■ ■ ■

5人兄弟の末の娘であった私を父は大変に可愛がっていたし、期待していた。津田梅子女史のようにするのだと、周囲にも息巻いていて、私はそれが嬉しいような重荷のような気がしていた。母はそれほど西洋の勉学に明るい人では無く、家柄だけは江戸の世から続く名家であった。父はもともと長州の人間だった。父方の祖父は尊王攘夷運動を推進していた武家の者で、文明開化以降東京に移った家の者だったので、それなりに裕福な家庭であったせいか、このご時世で私は幼少の頃から外国に行かされては様々な稽古を学ばせられた。そんな私が許嫁の存在を知ったのは米国から帰朝して間もなく、あとひと月ばかりでまた米国に戻るという頃の事だった。

今まで一度として結婚のことを考えたことなどない、と言えば嘘になる。実際、私の7つ上の姉は私が10の時に軍人の家に嫁いでいった。それからは手紙のやり取りと、年に一度正月に里帰りをした際に会うくらいとなっていた。手紙の中で姉は色々のことを、本当に色々の事を吐露していた。姉は私にとっては雲の上の存在だった。いつでも美しく、そしてこの国の女性らしく清廉で可憐で大人しく、そして勉学に疎く、男の言うことは何でも首を縦に振るような、物静かで優しい女性だった。実際、嫁ぎ先の義母や義父にも可愛がられていたようだ。そんな姉の結婚生活を綴った手紙を見るたびに、私もいつかこうなるのだろうかとぼんやり淡い期待を抱き、そして小さく絶望した。

姉とは対照的に、私はずけずけとしていたし、小さいころから野心家で負けず嫌いであった。悪戯はするし、わがまま言い放題だったと記憶している。そのくせ、なまじ頭はいいので良く近所のガキ大将をいじめていたと、姉に後になって回想されたときには、驚いたと同時に妙に納得した。確かに、私はいつだって身に着けていた綺麗な絹の着物を翻しながらお庭を駆けまわり、夕飯ごろにはすっかりその袖は泥だらけにしていた気がする。幼いながらに、きっと私はこのお転婆がたたって、素敵な男性と出会うことなど、できないのではないかと何となく、そんな気がしていた。だが、運命とは面白いもので、いつでも私の予想の遥か斜め上をするりと抜けていくのであった。

「八橋先生、暫くぶりですな。」
「鶴見中尉殿、お帰りなさいませ。」

頭を下げてそう伝えれば彼はにこりと笑って頷いた。そして少しばかり話さないかと言わんばかりに私を自分の執務室へと案内したので、彼の誘いを断るわけにも行かず、彼、鶴見中尉殿と月島軍曹殿の後に続いて廊下を歩いた。この日は廊下の窓が開け放たれていて、昼下りの気持ちのいい少し温かな風が吹いていた。この季節にしては珍しいほどに、柔らかな風で、前髪が揺れるたびにその風の気持ちよさと外の眩しさに目を細めた。鶴見中尉殿は私を長椅子に勧めると、自身も向かい合うように座り、そしてコートの懐から何やら包みを取り出すとそれを私に手渡した。

「お土産だよ。」
「お気遣い、感謝します。」

開けてみるとそれはお団子だった。御気を遣わせて申し訳ございません、すぐさま答えれば、彼はふるふると首を振ってつづけた。

「先生には、何時も世話になっていますからね。それに、尾形上等兵の回復も目覚ましいと聞いている。先生の処置が素晴らしかったからに違いない。」
「いいえ。彼の自然治癒力が目覚ましいだけですよ。ここの兵士の皆さんは軒並み…。誉れ高き評判に違わず、第七師団の方々は皆さん屈強でいらっしゃいますから。」
「お褒めに預かり光栄だな。」

そう言ってにこりと鶴見中尉は笑うと背もたれに背を預け、それから足を組んだ。それからせっかくだからと呉れたお団子をこの場ですすめたので皆さんと一緒に食べることとなった。私がお茶を入れようと立ち上がれば、それは別の兵士によってさえぎられたので静かに腰を下ろした。間もなくお茶が運ばれて来て、月島軍曹はそのまま私に挨拶を交わすと他の兵士と共に部屋を後にした。何かご用事があるのだろうとぼんやり思って、それから淹れたてのお茶の湯のみを手に取った。鶴見中尉殿とこのように2人きりで話すことは珍しくはない。彼の部下を診ている医師である以上、彼はそれとなくであるが色々彼らの事を伺ってくる。上官の前では畏まって何も言えなくなってしまう兵士も多いので、こういった機会に私は彼らにとっていい作用が起こるように話す事を心掛けていた。一応、あの尾形上等兵とて例外ではない。

「抜糸は週明けにはしようと思っています。固形物はもう許可を出していますが、あまり固いものはまだダメです。」
「そうですか。」
「…それにしても、恐ろしい精神力です。私の前では飄々としていますが、看護師の前では痛みを訴えることも珍しくはないようです。ですが、モルヒネ中毒になってもらっては困りますので…」
「…そうですな。」
「ですが、近頃は最初の頃ほどではありません。腕もまだ様子を見たほうがいいでしょう。彼は素晴らしい狙撃手とお聞きしましたから、もう少し大事を見ていた方がよろしいかと思います。」
「そうですか…復帰はいつ頃になりますかな。」
「最短で3週間、最長であと1月といったところですね。特に問題なければ、ですが。勿論、いきなり健常だったころのように動かれては逆戻りです。」
「無論、復帰は早いに越したことはありませんが、予想以上に回復が速く一先ず安心しましたよ。精神力では確かにあの男は一目置くべきところがあります。尾形上等兵だけじゃなく、今後も私の部下をよろしくお願いします。」
「あまり皆さんが大きな怪我をなさらない事を祈ります。」

私がそう言えば、鶴見中尉殿は苦笑なさってからお団子を咀嚼した。そしてあ、と思いだしたかのように声を漏らされたかと思えば、突然目を見開かれて動きを止められた。そして突如身を乗り出すと、私の方に体を寄せて、それからすんすんと鼻を吸いながら私の首筋辺りを嗅ぎ始めた。両の手を私の肩に置いて、本格的に嗅ぎ始めたので思わずぎょっとしていれば、中尉殿は私と至近距離で目を合わせて、それから二コリ微笑まれた。

「先生のいい香りと混じって、かすかに……男の香りが…尾形上等兵殿の香りがします。」
「えっ」
「…近頃、尾形上等兵の診察を夜になさっているとか。」
「…ええ、…実は、それは尾形上等兵殿の要望なのです。」
「夜に診察をなさることがですか?」
「はい。…煙草も吸えないし、夜は消灯でランプは無闇に付けられず新聞も読めないから、夜に診察をしながら何か話せと…」

私がそこまで言うと彼は驚いたように目を丸くして、それから顎に手を添え何かを思案されるように視線をやや右上にあげた。ふむふむと独り言ちて、それからぼんやりと一人でブツブツ何かを呟かれたのち、聞こえるか聞こえないかの声で私の耳に口を近づけさせると再び話をし始めた。

「…どうやら先生は尾形に痛く気に入られたようですな。」
「嫌われている、の逆では?」
「何故そう思うのですか。」

私が眉間に皺を寄せてお団子を食べながらそう言えば彼は至極おかしそうに笑ってそれからようやく私から離れるとゆったりとした優雅な動きで目の前の長椅子に腰を掛けた。

「尾形上等兵は、私の嫌がる質問や皮肉しか仰いません。まるで試すように人に失礼な質問を投げては、ニタニタと笑うのです。」
「いや、それは違いますよ、八橋先生。逆です。あれは、ああいう男なのです。」
「ええ?」
「尾形は素直ではありませんからね。あの男は不器用なのですよ。尾形はきっと先生を好いているに違いない。」
「…だとしたら、むしろ嫌ですね。いい年した男が、まるで少年のような真似をするだなんて」
「ははは、ぜひ本人に聞かせてやってください。」

私がそう言えば彼はケタケタお腹を抱えて笑った。言えるならば言ってやりたいところなのだが、もし勘違いだったならとんでもない赤っ恥だ。自分も頬をかいて苦笑いした。今朝から風が少し強く、今もこの執務室の窓をガタガタ揺らしている。鶴見中尉はすっかりぬるくなってしまったお茶をずず、と啜ると一息ついて窓の様子を一瞥した。庭に植えてある木々にほんの少しだが小さな芽ができ始めていて、少しずつ春が近づき始めていると知らせているようだった。

「八橋先生の魅力の成す業ですよ。」
「揶揄わないでください。」
「いいや、本気で言っているんですよ。あなたは美しく、そして少し物悲しい陰をお持ちだ。」
「…それって誉め言葉ですか?」
「天真爛漫な女性もそれはそれで宜しいですがね、陰のある女性の方が断然いいに決まっていますよ。何と言えばいいのかな…、陰のある女性の方が魅力的と言いますか…ちょっかいをだしてやりたいというか…ずうっと自分の傍においてやりたいものなんですよ。」
「凄く反応に困るのですが…」
「褒めているのですよ。現に、私もあなたとこうして話すのが楽しくてねえ。」

ニコニコ笑う鶴見中尉にそれ以上は何も言えず、困ったように眉をハの字にしてそれから私も湯飲みの中に残っていたお茶を飲み干した。ぬるくて、よく見たら茶柱が一本だけ立っていた。食べきれなかったお団子は後で食べてくれと言われたので包みに再度しまい、そして再度丁寧に礼を述べると鶴見中尉の執務室を後にした。執務室を背にした途端、彼の言う私が背負う特有の「陰」について少し思案してみたが、結局彼が何を意図していったのかが分からず、心の内が余計にモヤモヤしただけだった。











「鶴見中尉殿が戻られたそうですね。」
「ええ。今朝方に。お会いしたかったですか。」
「俺からは特に用事は…それより、会ったのか。」
「ええ、会いましたよ。」

扉を開けて開口一言、尾形上等兵は鶴見中尉殿の話を切り出した。いつものように夜の薄暗い帳の降りた部屋にランプを持て入室をする。よく見ると、今日はサイドテーブルに何やら盆が載せられていて、そこには丁寧に蠅帳がかぶせられていた。それに眉を顰めつついつものように彼の横たわるベッドに向かい、簡素な椅子に腰を下ろした。

「…夕食を召し上がらなかったですか?」
「さっきまで食欲がなかったんですよ。」
「それで薬は飲まれたのですか?」
「一応は。」
「…胃を傷つけるかもしれないので、食事は必ずとってください。」

ふう、と溜息を吐いて彼を見る。彼はいつものように何処か楽し気に私を見ている。いつもながら何を考えているかわからず、私はこの空間に彼と二人きりでいると時折背筋がぞっとしたり、或いは別の意味でひやひやすることが本当に多い。一先ずいつものように診察を始めると、彼は大人しく私の言うことに従った。顎は大分腫れもなくなり通常の輪郭に戻っていたが、意外にも腕はやはり分離している部分があるらしく芳しくない。勿論以前よりも良くはなってきているが、分離している部分から時折痛みがあるという。これも分離した骨の周辺にある硬直した肉が傷みを発しているのだろう。狙撃の腕のある彼だからこそ早期完治を目指したいのだが、かといって無理は禁物だ。彼もそれなりに気を遣って折れた方の腕はできるだけ使わないよう努力はしているらしかった。

「とりあえず、その食事、どうされますか。下げますか。」
「そうだな…」

いつものように注射器にモルヒネを注入し、プシュッと指で押し込む。彼の怪我をしていない方の腕を手に取り夕食の処理を問えば、彼は私が注射器の針を自身に差し込む所をボンヤリ眺めながら思案しているようだった。

「食います。」

そう言って注射器を下げれば彼は言われずとも腕を引いた。気を遣って蠅帳をとってやり、そしてサイドテーブルを近づけさせてやれば彼はそれをじっと見ていた。カルテを書きこむ必要があるので、鞄から取り出しいつものように膝の上で鉛筆をさらさらと滑らせていれば、先生、と私を呼ぶ低い声が聞えたのでふと視線を上げた。ランプの橙色に染まった彼の白い肌が見えて何ですかと視線で問えば、彼は目を細めてそれから口を開いた。

「手伝ってもらえますか。」
「自分一人で食事できないのですか?看護婦からはもうできると聞いていますが…」
「汁物なら匙がありますから。固形物は食べるのが難しいんですよ。」
「…そうですか。」

ちらと盆の上のものを見てみたが、確かに匙と箸が一膳置かれており、そこには麦飯の入った椀が主菜などと一緒に入っている。匙ですくって食べる分にはいいのだが、抑える手が言うことを聞かなければ難しそうだ。此処は別段ふざけるところでも冗談をいう場面でもなかろうと思い、少し癪ではあったが手伝うことにした。頼まれた相手が尾形百之助でなくとも、きっとそうしただろうし、尾形百之助が相手だからと言ってやらない自分も何だか自分に負けた様な気がするし、それはそれで勇作さんの例のことを気にしすぎている気がするしで、かなり癪だ。米神を押さえて気持ちを整えると、じとりとした目で彼を見据えて、それから息を吐くと観念したように箸を手に取った。

「…口開けてください。」
「やはり先生は話のわかる方ですな。」
「無駄口を叩かず口を開いてください。」

そう言って冷えてしまった麦飯を彼の口に運んでやる。彼は黙ったままもぐもぐと咀嚼し、それから癪だが次はタラの煮つけが食べたいと言ったので小さくほぐしてやりそれも彼の口に運んでやる。面倒ではあるがバランスを考えて副菜の漬物や汁物も飲ませてやるとなんだか赤子にご飯を食べさせているような気持になって来る。

「次、漬物。そのあと味噌汁下さい。」
「(面倒くさいな)………」
「…冷たい」
「…置いておけばそりゃ冷えますよ」

色々考えて口に放り込んでいるつもりでも彼のわがままが邪魔してなかなか私の思い通りにならない。もくもくとご飯を咀嚼し飲み込む頃合いを見て、またご飯を摘まんで口に入れてやるのは非常に億劫だ。自分は末っ子で甘やかされることには慣れているが、甘やかすことには慣れていない、とそこまで考えて、ふと、幼少の頃、病気の時に姉や母親が病床の自分にこうして飯を食べさせてくれたことを思いだした。本当にぼんやり脳裡に掠めただけだったが、次第に、目の前の男、尾形百之助は病床の頃、一体誰にこうしてもらったのだろうかと思った。母親だろうか。父親はきっとそうすることをする前に彼と、そして彼の母親の元を去ったのかもしれない。そう思ったら何だか勝手に心の内がひんやりとして、どうにか表情を崩さぬまま、彼に夕食を自分の手で食べさせながら、何処か酷く、気の毒に思った。彼からすればそのような同情など、今更無意味であるだろうに。

「…尾形上等兵殿の故郷はどちらでしたっけ。」
「随分急ですね。」
「貴方ほどではありませんよ。」

もぐもぐと飯を興味なさげに咀嚼していた彼にそう問いかければ、彼は目を見開いて横目で私を見遣った。自分でもわかっていたが、ちょっと自分らしくない振る舞いに少しだけ後悔してだが悟られぬように視線を泳がせてそれからお新香を箸で摘まんだ。

「別に意味はありませんが……貴方ばかり質問してくるので、気を遣っただけです。それに、いつだったか。私にも同じ質問をして答えたじゃありませんか。」
「まあ、そうですね。」

彼はそう言って顎をさすると今度は片腕を伸ばして湯飲みを手に取った。味噌汁同様、湯飲みの中の茶も随分冷たくなっていることだろう。彼は湯飲みをサイドテーブルに置かず、暫く両の手で持って膝の上に置いて、それから彼はふと視線を上にあげた。ランプの光に照らし出された病室内の味気ない天井をぼんやり見詰めている。私も彼の視線に合わせて天井を見たが、ランプの中の火がゆらゆら揺れるにしたがって静かに、そして緩やかに蠢くだけだったら。

「茨城です。」
「そうですか。」
「何もない、貧しい村でしたよ。」
「…そうですか。」

彼はそう言ってふ、と笑うと湯飲みにもう一度口をつけて、それから何事もなかったかのように「飯の続きいいですか」とあっけらかんとそう宣った。私は一秒ほど遅れてええ、と返事を返すといそいそとまた彼だけのために箸を動かした。別段嫌と言う表情でも、嬉しい表情でも、懐古をするでもなかった。彼はただ、淡々と故郷を「貧しい村」と言う一言で片づけて、それで全然かまわないようだった。腐っても自分の生まれ故郷ならば、少しくらい、郷愁に駆られてもいいし、何かしら思う処があるものだと思っていたが、殊にこの尾形百之助と言う男は例外らしい。それがかえって私の好奇心を刺激した。再びもぐもぐと咀嚼を開始する彼を横目で見て、それから懲りずに質問をぶつけてみた。正直、日ごろ根掘り葉掘り人のことを問いただす男のこの素性を暴いてやりたい、と言う悪戯心がなかったわけではない。少しくらい自分の事も行ったって罰は当たらないはずだし、別段花沢家との所縁を暴こうとも思っていなかった。ただ、彼はどういう風に父なき幼少時代を生きてきたのか、何を思い生きてきたのか、単純に噂話ではなく、興味が湧いたのだ。

「でも、故郷には家族はいただろうし、…いい人だって過去にはいたのではありませんか。」

私がそう言って最後の一口の煮つけを差し出せば、彼は久しくその目を開いて、それから一瞬遅れて口を開いた。その反応に案外面白い返答が返ってくるかもしれないと正直期待していたが、すぐに彼はいつもの表情に戻ってもぐもぐと咀嚼しながら口を開いた。

「…生憎、俺は欠陥のある種の人間で、人を好いたことがない。」
「…そうですか。(まあ、そう見えなくもない)」

予想はしていたがあまりに面白くない返しに思わずため息を吐けば彼は反対にふん、と鼻を鳴らした。

「意外だな、八橋先生がそんな他人の色恋話を聞いてくるとは。」
「貴方の結婚しているか否かの質問よりは答えやすいとは思いますけど。」
「ははっ、それもそうだ。」

男はそう笑うとそのままごちそうさまも言わずに口を拭った。それを確認すると漸く匙と箸を盆にのせて、片づけ始めた。

「………好くか。」
「何かいいましたか?」
「いや。そもそも、人を好くという感情というものは、どういったものだろうと思いましてね。」
「何を仰っているんですか。」

再び意図の分からぬことを発したかと思えば彼は物思いに耽るようにそう宣った。ついに入院生活が長すぎておかしくなったのかと思って遠い目で彼を見てみたが、彼は至っていつもの無表情でいた。尾形上等兵は視線を窓から私の方に移すと、私をじっと見つめたまま再び口を開いた。

「先生は人を好いたことがあるのでしょう。」
「…その質問には答えなかったはずですよ。」
「答えなかった、というのが答えです。」
「…誰だって人を好くことぐらいあるでしょう。生きていれば。」
「分からないから聞いてるんですよ。」
「…そうでしたね。今までないなら、これから生きていればあるんじゃありませんか。」

適当に流そうと適当なことを言えば彼はふん、と鼻を鳴らした。その瞬間、少しだけ開いた窓からゆらゆらと風が吹いて私と尾形上等兵の間を抜けていった。彼は突然目を見開いたかと思えば、すんすんと何やら空気を嗅ぐようなそぶりを見せて目を細めた。そして起こしたままの上体を私の方に乗り出すと、私の方に顔を向けた。思わず今朝の既視感を覚えてぎょっとしていれば彼はようやく口を開いた。

「…白檀の香りする…鶴見中尉殿の香りだ。」
「……今朝お会いしたと言ったじゃありませんか(てか皆鼻が利くなここの人は)。」

今朝の鶴見中尉殿からは微かに白檀の香りがした。とは言え、私に染み付くほど近付いたわけではないはずだ。にもかかわらず、彼は香りを言い当てた。全く、中尉殿も尾形も恐ろしい嗅覚だなと心の内で感心しつつも、近い距離で私の香りを嗅いでくる不躾な態度に思わず眉を顰めれば彼はじっと私を見たのち、何を思ったのか急に折れていない方の手を伸ばして顎を掴んだ。驚いてえ、と声が漏れてしまったが、彼の眼を見れば先ほど不敵な笑みとは違う、温度のない目で私を見たので声が一瞬で亡くなってしまった。目を見開いたまま、至近距離で見つめあった後、ようやく彼が目を細目て、それからゆっくり口を紡いだ。

「…先生は随分中尉殿と親しいようですね。」
「ち、近いです。離してください…。」
「まさか、そこまで親しい仲だったとは………それとも、既にあなたまで誑し込まれましたか。」
「あの、変なこと言わないでください(確かにあの人、人誑しかもしれないけれど)。」

するりと彼は私の顎を掴んでいた手に再び力を籠めるとグイッと顎を上げさせた。そして、依然として光のない目で私を見遣ると、今度は自分の顔を近づけてきたかと思えば私の首筋に鼻を近づけてすんすんと再び鼻を動かした。彼の香りが未だかつてないほど感じて、どっどっと心音が早まった。そして、彼の温度も微かに感じることができる距離感に息を飲んだ。

「…首筋から強く香りがする。」
「……今朝、同じことを言われたんですよ。」
「………」
「貴方の香りがすると、鶴見中尉殿から。
………いい加減離してください」

怒って怒気を込めてそう宣って、少し力を入れれば、彼は思いのほか私の顎を掴んでいた手を離した。ほっとして胸を撫で下ろし、きっと睨めば、彼はようやくいつものように口角を上げた。

「てっきり先生も鶴見中尉殿の誑し込まれてしまったのかと思いましたよ。あの方は人を惹きつける魔性のようなものがあるので、つい。」
「ご心配には及びません。それに、仮にそうだったとしても貴方には関係ない話では?」
「…それもそうだ。」

ふ、と小さく笑って彼は視線を逸らすとそのままそれ以上は私と視線を合わすことなく、窓を見たまま黙ってしまった。いつもの彼らしくない行動に思わず混乱したが、一先ず気まずい雰囲気から逃れたくて、帰り支度を整えると後の歯磨きや何やらは看護婦にお願いしますからと簡単に言ってその場を後にしてしまった。扉を閉める前にもう一度だけ彼を見たが、相変わらず微動だにせず、窓を見詰めたまま最後までこちらを見ることは無かった。



映らぬ嘘と見える嘘

2018.05.20.


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