001号室/神様と私



【犯罪者ロー×警察ヒロイン】



「吸うか?」

ジメジメとする空気にマルボロの香りが滲んだ。手でいらぬと示せばふう、と煙を口から吐いて男は口角を上げた。内蔵を悪くしているのか、目の黄色がちなのが目立つ。煙草に酒、ドラッグ、体に悪いものは一通り摂取しているのだろう。時折男のタバコを持つ手が震えた。羊のような口髭が雨に濡れてしなっていた。暗く湿った大都会の路地裏では、ニュースや新聞にさえも載らずに人知れず命を摘まれ、そして朽ちていくしたいのなんと多いことか。ことにこの街では人間の価値など石ころレベルにまで落ちていくのだ。警察の目に留まるならばまだいいだろう。一番最悪なのは、警察が把握していながらも、シンジケートや裏の人間と手を組んで事実を隠蔽するケースだ。様々な原因は考えられるが、基本的には殺された人間はその事実どころか、生きていた存在さえも抹消される。この世に最初からいなかったものとされるのだ。ドラッグの方が人間の価値をはるかに上回る。

「ああ、おい!手荒に扱うんじゃねえよ!ぶっ殺すぞ!」

隣の男が声を荒げれば、白い箱を運んでいた男が慌てて持ち手を改た。あの中にある薬を売れば、一体どれほどの人間を陥れるだろうか。目の前でひっそりと行われる現実をぼうっと眺めながら、右手に出来たたこを触った。

「右利きか。」
「……だったら何?」
「いやあ、そのたこは細っこくて小せェお嬢さんの手には似合わねえや。」

男は不躾に舐めるように胸元と、私の腰に目線を落とすとにたりと笑う。不揃いな歯が顔を見せた。

「…そのベレッタもな。」

男はそう言って至極うまそうに煙草を吸って、それからまた吐く。父親の吸うそれと銘柄は確か同じであろうが、こうも吸う人間によって香りが異なって違うものなのだとぼんやり思った。煙草の煙は実にその人間を雄弁に語るものである。男は視線を私の腰から次第に下に向けて、私の足元を見た。雨に濡れて泥と地に濡れているはずだが、暗闇では定かではない。自分の濡れてぐしゃぐしゃになった足元には、新聞がぐにゃりと転がっており、見慣れた初老の白髪交じりの男が一面で自信に満ちた表情で記者たちの前で手を挙げている。黒縁のメガネと鼻の下の髭は整えられていて、誠実で実直さを垣間見ることができ、見る人間に好感を与える。初老の男の周りにはきちんと制服を着こなした警察官が囲み、中央に映る男性の腕章も同じく正義の象徴が写っている。警視総監就任≠ニいう文字が滲んでいた。

「ついに警視総監…か。よかったじゃねえか。これで嬢ちゃんも生涯安泰だろう。」
「…………。」
「…にしても、あんまりお前さんに似てねえな。母ちゃん似か?」
「もう運び終わったわよ。ここは巡回強化区域なんだから早くして。」

そう言って横目で男を見れば、男は酒やけのひどい声を絞り出したような笑いを漏らした。

「見つかってもあんたの“パパ”がもみ消してくれるだろうが。それとも、まさかお嬢ちゃんは、あの例の“変態切り裂き魔”を怖がってやがるのか?」
「……声が大きい。もう少し抑えなさい。」
「そりゃあ、ま、警察よりある意味怖ェよな。あいつ、どの組織にも入らねえで単独でやってるらしいからなァ…」
「無駄口を叩くな、早く行け。これ以上口を動かすのなら、煙草の代わり鉛玉くれてやるわよ。」
「おお、こええ。じゃ、あんたの“警視総監”によろしく言っといてくれや。またな、嬢ちゃん。」

そう言いながら男は私の足元に転がる新聞の上にタバコを投げると、しとしと降る雨をくぐって鈍く声を上げる車の中へと消えていった。腰に下げたレシーバーを手に取ると、出来るだけクリアーな声が出るように努めた。

「…こちら○○刑事です、□□地区の△△通りに特に以上は見当たりません。」

了解、という関心のない温度の低い声を確認すると再び腰に収める。刹那、足元に転がるタバコが見えて、先ほどの男を思い起こさせた。もう一度会いたいとは思えぬ男であるが、また言われれば止むを得ないであろう。しばらくは煙草の匂いも嗅ぎたくないものだとまゆをひそめると、足元に転がって未だ火の消えぬそれをぐしゃりと踏み潰した。雨水がびちゃりと靴を濡らし、その表紙に転がっていた新聞もぐにゃり歪み、うつっていた初老の男の顔をも潰した。足を上げればまとわりつき、眉間にしわを寄せてそれを取り除く。そうすれば別の紙面が視界に映る。猟奇的な切り裂き魔事件を大々的に上げた記事だった。遠くの方でサイレンの音が間遠に聞こえる。

「っ、」

突然、後方でがたりとゴミ箱のようなものが転がったかと思えば、すぐに腰に収まっていたベレッタに手をかける。しばらくの沈黙後、ゴミ箱の影からがさごそと小さな黒猫が飛び出て、目が会うなり向こうの方へ走り去っていった。思わずその様子を見ていたが、ため息を吐くと、ベレッタを元の位置に落ち着かせた。

「(最近、少し疲れているのかもしれない。)」

こめかみを抑えて、一息つく。今一度用心深く辺りを見回して異常がないことを確認すると、往来へと戻る方へ足を動かした。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「ねえ、パパ。」
「なんだ。」
「“死の外科医”って、パパの知り合い?」

ペラリと新聞をめくりつつ、視線をちらりと横で外を眺める私に送る。メガネの奥の鋭い視線が私に真意を問うように向けられた。鼻の下の整えられた髭をひとなですると、白髪混じりの初老の男はやや口角を釣り上げた。

「なんだ、気になるのか。」
「いいえ。ただ、最近新聞をにぎわせているから。もしかしたらパパの知り合いかなって思ったのよ。」

そう言って今度はこちらが視線を初老の男、こと実の父親に向ける。黒いスーツには金色に光る目映いばかりのバッジと、腕章が垣間見えた。父の節くれだった手が握る新聞のおもて表紙に大々的に書かれた記事に視線を止めて、示せば男はわざわざその記事を改めた。

「…いや。この切り裂き魔は単独犯だ。」
「パパの“お友達”たちとは関係はないの?」
「ああ。だが、そろそろこいつをどうにかせねばと思ってたんでなあ。」
「どうにかできるの?」
「当然だ。少し位は泳がせても良かったが、ここまで来ると目に余る。」

車は緩やかに進んでいく。外は快晴で、落ち着いた昼下がりの日差しがこの街を照らしていた。

「…私の街で好き勝手はさせるまい。」

男はそう言うと新聞を私に預けて懐からマルボロを出すと吸い始めた。ふう、と息を吐き出すと、例のあの匂いが車内に充満し、次第に私の肺をも犯していった。新聞を手に取り、表紙を見た。見出しは「ジャック・ザ・リッパーの再来」、だの「死の外科医」だのの謳い文句とともに、猟奇的な殺人事件についての全容が書かれている。簡単にいえば被害者の体をバラバラしにて殺害するという猟奇殺人である。しかしこれが普通の殺人であればここまで大きく報道されることはないだろう。ここまで大っぴらにこの事件が話題となるのは、この犯人がノーマルな人間でなく、所謂普通の人間を超越する能力を有する凶悪犯罪者であるからであろう。ノーマルな人間とは一線を画したこの様な犯罪者の場合は、報道も必要以上に大きくなるものである。血をひとつ流さず人体を鋭利な刃物で切りつける。どういった道理かはわからぬが、切りつけられた人間はしばらくの間“死”が訪れずれず、体の一部を失っても生還を果たした被害者も数名確認されているが、概ねして、心臓のない被害者は“死体”として発見された。

「…今日も頼むぞ。」
「、ええ。」

声をかけられてようやく現実へと意識を浮上させた。男は懐からスマホを取り出すと、画面を私に見せた。

「…△△通り38番の001号室、」
「この間のドラッグのマフィアの男を覚えているか?」
「あのヤギみたいなヒゲ生やした卑しい男ね。」
「ハッハッハ、まあそう嫌うな。アイツは一応あの業界じゃ口の効くパパの“お友達”の一人だ。今日は会ってUSBをもらえばいい。」
「……ちゃんと口座に振り込んでね。」
「当然だ。立派な仕事なのだからその“対価”は家族でさえも払う。
頼むよ、なまえ。お前しか信用できん。」
「……ええ。」

きいい、と車が止まる。新聞を男の膝に乗せて、お互い頬にキスをする。気をつけなさい、と形式的な言葉を耳にすると車の扉を締めた。正直この仕事に興味はなかった。おとなしく刑事だけをすることも別段悪くはない。要はどちらにも興味がなかったのだ。自分にとってはこういった危ない仕事でも日常に過ぎなかった。多分、感覚が麻痺しているのだろう。権力に溺れて身内にしか信頼のおけぬ孤独で哀れな父を同情する一方で、父親に愛情などは、ほとんど感じなかった。腰に収まるベレッタをひとなですると、カツカツとレンガ通りを目的地に向かうために足早に歩き出した。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「お前は、神を信じるか?」

目の前の男はそう言ってにたりと笑った。腹の底が冷えるような、背中の裏にレイキが走るような笑だ。長身で黒ずくめの服を纏う男は、それこそ死神のようだ。呼吸をすることさえ許されぬ程の緊迫した空気があいだに流れ、確実に私を蝕んでいく。対照的に男は飄々とした態度で私を見ていた。トリガーに添えた指が震え、それを見た男が喉を鳴らした。

「そう怖がるなよ。震えてたら撃ち損ねるぞ。」
「…何の意味がある。」
「ああ?」
「その質問と今の状況、何の関連性がある。」

そう問い返せば男はその顔を真顔にして少し思案するように私を見た。隈の濃く刻まれた目が細められる。男が手のひらで弄んでいた心臓が小鳥のようにドクドクうごめいている。男の後ろには黒いスーツをまとった男の体がうずくまっていた。首が取れ、それは男の足元で転がっている。黄色いギョロギョロとした目は驚愕に見開き、ヤギのようなヒゲをはやしたその口は大きく開かれ、そしてこちらに絶えず視線を送っていた。苦悶の表情は見えない。ただ、驚き、そして未だ生を享受していることに驚きさえ抱いているようであった。男が驚愕するのも無理はない。切られた側面からは血は一滴も流れていないのだ。

「(これが、あの男の能力、か……)」

思わずまじまじと切られた男を見下ろし、頭の裏で冷静に分析し感嘆する。ノーマルである自分では、到底成し得ぬ神業である。このような奇跡が、人間を辞めた超越者ならできるというわけだ。私が再び視線を男に向ければ、男は再びにたりと笑って口を開いた。

「……関連性なら、ある。」
「…………。」
「少なくとも、今の俺にとっては重要な質問だ。」

かつかつとコンクリートの地面が鳴る。男が徐々に近づいてきて、私はいよいよ男の心臓へと狙いを定める。男はにたりと笑っている。薄ら寒い感情が頭を支配した。正直この猟奇的なアウトサイダーな殺人鬼にノーマルである自分に勝機などない。だが、みすみすやられるのも癪だ。この年齢で刑事を張るぐらいの実力はある。決して父親のコネクションではない。ぐ、と銃を握る手が強まる。男は握っていた心臓を地面に落とすとそのまま足で踏みつけた。ぐしゃりという生々しい音と共に、男の脚が赤に染まった。心臓の主の本体が、男の後ろでかすかに動いた気がした。次の瞬間には男は自身の愛刀を手に取ると、それをゆっくり引き抜いてその鈍く光る刃を私に見せた。そしてあっというまに私との間合いを詰めた。

「…もう一度聞く、お前は神を信じるか?」
「っ、」

視界が黒に染まる。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



朝の七時のオープンカフェは時間帯の割には人が多く賑やかで、新聞を読むもの、忙しなくサンドイッチをほおばるもの、ゆったりと淹れたてのコーヒーを優雅に楽しむものと、各々それぞれの朝を迎えていた。エスプレッソのカップに口をつけ、広げた新聞に目を通す。最近はあまり頭の可笑しな事件は目立たず、大都会であるこの街にも見せかけの、静かな平安が表を覆っていた。ウェイターが持ってきたベーコンと目玉焼きとパンケーキにシロップをかけようと手を伸ばした刹那、思わずため息を吐いた。

「俺は甘いのもパンも好きじゃねえ。」
「……何でここに居るの。」

後ろから声がしたかと思えば、今度はくつくつと喉が鳴る音がした。思わずこめかみを抑えるが、ここで騒ぎを起こす気などさらさらなかったので、シロップをそのままパンケーキにかける。今は腰にベレッタはない。服の裏に小型の銃があるが、ここで発泡するわけにも行かない。どっちにしろ早くここから消えてくれないだろうかと再びため息をはけば、男が後ろで新聞をめくる音が聞こえる。

「甘党なのか。」
「…関係ないでしょ。」
「意外だな。」
「あっち行って。今日は非番なの。あなたの相手をする気はないのよ……トラファルガーロー。」

そういえば後ろで男が笑った気がした。あの例の薄い唇がいやらしく上がる様子が鮮明に浮かんできて思わずそれを打ち消すようにパンケーキをほおばる。ここのパンケーキとエスプレッソが好きで休日の余裕のある日は来るのだが、すっかりこの男に邪魔されることとなった。

「連れねえな、なまえ。何がそんなに気にいらねえんだ。」
「あなたの全てよ。だいたい私は刑事なのよ。なんで犯罪者のくせに堂々と目の前に現れるわけ。」
「非番なんだろう。」
「そうだけど。」
「じゃあいいじゃねえか。」

男はそう言うが、コイツは非番だろうがなかろうが関係ないのだ。現に昨日も徐に勤務中に現れて大胆にも昼食に誘ってきたのだから。頭がおかしいのだろう。これだけの犯罪者なら、言行が尋常ではないのは頷ける。とにかく私は何故かこの男に執着されている。あの日を境に。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



視界が黒に染まる。弾丸が数発放たれて、床や壁に穴を開けた。男には当たっていないと自分でもわかって、目の前の男の横腹に右足の蹴りを咬ます。しかし男のかすかなうめき声が漏れ、かと思えば今度は銃の柄で男の頭を叩く。腕が掴まれて、やばいと思った瞬間には視界は反転し、天井が見えた。直後、自分は足を払われたのだと理解した。そして男は私の両の腕を拘束すると、私の上に体重をかけて覆いかぶさった。動こうにもびくともしない。握っていた銃は男に投げられた。男は私の胸に手を這わせると、胸ポケットに忍ばせていた拳銃を抜いた。男が私を見下ろし、私は男を見上げる。パンツのポケットから携帯が転がり落ちた。これで死ぬのだと思うと、こんな人生でも惜しいものだと、思わず笑ってしまう。日頃あれほど信じたくない存在である神さえも、信じざるを得なくなる。

「……神は、いるんじゃない?」
「…何でそう思う?」
「現に、私の目の前に“死神”がいるわ。」

そう言えば、目の前の男は一瞬目を見開いたかと思えば、私を見てくつくつ笑い始めた。私は思わず眉間にしわを寄せて不満な表情を顕にすれば、男は余計に笑うのであった。そして私の床に転がった携帯を手に取ると、自分の携帯を取り出した。

「…○○刑事は偽名だったか。まあ予想はしていたがな。」
「な、何をしているの?」
「俺のを登録しておいた。消すなよ。」

そう言って男は自分の携帯を胸ポケットにしまった。訳が分からずその男の行為を呆然と見ていたが、思わず声を上げる。

「…ちょっと、変態切り裂き魔!」
「俺は変態じゃねえ。」

そう言って男が顔を近づけてきたので思わず目を瞑り顔を横に向ければ、くすりと男の笑った声が聞こえて、予想に反して胸ポケットに携帯が差し入れられた。思わず気恥かしさから男を睨もうと顔を元の位置に戻した刹那、唇に柔らかな感触がした。

「俺はトラファルガー・ローだ。」
「な、にを……」

男は口角を上げて私の顎を掴むと、睨め回すように私の顔を至近距離で見た。まるでお気に入りの宝石を眺めるかのような、注意深い目つきである。

「……確かに似てねえな。」
「何、」
「父親に。」
「、」
「母親似でよかったな、なまえ。」

男はそれだけ言うと私の銃を取り上げたまま、そのまま悠々と歩くと、扉の向こう側へと消えていった。私は空気の抜けた風船のようにただ呆然とし、男のその広い背中を見送ることしかできなかった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



パンケーキを食べ終え、ナプキンで口を拭う。時計を見れば八時になるところであった。今日は久々の休日である。用事も特にない。この男は無視すればいいとウェイターに片付けを願うと、新聞を丁寧にたたみ、食後のコーヒーに口をつけた。

「この後暇なんだろう。」
「関係ないでしょう。それに今日は忙しいわ。男性とこのあと会うのよ。」
「嘘つくならもっとマシな嘘つけ。お前恋人いないだろう。」
「なんで知ってるのよ。」
「調べたからな。」
「………。」

思わずまたこめかみを抑えたくなった。やはりこの男は変態犯罪者であったと意識せざるを負えない。最近なりを潜めているが、明らかに変態度は日増しに増えている。そろそろここから離れたいが、どう撒こうか思案しておれば、後ろの席が動いた。そして男は私の横に来ると、突然視界が鮮やかなものに包まれ面食らった。

「な、にこれ。」
「見ればわかるだろう。花だ。」

そう、見まごうことなき、それは花束であった。色とりどりのそれはとてもいい匂いがする。ピンクと赤のリボンで飾り付された華やかで可愛らしいそれは、黒い“死神”には到底似合わない。私が困惑したように男を見上げれば、男は口角を上げた。

「何の真似?」
「好きな女に花束をやることの何が不自然なんだ。」

大きな声で恥ずかしげもなくそういうものだから、周りの人々は自然と私たちに視線をやり、傍で編み物をしていた老婦人は拍手さえ送った。にたりと笑う男に辟易したようにこめかみをピクピクさせた。この男は例の殺人犯であるだなんて、この場にいる誰もが思わないだろう。

「パンは好かねえが、ドリアの旨い店なら連れてってやる。」
「何を勝手に。だいたい今食べたばかりなのよ、」
「昼までに時間潰せばいいんだろう。近くに映画館あったよな。」
「お一人でどうぞ。」
「馬鹿野郎、デートは一人じゃできねえだろうが。」
「デートって、ん、」

ぐいっと腕を引っ張られたかと思えば、むちゅん、という柔らかな唇が当たって離れないので、思わず男を突き飛ばしてみたが、全然ビクともしなかった。ひゅう、という冷やかしの声の中で、男の鋭く鈍く光る眼が私を捉えた。愛とは程遠い、人間離れした黒々とした執着の影が男の瞳を覆っていて、ああ、コイツは人間ではない、死神だったのだっけ、と諦めて目を閉じた。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



「…こちらの○○刑事です、□□地区の△△通りに特に以上は見当たりません。」

女の凛とした声が薄暗い路地に響く。愛刀を握り締めながら、その女の様子を注意深く見下げた。歳は自分より少しばかりしただろう。先ほどまでマフィアの取引の様子を眺めていたものだから、てっきりこちら側の人間だと思っていた。しかし驚くべきことに女はそれらを取り締まる側の人間であったらしい。心の内にかすかな興味と懐疑が生まれる。当初は適当にいつものように切り刻み、取引の種にしようかと思案していたが、女の顔が顕となった刹那、思わず愛刀を握る手が緩み、眼が見開かれ、しばらくは女の行動を注意深く見ることに終始していた。女は足元に転がって未だ煙草とともにその下の新聞をぐしゃりと踏み潰した。踏みつけるほんの一瞬、女の顔は確かに愛憎入り混じる表情であったのを見逃さなかった。あの顔ができる人間はそういるものではない。ましてや女は年頃で、人生の絶頂にいるはずである。そのような女がなぜあのように自分と近い表情ができるのか。あのマフィアとの会話から察するに、あの女は新しく就任した警視総監の娘であるらしい。あの警視総監が胡散臭いことは地下の人間ならよく知っている事実である。欲深く権力の掌握ならなんでも利用する。それはどうやら自分の娘でさえも同じらしい。

「(…哀れな女だ)」

しかし当の本人である女の様子は別段興味はなく、まるで流れ作業のごとくあいつらの“お仕事”を眺めていた。まるで自分には関係ない、とでも言いたそうな顔だ。神も何も、信じていないような顔である。遠くの方でサイレンの音が間遠に聞こえる。それを聞くと愛刀に添えた手を離した。突然、女のすぐ後ろで、がたりとゴミ箱のようなものが転がったかと思えば、ゴミ箱の影からがさごそと小さな黒猫が飛び出て、目が会うなり向こうの方へ走り去っていった。女はため息を吐くと、ベレッタを元の位置に落ち着かせた。見事な動きに思わず感嘆する。どうやらただの親の七光り、というわけではないらしい。女は今一度用心深く辺りを見回して異常がないことを確認すると、往来へと戻る方へ足を動かした。○○刑事はどうせ偽名だろう。ならば答えは一つだ。

「…調べてみるか。」

女の消えた路地で、自分の低い笑い声が響く。正義と悪の境目で苦しみ悶え、これからどれほどこの女が傷つきその美しい顔を歪ませるのだろうか。一体あの女は神を信じすがることはあるのか。それを想像するだけで心の内がざわめいた。見てみたい、そう思った瞬間から、俺はあの女に離れられなくなったのだ。死神も厄介だが、その死神を魅了する女もまた厄介なことだと口角を上げると、女が辿った往来の方へと歩き出した。


2015.11.22.

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