れば色んなお店がありそうだった。10分くらい歩くが近くにローソンはあるし何かあっても安心だとほっとした。

「佐渡って何が有名?」
「いごねり」
「それ以外。」
「そうだな………蕎麦食うか?」
「お蕎麦?」
「へぎそば。」
「たべたい!」

よし、とそう言って手をつないで歩きだすと、その辺のお店にぱっと入った。お昼の時間だからかどのみちどこも混んでいるだろうという彼の考えだったが、案の定どこも混んでいたので同じだった。その間にスマホでこの辺の有名な観光スポットでも検索したが、ふと隣で汗を拭きながら黙って待つ彼に視線を上げた。

「基さん、友達とかいないの?」
「友達…?いない。」
「寂しい人みたいになってんじゃん…。」
「だいたい、ここの若い奴らは皆金沢の方に出ていくんだ。家が漁業だの何だのやってたって継ごうとするやつはなかなかいない。」
「ふうん。でも、まあ、この時期だし、会えるかもよ?」
「会ってもお互い嫌な思い出しかないけどな。」

不敵な笑みを浮かべると今はサングラスもかけてたし何か任侠風でちょっと怖いという心の声を飲み込んで、スマホに視線を再び戻した。確かに、彼の話では昔は結構親が親だったし、へそ曲がりで悪さをしていたらしいので(ちょっかいを出されたりからかわれたりしていたそうだ)、あまりいい思い出がないのだろう。自分から言いだしたこととはいえ何だか急に申し訳ない気持ちになってぱっとスマホから視線を外すとそのまま膝に置かれていた彼の手に自分の手を絡めた。彼は驚きもせずその指を受け入れるとメニューを取り出してそれをぼんやり眺めていた。

「あんまりここで豪華なもの食っても、夜はどうせホテルでいい物でてくるだろう?」
「うん。」
「夜まで持つくらい簡単に済ませておけよ。」
「はあい。あ、天ぷら食べたい。」
「人の話きいてたか?夜食えなくなっても知らんぞ。」
「天ぷらの盛り合わせ一個頼んで一緒に食べれば大丈夫だよ、ね?」

そう言えばうーんと彼は唸った。夜はホテルの一番有名なフレンチが出てくる。オーシャンビューを楽しみながら佐渡の海の幸をふんだんに使った美味しい料理が絶品ということでるるぶにもネットの口コミにも書かれていたので今回はこのホテルにしたのだ。外観デザインもスタイリッシュだったし、とはいえ老若男女問わず利用しやすくて中もモダンなデザインだったので速攻でここに決めた。ちょっと仄暗い旅になることは流石に馬鹿な私でも予感ができたので、一緒に過ごす宿くらいは景気のいいものにしたかったのだ。

「東京生まれだから、あんまり小汚い旅館とか無理でしてねえ…」
「東京じゃない、埼玉だろ。」
「いいの、似たようなもんなんだから。」
「天ぷらじゃなくてこっちの肉にしといたらどうだ。」
「ええ、おそばにお肉?」
「どうせ夜は魚ばっか出るだろうし俺はこっちの串焼き食いたい。」
「しょうがないなあ…」

ふはっとため息を吐いて折れれば、彼はふっと笑った。

「ご飯食べ終わったら散歩しよ。海みたい。」
「海ばっか見てどうすんだよ。…ああ、海なし県民だから物珍しいのか。」
「うるさい。お黙りなさい。」
「まあ軽く散歩位ならいいか。線香買い忘れたし、買いに行こう。」
「…はあい。」

そう言えばお線香買い忘れてたなあと私もぼんやり思って視線をお店の窓の方にやる。ちらりと横目で見上げれば基さんも海の方を見ていた。あれだけさっき海見てどうすんだって馬鹿にしてたくせに、皮肉の一つや二つ言ってやろうと思ったが、何やらぼんやり思案しているような顔をしていたのでやめておいた。遠くを見て何かを思い出したらしく、視線を遠くの海にやったまま、微かに握っていた掌の力を強めた。窓の外では賑やかに忙しなく歩く往来の人々の姿が見えた。皆花や提灯、野菜をしこたまもって楽しそうに笑って日差しの中を歩いては視界から消えていった。お祖母ちゃんの手を引く小さな子供が提灯や灯篭用なのか木彫りの船を持って嬉しそうに走っていく姿を見たら、初めて見た光景のはずなのになんだか胸がぎゅっと切なくなった。

「…明日からだな。」

小さくそうつぶやいて彼はそのまましばらくまた黙った。何が、という愚問をするほど私は馬鹿じゃない。


2018.08.15.

まえ つぎ


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