■ ■ ■

「八橋先生、近頃は夜も診察されいるんですか?」
「ええ。不本意ながら、ですが。何か言われましたか?」
「いいえ、そう言うわけでは…。ですが、患者の間では噂になっているんですよ。先生が夜な夜などこぞの患者に会っていると。恋仲なのではないかとさえ…」
「…それは非常にまずい傾向ですね。」

私がそう言って眉間を抑えれば、古参の看護師はくすりと笑みを零した。午後1時すぎ。一息ついたらどうだといつも声をかけてくれたこの四十路に差し掛かる看護婦は、珈琲の入ったカップをテーブルに置いて、思いだしたかのように切り出した。一番恐れていた噂話であるが、だがもう噂話には私も、そしてあの尾形百之助と言う男も嫌と言うほど慣れているはずだった。眉間に皺を寄せたまま淹れたての珈琲を飲み込むと、少しだけ気を落ち着かせようと襟元を弛めた。

「尾形上等兵ですね?」
「…ええ。別段いかがわしいことをしているわけではないんですけどね、まあ、誤解を与える行動ではあるとは十分理解はしています。」
「先生がそんな方ではないことぐらい皆知っておりますよ。揶揄っているだけですから。」
「あまりいい気分ではありませんね。」
「先生がここにいらしてから浮ついたお話の一つもないもんですから、皆珍しがって話しているだけですよ。あまり気になさらないでくださいね。」
「……浮いた話、か。」

確かに言われてみればこの北海道に赴任してからと言うもの、男性社会の最もたる場所と言えるこの兵舎であるというのに、一度として男性と交流することは仕事以外に一切ないと言ってよかった。ひと月に二回ほど来る父と母の手紙には相も変わらず縁談話の一つや二つはくるし、時折逆にそっちにはいい人は居ないのかとさえ聞いてくる始末であった。末娘であるからか、もうどこの馬の骨でもいいと思っているらしかった。姉は十分な家柄の十分な家庭に嫁いだので、私はいくらかはマシではあるのだと思う。別に自分に制約を課しているわけでも、男性が苦手と言うわけでもない(苦手だったらこの生業は恐らく無理だ)。だが、自然とこのように今の自分は男っ気が全くなく、恐ろしいほどに簡素な生活を当たり前のようにこの地で享受していた。それが本当に、当たり前だった。この尾形百之助と言う男が目のまえで余計なことをするまでは。

「尾形上等兵もこの噂を存じているのかしら。」
「さあ、どうでしょう。うちの若い子がもう口を滑らしてるか分かりませんね。」
「…そうですか。」
「…とはいえ、尾形さんからその夜の検診を提案されたんですよね?」
「ええ。入院生活があまりに暇で、話し相手が欲しいんですと。」
「へえ、意外だわ。あの人、なかなか若い子とも話さないんだもの。時折ぼうっと猫みたいに黙ったままこっちを見てくるから、取っつき難い方だなあって思っていたんですよ。若い子の中では気味が悪いとさえいう者もいましてねえ…。でも、随分先生に御執心のようですから、尾形さんの方は本当に御気があるのかもしれませんよ。」
「そんな恐ろしいこと…冗談でも本人には言わないでくださいね。」
「さあ、どうしましょうねえ。」

くすくす可笑しそうに笑う看護婦に嫌気がさしてふはっと息を吐けば彼女は余計に可笑しそうに肩を震わせた。動かしていたペンを一度止めて、それからふと視線を上げる。視界には窓の向こう側の景色が見えている。昨日より降った雪がまた地面を真っ白に染めてしまった。窓の外の向こう側ではせっせと雪かきをする若い兵士達の姿が見えた。後のテーブルではカルテやその他の書類記入の手伝いをしてくれている古参の看護婦が鉛筆を滑らせるさらさらとした筆の音が静かに聞こえた。

「せっかく春が来たかと思ったのに…」
「ここの冬は本当に長いのですよ。」
「そうですか。」
「ええ。春も、一瞬で終わってしまいますから。あ、先生、ここに全部置いておきますね。」
「はい、ありがとうございます。」
「……あの、自分で言っておいてなんですが、噂話ですから、あまりお気になさらず。」
「気にしていませんよ。」

私がそう言えば彼女は苦笑いをし、会釈してそのまま部屋を後にした。今の言葉の通り、本当に別段そこまで嫌な思いはしていなかった。だが、そうとは言え彼、尾形百之助はどうだろうか。ははっといつものようにどうってことなさそうに笑うのか、それともぎょっとするのか。今の私たちの不可思議なめぐりあわせと今の私たちを見て、亡くなった勇作さんはどう思うのか。それが頭に過って仕事に集中しようと思ってもなかなか集中が出来なくなってしまった。とんとんと鉛筆で紙面に何度か点を打った後、思い切り息を吸い込むと記述の途中ではあったがノートを閉じてしまった。貰った珈琲を一口口に含んで、懐中時計を手に取り時間を確認する。少し早いが昼間の検診を再開しようと立ち上がった。











「他に痛かったり痒かったりしますか?」
「いや、特には。」

注射を打った辺りを脱脂綿で拭い、そこに充て布をする。それから丁寧に袖を戻すと、蒲団の上に彼のがっちりとした腕を静かに置いた。骨折した方は先ほど添え木とガーゼ、包帯を変えたので真っ白く綺麗になった。遠くでフクロウの声が聞える静かな夜だった。かすかに開いていた窓を閉めて、それから半分だけカーテンを閉める。火鉢の火をくべて、寒くないですかと聞けばベッドの上で大人しく横たわる尾形百之助は此方をじっと見てから首を横に振った。それを確認すると横の椅子に腰を掛けて、いつものようにカルテに今日の病状と容体を書き入れていく。モルヒネの摂取量を少しずつ少しずつ減らしていくことを検討している。あまりいきなり少なくするのは患者にとっては痛みが増してあまりよくないが、かといって長期的に使用すると依存症を引き起こしてしまう危険性がある。尾形百之助の場合、術後の経過も芳しく問題なさそうなので、時期を見極めて薬物投与を減らしていくことが重要であった。

「少しお顔を触ります。」
「どうぞ。」

彼はそう言って上体を起こし私の方を向いた。サイドテーブルのランプが彼の顔を柔く照らす。相変わらず光のない眼に苦笑しつつ、両の手で彼の頬と顎に触れる。抜糸はまだできないが、触れても痛がる様子はあまり見せなくなった。彼は私の手が冷たいのか、触れればいつもまるで猫のように目を細め私の掌を嗅ぐようにスンスンと呼吸を速めた。丹念に彼の顔に異変が見られないか覗き見ているうちに、自然と自身の顔と彼の顔が至近距離になるのは至極当然の事であった。

思わず反対側の縫合痕をみようとしたあまり、椅子から離れて彼の眠るベッドの上に腰を掛けて見遣っていれば、ふと彼と至近距離でばちりと眼があった。彼のその顔が目と鼻の先にあって思わずあっと声を漏らしてしまったが、こほんと咳ばらいを一つするとするりと彼の頬や顔から手をぱっと離して、それからすぐにベッドから離れるとすぐに椅子に腰かけた。彼は一連の私の行動を見ていたが、椅子に座ってカリカリとカルテを書き始めた私を見ながら暫くするとくつくつと笑いだしたので、思わずむすっとした視線を彼に向けた。

「…なんですか。」
「いや、別に。」

彼はそう言うとふん、と鼻を鳴らした。そして飄々としてサイドテーブルに置かれたマグカップを手に取ると、優雅に口に付けて暖かい紅茶を流し込んだ。相対して私は気恥ずかしくて思わず襟元を弛めて一瞬熱くなった体を冷やそうと試みて、それからまた視線をカルテに移した。書いている間、今朝の看護婦とのやりとりが頭を過って、思わずかぶりを振りたくなる。やはりこの男もあの噂を聞いたのだろうかと邪推が思い浮かんで、それからそれを打ち消すように咳を一つした。

「先生はご結婚されてますか。」
「…藪から棒に何ですか…随分不躾な質問ですね。女性にするような質問じゃないですよ。」
「ご心配には及びません。俺は貴方以外にこんな質問しませんよ。」

色々記入していれば藪から棒にこのような質問をしてきたので思わず眉を顰めてそう言えば彼は声色一つ変えずにそう言って退けた。応える義理もなかったのだが、尾形百之助と言う男の場合、きっとまた余計なことを言わないでは済まないであろうと頭でそれとなく予想して、溜息を吐いた。

「してませんよ、それが何か。」
「いやあ、そうでしたか。」
「わざとらしく返事を返さなくても結構ですよ。」

ひょんなことから、彼の気まぐれな要望で私はこうして夜ごと彼のこの病室に赴いて彼の話し相手になることとなってしまった。話し相手と言っても、診療の最中だけの話であるが。彼はそれでもいいのか、私が病室に入った瞬間、いつもの人を見透かしたような笑顔を貼り付けて暗闇の中から私を出迎えた。

「八橋先生のような才色兼備がご結婚されていないとは、何か理由でも?」
「別に特に理由はありませんよ。なんでそんなことがお知りになりたいのですか?尾形上等兵殿。」

じろりと視線を彼に向ければ、彼は私の反応を見定めるかのように目を細めた。彼は自身の顎を撫で、視線を逸らすことなく私を見据えている。彼が病院に運ばれて漸く2週間は経っているためか、髭は定期的に剃っているとはいえ、彼の髪はいくらか伸びてきていて、坊主から無造作な髪へと変化を見せていた。明治維新直後の維新志士のような散切り頭を彷彿とさせたが、彼の髪の性質を見る限り、もう少し伸びそうな雰囲気であった。髪を伸ばしても、雰囲気のある顔立ちをした彼ならきっと似合うだろうと、ぼんやり作業の傍らそう思って、それから息を吐いた。

「今まで人を好いたことはありますか。」
「…あまり個人的なことに関しては黙秘を致します。」
「そうか。俺は構いませんよ、違う質問をすればいいだけですから。」
「……随分、おしゃべりなんですね、尾形上等兵殿。あなたはもっと静かな方だと思っていました。」
「自分でもそう思っていましたよ。いや、実際に俺はあまり喋りすぎることはないんですがね。…そうだな、殊に、あなたといると色々興味が湧いてくる。」

そう言って彼は視線を私から逸らすと、再びマグカップに口をつけた。じりじりと火鉢の中の炭がゆっくり焼けて行く音がかすかに聞こえる。今夜は風のない新月の夜で、外は真っ暗で、街灯が無ければ夜道が心細くて仕方がないくらいであった。彼の言葉の真意が分からず、思わず視線を上げたが、すぐに膝の上へと戻して、悟られぬように心のうちで先ほどの言葉の意味を考えていた。カルテを書き終えてひと段落つくと、いつも通りこの部屋を後にしようと片づけを始めた。彼もそろそろマグカップの中の紅茶を飲み干す頃合いだろうし、ちょうどよかった。鞄に色々詰めていざ帰らんとすれば、彼は突然、左顎が微かにじんじん痛むと言ってきたので、少し緊張をして抱えた鞄を再び降ろした。

「今一度、見せてもらえますか。」

そう言ってまた先ほどのように腕まくりをし、彼の返事を聞く前には既にベッドに身を乗り出して彼の顎に手を添えていた。左側は此方からは反対で、自然とぐい、と彼のお顔をこちら側に引き寄せる形となる。別段、腫れが再び現れたわけでも、縫合が取れた訳でもないようだ。骨が粉砕すると、骨自身に痛みは感じないが、その周りの肉や筋肉が硬直して痛みを生じることがある。恐らくその類いだろうと踏んで、モルヒネを打った手前、これ以上は鎮静剤は打てないので、塗り薬を塗ってあげることにした。

鞄から硬直した筋肉を和らげる作用のある塗り薬を取り出すと、それを手に取り直接患部に擦り込むように塗っていく。彼はその間、顎を撫でられた猫のように大人しく顔を上げたまま、目を瞑っているらしかった。髭のじょりじょりとした感覚と、男性特有の肌の硬さが掌から伝わってくる。彼の着ている寝巻きの肌蹴た部分からは喉仏や鎖骨が露わとなり、ランプの橙色に照らされてその凹凸を暗がりでもくっきりと、確認することが出来た。

「………」

こちらから彼の閉じられた暗闇の中の瞼を見ることが出来、再び心の内で、いつぞやの晩のような感想が湧き出てくるのであった。尾形百之助の方が、その父花沢中将に似ている、そんな気がしていた。弟君の勇作さんよりもきっと。勇作さんのお顔はあまり印象に残っていない癖に、その父の花沢中将はありありと思い起こせた。彼にもまた、父であるにも関わらず、勇作さんとは違う、どこか独特の雰囲気があり、一度お会いしただけでも、その雰囲気に言い知れぬ違和感を感じていたのだから。

「そんなに俺の顔が好きですか。」

尾形百之助はそう言うと私を見遣る。顔が至近距離にある上にこのように挑発的に視線を寄越して口角を上げたので思わず驚いては、と声を漏らしてしまった。別段、そんなつもりでもなんでもなかったのだが(雑念はあったかもしれないが、きちんと治療をしていたので)、不意を突かれたような、頭から冷水を浴びた様な感覚がした。ここで少女のようにパシリと頭を叩いて怒って見せてもいいのだが、なんだかそれだとこの尾形百之助にまんまと弄ばれて振り回されているようで非常に癪だ。もし仮にあの噂を知っていて、私を試しているならなおさらだ。私は元来負けず嫌いだし、彼には一等揶揄われたくない。一泡吹かせてやりたいのだが、仕返しも正直面倒だ。どうしたものかと考えあぐねいた結果、もろ刃の剣かもしれないが、少しだけ試してみようかしらと自分も意地悪な気持ちが芽生えてきた。

「ええ。だとしたら何ですか?」

私がそう言ってじっと彼のことを見つめれば、彼は予想に反してそのニタニタ笑って細めていた目を見開いて私をじっと見返した。それを見てふ、と笑って彼のあごから手を離すと漸く立ちあがった。手に着いた薬を手拭いで拭って、それから鞄に塗り薬と手拭いを所定の位置に収める。今一度彼をちらと見れば、既に先ほどと同様、静かに横目で私を見ていて、口元をきゅっと結んだまま口元には弧を描いてはいなかった。だが、私と目が合うと再び口角を上げて、私が今し方薬を塗った方の顎に手を添えてこれ見よがしにすりすりと撫でてから、口を開いた。

「通りで、いい趣味しているわけだな。」
「お互い様ですね。では、今日のところはゆっくりおやすみなさいませ、尾形上等兵殿。」

ふん、と顎を上げて私も負けじと恭しくそう伝えて、今日も今日とて扉の方へと歩みを進めた。扉を閉めた瞬間、少しだけ先ほどの驚いたような彼の顔が脳裡によぎって思わずくすりと小さく笑ってしまった。ほんの少しだが、今までの一連の失礼に一矢報いた気がして、今夜はほんの少しだけ、久々に気分が良い。



夜の瞼、朝の腕

2018.05.07.



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