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腫れは数日も経てば引いて、ようやく通常の輪郭に徐々に戻ってきたらしかった。だが、見てくれは徐々に良くなってきているとはいえ、まだ完全に骨が修復した訳ではない。見えないからと言って中身も大丈夫とは言い難く、強く触れればモルヒネを打っていても彼は眉を顰めるくらいには痛い様子であった。髭がだいぶ伸びてきたので剃りたいという彼の希望通り看護婦に剃刀と盆と鏡を持たせてやり、片腕では難しかろうと手を貸すようにお願いした。それから、差支えなければ風呂も十分に入れて清潔を保つように指示した。腕も相変わらず骨折しているのだが、もう片方と下半身は通常の感覚に戻っているらしかった。片手でなにかをすることに慣れてきたようで、看護婦に聞けばだんだんと簡単な作業ならばできるようになってきたというから、少し安心した。

先日降った雪は大分解けて、軒の庇にできていたつららは大分小ぶりになりしとしとと露を滴らせた。鶴見中尉殿の言う通り、尾形上等兵の事は他の患者以上に細心の注意を払い経過を見ていた。近頃は鶴見中尉殿もそのご身分である以上忙しないと見えて、さっぱりこの医務室には現れない。月島軍曹をお見かけしたのも一週間以上も前の事だった。何か大きなことが動いている、そんな気がしていたが、勿論、私には知る由もなかった。









午後の診察と業務を終えて一息ついたころには既に時計は夜の10時を回っていた。通りで辺りが暗いわけだと妙に納得して、それからすっかり冷めてしまった珈琲を飲み干した。冷えると苦さが増してしまうのか、思わず眉を顰めて、それから首を回した。近頃は業務中の怪我だけではなく、花街で梅毒を貰ってきてしまう兵士も多く、その治療や診察に手間取って夜遅くまでの仕事となってしまう。軍部でもあまりいい話ではないので、できるだけ隠蔽し速く治療をする様にと、わざわざ中央から通達まで来ているほどだ。研究も片手に業務をこなすことはもちろん至難の業ではあったが、本部のある東京とは違い、鶴見中尉殿のもととりわけ自由に行動できるのでそれはそれで都合が良かった。彼のお蔭で変な虫も大分寄り付かなくなり(始めの頃は不躾な態度を取り、すぐに茶や夜にいかがわしいことに誘おうとする輩もいた。私が結婚していない女性であることももちろん彼らは噂でようく知っているのだった)、過ごしやすくはなっているし、夜に病棟や兵舎を歩いていても無駄な心配はなくなった。

「(そういえば、尾形上等兵の様子はどうかしら…)」

今日は今朝から忙しく、別の先生に診察をお願いしてしまっていた。きちんと先程手渡されていたカルテにはその病状の順調な経過と、モルヒネの量、そして風呂に入ったことや今日摂取した食物まで、事細かに記載されているので心配はないのだが、自分の眼で確かめなければ万一のことがあった際には鶴見中尉殿に言い訳が立たないと思い、今日の最後の業務として彼の様子を見に行こうと思っていた。何もない簡素なベッドの上では寝るしかないのでこの時間には彼も休んでいるだろうと踏んでのことである。廊下はすっかりまっくらになっていて、ランプを持っていなければ足元がおぼつかないほどだ。数人の当直の看護婦とすれ違いざまに挨拶を交わし、目的地へとゆっくり向かって歩く。それ以外には誰もおらず、しんと静まり返っていた。僅かに、時おり何処からともなく彼と同様、ここに収監されているらしい患者のせき込む声や、寝返りを打ってぎしりとパイプが軋む音が聞こえた。

「…失礼します。」

ノックをせずに小さな声だけ発すれば、暗がりの中にぼんやりと白いベッドが浮き上がっているのが見えた。締め切られたカーテンの隙間からは月明かりが差し込んでいる。静かに足音に気をつけながら近付いていき、持っていたランプを彼に近づけた。そこにはすやすやと瞼を閉じて赤子のように眠る男の姿が見えた。ランプを傍のベッドサイドテーブルに置くと、彼の様子を確認した。カルテの通り、確かに無精髭はいくらか整えられており、そして報告通り風呂に入ったらしく以前よりも石鹸の香りが強く感ぜられた。蒲団の上に投げ出されていた右腕を布団の中に収めて、それから顔を見遣る。

「(大分閉じてきたようね)」

人差し指で彼の顎の縫合痕をなぞりながら独り言ちた。回復も予想以上に早いようで、この分だと2週間ほどすれば抜糸もできるかもしれないと一安心した。今日のところはそのままこの場を去ろうとした刹那、それまで閉じていた瞼がふっと上がったかと思えば、いつぞやのような既視感に思わず目を丸くした。彼と視線を合わせれば、私の驚いた顔を見て彼は反対に口角を上げた。

「今日はついぞ会いに来てくれないのかと思っていましたよ。」
「…問題なさそうだと今朝貴方を見て下さった別の先生に言われていました。…ですが、鶴見中尉殿にくれぐれもよろしくと、貴方のことは言われていましたので。」

そう言って彼のその顔から手を離すと、そのまま傍の椅子に腰を掛けた。彼はそれを横目で確認すると、今度はカーテンの隙間の方に視線を移した。今日は満月なのだときっとぼんやり思っていることだろう。

「ここでの入院生活はいかがですか。」
「…退屈ですな。このままでは腕が訛る。」
「早くともあと数週間はじっとしていてもらわねば困ります。貴方が思っている以上に身体は重症なのですから。それに、片腕もまだ使えません。」
「…鶴見中尉殿は先生に何か仰っていましたか?」
「いいえ。特に何も。」

私がそう言えば彼は視線を窓から再び私に移して、それから私をじっと見つめる。今日は意識を取り戻した尾形上等兵の見舞いに鶴見中尉殿がいらしたらしかったが(意識を取り戻した直後と、今回の見舞いで二回目になる)、いずれもその場に居合わせていないのでどんな会話を交わしたかはわからなかった。彼は別段それに関して私に言う訳もなく、ぼんやり私を見据えて黙した。彼の眼は底知れぬ深淵のようで、この暗闇の中でも一等黒く、そして光をも吸い込みそうな瞳をしていた。狙撃手をしているだけ、きっと眼がいいはずだ。私よりもその夜も利くであろう目でこの暗がりの中の私を見ているに違いない。

「…何か?」
「いや、腹がすきました。」
「そうですか。」
「汁物ばかりでは腹が満たされません。」
「仕方がありません、暫くは我慢していただかなくては。顎の骨がバラバラなんですから。」
「…その上、ここは至極退屈だ。よくもまあ、お医者様は患者をここに閉じ込めておくことができるなと、感心しますよ。一度、八橋先生もこちらで休んでみてはいかがですか。俺のこの気持ちを少しは分かってくださるはずですよ、思慮深いあなたなら。」
「…それだけ元気な皮肉を仰れるのであれば問題なさそうですね。」

はあ、と溜息を着けば彼はまたにたりと口角を上げて笑う。暗がりの中でも分かるほどだ。鶴見中尉殿の腹の底が知れぬあの特有の雰囲気も苦手だが、この男にもその手の雰囲気があった。まるでこちらの考えなど見透かされていて、掌で転がされている感覚だ。まるで、腹違いの弟さんとは真逆だと思う。だがそれに少しだけ胸が痛んだ。今まで彼がどのような人生を歩んできたのかなど、知る由もない。私が知りえたのは本当かどうかもわからぬ噂話と、そして今まで彼が入隊をしてこの地に来るまでの経歴、そして今までのカルテでしか彼を知りえない。少しだけ、彼の人生には興味があるが、だからと言って、私は貴方の腹違いの弟さんともともと許嫁だったのですよと、と言う気にはなれないし、それほど親密な仲でもない。恐らく今後もどのような天変地異が起きようとも私は自らこの秘密を彼に言うことはないであろう。彼も、きっとそれを知りえないはずだ。世の中には知らないほうがいいことなどごまんとある。持ちず凭れず、医師と兵士と言う関係性のもと、この関係を壊さずにこの不幸な尾形百之助と言う数奇な人生を歩む男にとって、少しだけ助力となれれば、それでいいと思う。

「…一先ず、食事に関しては検討しましょう。いきなり固形物は流石に難しいですが、豆腐やところてんとかから始めてみましょうか。」

そう言ってサイドテーブルのカルテにその旨を書き添えると小さく息を吐く。彼はすこしだけまた笑った気がした。

「それから、退屈なのであれば何か本を持ってこさせましょう。好きな本などあれば仰ってください。」
「いや、本よりも地元の新聞をくれればそれでいい。」
「そうですか。」
「それから、もう一つだけわがままを聴いていただけますか。」
「あまり私を困らせないでください…。」
「まあ、そう言わずに。」

彼はそう言って頭を触ると、それからまた逸らしていた視線を私に移す。満月の光が彼の頬を照らして縫合された生々しい痕を浮き彫りにさせる。彼はすっかり薬品と石鹸のにおいが染みついてしまった。いくらか痩せてしまったが、もとは屈強な兵士だ。着物から覗く喉ぼとけや袖から覗く腕の節々にその力強さを感じる。

「毎晩こうして会いに来てくれますか、俺に。」
「はあ?」
「八橋先生の話しを聞かせてくださいよ。」

暇なんですよ、と悪びれる様子もなく彼、尾形上等兵はそう宣うと、ふっと笑う。思わぬ彼の申し出に変な声がでてしまって眉間を押さえた。

「私は尾形上等兵殿が思っていらっしゃるより忙しない身なのですが…」
「左様ですか。ならば、煙草を許してください。」
「病室は全て禁煙の約束です。」
「であるならば仕方がない、煙草は諦めますから、先生が話相手になってください。鶴見中尉殿にくれぐれもと言われたそうじゃありませんか。」
「………誘導尋問ですか。」
「さあ。」

くつくつと喉を鳴らすこの男をきっと睨めばますますふんすと居直るので流石はこの奇人変人の多い北鎮部隊の上等兵様だと皮肉の一つでも言ってやりたかったのだが、相手は重症患者だと私の理性が教えてくれたので、余計なことは言わずに済んだ。暫くどうしようかと考え込んだが、いまひとつ大きなため息を吐くと、彼の眼を見た。彼はにたにたと私を見ている。なんというずうずうしさだろうか。本当に彼は花沢家の血を引いているのか、何だか怪しく思えてきた。

「…わかりました。いいでしょう、貴方の容体を見るついでです。」
「話しのわかる方でよかった。流石は我が国が誇る女医だ。」
「その代り、急患や本当に外せない用事がある日は勘弁してくださいね。」
「分かっていますよ。そこまで俺は我がままではありません。」
「(どうだか)とりあえず今日のところは大人しく休んでください。夜はまだこれからですから。」

そう言って彼の手をまた布団に押し込んでやると彼はどこか納得しないような顔で私を覗きこんだが、しぶしぶと言った形で言うことに従った。カーテンを閉めようとすればそのままでいいと声をかけられたのでそっと伸ばした腕をひっこめた。

「それでは、失礼します。…おやすみなさい。」

大人しくなったのを確認すると、ようやく彼のベッドから離れた。扉へ向かう途中、横目で彼を見遣れば、折れた腕を片方の手で抑えて、ぼんやりとまた窓の外側の月を眺めているのが見えて、そっと視線を前方に戻した。足早に病室を後にして扉を閉めて、明日からの夜の生活に思いをはせて真っ暗闇が支配する廊下に向かって一際大きなため息を吐いた。



窓辺のゲルニカ

2018.05.06.


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