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尾形百之助の情報を得ることはそれほど難しいことではなかった。今は亡き花沢幸次郎中将の妾の子、それだけで彼は一目置かれていたと思う。だが、その名ばかりが独り歩きをしているわけでもなかった。彼は非常に優秀な狙撃手で、先の戦争でもその腕でかなり戦績を上げていたと聞く。花沢家は名家である故、その血が彼を優秀にさせたのだろう。いくら妾の子とは言え、血は水よりも濃いのだ。だがそれと同時に彼がどれほどの思いを以てしてこの軍隊に所属しているかも想像に難くなかった。偉大過ぎる父の存在は決して良い方ばかりに作用するわけではない。いい噂ばかりが流れるわけでもない。でなければ、こうして私のような一塊の医師がその情報を簡単に手に入れるはずもないだろう。彼はそんな状況下で何を思い、何を感じ、そして、この北の大地で何を望んでいるのか。

始めはただの好奇心からであった。だが少しずつ、少しずつ尾形百之助という男を間接的に知っていく度、私の中の彼に対する興味がどんどん膨らんでいくのを感じていた。彼とは未だ会話を交わしたことはもちろんないし、彼は私の存在など知りえないだろう。だが、いつだったろうか。医務室の窓から練兵場をふと覗いた際に、たまたま彼の姿を眼に停めてじっと見つめていれば、一度だけ、眼があった気がした。だが思わずふいとすぐに逸らしてしまった。きっと、あの距離からでは私の顔など判別できなかったであろう。此処には看護婦や医師など私以外にも無数に存在するのだから。









「患者の容体はどうですか?」
「異変はありません。身体を清潔にし着物を着換えさせました。」
「意識は?」
「まだ覚醒はしていません。」
「わかりました。後で経過を見てきます。カルテをそこに置いておいてください。」

私がそう言えば古参の看護婦は分かりましたと言って机のそばにカルテを置いた。一頻り作業を終えて時計を見れば午後の17時を回っていた。眼鏡を外して席を立つと、カルテと鉛筆を持って執務室を後にした。鶴見中尉殿は本日この兵舎にはおらず、外に出られている様子であった。月島軍曹殿の気遣いで彼、尾形百之助の治療室には見張りの兵士はつかなくなったが、その代りくれぐれも様子を見るように鶴見中尉殿直々によく言われた。何が何やらさっぱりであるが、どうやら彼は危ない橋を渡っているらしいことだけは十分に分かった。

「………」

室内に入ると橙色の夕日に照らされた室内の簡素なベッドに横たわる一人の男の様子が見えた。驚くほどに静かで、間遠にカラスの鳴き声が良く聞こえた。日差しに照らされて彼の白い頬がぼうっと浮かび上がっている。彼が運ばれて術式を終えてから二日は経つ。一度微かに意識を覚醒したと他の兵士から言伝を得たが、私が向かったことろにはまた意識が薄れて眠ってしまった。部屋も移され、今は他の患者と変わらぬ病室でおとなしくしている。火鉢の熱がじわじわと室内を温めている。それを彼の眠るベッドのそばに移動させて寒くないように細心の注意を払った。

規則正しく繰り返される呼吸を見て安心し、それからいつも通り診察をしていく。呼吸にも異常はないし、今のところ別段おかしな様子も見えない。傍の椅子に腰かけると、カルテに機械的に病状を書き写していく。顎の腫れはいくばくか良くはなっていたが、あと数週間は腫れも痛みもとれないだろう。食事も流動食でなければ難しい。腕も折れているので暫くは身動きもとれまい。すうすうと苦しそうに呼吸をする(顎が砕けて腫れているため、気道が多少圧迫されるのだろう)彼の顔にゆっくりと手を伸ばす。その頬を親指で触れて、そして今度は薬指で眦をなぞった。彼は眉一つピクリとも動かさず、ただひたすら胸を上下にさせて息を繰り返している。

「(尾形百之助の方が、似ている気がするわね。)」

蚊のなく声ほどの声でそう呟いて、それから毛布を退けてその体を改める。手足の先も壊死はみられないし、腹部を触診したが別段問題はなさそうであった。下半身にも勿論、異常はない。看護婦の言う通り、彼は清潔にされたらしく、着物を羽織っていた。その襟もとに手をかけてはだけさせると、聴診器を耳にかけて胸に宛てた。どくん、どくんと波打つ心音を聴いていると、遠くの振り子時計とシンクロニシティを起こしたようで不思議な感覚に陥った。暫くぼうっと何も考えずに彼の心音を聴いていたが、はっとしてようやくその手を離すと彼の着物を元通りに正す。このままでは風邪を引いてしまう処だったと溜息を吐いてそれから手を彼から離そうとした刹那、突然がしりと右手首を握られてはたと視線を上げればそこにはゆっくりと瞼を開らき、その光の無い目で私を見詰める双眼があった。

「…生きてるのか。」
「ええ。」

反射的に声を返せば、彼は虚ろだった眼を私に向け、暫くじっと見つめたまま、口を再び開いた。

「此処はどこだ。」
「兵舎の病室です。あなたは三日前に意識不明の重体で運び込まれて治療を受けました。意識が覚醒するのは二日ぶりです。」

私がそう言えば聴いているのか聴いていないのか、分からぬように天井を見たまま暫く黙っていたが、ようやく掴んだままの私の手を自由にしてやると私を再び見た。清潔な着物から花王石鹸の香りが僅かに鼻孔を掠める。

「予想より早く目が覚めたようですね。鎮静剤を打ちます。その顎と腕の痛みをだんだんと感じてくるでしょうから。」
「…あんたが治療したのか。」
「ええ。鶴見中尉殿より命じられましたので。」

いそいそと念のためにと持ってきた鞄の中に手を突っ込むと、モルヒネの瓶を開けて素早く注射器に移していく。看護婦はいないので全て自分でやらねばならなかったが、簡単な作業である。脱脂綿にアルコールを含ませて、彼を寝かしつけたまま、骨折をしていない方の腕だけ布団から出す。先程と同様目視と触診で注射器を突き立てる最適の場所を探す。指の腹で彼の腕をするりと撫でて、頃合いの場所を見つけ出すと注射器を手に取る。彼が大人しく注射を受けたままじっとしてるのを確認すると、使用済みの注射器を丁寧に終い、再び椅子に腰を掛けるとカルテに覚醒時間とモルヒネの投与の旨を書き込む。

「他にどこか痛むところはありますか?」
「…まだ分からんですな。如何せん感覚がまだ普通ではない。」
「そうでしょうね。あなたは全身凍傷でしたもの。軽度でしたが。」

先ほどよりも意識がしっかりとしてきたらしく、きちんと分別のついた会話をできるようになっていた。顎を打って砕くほどだったので、脳にもそれなりの損傷があってもおかしくはなかったが、彼のその様子に一先ず安心すると、カルテを膝に置いて彼を見遣った。その間、彼は骨折した方の手をぐーぱーとぎゅっと拳を作ったり、力を弛めたりして様子を見ている。あまり今は動かさないように言えば大人しくなった。それを見てばれない程度に口角を上げると、こほんと咳払いをした。

「お腹が空いてくるころでしょう。今持って来てもらいます。暫くは流動食のみ食べることになります。食事、排泄の際は昼夜問わず当直の看護婦をこの傍の呼び鈴で呼んでください。他にも、体のどこかが痛かったり、違和感を感じてもこの呼び鈴を鳴らしてください。」

食事や排せつ、着替えに至っても、片方の手が自由の利かない今の状況では看護婦の力を借りなければなるまい。簡潔にそう言ってようやく立ち上がると、カルテともってきていた鞄を手に取る。彼はじっとその横目で私を見ながらすうすうと呼吸を繰り返していた。外は大分橙色は薄れ、やがて群青色の世界が支配する頃合いである。傍にあったランプに火をつければぼうっとした温かな光が部屋をぼんやり明るく照らした。

「顎の腫れはいつごろ引くと思われますか?」
「数週間はかかるでしょう。全治には2か月ほどです。食事はその都度様子を見て変えていきましょう。腕はもちろんですが、他の手足も軽度のですが凍傷でしたので、以前のように動かすにはあと数日はかかるはずです。あまり無理はしないように。」
「他に何か気を付けることは?」
「特にはありません。私の判断でその都度指示を出します。診察は一日一度は行いますのでご安心を。では、お大事にどうぞ、尾形上等兵殿。」

そう言って椅子から腰を離し、ゆっくり出口へと向かって行く。背後から彼があのじっとりとした目で私の背中を見詰めているのがひしひしと分かった。晒された項をねっとりと舌で舐め回されているような感覚がして、かすかに自分の呼吸が乱れるのが分かった。静かに失礼しましたと声をかすかに上げたのち、ノブを回せば背後から男の一際低い声が私の耳に届いた。

「暫くの間世話になります……八橋あやめ先生。」

その刹那、ノブに触れた手が少しだけ硬直し、横目で彼の表情を伺おうかと視線を後ろに移しそうになったが、聞えぬふりをしてノブを回すとぱたんと扉を閉めた。彼の声色に僅かに笑みが含まれていた気がして一瞬、腹の底がひやりとしたが、すぐにかぶりを振ってそれ以上深く考えないように努めた。


ゆらめく面影

2018.05.06.


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